【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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神羔唱(アニュス・デイ)――ヨルゴスの告白

 

 時は少し遡り、セージが教皇宮の一角に軟禁された夜のこと。

 

 街並みを見下ろす丘の上。シジフォスは露店で買った焼き栗を剥いては口に放り込んでいた。ほくほくして美味しい。人気の絶えた夜の遺跡で、彼は待ち人を待っていた。

 

 やがて音もなく空気がひび割れた。風景という幕の隙間から、この世という舞台の裏手から、一つの人影が現れた。

 

「マニゴルド」

 

 声を掛けると、人影は猫が毛を逆立てるように振り返った。その様子がおかしくて、シジフォスは笑いながら姿を見せた。

 

「驚かせたか。済まん済まん。俺だよ」

 

 当初は宿でマニゴルドの到着を待つつもりだった。しかし街の地理に暗い者が夜に一人で辿り着けるだろうかと不安になり、迎えに来たのだ。

 

「迷子になんかならねえって。ガキ扱いすんな」

 

「まあそう怒るな。猊下からのありがたい届け物はここで受け取るから」

 

 シジフォスの差し出す片手をマニゴルドは遠ざけた。金だけならこの場で渡しても構わないが、手紙を読んで教皇の意図を理解してからにしてほしいという。その主張にシジフォスも納得して、二人で一気にアクロポリスの丘を駆け下りた。そして灯りのある通りに現れた時には、二人とも地元民のような顔で歩いていた。

 

 シジフォスの案内で宿に入ったマニゴルドは、無造作に卓上に荷物を放り出し、椅子に腰掛けた。シジフォスも寝台に腰を下ろす。そしてやっと尋ねた。

 

「一体何が起きてる」

 

「まずこれ読めよ、射手座の黄金聖闘士様」

 

「判った。ああ、これ食べてていいぞ」

 

 教皇の手紙を受け取り、シジフォスは封蝋を確かめてから注意深くそれを開いた。マニゴルドは焼き栗の焦げた皮を剥きながら、彼が読み終えるのを待った。

 

「……予め聞かされていても、やはり信じがたい事態だな」

 

 それがシジフォスの率直な感想だった。聖域への帰途で届いた教皇からの念話。指示されるまま帰り道を逸れてアテネに潜伏。夜まで待ち続けてやってきたのは教皇の弟子。その一連の流れが神官たち主導の教皇交代劇を阻止するためのものだと知って、シジフォスはもうどうしていいか判らない。握りしめた手紙だけが頼りだ。

 

「ジジイが退位したってのは本当みたいだ。それでシジフォスが後継者に指名されたかっていうと、まだあやふやな感じっぽい。女神の代理人にジジイが返り咲くか、それともあんたが引き継ぐのかは、これからのあんたの動き次第。理解できた?」

 

と、マニゴルドは組んだ足を揺らした。

 

 シジフォスは眉をしかめながら口を開いた。

 

「猊下からの手紙には、カトリヴァノスという家を訪ねろとあった。誰だか知らんが俺はこのまま行っていいのか。猊下はご無事なんだろうな」

 

 教皇の弟子は頷く。セージにはシジフォスを無駄に遊ばせるつもりはなかった。どうせ聖域の外にいるのだから調査に行ってこいという指示を出したのだった。人使いが荒いというよりは、この件で使える人材が限られていた。聖闘士の任務や聖域外での動きを管理している神官ハーミドは、テオドシオス側にいる。

 

「ジジイは元気だよ。別の場所で捕まってた俺をこうして外に送り出すくらいのことはできる。荒事にはしたくないって部屋で大人しくしてるけど。いざとなりゃルゴニスのおっさんも控えてるから、気にせず外回りしてこいってよ」

 

「そうか。良かった。帰還が遅くなると聖域には連絡していないんだが、それは大丈夫かな。不審がられていないか」

 

「さあね、知らない。一日や二日の遅れくらいじゃ騒ぎにならねえよ。問題は三日以上経ってからだ」

 

