【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

11 / 62
ジャミールへ

 

 マニゴルドが「家出」をしたというのに、師は一向に動く気配がなかった。納屋での暮らしはそれなりに快適で、食料を確保する先もあり、放っておいてくれるならそれでいいや、と悪童は思うことにした。

 

 だがセージの放置ぶりと対照的に、射手座の黄金聖闘士が鬱陶しい。弟子が毎日十二宮を往復するのでよろしく頼む、とセージが挨拶をしたのを覚えていて、

 

「このところ教皇宮に帰っていないようだが、どうしたんだ」

 

などと道で話しかけてくる。

 

「今はそういう修行中なんだよ」

 

と適当に受け流せば、そうかと頷いてすぐに引き下がるが、また別の機会に「猊下はお元気そうだぞ」とか、「今日はお疲れのようだった」とセージの様子をいちいち伝えてくる。暗に教皇宮に戻れと言われているようで、マニゴルドの気に障る。

 

「鬱陶しいんだよ、あれ」

 

「シジフォス様はおまえのような奴にも優しくされるんだな。聖闘士の鑑だ。俺も見習わなければ」

 

 マニゴルドの愚痴に応えているのは、鍛錬に余念のないエルシドだった。本人に皮肉を言っているつもりはないのだが、嫉妬が交じって声が尖っている。

 

「俺みたいな奴ってなんだよ。どんな奴だよ」

 

「中途半端な奴のことだ。師の許を離れるならもっと遠くにすればいいのに、聖域の中なんて庭先にいるようなものだろう」

 

 うるせえ、と悪童は口を尖らせた。

 

「だったらその中途半端な奴にくっついてる候補生様は何なんだ。あれか、友達いないのか」

 

「違う。アルバフィカがおまえの影響を受けすぎないよう見張っている。あれは真面目でいい子だ」

 

「あいつに会いたきゃ薔薇園の前で待ってろよ」

 

 エルシドは黙り込んだ。彼が毒薔薇に近づくのを怖がっていることなどマニゴルドにはお見通しだった。

 

 その時、道のほうから走ってくるアルバフィカの姿が見えた。マニゴルドは立ち上がり、エルシドは鍛錬を止めた。人目を避けるためか、美少年は修道僧のような上着を着てフードを被っている。あいつも知恵が回るようになったと、悪童は目を細めた。

 

「持ってきたぞ」

 

と、アルバフィカは手にした袋を掲げた。

 

 三人は人目の付かない場所に移動した。予め用意しておいた枯れ草に火を入れると、マニゴルドはアルバフィカの持ってきた袋を覗き「おお、すげえ」と声を上げた。アルバフィカは「うちの庭にはいなかったけど、表に出たら結構捕れた」と自慢げに説明する。おまえも見るか、と袋を差し向けられて、エルシドは顔を背けて断った。

 

 前日にマニゴルドが「虫って美味いんだぜ」と発言し、「アブラムシはべつに美味しくない」と反論したアルバフィカも彼の話を聞く内に興味を示し、エルシドが顔をしかめている間に、一緒に芋虫をおやつにしようということで話はまとまってしまった。今日はその実践である。

 

 未知の世界に期待してせっせと芋虫や蜘蛛を集めてきたアルバフィカが、仏頂面の候補生を見上げて、

 

「虫は嫌いか?」

 

と悲しそうに尋ねた。しゃがんで下から見上げてくる少年たちの目は澄んでいて、エルシドは何も言えなくなった(マニゴルドのほうは分かってやっていると彼は気づかなかった)。

 

「まあそう構えるなよ。おまえがいくらお上品な生まれでも、蟻くらい食っただろ」

 

「ない」

 

「まじかよ。女みたいな顔のこいつだって食ったことあるんだぜ」

 

「また女みたいって言った!」

 

 繊細な外見とは裏腹に激しい気性の少年がマニゴルドを突き飛ばした。マニゴルドは素早くアルバフィカの腕を掴み、一緒に地面に転がった。二人はけたけたと笑った。

 

 まるでただの子供だ、と溜息を吐いた黒髪の候補生を、マニゴルドは地面に仰向けになったまま嘲笑った。

 

「虫食いをゲテモノだと思ってるな。でも古代ギリシャ人もセミを食ったんだってさ。昔の聖闘士も食ってたんじゃねえの」

 

「…………」

 

「おまえも聖闘士になるつもりなら、知っておいたほうがいいぜ。まともな食い物が手に入らない時に何を食えば凌げるのか。餓えに耐える訓練なんて馬鹿げたことをするより、そのほうがよほど有意義だと思うね、俺は」

