番外1『教えて雪斎先生!』
【一時間目】
実のところ今川家の石高はそれほど高くはない。
駿河一国で十五万石、遠江を含めて三十万石である。
隣国の武田家は甲斐一国で三十万石だった。
気候が温暖で川も多い駿河の米は良質だったが、その収穫高は決して高くはなかったのである。
ならばなぜ、今川家が武田家の倍以上の兵力を動員できるのか。
石高制では一万石で二百五十人の兵が動員できると言われている。この数字を今川家三十万石に当てはめると七千五百人になる。
しかし今川軍は一万人以上の兵を何度も動員していた。これは石高以上の動員兵力である。これはなぜなのだろう。
「なぜと言われても、わからないものはわかりませんわ」
俺は答える気ゼロの生徒を教鞭で叩いた。
これは暴力ではない。教育的指導である。PTAもモンスターペアレンツもいないから安心だった。痛くなければ覚えませぬ。
場所は興国寺城の本丸。
俺は今川義元と名を改めた姫君に問題を出していた。いつもの授業だ。
「過酷な兵役を課していると言うこと?」
「勝手なことを言わないでください。今川家は北条家ほどではありませんが善政を敷いているはずです。元信の発言が事実なら一揆が頻発しているはずですが、そのような事実はありません」
関口氏広が眼鏡をくいっと押し上げながら反論すると、岡部元信が「言ってみただけだし。なに熱くなってんの?」と言い返していた。
また口喧嘩が始まりそうだったため、俺は教鞭で岡部元信の額を軽く叩いておく。教育的指導である。
「義元。今川家の特産品を述べてみよ」
「えっと……茶葉とか絹織物、あとは海産物ですわよね? 木綿は三河の方が良質ですが、駿河でも栽培していますわ」
ぐぬぬと睨み合っていた氏広と元信が固まっていた。
あのうつけ姫が、ぽんこつが、残念娘が、すらすらと答えたのである。
二人はすわ天変地異の前触れかと恐れ戦き、窓を開けて雨が降っていないか確かめていた。いくら何でも義元を馬鹿にしすぎだろう。
「お二人とも、わたくしを何だと思っていますの?」
義元涙目だった。これに懲りたら日頃の言動を振り返って反省して欲しい。
「それと塩だ。甲斐の商人がよく買い付けに来ている。さらに補足しておくと、海産物からは干鰯(ほしか)という肥料が作られている。これは米や野菜の収穫を増やすだけではなく、木綿の栽培にも用いられている」
戦国時代とは貨幣経済が広まり始め、商品作物の生産が始まった時機でもある。当然、大名である今川家もその流れに乗ろうとしていた。
堺や博多には及ばないが、駿河には清水湊や吉原湊、遠江には懸塚や浅羽などの貿易港があった。そこから特産物が輸出され、多大な富を生み出している。
言わば今川家は商業大国なのである。
「要するに、今川家の兵力は商業力にあるのだ」
「……ぐーぐーぐー」
俺は船を漕いでいる元信の胸ぐらをつかむと、よいしょと振り返りながら少女の身体を持ち上げ、一息に畳に叩き付けた。
「ひぎゃあぁぁぁぁ!」
背負い投げ……いや、教育的指導である。
【二時間目】
休憩を入れた後のこと。
「さっきの話からすると、興国寺城一万石からは二百五十人以上の兵士が動員できるんですよね。実際のところ、どれだけ動員できるんですか?」
「あ、五子も気になる!」
「今川家嫡流たるわたくしの居城なのです。五千人以上いるに決まってるではありませんか、おーっほっほっほ!」
妄言を吐いている義元はさておき、俺が取り出して見せたのは検地台帳だった。
和綴の古ぼけた本だ。興国寺城の以前の城主が取っていた記録である。
脳筋の元信は漢数字の羅列を見て「うわ」と顔をしかめていたが、インテリの氏広はすらすらと目を通していく。それから元信と同じ顔になった。