 現代のような分刻みの行動が当たり前の時代ではない。遠方への旅をするなら、その旅程にはある程度の幅が想定されていた。聖闘士が本気で動けば秒単位の行動もこなせるだろうが、さすがに調査任務にそこまでの正確さは求められていない。

 

「むしろ今すぐ帰って状況を確かめたいんだがなあ。手紙の最後には『教皇になる気があるなら、今すぐ戻ってきて私を倒していくがいい』って書いてあったんだ。おまえはどう思う、これ」

 

「そりゃあ、そのまんまの意味だろ。ジジイは書類に署名させられたけど引退前にやりたいことがある。敵を叩くための証拠を掴まずにあんたが戻ってきたら困るってことだ。ひょっとして反逆の首謀者としてしょっぴいてやるから覚悟しろってことかもよ」

 

 そんな冗談にしては恐ろしいことを告げられ、シジフォスはぶるると身を震わせた。

 

「教皇などという大役、普通に考えて俺みたいな若輩者には無理なお役目だ。ルゴニス殿だっているし、もうすぐハスガードも牡牛座になって戻ってくる。なぜ俺なんだ。なぜ今なんだ」

 

「俺もそれ聞いてみた」

 

 そこで言葉を切ると、少年は意地悪い笑みを浮かべて彼を見た。「知りたい?」

 

「ああ。できれば猊下のご見解をそのまま教えてほしい」

 

 それならば、と教皇の弟子は、足を組み直した。

 

「まずハスガードだけど、まだ聖衣を得ていない者の話は考慮しなくていい、ってことで飛ばすぜ。っていうか飛ばされた。ジジイが一番心配してたのは、事の首謀者があんたで、テオドシオスがそれに従ったって可能性」

 

「まさか!」あらぬ疑いにシジフォスは叫んだ。

 

 マニゴルドはうんざりと手を振って「あくまで可能性だって」と彼を落ち着かせた。

 

「あんたは聖域に腰を落ち着けてる時間がなかった。根回ししてる余裕はない。そんなことはジジイも分かってる。でも神官の立場だと一番都合の良いのはあんたなんだとよ」

 

 老人は弟子に語ったという。

 

『シジフォスは若くて経験不足だ。聖闘士としてではないぞ。人としてまだ若い。弁論が得意というわけでもないから、神官にかかれば口先で丸め込むのも容易い。しかも人の話をよく聞く素直な子だ。年長の神官に意見されれば無碍にはできないだろう。すなわち傀儡が欲しい神官には最も好ましい候補者だ』

 

 これがたとえば新教皇にイリアスやルゴニスが就いた場合、神官が自身の意に従わせるには手間が掛かる。年齢による経験の差を盾にすることができず、理詰めで納得させなければならないからだ。二人も狡猾さを身に付けた大人だから、易々と神官の言いなりにはならないだろう。むしろセージよりも若いぶん、厄介な信念と情熱を貫こうとするかも知れない。

 

 ことにイリアスのほうは、聖闘士としては立派だが教皇となると未知数である。性格的には折れることを知らない頑固なロバのようであり、他人に尺度を合わせることを良しとしない修行者のような男だ。そんな人物に教皇になられては、神官は意思疎通の難しさに胃を痛める日々を送ることになるだろう。

 

『黄金位が獅子座と魚座だけだった時代には、誰も教皇交替のことを持ち出さなかった。それはあの二人が神官にとって好ましい教皇にはなりえないと確信があったからだろう』

 

 さらには、イリアスもルゴニスも教皇位に就くには問題があった。獅子座の風来坊は聖域を離れていつ戻るか判らない。孤高の魚座は公務から退いている。前者が二度と帰ってこないこと、後者の目的が弟子に称号を継がせることだと知るのは教皇だけだとしても、二人が表舞台から去ったことは聖域中が気づいていた。

 

 つまり現実的な教皇候補としては、今の時点では射手座しかいない。テオドシオスにとっては今こそ絶好の機会なのだ、と少年は師から聞いたことを締めくくった。

 

