今川義元の野望(仮)   作:二見健

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8.花倉の乱

 関口氏広は書き物をしながら物思いにふけっていた。

 

 氏広の役職は祐筆である。

 その役目は主君に代わり文書を作成することだった。

 

 家臣の招集状や、幕府への親書、当主交代を宣言するための黒印状など、様々な書類を扱っている。祐筆が作成した文書に、義元が花押(サイン)をすることで、初めて法的実行力を持つという仕組みである。

 

 氏広の仕事はそれだけではない。

 前線に兵糧を運び入れるための輸送計画を文書に起こしたり、金貸しから銭をかき集めるための借用証書を発行するなど、兵糧奉行や勘定奉行のような仕事まで押し付けられていた。今川家が代替わりしたばかりの現在、信頼できる官僚が少なかったからだった。

 

 はっきり言って激務である。睡眠不足はお肌に悪い。泣きそうだ。

 

「あ、そこ違うっスよ。花沢城番は朝比奈の姉御っス」

 

「……あ、本当だ」

 

 氏広は現代人にとっては暗号じみた文字『今度召出岡部美濃守花沢在城之儀申付之条』というものを指でなぞり、間違いに気付いて溜息を吐いてしまう。

 

 らしくない失敗だった。やはり疲れているのだろう。

 

 間違いを指摘した三浦氏満はドヤ顔をしている。

 役職すら与えられていない、強いて言うなら雑用係でしかないのに生意気な態度だった。

 

「ふっふーん、流石は俺っち。これが未来の今川宰相の実力っスよ。フッ、我ながらおのれ自身の才能が恐ろしいっス」

 

「すいません。三浦のお兄さんを呼んできてくれませんか?」

 

「調子に乗ってすいませんでした! それだけは何とぞご容赦を!」

 

「……うわー」

 

 うざかったので三浦正勝に引き取って貰おうと思っていると、氏満が神速の土下座を披露していた。どれだけ兄に怯えているのだ、この弟は。

 

「にしても真面目な氏広さんがボーッとしているなんて珍しいっスね。考え事っスか?」

 

「ええ、まぁ。と言うか名前で呼ばないでください気持ち悪い」

 

 氏広は筆を置き、凝っていた身体をほぐすために背伸びをする。

 

 それほど大きくはないが胸を強調する姿勢になり、氏満が鼻の下を伸ばしていた。童貞には刺激が強かったのだろう。

 気付いた時には文鎮を放り投げていた。

 

「ひぃぃぃ! いきなり何するんスか!?」

 

「あ、すいません。手が滑りました」

 

 せめてもう少しマシな言い訳を……と氏満が愚痴をこぼしているが、それはともかく。

 

「まさか主君の姉君に弓を引くことになろうとは。うつけ姫とその世話役でしかなかった私たちが飛躍したものです」

 

 思えば遠くまで来たものだ。今の状況は半年前には考えもしなかったものだった。

 

「俺っちも信じられないっスよ。まだお家騒動の最中だから、こういう言い方をすると皮算用になるんスけど、あの姫さまが今川の屋形になったんスよね。何の冗談っスか、これは」

 

「無職は勝って当然だと思っているようですが」

 

「そりゃ勝つでしょ。天地人いずれも福島にはないんスから。あと無職言うな」

 

 時間、地の利、人材、いずれも福島に味方をしていない。

 

「気を付けておくべきなのは売国ぐらいっスよ。土地や利権を餌にして他国軍を呼び込まれれば厄介なことになるんじゃないスかね。北条とか三河の豪族とかが敵に付けば、天秤はわずかながらに向こうに傾くっスから」

 

「いいえ、その心配はいりませんよ」

 

「ですよねー。あの鬼畜坊主が手を打っていないわけがない」

 

 真っ当な意見だったが、氏満の発言だと思うとどうにも納得できなかった。

 誰かの受け売りではないのか、何か変なものでも食ったのかと怪訝な目を向けてしまう。

 

