今川義元の野望(仮)   作:二見健

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7.大義

 空が朝焼けに染まっていた。紫や橙が混じった色合いの空である。

 師走も半ばに入り、朝は身を切るように寒かった。今川館の門前に詰め寄った兵士たちは、かじかんだ手に白くなった息を吹きかけている。

 

「寿桂尼が意地になっているのやもしれんな。まぁ、やつとてわかっておるだろう。城主不在の城など、半日も守り切れるものではない。ここで死ねばやつは犬死によ。寿桂尼は城に固執する愚は犯さぬ」

 

 あえて周囲の者に聞こえるよう独白するのは福島正成である。

 泰然と構えることで士気の低下を防ぐ、熟練の人心掌握術だった。初陣から五十年も経てば、これぐらいのことはできて当然。そうでもなければ生き残っていないと言うように、その老体は自信に溢れていた。

 

「最悪、寿桂尼の首を落としてしまってもいい。血を見せれば刃向かう気概のある諸侯も恐れおののいて我らに従うだろう。穏便に尼寺に押し込めたいところではあるがな」

 

 二百の兵はすべて武者である。足軽の招集を待っている時間がなかったからだ。

 兵数よりも速度が大事だったからで、今でもそれは間違いではなかったと正成は確信している。

 

 あとは玄広恵探を還俗させて今川家を相続させてしまえば、刃向かう者はすべて逆賊である。諸侯の力を使って、一気に駿河を掌握することができるだろう。

 

 福島正成は勝利を確信していた。

 老人の誤算はたった一つ。今川義元の影にひそむ者が見えていなかったことだけである。

 

「福島正成に告ぐ。直ちに駿府から立ち去るべし」

 

 甲高い声がしていた。

 先代の馬廻衆、岡部貞綱だ。まだ声変わりしていない少年の声だった。

 

 福島正成が言い返す。

 

「我らは氏輝様の訃報を聞き及ぶに至り、城内にひそむ狼藉者を取り押さえる手伝いに参った次第。それを立ち去れと命じるならば、狼藉者はすでに捕えたのだな?」

 

「……いや、それは」

 

「捕えておらぬと? お主らは何をしているのだ。時が経てば、真実はさらに闇にもぐるのみぞ。失礼だがお主らの有り様は真相を隠そうとしているようにしか見えぬ。あるいは本当にお主らがやったのか?」

 

「言いがかりは止されよ! 何の証拠があって言っている!?」

 

「だから、我らはそれを調べに参ったのだ」

 

 福島正成の強弁に、岡部貞綱は押されていた。

 六十半ばの老人と十歳の少年だ。貞綱には将来性はあっても、現時点では役者が違いすぎた。

 

「上意である」

 

 ゆらりと現われたのは、黒衣の男だった。

 

 ――太原崇孚雪斎。

 

 今川義元の教育を任されていた坊主だった。今は義元付きの家老で、興国寺城で政務を行っているはずだ。

 

 それが、どうしてここにいるのか。福島正成は混乱しながら聞き返した。

 

「上意とは……何ぞや」

 

「福島正成は居城で蟄居するべし。これは駿河今川家当主、義元の命である」

 

「なっ! 当主、義元だと!?」

 

「福島正成。城中一同が喪に服する中、お主は手勢を率いて城に乗り込もうとし、霊前を騒がせるという悪徳を為している。ただちに引き下がるならば良し、大事ゆえの混乱として多少は目をつむることにしよう。重ねて申し渡す。疾く立ち去るべし」

 

「今川義元が当主だと? これは何の冗談だ。寿桂尼の策略か。義元と言えば蹴鞠以外に取り柄はなく、諸国にもうつけと知れ渡っており、氏輝様に逆らったという前科もある。おまけに次女ではないか! 長女を差し置いて当主に座るとは、人の道にもとる行いぞ!」

 

 それは舌戦だった。

 太原雪斎は何の権限も持たないただの坊主。陪臣ごときが直臣たる正成に指図するのは礼を失する行いである。

 

 故に正成はおのれの勝利を疑っていなかった。正論を主張するにも力が必要なのだ。そしてこの坊主にはその力がない。

 

 ところが坊主は老人に冷ややかな視線を送っていた。

 それは侮蔑だった。人に向ける視線ですらない。害獣へ向けるものと同じだった。

 

