紙をめくる度に、ぱらり、ぱらりと音がする。
「なんでこんな大昔の書き損じが混じってるんだよ……。ああ、やだやだ、物を捨てられない年寄りは」
マニゴルドは生欠伸を噛み殺しながら古い文書の整理をしていた。主不在の教皇の執務室で一人、修行もせずに何をしているのかと我ながら疑問に思う。
しかし師の言いつけだから仕方ない。セージにとって弟子は一番手近な雑用なのだろう。何かと用を言いつけられる。
お陰で教皇の従者を務める老人には「いっそのこと従者座になっちまいな」とからかわれる始末だ。曰く、馭者座の聖闘士がいるのだから従者座がいてもいいだろう、とのこと。言うまでもなく、そんな星座も聖闘士の称号も存在しない。
一通りの作業を終え、不要な文書をまとめて書庫に運ぼうと腕に抱えた。その時、机上にある報告書に気がついた。まだ片付けられない新しいものだが、なんとなく文面に目を通す。
小さな罵りが唇から零れた。
彼は文書の山をその場に残して部屋を出た。折良く用人を見つけたので呼び止める。
「あのさ、教皇宮で一番高い酒を出してくれねえか」
「それは猊下のご指示ですか。格式の高い物ではなくて値段の高い物と指定されたのですか」
「ええ? 他言無用である詮索するな。ってお師匠が。きっと公のほうの話だろうから、俺やあんたが首突っ込むことじゃねえよ。でもすぐ持って来いっていうから、急ぎで頼む」
教皇宮で酒類の管理をしているのは用人である。男は少年を貯蔵庫の外で待たせてワインを出してきた。
「お待たせしました。これは普段お出ししているギリシャ産ではなくフランス産、樽で買い付けてきたシャトー・ラトゥールの――」
「何でも良いよ」と少年は酒瓶に飛びついた。
「杯は何脚お持ちしますか」
「要らねえ。じゃあこれ持ってくわ。ありがとな」
マニゴルドは用人と別れて廊下の角を曲がり、人目が無くなったところで黄泉比良坂へ飛んだ。若い積尸気使いの姿が消えたことを知る者はいない。
ワインを片手に黒い坂道を駆け上る。
坂の先には何もない。ただ巨大な穴が待ち構えているばかりだ。その淵で彼は立ち止まる。左右からは亡者が続々と身を投げていった。
盗み読みした報告書が少年をここまで駆り立てた。
大西洋沿岸に駐在している雑兵たちが、嵐で難破した船の乗員と乗客を救ったという報告だった。なんでも、助けた乗客の中に某国の有力な銀行家がいて、命の恩人である雑兵とは個人的なつながりができたそうだ。
しかしマニゴルドにとって重要なのはそこではなかった。救助活動の中で一人の雑兵が命を落としたという。報告によればその者は救助に出した舟から離れた海面に人影を見つけ、泳いで助けに向かった。そして溺れている者の所に辿り着き、そのまま波間に消えた。
数日後に遺体が上がったその雑兵の名はユスフ。
マニゴルドの修行仲間だった。
「飛魚座の候補だった奴がなんで溺れ死ぬんだよ。馬鹿じゃねえの」
少年は声を上げて笑った。
笑いながら酒瓶の栓を抜いた。一気に煽って一気に吐き出しそうになる。どうにか飲み込んだが口の中が渋くて仕方ない。
「くっそ不味い。なんだよこれ。騙された。一番上等な酒って言ったのに全然美味くねえ。インクみてえ」
単に飲み慣れていない者の口に合わなかっただけである。そうと知らない少年は、悪態を吐きながらワインを大穴に撒いた。
ユスフが聖衣を得たら祝杯に飲もうと約束した酒だ。
底の見えない深淵にワインはただ虚しく吸い込まれていった。最後の一口を呑んで、空になった瓶を穴に投げつけた。それもまた手応えなく闇に消えた。
口元を拭い、少年は呟く。
「……馬っ鹿じゃねえの」
称号はなくても人を守るために動き、その結果溺れ死んだ。人としては尊い自己犠牲かもしれない。
けれど聖域にとっては一人の雑兵が減った。それだけのことだ。
深淵に佇む彼の両脇を、亡者たちが落ちていく。落ちるために坂を上がってくる。
彼は亡者の群に友人を捜さなかったし、大穴に向かって名を呼びかけることもしなかった。それをするには遅すぎることを知っていた。
現世に戻ったマニゴルドは文書を片付けてから闘技場へ向かった。ちょうど一人で修行していた友人を見かけたので、隅に呼び出した。