「無職のくせに生意気な……」

 

「だから無職じゃねぇっスよ!」

 

 氏満が唾を飛ばしながら食ってかかってきたので、氏広は今度こそ三浦兄を呼び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 東海道には幾つかの難所がある。その一つが大井川だった。

 

 雨で増水しただけで渡れなくなる、川幅の広い激流である。橋をかけても流されてしまうため、物資の輸送は主に小舟を使って行われていた。

 

 福島正成が最前線に兵糧を運び込む際には、大井川か海路の二つしかない。だが海路は義元側の海賊衆が掌握しており、福島正成には海戦での勝ち目はなかった。

 

 海路はない。ゆえに福島正成の輸送部隊は必ず大井川を通る。

 

「……高天神城の兵糧を焼くよりは危険は少ないのでございますですが」

 

 楯岡道順は渡河の支度をしている敵軍を眺めていた。

 

 高天神城から出発した小荷駄隊を追跡し、味方にその場所を伝えるのが今回の道順の仕事である。前回と比べれば生温いにもほどがあった。今のところ道順配下の伊賀衆は一人も死んでいないのだから。

 

 雪斎の優しさ――ではない。それだけは絶対にない。

 

 敵城に忍び込んで兵糧を焼くよりも、こちらの方が成功率が高かった。それだけのことだった。

 

「楯岡殿と言ったか。お役目ご苦労。あとは我らに任せよ」

 

「はい。それではお願いします」

 

 義元側に付いている孕石元泰や由比正信などの駿河先方衆が対岸に伏せていた。

 

 道順が忍であることは彼らには伏せられていた。興国寺城で所領を得ている武士、楯岡家という肩書きがなければ、彼らは口を聞くことすら許していなかっただろう。下賎な忍には従えないと言われ、命令を無視されることも有り得た。

 

「それにしても隙だらけだな。男を知らぬ乙女がごとき無防備さだ」

 

「どうやら罠もないようだ。楽な仕事だな」

 

「渡河を済ませて、敵が疲れ切ったところを叩くとするか」

 

 甲州兵には及ばないが、戦国乱世によって鍛え上げられた戦闘民族である。敵の小荷駄隊はさしずめ血に飢えた獣に目を付けられた草食獣だった。

 

 これで福島正成は兵糧が不足し、決戦までの時間に制限をかけられた。

 戦場を誘導され、時間を制限され、兵力を削り取られ、虫の足を一本ずつ千切るように、ありとあらゆる主導権が福島正成の手からこぼれ落ちていく。

 

「頭領。街道を走る早馬を狩ったところ、このようなものが」

 

「密書でございますですか」

 

 道順の配下である楯岡家の郎党が、血に濡れた巻物を差し出していた。受け取って中身を確認すると、乾いた血が粉になってこぼれ落ちる。

 

 それは福島正成が出した、援軍要請だった。

 流石に宛名は書かれていないが、すでに遠江は敵味方にわかれている。遠江朝比奈家、飯尾家などは義元側に。堀越家、井伊家などは福島側である。膠着した戦線から兵を引き抜けば、福島が破滅するのは自明の理。

 

 ――ならば。

 

「三河ですか。奥平か吉良への書状でございますですね」

 

 福島正成の最終手段――売国である。

 

 別働隊を撃破されただけの福島正成が、何時の間にか絶体絶命の窮地に陥っていた。形振りを構わないほど追い詰められている。

 

 頃合いだった。決戦の時は近い。

 雪斎ならそのことはすでに理解しているだろうが、この情報は耳に入れておくべきだろう。

 

「この書状はご主人さまの所へ……いえ、私が手ずから渡すと致しますですよ。あなたは小荷駄隊の壊滅を見届けた後、郎党五人を率いて三河との国境を張るように」

 

「承知」

 

 道順は配下に命令すると、地を蹴って走り出した。

 