 

 穏やかに言う少年の目は、波のない夜の海のように彼を居心地悪くさせた。食うよ、と言うしかなかった。口に入れたそれは案外甘かった。

 

 三人が聖域の片隅でこっそりとおやつを火で炙っていると、彼らのほうへ真っ直ぐに近づいてくる足音がした。エルシドがすぐに立った。

 

「教皇猊下、シジフォス様」

 

 彼に促されて下の二人も立ち上がった。挨拶をするエルシドとアルバフィカの横で、マニゴルドだけは教皇の兜を被った法衣姿の人物を凝視している。

 

 聖域の中心人物二人は少年たちに近づいてきた。シジフォスはアルバフィカの顔を見てまたしてもぎょっとしたが、その場にいる彼以外の全員が平然としているのに気づいて、態度を取り繕った。エルシドはこの尊敬する先輩に後で事実を教えてあげようと決めた。

 

「マニゴルド、お迎えが来たぞ」

 

 シジフォスが告げた。射手座より少し遠い所で立ち止まった老人は、何も言わずにマニゴルドを見ている。アルバフィカは「良かったな」と友人を振り向いたが、マニゴルドは嬉しさや照れと無縁の表情を浮かべていた。困惑、警戒、恐怖。

 

「どうした、マニゴルド」

 

「だって、誰だよそいつ」

 

「少し会っていなかったからと言って、もう猊下のご尊顔を忘れたのか?」

 

とシジフォスが笑った。

 

「そういうことじゃなくてシジフォスさん、そいつ」

 

 教皇はつかつかと歩み寄ってくると、マニゴルドの頭に拳を落とした。

 

「馬鹿者、師を指差すとはどういう了見だ」

 

「誰がお師匠だよ、偽者!」

 

「黙らんか」

 

 もう一つ拳を落とすと、教皇はマニゴルドの腕を捻って動きを止めた。痛みに悪童は悲鳴を上げた。

 

「ここでは何も言わぬ。教皇宮でおまえの師匠がとくと説教をくれてやる。それまで大人しくせよ」

 

 マニゴルドは悲鳴を上げるのを止めた。老人は威厳のある仕草で横にいた少年たちの額に手を当てた。祝福を与えられ、二人の少年は作法に則り礼を返した。信じられないものを見る目でマニゴルドが仲間を見つめている。

 

 お戻りになられますかと尋ねられ、教皇は重々しく頷いた。シジフォスは火の始末を忘れないよう言いつけてから、教皇と、それに連れられていくマニゴルドの供について去っていった。

 

「あいつ、せっかく師が来てくれたのに、偽者なんて言いかたは照れ隠しにしてはひどい」

 

 アルバフィカの言葉に「そうだな」と同意して、エルシドは彼らの去っていった方向を眺めた。ふと不安の雲が湧く。

 

「……偽者という可能性はないだろうか」

 

「あれは間違いなく猊下だ」

 

 セージを間近に見たことのあるアルバフィカは断言した。黄金聖闘士になったシジフォスも毎日教皇に拝謁しているはずだ。見間違えるはずはない。

 

「それもそうか」

 

 万が一偽者でも、シジフォスが近くにいるなら下手な真似はできないだろう。エルシドは安心して、おやつを炙り直した。二人ともが偽者の可能性を想定できないあたり、優秀な候補生とはいえまだ子供だった。

 

 十二宮もかなり上ったところで、教皇はシジフォスに声を掛けた。

 

「射手座よ。供はここまでで良い」

 

 教皇の言葉に従い、シジフォスは自分の守護宮に留まった。彼の見送りを受け、教皇は法衣の裾をつと持ち上げた。

 

「ではここからは二人で参るか、マニゴルドよ」

 

「触るな」

 

 肩に掛かった手を振り払い、マニゴルドは老人から逃れるように階段を上った。怯えた動物が警戒して木の上に避難するのに似ていた。

 

「もういいだろ。ここまで大人しく付いてきてやったんだ。誰だよ、あんた」

 

「この顔を忘れたか。おまえの師だ」

 

「お師匠と同じ顔だからどうした。あんたはお師匠の真似をしてるけど、違う奴だ。俺を呼び出して何をする気か言えよ」

 

「ほう」兜の奥で目が細まった。「教皇宮まで待てと言うたのにな」とセージの声で言い、笑った。

 

 マニゴルドはくるりと身を返して階段を駆け上がった。師の身に何かあって、何者かに成り代わられたのではないかと、気が気でなかった。

 