「あれぇ? 氏広っちにも難しかったかなぁ?」
「気持ち悪い声を出さないでください。しかし、これは酷いものですね」
そう、酷かった。
俺は話について行けず目を点にしている義元を手招きすると、台帳のある部分を指さした。
そこに書かれていた文字は『伊勢新九郎盛時』。
「いせしんくろう……って、北条早雲ではありませんか!」
俺は苦々しげに頷くしかなかった。
北条早雲はたしかに以前の城主ではあるが、それは今から三十年以上も昔のこと。
俺たちが赴任する前は天野康景が城主で、その前は河毛重次。他にも二人の前任者がいるが、どいつもこいつも腐っていた。
当然だが、石高とは土地が開発されれば増加する。
今慌てて検地を行っているところだが、ざっと調べたところ二万石に相当する農地が見付かっていた。
興国寺一万石の土地から、実際には二万石の米が取れていたならば、一万石の米はどこに消えたのか。
勿論、誰かのポケットに決まっている。これはそういう話である。
「不味いですね、これは。百姓が付け上がっているかも。いや、主犯は百姓ではなくて以前の城主でしょうか」
「氏広の危惧はまさしくその通り。すでに地元の名主が付け届けを持ってきている」
「わたくしは初耳ですけど」
「……そうか」
「ちょ、ちょっと! 何ですの、その意味深な沈黙は!?」
俺たちは義元に振り返り、すぐに視線を外した。一同無言である。
「まさか賄賂を受け取ったのですか、雪斎様?」
「その者はすでに打ち首にしているが、何か問題でも?」
「……あ、いえ。何でもありません」
氏広がガクガクと震えていたが、それはさておき。
何十年も着服され続けていた一万石だが、これは庄屋や名主たちが勝手に行っていたわけではなかった。
そもそも計数のプロである代官が気付かないわけがない。つまり代官も共犯と言うわけだ。それだけではなく以前の城主たちも付け届けを受け取っていたようだ。
領地全体が汚職に塗れていたのである。
「本日の夕刻、代官二人が切腹、商人と百姓六人を打ち首にする。お主たちも立ち会うように」
「……はい」
前任の城主に責任を取らせるのは難しかったが、領内に残っている実行犯たちは粛正しておかなければ、後々の統治に響いてくる。
氏広の言うように百姓が付け上がるのだ。見せしめは必要である。
そして行動するなら着任したばかりの今をおいて他にない。
そう言うと三人が黙り込む。ドン引きされていた。
「氏広の質問に答えると、実質二万石なので五百人。経済力を足して一千人と言ったところだ。検地の結果が出るまで断言はできないがな」
【三時間目】
「そう言えば、五子は富士川合戦で鉄砲を預けられていたんですよね?」
「うん、そだよ。鉄砲で大活躍して、大殿から感状を貰ったんだ。うひひっ」
キモイ笑い声を出している元信に、氏広が白けた目を向けていた。
「まだまだ玩具と侮られていますけど、あの轟音には離れていたわたくしたちも肝がすくみましたわ」
義元が身震いしている。
実際には肝がすくむどころか小便を漏らしていたのだが、それは鉄砲の所為だけではなく、初陣だからというのも大きいだろう。
失禁してしまった義元だったが、俺はそれを笑うつもりはない。言いふらすつもりもなかった。
今川軍にも泣き出して「にゃむにゃみにゃぶつ」と念仏を唱えていた兵がいた。南無阿弥陀仏の念仏は一向宗なのだが、こちらの本猫寺の念仏は何かが違っていた。よくわからないが門徒だったのだろう。
ともあれ精強な甲州兵が混乱するほどだ。我らが姫君が失禁するのはむしろ当然である。
「音で驚かせる戦術は、そう何度も使える手じゃないよ。使えば使うほど威嚇としての威力は下がってしまうからさ。でも、もしも鉄砲が何百丁もあったら……」