 気付けば道順は笑っていた。かつてない充実した日々だった。

 雪斎は忍の使い方を知っている。

 情報収集や破壊工作を蔑むことはなく、過分な報酬を与えてくれる。

 

 優しさはなく必要があれば死ねと命じる男だが、あれはあれで良き主だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 花沢城は駿河湾付近の街道を見張るために建てられた城だった。

 

 城主は関口氏広の義父である関口氏録だったが、この人物は槍働きには向いていなかった。関口家は事務官僚や外交官の家柄である。

 そのため朝比奈泰朝が暫定的に城番として赴任していた。

 

 最前線である。

 

 片上城との距離は二十町(二キロメートル)。二つの城は街道を挟んで睨み合っていた。

 

「なぜ片上城を捨てた?」

 

 朝比奈泰朝は思案していた。

 

 疑問だった。片上城と花沢城は連携して防御できる位置関係にある。

 何よりも片上城は高草山を押えるための拠点である。みすみす敵に渡して高所を捨てる利点が思い浮かばない。

 

 軍師殿のことだから、これも策の一つなのだろうが、果たして信じていいものか。

 まさかとは思うが泰朝の父、泰能のように囮にされているのではあるまいか。

 

 そこまで考え、泰朝は首を横に振った。

 

 泰能には死ねと命じた。だが泰朝はまだ命じられていない。

 

 それに、たとえ囮にされていたとしても、むしろ本望である。

 父子ともに今川の礎として散れば、朝比奈の武名は不朽のものになるだろう。

 

 泰朝が密かに決意を新たにしていると、関口氏録が現われた。

 

「大殿が到着されたようだ。出迎えねばならん」

 

「アタシも参ろう」

 

 関口家の実質的な当主である男が、義元のことを大殿と呼んでいる。

 あのうつけ姫と呼ばれていた義元が、一門衆から大殿と呼ばれる日が来るとは世の中とはわからないものだ。

 

 外に出ると、駄馬がいた。

 ……まだ乗馬が上達していないようだ。

 

「あらあら、泰朝さんではありませんか。わざわざわたくしを出迎えに参るとは、その殊勝な態度、まことに大義ですわ。おーっほっほっほ!」

 

 呆れ顔になる泰朝に気付かず、今川義元は機嫌よさそうに笑っていた。

 

 義元の背後に、僧服の上に甲冑を帯びた男がいる。黒衣の軍師、太原雪斎である。

 

「お待ちしておりました、軍師殿」

 

「……お主もそう呼ぶのか」

 

「はい。それが何か?」

 

「軍師のつもりはないのだが、誰もがそう呼んでくる。不思議なものだが、まぁよかろう」

 

 雪斎は肩をすくめていた。泰朝も苦笑する。

 

 義元の家老である。本来ならご家老と呼ぶのが正しいのだろうが、泰朝にとってはこの男は軍師以外の何者でもなかった。

 

「到着したばかりで申し訳ありませんが、片上城のことをお伺いしたいのです」

 

「お主の疑念は尤もである。私も説明の労苦を厭うつもりはない」

 

「あ、あの、わたくしの話も聞いて頂きたいのですけれど……」

 

「義元様万歳。では参りましょう、軍師殿」

 

 泰朝のあんまりな態度に義元が落ち込んでいたが、義元に含みがあるわけではない。

 目と鼻の先に敵城があるのだ。見張りこそ行っているが、一瞬でも油断をすれば奇襲をかけられる状況だった。

 義元への挨拶よりも先に、雪斎からの説明が最優先されていただけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 片上城の戦いでの敗北によって、福島正成の戦略は大きく狂っていた。

 

 片上城に置いていた二千の兵は壊滅。千人が討ち取られ、生き残った千人は花倉城に逃げ込んでいたが、お陰で福島方の兵士たちは士気を落としている。おまけに想定以上の兵が花倉城に入ってしまったため、兵糧の備蓄は減る一方だった。

 

 しかしそれも領地からの補給が届いていれば問題ないはずだった。

 