「今川義元に三つの義あり」

 

 黒衣の坊主が三本の指を突き出した。

 

「一つ。義元は確かに年少だが、正室である寿桂尼の娘。今川家の相続権は義元の方が上位にあり、さらに前権大納言、中御門宣胤を祖父に持つ。長女の玄広恵探よりもはるかに高貴な血筋である」

 

 太原雪斎は主張する。その一つは正統性。

 正成はたじろいだ。思わずその指先に見えない力が宿っているように錯覚してしまう。

 

「二つ。義元の当主襲名は寿桂尼および宿老、三浦範高も認めたる事。岡部、朝比奈もこれを追認し、今や譜代衆の大半が義元の家督相続を支持している」

 

 正成は歯噛みした。

 こやつらは義元を傀儡にして今川家を私物化しようとしているのだ。

 老人は自分のことを棚上げにして黒衣の坊主を罵ろうと口を開き――。

 

「三つ。義元の名は足利将軍、義晴公の偏諱。すなわち公儀の認可を得たということである」

 

「なんだとぉぉぉぉ!?」

 

 正成は目を見開き、割れ鐘を突くような大声で叫んだ。

 

 義元の『義』の字が、将軍から賜った物だと言い張っているのだ。つまり幕府は今川義元の家督相続を望んでいると言うこと。

 

 何時の間に、どうせ法螺だろうと思うものの、心中には一抹の不安があった。

 これに逆らえば今川の逆賊だけではなく、天下の将軍に刃向かったという事実が残ってしまう。下手をすれば末代まで一族に汚名を引きずらせることになるのだ。

 

 だが、今さらだった。

 現在の幕府は自前の軍事力を持たない、権威だけの無力な存在だ。元より地方のお家騒動に介入する力もなく、その気もないだろう。

 たとえ正成が逆賊に認定されたとしても、今川家を取ってしまえば何の問題もない。金銀小判を見せ付けてやれば、京にいる雀どもは鳴き方を変えてみせるだろう。

 

「太原雪斎! お主らは虚言を弄して偽りの正統性を掲げ、長幼の列を乱し、駿府城を横領しながら、今川家をおのれの欲しいままにせんとしている! これは一つだけでも大逆である! 恥を知るならば貴様らの方こそ、ただちに居城に戻り蟄居すべし!」

 

 福島正成は雪斎の弁舌で怯んでいる兵たちを叱咤するため、腹の底から声を上げた。

 

「これ以上の問答は無用! あの坊主を討ち取り、正しき今川家を取り戻さん!」

 

 激励を受けた兵士たちの意識が、戦闘用のものに切り替わる。彼らは抜刀したり槍を握り直して、じりじりと距離を詰め始めた。

 

 これで後には退けぬ。覚悟の上だった。

 

 今川家を取るのだ。流血は必然だった。

 血の洗礼があればこそ、今川家はより強く生まれ変わることだろう。

 

 太原雪斎は不遜の態度を崩さない。冷徹な目で迫り来る武者たちを睥睨すると、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 

「――っ! あれは!」

 

 福島兵の前進が止まる。

 

 城内から走り出てきた兵士たちが太原雪斎を追い越し、その前で種子島を構えていた。

 

 すでに火を付けた火縄を装着しており、火蓋は開けられている。あとは引き金を引けば火縄が火薬に落ちて爆発。鉄の玉が飛び出すようになっていた。

 

 正成は鉄砲を金持ちの道楽と侮っている人間だったが、それは大軍のぶつかり合いに限った話だ。正成は鉄砲の試射で鎧が射貫かれる場面を見たことがあり、費用を度外視すれば優秀な武器だと認めていた。

 

 鉄砲二十丁である。

 被害覚悟で突撃すれば、太原雪斎を討ち取れるかもしれない。だが、福島正成には突撃命令を下すことはできなかった。

 

 足軽ならばどれだけ死のうが一向に構わない。

 だが、ここにいるのは福島家の精鋭ばかりだ。足軽ではなく武者である。

 

 それに、鉄砲で十数人が討ち取られた後、太原雪斎に肉薄できたとして――まず間違いなく罠があるだろう。

 さもなければ、そこまで無防備に敵前に姿を現すことはないはずだ。

 