「玉座からどかせるのに十分な大ポカが、あくまで神官にとってのだけどそれがジジイにはある。後継者候補は都合のいい奴が一人きり。おまけに目障りな神官長もいない。となりゃあのデブも、あんたが帰ってくるまでに全部済ませておこうって気になるだろうよ」

 

「だからって、書類一枚で聖域の未来を決められて堪るか。俺が即位を断れば、この件は無かったことにならないかな」

 

「それが通ると思うなら帰還すればいいじゃん。今なら教皇殺しの射手座になれるぜ」

 

 冗談にしても質(たち)が悪い。睨んでやるとマニゴルドは肩を竦めてみせた。シジフォスは気を取り直してもう一度手紙に目を通した。

 

「しかし猊下はなぜこんな回りくどいやり方を取られるんだ。こんな事をせずとも、不逞の輩など首にしてしまえばいいだろうに。どうして猊下は大事な書類に署名されたのだろう。なにか別の書類だと欺されたのか。もしや猊下は一度署名したものを反故にすればいいとお考えなのか」

 

 それをすれば教皇の地位は一時的には戻ってくるだろうが、神官たちの失望は決定的なものになってしまう。下策だった。

 

「今のところ相手のやり方に合わせた反撃方法を考えてるみたいだから、そういうつもりはないと思うぜ。ジジイ風に言うなら、横がどうとかはしないって」

 

「横車か? 横紙破りか?」

 

 せっかく助け船を出したのに、何でもいいや、と相手はそれを蹴飛ばした。

 

「とにかく強引に進める気はないって。まだるっこしいよなあ。ごちゃごちゃ考えてないで刃向かった連中みんな首切れば簡単なのに」

 

「自分でも同じ事を言っておいてなんだが、猊下にとっての落としどころは違うところにあるのかもな」

 

 敵の処分について一介の聖闘士があれこれ考えても仕方ないが、テオドシオスたちが行っているのは教皇に対する反逆行為である。全員の処刑はなくても、首謀者と主だった者たちの処分は確実だろう。一方で関わりの軽かった者たちはお咎め無しにするつもりかも知れない。テオドシオスの一派が何名いるのかシジフォスは知らないが、全員連座では日常の業務が滞ってしまうことは想像が付いた。だからこそ禍根を最小限に留めるために教皇は慎重に動きたいのだろう。

 

 けれどその先へは思考を進めたくなかった。全てが済んだらセージは本気で引退するのではないかと、それで譲位に同意することを受け入れたのだとは、想像したくなかった。

 

「まあいいか。俺は聖闘士だから教皇のご命令に従っていれば間違いないんだ」

 

「いいね、その開き直り」

 

 マニゴルドは教皇から託された当座の資金をシジフォスに預けた。渡された革袋の中は銀貨で満たされていた。シジフォスは不安になった。なにしろ聖域の財産を管理しているのは神官だ。どうやってこの大金を持ち出してきたのだろう。

 

「安心しな。それ教皇のへそくりだから。ジジイが言うには、聖域の金庫から金を出せないようなもしもの時の準備金だってさ。手形を使うと後で流れを洗われるから、こういう時は足の付かない現金に限るんだとよ」

 

「生々しいな」

 

 教皇の使いは服に落ちた食べかすを払った。

 

「さてと。そろそろ帰るから、悪いけどお師匠に伝えてくれ。また穴開けてもらわねえと」

 

 念話を覚えればいいのにとシジフォスは思ったが、それよりも、少年が聖域に戻る気でいることに驚いた。

 

「戻るように猊下が仰ったのか。猊下はおまえを聖域の外に逃がすために使いを頼んだはずだ。その証拠に、手紙にはおまえも連れて行けと書かれていたぞ」

 

 ほら、と手紙を見せると、「あのクソジジイ」と少年は顔をしかめた。

 