 三回に分けて送り出した小荷駄隊の全滅。

 渡河を終えたところを襲撃され、輜重兵たちは大井川に突き落とされて溺死していた。

 

「北条からの援軍はまだか!? 三河からは!?」

 

 評定の間に甲高い声が響き渡る。

 

 堀越貞基が狼狽えていた。

 遠江今川家の後継者を自負している初老の男だ。名門意識のため話し合いではいくらでも強気になれるが、戦場に出れば途端に役立たずになっていた。

 

「河東をやれば北条はこちらに付くのだろう!? 三河の田舎者どもは、安倍金山の小判で懐柔できるはずだろう!?」

 

「早馬が戻って来ないのだ。狩られたと見るべきだろう」

 

 癇癪を起こしたかのように叫んでいる貞基に、井伊直宗が冷たく答えた。

 感情の色のない声だ。可能なら今すぐにでも福島正成を見限りたいのだろうが、時すでに遅し。この状況で義元側に降ったとて、一族もろとも皆殺しにされるだけである。

 

 福島正成は思った。直宗はわかっておると。

 

 戦うしかない。

 たとえ敗北したとしても、井伊家の強さを敵に見せ付ければ家名を残せるかもしれないと考えているのだ。

 信用してもいいだろう。正成にとっても信用するしかない状況だ。

 

「出るか」

 

 正成は言う。

 もはや決戦で勝利する他に活路はない。

 

 幸いと言うべきか、どういうわけか敵は片上城を放棄している。

 あの坊主がとうとう馬脚を現したのか、これも策の一つなのか。……やはり罠なのだろう。

 

 それでも今となっては、高草山の高さを生かして花沢城を押し潰す以外に策はなかった。

 

「同数の兵力で武田を破った軍略家か。強敵と相対するは武士の誉れという。此度は名を上げる好機に恵まれたことを言祝ぐとしよう」

 

「直宗殿、何処へ?」

 

「一族を集めて酒宴を行う。末期の酒だ。邪魔をしてくれるなよ、福島殿」

 

 井伊直宗が去っていく。正成はその背に声をかけることができなかった。

 

「なんですか、あれは。戦う前から辛気くさいことを言うのが武将のお仕事なんですの?」

 

 長い黒髪の少女が、苛立たしげな顔をして扇子を握り締めている。

 井伊直宗の悲壮なる覚悟も、戦場を知らない小娘には理解できないようだ。

 

「明日の夜明けに、わしらは出撃する。今川義元の首さえ上げれば我らの勝利よ」

 

「流石はお祖父さま。その意気や良しですわ。さぁ、共にあのうつけ姫を討ちましょう!」

 

「お主は花倉城を出るな」

 

「……お祖父さま?」

 

 福島正成は孫娘の前でかがみ込んだ。

 愚かな娘だった。御輿としてしか使えない娘だった。それでも孫である。

 

「我らが敗北すれば、お主はすぐさま花倉寺に入って剃髪せよ。お主は義元の姉じゃ。出家して尼になれば殺されることはあるまい」

 

「何を言うのですか、お祖父さま! わらわも戦いますわ! 侮らないで下さいませ!」

 

「ならぬ。弓も引けず、馬にも乗れぬお主に何ができよう。大人しくしておれ」

 

「――っ、ですが!」

 

「愚か者が!」

 

 正成は右手を振り上げた。

 ひっ、と小さな悲鳴を上げる孫娘に、その手を振り下ろして頭を撫でた。

 

「いや、愚かなのはわしの方か。恨むならわしを恨め」

 

 何を思ってこう言ったのか、正成にはよくわからなかった。

 

 老人は孫娘の頬に触れると、おもむろに立ち上がった。それから振り返りもせずに部屋から出て行った。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 師走の末頃。

 

 福島正成が高草山を制圧。

 福島弥四郎、堀越貞基、井伊直宗、近藤康用、菅沼忠久、安西三郎兵衛など、総勢四千を引き連れて着陣する。

 