「おのれぇぇぇ! クソ坊主があぁぁぁ!」

 

 福島正成は地団駄を踏んだ。老人にはもう為す術はなく、もはや撤退するしか道はなかった。

 

 兵を集め、皆殺しにしてやる。

 今川義元とこのクソ坊主だけは、切腹も許さず河原で打ち首にしてやると、老人は瞳に憎悪の炎を燃やしながらわめき散らした。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 福島正成の私兵たちが整然と隊列を乱さずに撤退していた。

 銃口を向けられれば、死への恐怖からあえて突撃する阿呆が出て来るものだが、そう言った者は一人もいなかった。よく訓練された兵ばかりである。

 

「退いたか。あの御仁も愚物とはいえ知恵が回るのが厄介だな」

 

 そこら中からパチンと火蓋が閉じる音がしていた。

 

 俺の背後だけではない。城壁の矢狭間に配置していた銃兵が、さらに三十人。左右から狙い撃つという殺し間、いわゆる十字砲火である。

 今川宗家が新たに手に入れた二十五丁と、興国寺城での五丁。合計で五十丁の鉄砲がこの城にあったのだ。

 

 ここで福島正成の配下を討ち減らしておけば、後顧の憂いを減らせただろうに。まぁ、すべてが望み通りに行くことはない。

 

「心臓に悪いですよ、雪斎さま。福島殿はもはや形振り構っておらぬご様子。狂乱して我らに突撃することも有り得たでしょうに」

 

 岡部左京進貞綱が安堵の息を吐いていた。

 そんな少年の背後に現われ、ぽんぽんと彼の肩を叩きながら小悪魔な笑みを浮かべる少女が一人。鉄砲部隊を指揮していた岡部の脳筋少女である。

 

「にしし。去年まで寝小便してた忠兵衛だし、元最強に怯えるのもわかるけどね。五子もちょっとだけ怖かったし。で、実際どうなの漏らしたの? お姉ちゃんに相談してみなさい、誰にも言わないであげるから」

 

「雪斎さま。今川家はこれからどうなるのでしょうか……」

 

「二つに割れるだろう。義元派と恵探派に」

 

 無視である。うざい。

 

「と言うか福島正成って好色そうな顔してるよね。あれは女を何人も手込めにしてきた顔だよ。五子にも鼻の下を伸ばしてたっぽいし。あ、もしかして忠兵衛もあの爺さんの射程範囲かもしれないね。お姉ちゃん男色はあまり好きじゃないけど、これも武士の嗜み、忠兵衛がどうしてもって言うなら父上には黙っておいてあげるよ」

 

 ……無視である。

 

「どうしても血を流さなければならないのですか。我らが争っても、喜ぶのは武田だけです。あるいは北条すらも手を叩いて喜んでいるかもしれません」

 

「それでも必要なのだ。今川の膿は出し切らねばならぬ。不戦屈敵を論じている孫子も、命令に従わぬ王の愛妾を斬ったのだからな」

 

「あーあー、久しぶりに鉄砲をぶっ放したかったんだけどなぁ。五子は残念だよ。鉄砲の殺し間がどれほどの威力を発揮するのか、検証できるいい機会だったのに。あ、必殺技の決め台詞を思い付いちゃったぜ。あなたの心臓にずっきゅーん!」

 

「……雪斎さま」

 

 貞綱の顔色が悪くなっていた。ひどく青ざめている。

 脳筋にトラウマを植え付けられているような感じだ。姉を口舌で圧倒していた時と比べると、見違えるほど弱々しくなっていた。

 

「これ、悪化しています」

 

「……まさか」

 

 洒落にならなかった。岡部元信がうざったいのは何時ものことだったので気にも留めていなかったのだが、これが以前よりも酷くなっているとは。

 

「御免!」

 

「あっ、ちょ! 雪斎さま、ボクを見捨てないでください!」

 

 俺はやはり無視した。……そっとしておこう。

 後ろからすがり付いてきた貞綱をずるずると引きずりながら、俺は今川館の本丸御殿に入った。

 

「あ、師匠!」

 

 報告を待ちわびていのか、義元がぱっと笑顔を浮かべて駆け寄って来た。

 君主にしては軽率すぎる行動だったが、今は説教をしている場合ではない。

 