          ◇

 

 セージは教皇の間にいなかった。執務室にもいなかった。

 

 マニゴルドは建物内を探し回った。神官たちに白い目で見られたが気にする余裕はなかった。いつもより行き交う神官の数が多いことに苛立った。

 

 セージの私室に飛び込むと、老人が机の前で書類を書いていた。老いてなお端正な横顔。

 

 お師匠、と飛びつくと相手は一瞬戸惑い、ペンを置いてからマニゴルドを抱き締めてくれた。少年はセージが無事だったことに安心しきって、膝の力が抜けた。

 

「お師匠生きてたんだな。良かった」

 

「生きてた?」

 

「そう。お師匠の偽者が来て」その時扉を開けて入ってきた人物を見て、マニゴルドはセージの法衣を掴んだ。「あいつだ! お師匠気をつけろ!」

 

 教皇の外見を持ったその人物は、部屋の中央に進み出た。マニゴルドは師を守ろうとセージの前に立った。

 

「ふはは、小僧が生意気にも我が道を阻もうとするか。面白い、頭から取って食ってやろうか」

 

「やれるもんならやってみろ!」

 

 己と同じ姿が高笑いするのを何とも疲れた目で眺めたセージが、弟子の肩に後ろから手を置いた。マニゴルドはびくりと跳ね、背後に立つ師を仰いだ。

 

「大丈夫だマニゴルド。こちらは私の兄だ。兄上、我が弟子で遊ぶのはそのくらいになさって頂きたい」

 

 相手は決まり悪げに兜を脱いだ。マニゴルドはすぐ側にいる師と、兜を脱いだ人物の、瓜二つの顔を見比べた。「お師匠の? えっと……初めまして。マニゴルドです」

 

 師の兄ならばと丁寧に挨拶したのに、相手は機嫌を損ねたらしい。

 

「なにを白々しい。初対面のわしをこいつ呼ばわりしおって。まったく礼儀がなっておらんぞ。セージ、本当におぬしの弟子か?」

 

「間違いなく私の弟子です」

 

 はっきり言い切る弟に、ハクレイは小さく笑った。借りていた兜を弟に返し、部屋を横切っていく。彼が背を向けて着替えている間に、マニゴルドはセージにこっそり話しかけた。

 

「あのジジイ、本当にお師匠のお兄さんなのか。全然似てない」

 

「口の利きかたに気をつけよ。兄上は私以上に礼儀に厳しい方だ。拳骨が飛んでくるぞ」

 

 既に二回も殴られていることを伝えると、セージは瞬きした。

 

「だってあのジジイがお師匠の振りなんかするから」と少年が口を尖らせ、セージは兄に声を掛けた。

 

「兄上、ですから申しましたでしょう。マニゴルドの目は誤魔化せないと」

 

「うるさい。まさか初見でばれるとは思わんかった」

 

「私の勝ちでございますな」

 

「納得いかん。わしが行くより先に、セージが小僧に小宇宙で知らせたのではないか」

 

 兄上ではあるまいし、と溜息混じりに呟いたのがマニゴルドにだけ聞こえた。

 

「マニゴルド、兄上にご説明せよ。なぜ教皇として振る舞われた兄上を私ではないと見抜いたのか。理由だけで良い」

 

「見なくても分かるだろ、そんなの。魂が違う」

 

 同じ顔をした老人二人がそれぞれの表情で少年を見た。ハクレイは驚嘆。セージは満足。

 

「……なるほど、才はありそうじゃの」

 

 面白そうに言うと、ハクレイは帯を締めた。私服に戻り、髪を結い上げたその姿を見れば、セージと見間違える者はいないだろう。

 

 ハクレイは銀貨を弟の手に落とした。セージはその手を横に滑らせてマニゴルドに差し出した。

 

「取っておけ」

 

「賭けの対象に渡すと八百長を疑われるぜ」

 

 言いながらもマニゴルドは銀貨を受け取った。兄弟の間で、弟のふりをした兄がマニゴルドを迎えに行き、見破られるか否かという賭けをしたことは容易に想像できた。

 

「それで、お師匠の兄君がなんでまた俺のとこに来てくださったんですかね」

 

 できるだけ丁寧に喋ると、ハクレイは弟の弟子を一瞥して「茶」と告げた。

 

「マニゴルド、茶でも飲みながら落ち着いて話そう」

 

とセージが「通訳」して、マニゴルドは茶の支度をさせられた。絨毯の上に胡座を掻いたハクレイは、マニゴルドの運んできた盆に目を留めた。

 