 長かった。

 ようやくここまで辿り着いたと言うのが俺の感想だった。

 

 半月に渡って、あらゆる謀略によって福島正成の手足をもぎ取り、高草山まで誘引したのである。

 

「福島ごときに贅沢すぎる策だな。数の差で押し潰せばよかろうに」

 

 朝比奈泰朝は笑っていたが、俺には笑えなかった。

 勝負は水物。必勝を期してなお敗北することもある。

 

 決戦場は焼津(やいづ)である。

 

 地名の由来は日本武尊(やまとたけるのみこと)が賊に襲われた際、草薙剣で草木をなぎ払い、火を放ったという伝承に基づいている。

 

「師匠。いよいよ始まるのですわね」

 

「ああ。打てる手はすべて打った。あとは神頼みだな」

 

「……あ、神頼み! 戦勝祈願をするのを忘れていましたわ! どどどどうしましょう!?」

 

 寺社で祈祷をしたわけではないが、打ち鮑、勝ち栗、昆布を食ったのだから、それでいいだろうと思ってしまう。

 

 武士が出陣前に食するこれらには「討つ、勝つ、喜ぶ」の意味が込められていた。鮑と昆布は消化に悪く、出陣前に食すと腹の調子を崩すかもしれないのだが、それでも験を担ぐのが武士である。

 

「ならば念仏でも読んでやろうか。毘沙門天の加護を得られるかもしれんぞ」

 

「……師匠に読経されるとお葬式みたいになりそうですから遠慮させて貰いますわ」

 

 あまりにも失礼な物言いだった。それではまるで俺が死神のようではないか。

 義元の額にデコピンを放って「あうっ」と鳴かせてから周囲を見回してみると、近習たちまであからさまに目を逸らていた。

 

 やはり死神に見えるのか。建仁寺で徳を積んだ坊主なのに、どうしてこうなった。

 

 俺たちは現在、花沢城にいた。

 流石に城内で寛いでいると言うことはなく、具足を着込んで屋外に出ているが、安全地帯に引きこもっていると言われれば否定はできない。

 

 だが、大将が前線に出るというリスクはあまりにも重い。

 義元の祖父、今川義忠は流れ矢に当たって死んだ。結果が氏親の代に起こったお家騒動だ。

 

 安全地帯から指示を出して、すべての責任を取る。これが大将の役割である。

 采配を振り、伝令を走らせる。これだけだ。

 

「あっ、あああ、あの、師匠!」

 

 両軍の緊張が高まり始めていた。

 

 花沢山から見下ろすと、義元軍は弓の弦を引き絞っているのに対し、福島軍は槍を構えて突撃を狙っている。相手側は古式ゆかしい舌戦や矢合わせはするつもりはないらしい。乾坤一擲という気迫がにじみ出ている。

 

「師匠! もし負けたら、わたくしたちはどうなるんですの!?」

 

「北条にでも亡命するか……と言うとでも思ったのか?」

 

「あううぅぅ! 弱気な発言をしてすいませんでしたー!」

 

 義元の頭をつかんでぐりぐりしていた俺は、彼女の身体がまったく震えていないことに気付いてしまった。

 悪ふざけ……いや、構って貰いたがっていたのだろう。

 勝てば姉が死に、負ければ己が死ぬ。素面ではやっていられないという気持ちはわかる。

 

 俺は軍配を握り締めた。

 

 今川義元を戦国大名に押し上げるための戦いが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 先に動き出したのは福島側の軍勢だった。

 

「者ども! 今こそ決戦の時ぞ! われに続けぇー!」

 

 左翼を先頭に、自軍を巻き込むように引き連れて突撃を開始する。

 弧を描きながら突き進むような動きである。

 

 平凡な横並びの陣形が、突撃によって偃月(えんげつ)の陣に変化する。

 その陣形の別名は背水の陣。後には引けない戦いで用いられる、超攻撃的陣形だった。

 