「野良犬退治はいかがでしたか?」

 

「首尾よく追い払ったが、次は群れをまとめて来るだろうな」

 

 大雑把に数えて、福島は五千の軍勢を集めてくるだろう。堀越などの今川家に反抗的な国人衆はここぞとばかりに福島に加勢するはずだ。

 

 対するこちらは八千も集まればいい方だった。ほぼ倍の数ではあるが決定力にはなっていない。

 

「でも師匠には策がお有りなんですわよね? 以前、武田を討ち破った時のように!」

 

「たわけ」

 

「あいたっ!」

 

 教育的指導を――していないのに義元が頭を押えていた。

 

 度重なる指導の恐怖が身体にすり込まれているようだ。叩かれると思って頭を押さえ、思わず声まで出してしまったらしい。義元が「ええっと、今のはその」と恥ずかしがっていて、ちょっとだけ可愛かった。

 

 ともあれ真面目な場である。俺は咳払いをして話を戻した。

 

「あれは泰能殿を犠牲にした上で成り立つ邪道の策略だ。福島ごときに武将の命を捧げるなど、猫に小判をくれてやるようなもの」

 

「本猫寺の方々なら喜びそうですけれどにゃぁ……いえ、何でもありませんわ」

 

 軽口を叩こうとした義元を睨んでから、俺は改めて今回の戦略を語った。

 

「氏輝様の死から福島正成の行動の早さを鑑みるに、やつらは事前に入念な計画を立てて行動していると見るべきだ。やつらの挙兵は素早く、対するこちら側は――」

 

「招集が遅れる、ですか?」

 

「いかにも。我らの味方は氏輝様が亡くなったことすら寝耳に水だろう」

 

 すでに敵より一手遅れている。

 兵法にある攻撃側の有位である。戦の主導権はやつらが握っている。

 

 ならば、まずは。

 

「戦の主導権を奪い返すところから始めるとしよう」

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 福島正成は高天神城に帰還すると、即座に挙兵。

 さらに周辺の領主たちが参入する。

 それは事前に謀議していたとしか思えないほどの動員速度であった。

 

 今やその軍勢は五千に膨らんでいる。

 堀越城、見付端城の城主である堀越貞基。井伊谷城の井伊直宗が加わったことが大きい。

 

 福島正成は義元派を抑えるために遠江に千の兵を置くと、残りを率いて駿河に入った。

 

 時間が経てば経つほど義元側が有利になるため、福島正成が即戦即決を望んだと言うのもあるが、それ以上に、駿河には正成の大義名分があったのだ。

 

 花倉の遍照光寺にいる玄広恵探である。

 

 腰を据えて遠江を攻略していれば、その隙に玄広恵探が義元側に暗殺される恐れがあった。

 そうなれば大義名分を失った正成に味方をする勢力はどこにもいなくなり、五千の兵はたちまち霧散するだろう。

 

「お祖父さま! お久しぶり――ではありませんわね。父上の葬儀以来ですから」

 

 今川義元の腹違いの姉、玄広恵探。

 今川氏親の娘であり、福島正成の孫でもある少女である。

 

 福島正成と玄広恵探は遍照光寺の本堂で対面していた。

 

 少女は出家してるはずなのに節制からはほど遠く、きらびやかな振り袖を身にまとっていた。大陸伝来の布地に金箔を散らし、京で織られた菫色の着物である。

 吊り目がちで、気の強そうな少女だった。

 顔付きは今川義元とはあまり似ていないのに、雰囲気は瓜二つである。今川宗家の自尊心が、似たもの同士の二人を作り上げているようだ。

 ただしその美しさや可愛らしさは義元より一枚劣っていた。母方の血、公家と豪族の差かと、福島正成は内心で溜息を吐いてしまう。

 

「聞きましたわよ。菊が今川の家督を狙っているそうですわね」

 

「左様。掟破りの鬼畜の所業である」

 

「許せませんわよねぇ? うつけの菊が当主になるなんて。今川の破滅が待っているだけですわ」

 

 福島正成は頷いた。

 愚物ではあるが御輿にするならこれぐらいでちょうど良い。玄広恵探も今川義元も、頭の出来では大差ないだろうと内心で嘲笑する。

 

 玄広恵探は還俗して今川良真を名乗り、花倉城を占拠した。

 