「小僧が淹れるのか」

 

「ええ。覚えてくれました」

 

 毎晩淹れれば嫌でも覚えると思ったが、少年は黙って茶を淹れた。試行錯誤を繰り返し、今ではセージ好みの温度と濃さで淹れられるようになった。

 

 熱い茶をがぶりと飲むと、ハクレイはさっそく切り出した。

 

「おぬしの身はわしが預かる」

 

 マニゴルドは兄の顔から弟の顔へ視線を移した。

 

「やっぱり聖域から追い出されるのか、俺」

 

「早合点するな。これから教皇宮とアテナ神殿は忙しくなる。星見の結果、次のアテナが降臨される日が定まったのだ。それまで潔斎と儀式続きでおまえの面倒を見てやれないから、ジャミールの兄上の所で過ごさないか。アテナの降臨される瞬間は兄上もこちらにおられる。その時に一緒に戻って来ればよい」

 

「降臨って何? それじゃ夏にやるって言ってた祭は何なんだよ」

 

「確かにパンアテナイア祭は古来よりアテナの誕生日を祝うものだ。だがそれとは別に、アテナが人の肉体を持って時代ごとに地上に降臨されることは、前に話したな」

 

「だってそんなのずっと先だろ。神様なんて最終戦争《アルマゲドン》まで出てこねえよ」

 

「セージ、おまえの弟子は何も理解しておらんようだな。大丈夫かこやつ」

 

 ハクレイの呆れ憐れむ視線に、少年は己のせいで師まで貶された気がした。必死に頭を働かせた。そして、

 

「女の子が生まれるんだな?」

 

と彼なりの結論を出した。誰の子か知らないが、数ヶ月後に赤ん坊が生まれ、アテナと名付けられる。その赤ん坊を育てる準備で忙しくなる。そういう意味だと理解した。久しぶりに戻った教皇宮に、やたら人が多かったのはそのためか。

 

 マニゴルドは言った。

 

「分かった。行くよ。どこだか知んねえけど」

 

 ハクレイは「よし」と膝を叩き、「では行くぞ」と早速立った。

 

「お待ちください兄上」と教皇が、「ジジイ待って」と少年が、それぞれハクレイを止めたのは同時だった。師弟は顔を見合わせ、弟子が先に口を切った。

 

「俺、下の小屋を使ってたからその片付けして、あと明日会う予定だった連中に挨拶していきたい」

 

「ふむ」ハクレイは唸った。「まあ、それくらいは待とう」

 

「では兄上、もうすぐ日も暮れることですし、今夜は夕食をご一緒なさいませんか」

 

「あまり味の薄いのは好かんぞ」と、渋い顔をしてハクレイはこれも受け入れた。「どうせなら一晩泊まって明日の朝発つことにするかのう」

 

「分かりました。ではマニゴルドは明るい内に納屋を元通りにしてくるように」

 

「分かったよお師匠」

 

 素直に頷き、マニゴルドは部屋を出て行った。

 

 扉が閉まってすぐにハクレイは表情を崩した。面白くて仕方ないというようににやけている。

 

「必死だったな、セージよ」

 

「ええ。友もできたようですし、言われてすぐにここを離れるというのは抵抗があったのでしょう。一晩お待ちくださったことに感謝申し上げますぞ」

 

「あの小僧のことではない。おぬしよ」

 

 セージは飲みかけていた茶を下ろした。「私でございますか」

 

「小僧をわしに取られると思って、ずっと側に引き留めておっただろう。しかも小僧がジャミールに行くと言った時の顔ときたら。あんまり哀れだったから一晩待ってやったわ、おぬしのためにな」

 

 兄が大笑いするので、弟は顔に手をやった。

 

 老兄弟がそんな会話を交わしているとは知らず、マニゴルドは走った。候補生の宿舎に戻っていたエルシドに、翌日から留守にすることを話し、アルバフィカに伝えてくれるよう頼んだ。その足で納屋に向かい、持ってきた荷物を手早くまとめた。エルシドも成り行きで片付けを手伝った。

 

「律儀な奴だ。数ヶ月もすれば戻ってくるのに、挨拶に来るとは」

 

「甘いんだよ、おまえは」とマニゴルドは吐き捨てた。「俺がここに戻れる保証がどこにある。戻ってきた時におまえらが生きている保証がどこにある。人はいつでも死ぬ。俺も、おまえも」

 

 大袈裟な、と言いかけてエルシドは言葉を変えた。

 

「それならアルバフィカにも顔を見せていけ」

 