 目標は敵右翼、そちらに目がけて鏑矢が放たれる。矢に開けられた空気穴から鋭い音が鳴り、義元軍の上空に音響が生じた。

 

「東が手薄ぞ! まずはやつらを敗走させる!」

 

 先頭の部隊を率いるのは福島正成。

 総大将自ら最前線に立ち、福島家の精兵を義元軍の東端に叩き付ける。

 

「父上! 一番槍はそれがしにお任せを!」

 

「敵は戦巧者の岡部美濃だ。ゆめゆめ油断するでないぞ!」

 

「はっ! ご配慮ありがたく!」

 

 福島正成の長男、福島弥四郎が大薙刀を頭上で振り回す。

 

 敵の弓足軽がすかさず応射を行うが、勢いは福島側にあった。数本の矢を放ったところで、弓足軽が下がり、入れ替わりに槍足軽が前に出る。

 

 弥四郎はひるまずに馬を突っ込ませ、大薙刀を一振りした。

 

 鮮血が飛び散り、絶叫が上がる。幾つもの首が空を飛んだ。

 

「天晴れ! 流石はわしの息子じゃあ!」

 

 普段は不仲な親子でも、戦場に出れば諍いを忘れるらしい。

 親子二人は血に酔って楽しげに笑っていた。

 

 優勢だった。

 高所から駆け下りた勢いと、そして福島隊の士気の高さがあればこそだ。

 

 ひと当てで岡部隊を崩壊させ、二町も後退させていた。このまま岡部隊を敗走させてしまえば、彼我の形勢は完全に逆転する。

 

「父上! やつらは仕切り直しを目論んでいるようです!」

 

「うむ。阻止せねばならんな。頼めるか、弥四郎」

 

「ご心配なく。これでも今川最強の後継者ですぞ」

 

「そうだったな」

 

 正成は喜んだ。息子は強い。福島の将来は安泰である。

 

 

 

 ――破裂音がした。

 

 

 

 福島弥四郎の身体が、馬からドサリと落ちていく。

 

「……ちぃっ! 種子島か!?」

 

 敵が潮が引くように後退していく。

 敗走した味方を立て直すための時間稼ぎに鉄砲を使ったのだ。

 

 周囲に散っていた岡部兵が再び一つに集まっている。足軽は知っているのだ。バラバラに逃げるよりも、一つにまとまった方が生き残る可能性が高いと言うことを。

 

 何時までも岡部久綱一人に関わっていられるわけではない。

 時間が経てば岡部隊を支えるために援軍がやって来るだろうし、横槍を入れられる危険も高まる。

 

 ……いや、むしろ、なぜまだ敵が来ないのか。

 

 予想以上に手応えがなさすぎる。敵は岡部久綱だ。片上城の戦いの立役者である。

 

「福島殿! 背後を御覧あれ!」

 

 井伊直宗の叫び声がして、正成は振り返った。

 

 敵軍左翼、朝比奈隊が片上城に攻め込んでいる。

 

「……やりおったな」

 

 正成は憎々しげに呟いた。

 仕掛けられてようやく、こんな策があったのかと驚かされてしまった。

 

 元々の数は義元軍の方が多い上に、背後を守っているのは堀越貞基だ。やつの無能を埋めるために武将を付けているが、焼け石に水でしかなかった。

 

 ――岡部は囮だ。

 

 わざと右翼を手薄にして敵の目を引き、高草山が手薄になったところでそれを強奪する。それから本隊、朝比奈隊、岡部隊で包囲殲滅するつもりなのだろう。

 

 読まれていたのだ。

 

 一世一代の攻撃だった。福島正成の人生において、これ以上ないほどの突撃だった。

 

 それがすべて敵の手の平の上だったのだ。

 

「このままでは敵軍に包囲されるが如何に!?」

「無論、突撃する!」

 