 方上城には福島側の福島彦太郎、斎藤四郎衛門、篠原刑部少輔らを入れて、今川義元の隙をうかがわせる矛にしながら、最前線を守る盾にする。

 

 合戦の序盤は塗り絵である。

 

 敵味方にわかれ、調略を駆使しながら小城を奪い合い、小競り合いを繰り返しながら主導権をたぐり寄せて、最終的に自軍に有利な決戦場を設定する。

 

 友軍の集結を待っていた今川義元は完全に後手に回っていた。

 

 現状は福島正成の一方的有位である。二つの城から今川館をうかがっており、現在の今川義元はあまりにも無防備。今川館は商業都市の駿府を支配するための平城であり、その防御力は脆弱だったのだ。

 

 今川義元は遠からず今川館を捨てて後退するか、あるいは城を枕にして討ち死にするだろうと思われていた。

 

 

 

『片上城。ここが福島方の急所である』

 

 

 

 岡部家の三人は黒衣の軍師、太原崇孚雪斎の言葉を思い返していた。

 

「まさか、やつらがまことに片上城に入るとは。鬼謀だな、あの軍師殿は」

 

「義元様の窮地に見えながら、しかし敵側も兵力を分散している。これはボクたちにとっても好機ですね」

 

 岡部久綱、貞綱の父子がそれぞれの所見を語っている。

 

 岡部元信は鳥肌が止まらない。たった一手で情勢が激変する、その瞬間を感じていた。

 

 ――片上城の背後には、志太郡が広がっている。

 

 岡部氏の本拠地である。

 敵がまんまと片上城に入ったところで、その背後で岡部一族が挙兵。さらに今川館から出撃した本隊と合わせての挟撃。理想的な各個撃破作戦だった。

 

 お師匠すげぇ。すげぇ、すげぇ。

 元信の心臓が高鳴っていた。戦いの前の緊張感と混ざって、自分でも止められない気分である。

 

 さらに、元信に預けられた鉄砲は五十丁。

 今川家すべての鉄砲をかき集め、すべてを元信一人に託していたのだ。その信頼もさることながら、鉄砲は集中運用しなければ効果を上げられないと理解しているのである。どういう頭の構造をしているのかと問い詰めたいところだ。

 

「あー、その、五郎」

 

「五子」

 

「ああ、そうか。改名したのか」

 

 岡部久綱は気恥ずかしげに頬をかいていた。久綱は辺りにいる岡部左京進家と岡部本家の兵を見回しながら、元信に背を向けて口を開く。

 

「この戦が終わったら――」

 

「いや、ちょ、父上!?」

 

 死亡フラグっぽい台詞である。元信は嫌な予感がして思わず止めに入った。

 

「これに勝てば、五子の家督相続を邪魔する輩は消え去るだろう。だから左京進家に戻らんか?」

 

 後ろめたい気持ちがあるのか、岡部久綱は娘の顔を見ることができず、うつむきがちに話していた。弟の貞綱も苦々しげな顔をしてそっぽを向いている。

 だが、二人とも元信のことを決して嫌っているわけではなかった。二人の態度を見ればそれがわかった。侮蔑も嫌悪もない。罪悪感にまみれた顔だった。

 

 元信は笑った。

 

「ありがと」

 

 そして首を振った。

 

「でも左京進家なんてしょぼい家、五子にはもうどうでもよくなっちゃったんだ。これからは岡部五子家の時代なのだよ! ふーははは!」

 

「しょぼい!?」

 

「五子家!?」

 

 元信の家族二人が素っ頓狂な声を上げている。家を侮辱されているのに二人は怒るどころか、むしろ寂しそうにしていた。

 

「そうか、わかった。それが五郎の道ならば、俺からは何も言うことはない」

 

「五郎じゃねぇよ! 五子だよ!」

 

 父親の尻を蹴飛ばしていると、やがて戦の時間が訪れる。

 岡部五子元信は鉄砲隊を率いるために配置に付いた。

 

 奇襲である。法螺貝は吹かない。太鼓も叩かない。接近するまで叫ばない。

 

 片上城には幅三尺の堀があり、その向こうに木の柵が張り巡らされている。土塁はない。大金をかけて建てられた城ではないが、山頂は駿河の盆地が見下ろせる高さにあり、その高さ自体が防御力になっている。