「なんだよマニゴルド。なんか酒臭いぞ。祝い事でもあったか?」
「そうじゃねえけど……」
マニゴルドは口を濁した。
ユスフと親しかった者に彼の死を伝えよう。そう思って出てきたのに、いざとなると余計なことのような気がしてきた。
「マティはユスフが今どうしてるか知ってるか?」
「最後の試練にしては長いよな。未だに戻ってこないってことは、聖衣は貰えなかったんじゃないか。俺のほうには何の音沙汰もないよ。元々あいつ手紙書くような奴じゃないからな」
「……だよなあ」
想像通りの言葉。マニゴルドは俯き、地面を蹴る真似をした。
普通の候補生に、一介の雑兵になった者の動向が伝えられるわけはない。友が雑兵になったことも、命を落としたことも、マニゴルドが教皇宮で報告書を盗み見て知ったことだ。訃報をわざわざ伝えるのは余計なことかも知れない。少なくとも修行に精を出すべき時期の者には、伝えないほうがいいだろう。そんな気がしてきた。
何も知らない相手は不思議そうに彼を見やった。
「もしかしたら聖衣貰ってそのまま任務に行ったのかも知れないし、気にしなくていいんじゃないか。それで話ってなんだ。ユスフのことでいいのか」
「ん、ああ。そう。気になってたからさ」
言い繕って、マニゴルドはよそを向いた。
するとちょうど候補生用の宿舎に入る、双子座のアスプロスの姿が見えた。
その視線を追って友人は言った。
「あそこはカルディアの部屋だ。あんな奴放っておいていいのに」
それにはマニゴルドも同感だが、何があったのか一応聞いてみた。
「熱出したって指導役が言ってた。あのガキを池に突き落とした奴がいたから当てつけだろうよ」
マティの声に同情の色は無い。それくらいで熱を出す奴に候補生は務まらないと突き放していた。
マニゴルドは、あ、と手を打った。
「俺もそれやられて風邪引きかけたことあったわ」
「おまえもかよ。風邪なんて引きそうにないのに」
「馬鹿って言いてえのか、こら」
まだ新入りで、ギリシャ語が分からなかった頃の話である。池はそれほど深くなかったが、上がってからがマニゴルドにとって大変だった。普通の候補生なら宿舎まで少し歩けば着替えられる。しかし彼の住まいは山の上。水気を含んだ服のまま風の抜ける山を登る羽目になった。誰かに拭く物や着替えを借りるという発想はなかった。誰が敵で誰が味方か、まだ見定めていなかったからだ。
お陰で教皇宮に着いた時は死人のように体が冷えてしまった。血相を変えたセージにすぐに風呂へ投げこまれた。教皇宮には教皇の沐浴に使われる大きな浴場がある。そこで体を温めさせるつもりだったのだろう。ところが湯を沸かす前だったので、マニゴルドは再び冷水に落ちるはめになった。
酷い仕打ちだと当時は憤ったものだが、今となっては笑い話だ。湯気の有無にも気づかないほどセージも慌てていたのだから。
閑話休題。
「アスプロス様は下の者にお優しいから、きっとカルディアの具合を心配されて見舞われるんだろう」
「へえ。それはそれは」外面の良いことで。
内心そう呟きながらマニゴルドは顎を撫でた。その様子を見て友人は、気になるなら見に行ってはどうかと勧めてきた。
「ついでに看病でもしてやれば」
「やだよ面倒臭せえ」
食事の件で謝らせてからというもの、どうも周囲はマニゴルドを猛獣係として見たがるようになった。
たとえば、大変だから来てくれと血相を変えた知人に呼ばれて行ってみれば、カルディアがスターヒルに登ろうとしている。候補生たちは自分も禁を犯す勇気はないのか麓で騒ぐばかりだし、聖闘士はまだ到着しない。マニゴルドが麓から声を掛けると、カルディアは顔色を変えて崖にへばりつく。仕方ないのでそこまで登って引き下ろしてくる。周囲は喝采する。
下りてきたら牡牛座のハスガードもその場にいて、素知らぬ顔で拍手している。なぜ傍観しているのか問い詰めたら、「黄金聖闘士は聖戦のような非常事態でなければ動かない」とほざく。動きたくないだけだろうとマニゴルドはその向こう脛を蹴る。その間にカルディアは遁走している。