「きっとおまえも軟禁されていたのだろう? そこに戻るなんて意味のないことは止めろ。下手に聖域にいれば神官の交渉道具に使われるぞ。場合によっては身の危険が及ぶと猊下は心配されたはずだ。おまえが敵の手に落ちればそれだけ猊下は動きにくくなる。それくらい分からないはずないだろう」

 

「そうやっていつも肝心な時に俺をのけ者にする」

 

「拗ねるな。子供か。そういうことを言うなら、おまえが聖域に戻ってどんな利点があるというんだ」

 

「……俺はいつでも死ねるし、殺せる」

 

「なんだと」シジフォスの凛々しい眉毛が跳ね上がった。

 

 その厳しい目線に歯向かうように少年も彼を睨んだ。

 

「神官が俺の命を盾にとってジジイに言うこと聞かせるなら、その前に死んで、逆に神官を困らせてやる。俺は神官の手札かもしれねえけど、死んだ瞬間にジジイの手札になる。弟子を殺された年寄りが少しくらい強引な真似をしたって聖域は同情するさ。そうならなくてジジイの作戦が失敗した時も、俺が神官を皆殺しにしてやる。それでその後に俺も死ねばゴタゴタは一気に片が付く。どうだ。どっちに転んでも役に立つだろ」

 

 シジフォスは少年を撲った。

 

「なにすんだよ!」

 

「命を粗末にするな」

 

「してねえよ。俺みたいな奴の命にも利用価値があるんだぜ」

 

 それはかつて命を塵芥と評した者にとっては大進歩だったが、シジフォスには捨て鉢になったようにしか聞こえなかった。

 

「なあマニゴルド」

 

 少年は応えず、ふて腐れて殴られたところを摩っている。

 

「今のおまえは猊下の弱みかも知れないが、もっと修行を積んで強く賢くなれば、強みになれるんだ。こんなどうでもいい小競り合いに命を賭ける必要はない。タマを張るならもっと大一番まで取っておけ。頑張って聖闘士になるんだろう」

 

 黙りこくっている少年の背を強く叩いてから、シジフォスは窓辺に立った。眺める先は窓の外。建物に遮られて何も見えないが、はるか遠くの聖域の方角を向いた。 

 

 やがて彼は口を開く。

 

「今、猊下に念話で確かめてみた。やはりおまえには俺の旅に同行してほしいということだったぞ。そうと決まれば早く終わらせてさっさと聖域に戻ろう。なあ」

 

 マニゴルドは髪をがしがしと掻き回して、それからようやくシジフォスの提案を受け入れた。

 

          ◇

 

 神官ヨルゴスが部屋を訪れた時、セージは読書をしていた。挨拶がてら、何を読んでいたのか尋ねた。しかし歯切れ悪く言葉を濁して、老人は本を閉じて机の端に追いやった。

 

 その背表紙に箔押しされた金文字の名残を読み取り、神官は唇を歪めた。『君主論』だった。玉座を追われてから読むのでは遅いだろうに。そう思ったがヨルゴスは別のことを口にした。

 

「原語版なのですね」

 

「この前、マニゴルドに『神曲』を読み直させたことがあってな。読み書きを教えていた頃を思い出した。それでイタリア語の本を順繰りに引っ張りだしていたところだ」

 

 老人は懐かしげに本の革表紙を撫でた。

 

「あやつはイタリア出身だ。ギリシャ語とラテン語の教材は聖域にあるが、イタリア語に関してはどうしようか悩んだものよ」

 

「外国出身者は必ず言葉で苦労いたしますね。ギリシャ語を覚えるのにまず一苦労、そして母語の読み書きで二苦労。結局どうされたのですか」

 

「聖書を読ませた」

 

 その際にはギリシャ語=イタリア語の対訳版を用いた。ギリシャ語の勉強にもなって一石二鳥だったと、老人はどこか自慢げに語った。一応ここは戦女神アテナを奉じる中心地だが、教皇も神官もキリスト教の教典を持ち込むことを気にしなかった。

 

「あれの神の偏狭さはひどいものだが、物語としては面白いな」

 