 正成は言った。もはや岡部を倒すしか道はない。

 超然とこちらを見下ろしている軍師の手の平から逃れるには、やつの想定以上の武勇をしぼり出さなければならない。

 

 配下が大薙刀を差し出した。息子の形見だった。

 

 正成はそれを握り締め、その重さに顔をしかめた。老骨には重すぎる得物だった。つくづく惜しい息子を亡くしたものだった。

 

 正成は突撃する。

 周囲の兵士たちが、主を討たせぬと身を盾にするように後に続いた。

 

「近藤康用さま、菅沼忠久さま、お討ち死に!」

 

「堀越左京が敗走しております!」

 

「高草山から矢の雨が降り注いでおります! お味方の被害は甚大!」

 

 目眩がするような報告ばかりが入ってくる。

 

「――負けた、か」

 

 正成たちの突撃に合わせて、岡部隊の先頭にいた足軽が縄を引き上げた。地面に倒されていた逆茂木が持ち上がり、槍衾と合わせて二段構えの防御ができあがる。これすらもあらかじめ備えていたのだろう。

 つまり最初の敗走も想定の範囲内だったと言うことだ。

 

 それでも越えなければならない。二段構えを越えて、岡部を討たなければならない。

 

 だと言うのに、ぞろぞろと鉄砲部隊が前に出て来る。黒い穴が福島隊を見詰めている。

 

「無粋なやつめ。やはり坊主か。戦の作法と言うものがわからぬらしい」

 

 胸に衝撃が走り抜けた。

 バタバタと倒れる味方に脇目も降らず、吐血しながら、それでも怯まずに突き進んだ。

 

 逆茂木に激突し、愛馬が絶命する。

 落馬し、槍を身体に浴びながら、それでも前に進んだ。

 

 敵の足軽たちは正成の壮絶な姿に萎縮し、取り囲んで槍の穂先を向けているだけだった。

 

「これなるは大将級ぞ。誰か、わが首を欲する者はおらんのか」

 

「もはやこれまででありましょう。すぐに場を設けますので、一句詠んでから腹を召されますよう」

 

「……ふん。岡部の小娘か」

 

 足軽たちをかき分けて現われたのは、十二歳ばかりの小娘だった。

 

 強い。相対した瞬間に理解させられる。全盛期の正成でも勝てないだろう。

 

 それがわかった瞬間、正成の腰から力が抜けた。

 

「長くは持たぬ。一句詠んでいる間などないわ。福島上総介正成の最後を目に焼き付けよ」

 

 正成は兜と甲冑を捨て、諸肌を脱ぐと、小太刀を抜いて腹に押し当てた。ゆっくりと小太刀を動かして腹を割いていく。

 脂汗が滝のように流れ、目が血走った。

 

「――ふ、ぬっ!」

 

「お見事にございまする」

 

 福島正成が腹を十文字に切った直後、岡部五子元信が背後に回って太刀を振り下ろした。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 勝ち鬨が上がる。

 

 三方から包囲された福島勢は抵抗もむなしく壊滅。

 

 井伊直宗は降伏、自害することで一族の助命を求めていた。直宗は義元の前で切腹。その場で井伊直盛への家督相続が許されているが、所領の一部は没収となった。

 

「師匠。本当に、姉上を殺めなければならないんですの?」

 

 俺たちは降伏した井伊直盛を先陣にして花倉城を包囲していた。

 

 すでに福島正成の首を敵城に送り届けている。今頃は大将の死に動揺して、篭城するどころではないはずだ。

 

 花倉城には三百ばかりの小勢しか残っていない。対する義元側は六千の大軍である。

 

「ねぇ、師匠! 聞いていますの!?」

 

「……ああ、そうだ」

 

 今川義元は姉を殺すことで完成する。血の洗礼によってより強くなるのだと、そう思っていた。

 

 そう思っていたのだ。

 

 だが、いざその時が来ると迷ってしまう己がいた。われながら情けない。大量の敵兵を虐殺しておきながら、少女一人に甘さを見せてしまうのだから。

 