ある時は、道を歩いていたらいきなり雑兵から感謝される。聞けば、寸前までしつこく絡んできたカルディアが、マニゴルドが現れた途端に退散してくれたという。「おまえが睨みを利かせてくれたからだ」と言われたが、そもそもマニゴルドはカルディアの姿を見ていないので、感謝される謂われはない。
それが元となり、カルディアに襲われた時には「あっ、マニゴルド!」と叫んで相手が怯んだ隙に逃げ出せば良いという噂が広まった時には、どうしたものかとマニゴルドは考え込んだ。魔除けの呪文扱いされるとは思わなかったが、それより、免罪符よろしく名前使用料を稼げないかと思ったのである。結局その案は現実的でなかったので諦めた。
実際、この魔除けの呪文は効果があったらしい。何を考えたのかカルディアが宿舎の各室の戸を夜中に叩いて回ることが続いた。その度に寝ていた者たちは起こされる。名ばかりの指導者が何を言っても止まらなかったその習慣は、「マニゴルドを呼ぶぞ!」という誰かの一声で、ぴたりと収まった。マニゴルド本人がそのことを知るのは数日後。
万事がそんな調子だった。
カルディアがマニゴルドを恐れるのは、同じ問題児の嗅覚がなせる業だろうと周囲は言う。
しかし周囲は誤解していた。「掟知らずの狂犬」が「聖域一の悪童」に対してだけ大人しいのは、なにもマニゴルド本人に思うところがあるからではない。あくまでもマニゴルドに染みついている死の気配を嫌ってのことだった。
それを知っているのは当人たちだけだ。
無理にでも仲良くしたい相手ではなかったから、マニゴルドもカルディアには近づかないようにしている。病気で臥せっているからといって、その姿勢を変える気はない。
部屋の内側から戸が開いた。アスプロスと一人の聖闘士が出てきた。二人は立ち話している候補生たちに目を付けた。
「マニゴルド。ちょうど良いところに」
マティは修行に戻ると言い訳して逃げ去った。マニゴルドもそうしたかったが、名を呼ばれてしまったので仕方なくその場に残った。
「済まないが、私がいない間、中の子を見ていてやってくれないか」
とカルディアの指導役である聖闘士が言った。横でアスプロスは愁いを含んだ顔をしている。
マニゴルドは即座に断った。
「いや、俺、病人の看病とかしたことねえし。それに伝染病だったら、俺から教皇に移しちまうかも知れない。他の奴に頼んでくれ」
「移るような病ではないんだ。小宇宙に目覚めた途端に熱を出したから、おそらく制御に失敗したせいだと思う。その事でこれから上に相談しに行く、その間だけで良いんだ」
「たかが一候補生のために教皇に相談? あんたも聖闘士なら自分で判断しろよ」
聖闘士は言葉に詰まった。代わりにアスプロスが重い口を開いた。
「カルディアは蠍座《スコーピオン》の候補だ。水瓶座の長老に見出されて聖域入りした経緯もあるし、今の症状はどうも特殊なものに思える。相談されて様子を見たが、俺では手当てできない」
「そんなの、俺の手にも負えねえよ」
「何もしなくていい。というより私たちにも何もできないんだ。異変が起きたら知らせてくれればいい。これから猊下に目通りを願いに行ってくるから」
頼むぞ、と念を押すと聖闘士は足早に十二宮へ向かった。アスプロスも同行するのは、黄金位がいたほうが面会が叶いやすいからだろう。
「俺は便利屋じゃねえっての……」
数秒を右往左往に費やした後、彼は部屋に入った。締め切った部屋は生暖かかった。
カルディアは寝台にいた。胸を押さえて浅い呼吸を繰り返している。
子供は横たわったまま彼を見ていた。目にははっきりと拒絶の色。それを感じとってマニゴルドは口の端を引き上げた。
「死に神が迎えに来たと思ったか?」
彼は狭い部屋を横切り、苦しむカルディアを見下ろした。
「痛むのは胸か。治ったんじゃねえのかよ」
「小宇宙、燃やすと熱で、苦しくなる。……すこし」
少しというのが虚勢であるのは明らかだった。
小宇宙に目覚めたのはいいが、それが原因で具合が悪くなってしまっては元も子もない。小宇宙とは生きる力の根源であるはずなのに。
「そんな目で、見るな。俺、は、ずっとこの心臓と……付き合ってきた。これからだって……生きてる限り、ずっと」