 元浮浪児は、当初、立ちはだかる文字の羅列から逃げ出した。文章を読むことに縁の無かったからだ。そこでセージが毎夜少しずつ読み聞かせたという。

 

「セージ様が読み聞かせされたのですか」

 

 なんと贅沢な日課があったものだと、ヨルゴスは口を挟まずにはいられなかった。

 

「そう長いこと読んでやったわけではない。士師記あたりからあやつも自分で読めるようになったから」

 

 そう言うと、老人はふと自嘲した。

 

「マニゴルドと共に暮らすようになったものの、どう接すればいいか初めは判らなんだ。夕食の後は特にな。星見に行ってその場を逃れても、帰れば部屋で一人ぽつねんとしているあやつの姿を見ることになる。余計に我が身が責められたような気がしたものよ。楽器やカード遊びなどもしてみたが、間が持たぬ。読み書きを教えるというのは苦肉の策であった」

 

「そういうものなのですか、初めての弟子取りというのは」

 

「さあ。普通の聖闘士がどうやって弟子と日々を送っているかは知らぬのでな。単なる体験談だ。そういえばそなたは確かモスクワの出だったな。故郷の言葉は読み書きできるか」

 

「え、ええ。ご存知でいらっしゃいましたか」

 

「ヨルゴスというギリシャ名を名乗ってはいるが、本名がエゴールであることも知っておる。ゲオルギオスという名は、ジョージがすでに使っていたから避けたのだろう」

 

「よくご存知で」

 

「顔を合わせる者の本名くらいはな」

 

 ちなみにヨルゴスはゲオルギオスの愛称・短縮形である。エゴールというロシア名もゲオルギオスに由来する。ジョージも由来を同じくする英語形だ。

 

 彼以外にもギリシャ語風に名を改めている神官は多かった。そういう流行があったのだ。アレクシオスことスペインのアレホや、エウゲニオスことドイツのオイゲンなどがそうだった。聖域の共通語はギリシャ語だが、ギリシャ出身者の割合は案外少ない。

 

「そうして出身の異なる者たちが、アテナに身を捧げるという一点のみをもって同胞となる。けれど表面をギリシャ風に統一したところで、皮一枚めくれば思惑や理想はそれぞれ違うほうを向いておる。本当に合わせるべきは名前より足並みなのだろうな。それが叶わぬのは、私の指導力が足りぬせいだ」

 

「我が友人であればそれを叶えられるでしょう」

 

「分かった風な口だが、そなた、テオドシオスの目的を理解しておるのか」

 

「聖域をよりよい方向に導きたいという目的は、友人の本音でもありますよ。しかしセージ様が仰りたいのは違うことでしょう。ええ、承知しております。彼が神官長として権力を振るいたいことは」

 

 それで何か問題があるのかとヨルゴスは老人を見つめ返した。実力のある者が実力を発揮できる場所を求める。それの何がいけないのか。

 

「そのために子供を人質に老人を幽閉し、若者に玉座を押しつけるという手段しか思いつかなんだか。テオドシオスならば正道を選ぶこともできただろうに」

 

「機を見るに敏ということです」

 

「強引な手を使わせ、それを理由に帰還した新教皇には彼を遠ざけさせる。そして自らが神官長に成り代わることを望む。そんな者が彼の近くにいなければ良いのだがな」

 

 それを聞いてヨルゴスの視線に険が混じる。己のことを当てこすられるよりも、醒めた老人の口調が気に障った。なぜこうなったのか、少しは省みればいいのだ。

 

「強引な手と仰いますが、あれは同志たちの溜飲を大いに下げたのですよ。セージ様は神官の鬱屈を判っていらっしゃらない。あなたは聖闘士。私たちはそれにならなかった者たちだ。私たちがどんなに聖域のために尽くしてもそれが歴史に残ることはない。私たちが記す聖闘士の歴史に私たち自身の名は刻めない。それが今、私たちの手で歴史を動かすという偉業を成し遂げたのです。こんな嬉しいことはない」