 

 山中にあるため馬は使えず、徒歩で斜面を駆け上れば雑兵の息はすぐに上がる。

 

「五郎、忠兵衛、別れるぞ」

 

「承知!」

 

「耄碌したのお父さん!? 五子だよ、いーつーこー!」

 

 岡部左京進家の手勢六百人を三つに分けて、それぞれが二百を率いる。

 元信には今川本家から預けられた鉄砲衆五十人が与力として従っているため、今や元信は二百五十人を率いる侍大将という身分になっていた。

 

「五子! 鉄砲を率いているお主は先頭を走れ!」

 

「五子じゃねぇよ! 五郎だよ! ……あれ? 五子って五郎?」

 

 名前をころっと忘れるあたりは親子である。この親にしてこの娘ありだった。

 

 ともあれ元信の率いる鉄砲武者。またしても武者に鉄砲を持たせているが、今回はただの趣味だった。だが最前線で突撃している鉄砲武者たちは生え抜きの職業軍人。山の斜面を駆け上ってもバテないという効果を生み出していた。

 

 脳筋はこれを想定していたわけではない。武人の勘――いや、元信曰く女の勘という意味不明なものがもたらした結果だった。

 

 片上城の城兵たちが今さらながらに岡部勢の接近に気付いたらしく、泡を食ったように配置に付いている。

 

 まばらに飛来する矢が数人に命中するも、突撃の勢いを削ぐには至らない。

 

「怯むな! 岡部軍団の力、今こそ見せる時ぞ! ひゃっはー! 命を惜しむな名を惜しめー!」

 

 高所から降り注ぐ矢の射程は長く、下側からの矢は届かない。

 

 しかし岡部元信は弓を引き絞った。

 五人張りの強弓。鎮西八郎並みの剛力で引き絞られた弦が鳴る。

 

 元信の身長ほどの大きな弓から放たれた矢は、敵方の武者を吹き飛ばしていた。

 

「お見事! 性格以外は尊敬しています姉上!」

 

「うるさい忠兵衛! あーもう締まらないなぁ!」

 

 少女の怒鳴り声が最前線に行き渡る。甲冑に矢が刺さっても物ともせずに鉄砲隊が配置に付いた。腰から火縄を取り出し、火打ち石を叩き付ける。すでに銃弾や玉薬は装填されており、火縄を装着して火蓋を開けばすぐにでも撃てるようにしている。

 

 一人の敵兵が二本の矢を放つ頃には射撃準備は整っていた。

 

「てーっ!」

 

 かけ声に合わせて、山中に砲声が響き渡る。

 バタバタと敵兵が倒れ、坂道を転がり落ちてくる。

 

 さて、一番槍の時間だと元信が舌なめずりをしていると。

 

 その横を颯爽と通り抜けていく集団がいた。

 

「我こそはと思う者は前に出よ! 一番槍には黄金をくれてやろう! 前進前進! 死にたくなければ前に出よ! 進め進めぇぃ! 一番後ろにいる臆病者には味方の鉛玉が浴びせかけられようぞ! さぁ突撃じゃぁ!」

 

 岡部久綱だった。顔面を真っ赤にして太刀を振り上げている。

 

 元信は思わず叫んでいた。

 

「あーっ! ちょ、父上ずるい! 抜け駆けだよ卑怯だよ!」

 

「抜け駆けは武士の慣いじゃ! 一番槍は俺のものぞ!」

 

 娘の武功を横取りしようとする大人げない武将がいた。

 こんな親の背中を見て育ってきた子どもたちである。元信が脳筋になるもの、貞綱がやさぐれるのも当然の結果だった。

 

 この日、電撃的な奇襲を受けた方上城はわずか二刻で壊滅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川義元は今川館で指揮を執っている黒衣の僧をぼーっと見詰めていた。

 出口に近いため情報の伝達が早く済むと言って、三の丸の虎口付近にある土倉を仮の司令部にしている。

 埃っぽい部屋の中で、太原雪斎は矢継ぎ早に指示を繰り出していた。

 

「岡部美濃様、朝比奈備中様、ともに片上城を占領しました。両軍勢は手はず通り片上城を放棄して花沢城に入っています」

 

「方上城の損害は?」

 