 結局のところ、義元に殺れと言えないのだ。

 

「敵側から使者が参りました。今川良真(玄広恵探)の身柄を差し出すゆえ、城兵の助命を許されたしとのことです」

 

 使番の報告に俺は頷いた。

 

 義元の顔が青ざめていた。

 攻城戦が発生しなかったのだ。カウントダウンが早まったのである。

 

 今川良真は『味方』に引きずられて現われた。

 

「ちょっと、あなたたち! 高貴なる今川の姫であるわらわに許可なく触れるとは、一体何様のつもりですの! 打ち首にされたいようですわね!?」

 

「……姉上」

 

「あら、菊ではありませんか。どうしてここに――ああ、お祖父さまに敗北して捕われたのですわね! おーっほっほっほ! 無様に這いつくばって許しを請うなら、出家するだけで許して差し上げてもよろしくてよ?」

 

 完全に空気が読めていない、哀れな娘だった。

 義元と似た雰囲気の少女だ。一歩間違えれば義元もこうなっていたのだと思うと、胸が痛まずにはいられなかった。

 

「……義元を下がらせよ」

 

「うむ」

 

 岡部久綱が頷いた。貞綱が顔を背け、元信が義元の手を引いた。

 

 朝比奈泰朝が良真の身体を押さえ付ける。

 

「なっ、なんですの? これから菊を切腹させるんでしょう? ねぇ、あなたたち?」

 

「御免」

 

「ひっ! なっ、なにを!? わらわに何をするのです!?」

 

 今川良真は歯をガチガチと鳴らしていた。

 

 暴れているため、首は落とせそうになかった。だから刀で少女の胸を突いた。

 

「わらわは今川の……姫である……ぞ……」

 

 すまないと心の中で謝るが、それを言葉にする資格は俺にはなかった。せめてもの償いとして首は落とさずそのまま荼毘に付してやろうと思った。

 

「あっ、ちょ、姫!」

 

「師匠! これは、何なのですか!」

 

 義元が元信の手を振り解いていた。逃がすなよと咎める目を向けると、元信は口笛を吹いて誤魔化そうとする。

 

「そのような気遣い、わたくしには無用ですわ! わたくしは今川義元! 駿河と遠江の二カ国を有する戦国大名ですわよ!」

 

「ああ、そうだな。だが……」

 

 今川義元が泣いていた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。

 

「そなたを、泣かせたくなかったのだ……」

 

「な、泣いてなどおりませんわ。わたくしはただ、師匠がわたくしに黙って手を汚していくのが悲しくて……うぅ……ずびび……」

 

 俺の法衣で鼻をかまれる。最悪だった。

 

「……わたくしの見ていないところで、師匠に傷付いて欲しくはありません。鬼のような行動ばかりしていたら、いずれ心の底まで鬼と化してしまいますわ」

 

「善処しよう」

 

「善処とは何ですか! ここは男らしく確約するべき場面ですわよね!?」

 

 すでに楯岡道順に逃走中の堀越貞基を暗殺せよと命令しており、ぶっちゃけ手遅れである。

 要はバレなければいいのだ、バレなければ。

 

「ともあれこれで、お主が今川の屋形だ。大殿と呼ぶべきか?」

 

「今まで通りで結構ですわ。今までも、そしてこれからも、あなたがわたくしの師匠であり、今川の軍師であることは変わりないのですから」

 

 義元は不機嫌そうに言い放つと、最後に俺の法衣で顔を拭いてから姉の遺体に歩み寄った。息絶えた少女に何を思ったのか。

 

 まだ後始末が残っているが『花倉の乱』はこれにて幕引きだ。

 だが戦乱はこれからも続いていく。今はまだスタートラインに立っただけである。

 

 これから武田、北条、松平、そして織田とやり合うことになるのだ。

 

 それでも今だけは戦国大名、今川義元の誕生を祝福することにしよう。

 

 

 


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