 

 自らの言葉に突き動かされて彼は昂ぶっていく。準備不足だった面はあるが、それでも行動を起こすべき時だったと、テオドシオスもヨルゴスも確信していた。

 

「そんなに神官は辛いか」

 

「いいえ。生きていくだけで精一杯の者たちに比べれば恵まれているでしょう。贅沢な悩みを抱えていると思われても仕方ありません。けれど私たちにも、女神に仕える特別な者という自負があります。正式な聖闘士からはそれも借り物の虚栄に見えるでしょう。だから小宇宙と女神を持ち出せば黙ると侮っていらっしゃる。ああ、蔑ろにされたと恨み言を申し上げるつもりはありません。あなたは立派な教皇だった。内心では今回のことも匹夫の勇だと嘲笑っていらっしゃるでしょうがね」

 

「そのようなつもりは無かったが……」セージは息を吐いた。「ところでヨルゴスよ、そなたは胸に溜まったものを吐き出しに来たのか」

 

 用があって来たのだろうと促され、彼は背を伸ばした。しかし口を開くより先んじて、

 

「言っておくがシジフォスを呼び戻せというのは無理な相談だ。あの者が今どこで何をしているのか把握していて、そこへ確実に指示を届けるならともかく、やみくもに各地へ指示をばらまくのは感心しないやり方だ。シジフォスの居場所を教えろと言われても、私も知らぬ」

 

と釘を刺された。ヨルゴスも射手座が聖域にいないことを隠し通せるとは思っていない。

 

「そこまで仰るなら単刀直入に申しましょう。射手座様を聖域から遠ざけているのはセージ様の命によるものですね」

 

「無理を申すな。評議の場からこの部屋に押し込められるまでの短い時間で、この年寄りに何ができた。窓から文を投げるくらいか?」

 

「では外部に繋ぎを付けていらっしゃらないのですか。射手座様の帰還を早めるような方法はありませんか」

 

「知らぬ。勝手に調べるがいい」

 

「そんな、自分は無関係だという態度をなさらないでください。あなたのお弟子にも関わる話なのですから」

 

 僅かに首を傾げた老人に、ヨルゴスは言った。

 

「事態が膠着したことに焦りを覚えた我々の同志が、あなたを脅すためにお弟子の身を痛めつけてみようと言いだしたのです。このままでは危険です」

 

「なんと」

 

 身を引いてみせたセージをヨルゴスは見やった。弟子が牢獄を抜け出したことを知らないのか。あるいは全て知っていての演技なのか。彼には判断がつかなかった。

 

「評議の場でお弟子を使った脅しを掛けたでしょう。それを見て、もっと過激なことをしようと考えたらしいのです。私もテオドシオスも、そんな事を取引材料にしたくはない」

 

 実は、そのような事を言い出した神官は存在しない。しかしこの部屋から出たことがない者には、事の真偽を確かめる術はないはずだった。もし勝手にしろというなら、それすら「我が身惜しさに弟子を見捨てた冷酷な老人」という非難の種になる予定だった。

 

「その者は、マニゴルド殿が伝令神ヘルメスの力を使うという噂を聞いて、彼が泥棒であると思ったようでした。そこで過去の罪を問い、事実ならば体罰を与えるという名目を見つけたつもりになっています。それを防ぐためにこうして参りました。ヘルメスとは盗みの意味で合っていますか」

 

「マニゴルドには聞いてみたか」

 

「何を話しかけても黙ったままでして……。情の強い少年です。さすがに黄金聖闘士だった方の弟子というだけのことはあると、皆も感心していましたよ」

 

 それを聞くと老人は唇の縁に笑みを浮かべた。こんなあからさまな世辞が効くのかと、逆にヨルゴスは不安になった。けれど老人が笑ったのは違うところに理由があった。

 

「あやつに手を出すのは止めておけ。マニゴルドは確かにヘルメスに似た力を持っている。だがそれは盗人や賭博の技ではない。死者の魂を冥界へ運ぶ導き手としての力だ」

 