「柵は壊れましたが損害は軽微です。あの……本当に何もせずに放棄してよろしかったのでしょうか?」

 

 雪斎は伝令の疑問に答えず、順番待ちしていた者を呼び付けた。

 

「遅れて申し訳ありません。朝比奈元長でございます」

 

「遅参である。申し開きはあるか」

 

「あまりにも突然の招集ゆえに兵が思うように集まりませなんだ。これも拙者の不徳のゆえ。この上は戦場にて汚名を雪がせて頂きたく」

 

「よろしい。ただちに花沢城に入り、朝比奈備中に与力すべし」

 

「――なっ」

 

 遠江朝比奈家の小娘の傘下に加われと言うのかと、朝比奈元長の顔が怒りに染まった。朝比奈泰能殿ならば問題あるまいが、朝比奈泰朝はちょっと行き遅れているが小娘である。駿河朝比奈家の当主を侮るなと言いたげだった。

 

 義元は小首を傾げた。

 伝令の報告よりも後回しにしたり、同族の別家の下に置いたり、むざむざ駿河朝比奈家を敵に回すような発言をするのは挑発しているとしか思えない。

 

 それに一度手に入れた城をなぜ捨てるのか。決戦に使用しないにしても、敵に再利用されないように破壊しておくべきではないか。

 

 あらゆることが疑問だった。

 

「ねぇ師匠。あれは何故ですの?」「こうした理由は?」「師匠! 師匠!」「無視しないで欲しいですわ」

 

 義元はぴよぴよとエサを求める小鳥のようにさえずり、雪斎はその都度、教え子を諭すように論を展開する。

 

「この沙汰は決して厳しすぎるものではない。朝比奈元長が黙って下がったのがその証拠。君主とは厳しくありながら公平たるべし」

 

「その心は?」

 

「旗本でありながら決着が付くまで日和見していた連中にはすべて切腹を申しつける。挽回の機会を与えるのは、むしろ温情である。さらに詳しく補足しておこう。やつは『片上城の戦い』の結果を聞き及んでから近付いてきた軽薄な輩であり、忠誠心は期待するべくもない。まずは危険な場所に配置して流血させ、使えるか否かを見分する必要がある」

 

「長いですわ、師匠」

 

 他人の目があるから後回しにすると言うこともなく、面倒臭そうな顔をすることもなく、義元への指導はどこまでも真摯だった。義元に知識を伝授すること以外はすべて些事であると言わんばかりの態度である。

 

「では城を捨てたのは?」

 

「死中に活あり」

 

「……はい?」

 

「野良犬とは餌があれば飛び付くものだ」

 

 雪斎は言葉を濁した。謀は密なるを何とかかんとか――だと思う。

 

「もしかして……これは、釣り野伏? 今回は城が囮ですの?」

 

「……ふむ」

 

 餌に飛びつく野良犬という表現が、武田晴信と重なって見えていた。餌とは片上城である。これは、かつての朝比奈泰能と同じではないか。戦術的には釣り野伏とは別物だったが、その本質は同じように思えた。

 

 雪斎は感心したように黙り込んでいたが、報告待ちの伝令にせっつかれてその対応に回ろうとしていた。

 これだから女心を解さない朴念仁は。

 義元は内心で苛立ちながら口を開こうとするが、なぜか上手く言葉が出て来ない。

 

「あ、その。師匠……」

 

 褒めて欲しいと言いそうになったのである。

 自分は子どもかと、義元は恥ずかしくなって顔を火照らせてしまった。

 

「お主は今川の屋形だ。甘えるのは程々にしておけ」

 

「あっ」

 

 雪斎は口では冷たいことを言いながらも、義元の頭に手を置いた。

 

 義元はうつむいた。抹香の匂いがした。義元はこの香りが好きだった。

 

 

 




・原作知らない人が多いみたいですね。説明しよう!
うちの作品では今川義元、武田晴信、山本勘助、武田四天王(山県、馬場、内藤、高坂)が原作キャラ。それ以外はオリキャラです。詳しく知りたい人はwiki見てどうぞ。

・岡部久綱と親綱は名前が混同しており、めんどいので統合。嫡子の正綱もボッシュート。当初はモブだから適当でいいだろと思っていたのですが予想外に出番が多くて焦る作者がいたりする。

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