「おまえ、蠍座の候補なんだってな」
「らしいけど、どうでも……」いい、という言葉尻は空気を僅かに揺らしただけだった。
「そうだな。どうでもいい」
マニゴルドは寝台の端に腰を下ろした。
蠍座は黄道十二星座の一つだ。聖闘士にとっては黄金聖闘士、十二宮八番目の天蝎宮を守護する者の称号でもある。
熱に苦しむ子供が担える大役とは思えなかった。
たとえ今の症状を乗り越えて蠍座の聖衣を得ても、遠くない将来には聖戦が起きると言われている。戦場では聖闘士の格を問わず大勢が散るだろう。まして単身で女神軍の主戦力となる黄金聖闘士には、敵に背を向けることは許されない。
聖衣を得ないまま終わったところで、平穏に暮らせるとは限らない。飛魚座の候補だった若者は名もなき雑兵として生を終えた。
そこに至る道は様々であれ、人は死ぬ。
「苦しいか」
尋ねれば小さな首肯。
マニゴルドはカルディアの上に身を屈めた。初めてこの子供に対して優しい気持ちになれた。
「苦しいのが嫌なら俺に任せろ」
――楽にしてやる。
子供は目を見開いた。
「生きて、たい」
「そんな苦しい生にしがみついてどうなる。その痛みの原因が小宇宙なら、聖闘士の道を歩く限りずっと付き合って生きてくことになるんだぜ。辛いだろう」
かつて、瀕死の状態にあった女候補生が楽にしてくれとマニゴルドに願ったことがある。アスプロスでさえ手が打てない状態なら、このままカルディアを楽にしてやるのも情けだろう。積尸気使いならそれができる。
「嫌だ」
カルディアははっきりと死を否定した。胸を守るように身を丸く縮める。
「俺は、生きてる。ここに、こうやって生きてる」
「でもそれはいつか終わる」
「知ってる」
「いいや解ってないね。一日でも長く生きたいなら大人しく療養してればいいのに、なんで聖域なんかに来たんだよ。しかも相手構わず喧嘩吹っかけて。後のことも考えずに好き放題にやりたいってのは、本当は早死にしたいからなんだろう」
「違う」
「俺にだけ喧嘩を売らないのは、死に近づくのが怖いからだろう」
「違う!」
悲鳴のような否定と共に、カルディアは毛布を頭から被った。「苦しいのも熱いのも俺のもんだ。出てけよ糞ったれ!」
「大丈夫だ。怖くない。俺の技は痛くない」
積尸気使いは優しく囁き、毛布の山に人差し指を向けた。
熱を帯びた魂を導こうとした刹那。部屋に光が差した。
逆光を背負ったアスプロスが戸口に立っていた。
聡明な若者はマニゴルドの手元に目をやるなり、その表情を険しくした。
「何をしている」
「べつに。毛布が暑そうだから剥がしてやろうとしただけだ。おまえこそ何で戻ってきたんだよ」
マニゴルドは言いながらカルディアの毛布に手を掛けた。しかし内側からしっかりと抑えられていたので諦めた。
「やはり留守番がおまえでは心許ないと思ってな」
「おーおー。信用されてるねえ。じゃ、後はよろしく」
マニゴルドは茶化すように言い、友人の横を抜けて部屋を出ようとした。ところがすれ違いざまに肩を掴まれ振り向かされる。
「なぜ殺そうとした」
「あんまり苦しそうだったから」
その返事にアスプロスは瞬きをし、やがて手を放した。眼差しは厳しいままだ。
「……猊下に報告するぞ」
「お好きなように。でも蠍座の候補がこんな有様じゃ、別の奴に取り替えたいと教皇も思うんじゃねえかな。おまえはどう思うよアスプロス。高いはずのワインが不味かったんだ。捨てる? 最後まで飲む? 誰かに押しつける?」
「酔ってるのか。道理で酒臭い」
双子座は溜息を噛み殺して戸を開けた。陽光の溢れる外を指し示す。
「とりあえず出て頭を冷やせ。今日のおまえはおかしいぞ」
「引き留めたのはおまえじゃん」
そう言った途端、部屋から蹴り出された。
マニゴルドは首をぐるりと回して歩き始めた。
死は生の先にある。遅かれ早かれ、全ての人にそれは訪れる。
その訪れを少し早めてやることの何がいけないのか。
同じ積尸気使いの師ならば、彼のしようとした事を理解してくれるだろう。力を人のために使うことを誉めてくれるだろう。
そう思えば怖いものはなかった。