 テオドシオスが候補生から断片的に聞いた話。それがマニゴルドの師の口からも出てきた。

 

「彼が人殺しであるということですか。だから無闇に近づくと返り討ちに遭う。そういうことですか」

 

「何の言質を取ろうとしておる。この世には小宇宙という奇跡があるように、不思議な力を持つ者が存外多いということよ」

 

「はあ……」

 

「疑っておるな。私とてその手の力は持っておる。一つ教えてやろう」

 

 セージは笑いを消して、彼をひたと見つめた。

 

「今宵、ある一本の蝋燭の火が風に吹かれることなく消える。同じ燭台に据えられた他の蝋燭も、やがて同じ運命を辿るだろう。テオドシオスと皆にそう伝えよ」

 

「予言でございますか」

 

 さて、と老人は空とぼけた。

 

 ヨルゴスは更に問い詰めようとして、ふいに注意を逸らした。セージも扉のほうを向く。外から慌ただしい気配が近づいてきた。射手座の黄金聖闘士が帰還したという知らせによって、面会は打ち切られた。

 

 二人はシジフォスの待つ教皇の間へ向かった。軟禁されていた元教皇にとっては久しぶりの移動である。教皇の兜を小脇に抱えていた。

 

「セージ様。射手座様に会われた瞬間にその首を刎ねるような暴挙はお考えになりますな。有望な黄金聖闘士を私情で殺せば、暴君の悪評を後世に残すことになりますよ」

 

 この期に及んで神官たちの計画を潰すことを考えるな、とヨルゴスは注意する。聖域の記録を残すのは神官の務めだから、これはただの脅しではない。

 

 それに対しての返答は落ち着いていた。

 

「私がどう行動しようが、それを映す鏡が歪んでおれば像も歪んで見えるものよ。曇った鏡は磨けば良いが、歪んだ鏡を矯正するにはどうすればいいだろうな」

 

「気づいた時点で早めに新品に取り替えておくべきでしたな。しかし歪んでいるのが鏡像ではなく実物だとしたら、それを指摘するのも鏡の役目でございます」

 

「ははは。なるほど」

 

 セージは機嫌良く笑った。

 

 二人の行く手から声が聞こえてきた。

 

「今までどちらにいらっしゃったのですか。それに誰にも帰還を知らせずに教皇宮にお越しになるとは。下の者にでも予め一声掛けて下されば、すぐに対応できましたものを」

 

 非難がましい神官の声に応えるのは若い聖闘士の声。

 

「前触れもなく参ったことは詫びよう。先ほど聖域に戻ってきた時に、教皇宮からの呼び出しがあったと従者から聞いた。それで遅ればせながら馳せ参じた次第だ。遅参についてのお叱りは猊下から賜りたい。猊下はどちらにおわす」

 

「もうすぐお越しになります」

 

 ちょうど二人がその場に到着した。

 

 教皇の間である。

 

 大理石と花崗岩がふんだんに使われた大広間だ。広間の正面には数段の階段を備えた高台があり、その中央に玉座が据えられている。玉座の後ろには幕が引かれ、背後を窺うことはできない。一説には、天上のアテナが聖闘士たちの声を直接聞きに下りてくるための本当の玉座があるとも言われていた。

 

 今、その教皇の間の中央には、玉座と相対するようにシジフォスがいた。それを両脇から見守るのは法衣姿の二十有余人。譲位を「見届ける」ために揃った神官たちだ。

 

 セージは広間を横切り玉座の前へ進んだ。シジフォスが膝を折った姿勢のまま深く頭を下げた。これで譲位がなったとしてもいいが、テオドシオスの期待するのは前任者が後任者の名を呼ぶことだ。書き直された譲位同意書にそう記されていたから、それがセージのせめてもの希望であるはずだった。

 

 シジフォスが恭しく差し出した書状を受け取ると、老人は慣れた仕草で玉座に腰掛け、厳かに宣言した。

 

「では評議を始める」

 


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