「いいよ。ここから薔薇園に寄ると、教皇宮に戻るのが遅くなる。言っただろ、俺がここに戻れる保証はクソジジイどもの口約束だけだ。お師匠と会えるのも今夜が最後かも知れない」

 

 後は自分が片付けておくとエルシドは申し出た。その分マニゴルドに師匠と過ごす時間が増えればと思ったのだ。悪童は笑みを浮かべた。

 

「本当に甘いな」

 

 アルバフィカによろしくと言い置いて、悪童はさっさと納屋を出て行った。もしや片付けを押しつけられただけかと候補生が首を捻った時には、マニゴルドは十二宮の階段を上り始めていた。

 

 エルシドに言ったことは本音だ。

 

 人はあっけなく死ぬ。生きている間もあっけなく前言を翻す。数ヶ月で戻れるという約束を頭から信じるつもりはなかった。

 

(大事な女の子が生まれるんだ。誰が考えたって、俺は邪魔だよ)

 

 けれど少年は悲しいとは思わなかった。彼は諦めることを知っている。セージは彼に色々なものを与えてくれたが、多くを望むのは過ぎた願いだった。

 

 教皇宮の食卓には普段通りの食事が並んだ。

 

 マニゴルドは師の横顔を見上げた。視線に気づいた師がどうした、と問うので、何でもないと首を振った。いつもの席ではなく隣に座らされたことに、きっと深い意味はないだろう。向かいに座っている師の実兄だという年寄りがにやにや笑っているのが腹が立つ。

 

「お師匠、この人のことは何て呼べばいい?」

 

「わしのことは長か長老様と呼べ。何なら大師匠でも良いぞ」

 

「嫌だね。あんたみたいなクソジジイ、長で十分だ」

 

「良かったのセージ。義理堅い弟子で」

 

「兄上」

 

 穏やかで抑制的なセージと違い、ハクレイが闊達で遠慮のない性格らしいということは、この短い間で少年にも理解できた。喋るだけなら師を相手にするよりも気安い相手かも知れない。喋りたい相手となるとやはり師だが、兄弟はマニゴルドのことなど忘れたかのように難しい話をしている。

 

 仕方なく少年は、スープの表面に浮いた円い脂をくっつけて一つにまとめる遊びに耽った。久しぶりに師と共にした食事は、納屋の夜と同じくらいつまらなかった。

 

 夕食後の時間は、主にこれから連れて行かれる東方の地のことを聞かされた。その中でハクレイがジャミールの一族を束ねる立場にあること、聖域とジャミールには深い繋がりがあることを知った。

 

「兄上にはお立場がある。決してジジイと呼んではならぬぞ」

 

「お師匠は教皇だけど、俺がそう呼んでも怒らなかったのに」

 

「少しは頭を使え、小僧。わしはおまえの師の頼みでおまえを預かるんじゃぞ。ジジイと呼ぶのを我が同胞が聞けば、聖域の教皇はジャミールを侮っている、その影響を受けたから弟子まで生意気な態度なのかと思うじゃろう。小僧のせいでセージが困ったことになるのう。ああ、不出来な弟子を持った師匠は辛いのう」

 

 セージは苦笑したが否定しなかった。師を困らせるのは不本意だ。気をつけようと少年は心に刻んだ。

 

 寝る時もセージはマニゴルドの部屋に付いてきた。寝台の傍らに腰掛けて、離れていた期間の弟子の話を聞きたがった。特別な出来事は何もなかったと思うのに、老人はマニゴルドの話に耳を傾けていた。

 

「……結局は俺、戻ってきた。お師匠は呆れたか」

 

「何を呆れるというのだ。おまえは私の身を案じて飛び込んできてくれた」

 

「戻ってはきたけど、でも、俺は聖闘士になるのを諦めたわけじゃないからな」

 

「その話はしばらく棚上げだ。兄上のところで色々見て考えてくると良い」

 

「ん。今までありがとな」

 

 セージは息を呑み、ようやく「馬鹿者」と絞り出した。

 

「よいか。おまえが兄上のところに留まりたいと言い出しても、時期が来れば連れ戻すからな。今生の別れのようなことを申すな」

 

 マニゴルドは薄く笑った。

 

 翌朝、荷物を持って目を瞑れと言われた通りにして、数秒後。少年はハクレイと共に、聖域とは異なる高地に立っていた。

 

 草木の乏しい山の斜面に、雲が薄く流れ落ちていく。綱で連ねられた祈祷旗が強風に煽られて、独特の音を立てていた。チベットの奥地にある秘境。それがジャミールの地だった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。