「何百丁って、現実的な話ではありませんよ。家が傾きます」
「でもあれは、百姓が武者を殺すよ」
元信は言う。射撃訓練を受けていない武者に扱えたのだ。ならば百姓にも扱えるだろうと。
「敵が持つ前に、こっちが持つしかない。武士の時代は、もうすぐ終わるのかもね」
少女の声色が変わっていた。頭の中が戦場に切り替わっている。
義元が「ひっ」と怖がっていた。何やってんだこいつは。
「授業中だ。殺気を引っ込めろ」
「あうっ」
元信の後頭部に教鞭で一撃。教育的指導である。
それにしても岡部五子元信。彼女の頭は戦闘に特化し過ぎているようだ。
現時点で鉄砲の本質に気付いている武将がこの国に何人いるのか。おそらくは片手の指で足りるだろう。
「鉄砲を大量に揃えるために必要なものとは、何だと思う?」
「はいはいはーい! 鉄と火薬でーす!」
いきなり不正解の脳筋は無視して、考え込んでいる二人に目を向ける。
氏広はすぐに答えにたどり着いたようだが、俺は手の平を向けて言葉を遮った。
義元に目を向ける。今日の授業を聞いていたなら答えられるはずだ。はずなのだが、この胸中の不安は何なのだろう。
「ええっと、鉄でもなく火薬でもない? あっ、名門の――」
「馬鹿者」
名門がどうした。阿呆か。
俺は義元の額に教鞭を落とす。教育的指導である。
「お金ですわ! いいえ、経済力!」
額を抑えて涙目になった義元だったが、頭に衝撃を受けたからだろうか、なぜか正解にたどり着いていた。まったくもって意味がわからない。
「そう、経済力である。大量の鉄砲を揃えるには大量の金が必要になる」
日本の金銀と引き替えに明国から永楽銭を輸入しているというアホらしい現実もあるのだが、その話はまた別の機会にするとしよう。
「ではどうすれば経済力を増やすことができるのか」
「敵国の米を略奪したり? ――あうっ! あうあうっ!」
俺は元信に教育的指導を三発叩き込んだ。
「単純に米の収穫高を増やす、ですか? 耕地を広げたり、治水をしたり、肥料を改良したり。鉄製の農具や牛馬を普及させるとか」
「他には交易を行う、ですわね」
氏広と義元の発言は間違いではない。
だが、楽市や関所の撤廃などについて講義をするにはまだ時期尚早のようだった。
関所については他国との国境にあるものは必要だろうが、豪族や寺社の関所などは警備の利点など存在せず、ただの中間搾取でしかなかった。
必要なものは中央集権だ。
最終的には家臣の領地を含めて検地を行うことになるだろう。
今はまだ気の遠くなる話だった。
◇
番外2『忍者マスター雪斎』
興国寺城での俺の自宅は、城内の一室にあった。この城には城下町がないため、下級武士たちは二の丸の長屋に詰め込まれ、重臣は本丸の屋敷で起居している。俺の立場は今川義元の家老のため、本丸に部屋を与えられていた。
日没後、俺は文を書いていた。
行灯の明かりが卓上を照らしている。使用している油は安価な鯨油だったが、これは強い異臭を放つため、窓を開けて風通しを良くしていた。
手紙の宛先は友野次郎兵衛宗善。駿府の町年寄であり、今川家の御用商人だった。
今川家は宗善の友野座を優遇する変わりに、関税徴収の代行や輸出する商品の点検など、細々とした実務を押し付けていた。
友野宗善は武士ではなかったが、これも御恩と奉公の関係である。
さて。俺が手紙のやり取りをしている友野宗善だが、この人物は商人らしく数寄者のようで、俺が氏親に下賜された酸漿文琳(ほおづきぶんりん)の茶入れを見せて欲しい、できれば売って欲しいと手紙を送ってきていたのである。
本当は今すぐにでも小判に変えて鉄砲を揃えたいところだったが、少なくとも氏親が存命している間は茶器を売り飛ばすなどとんでもない。とりあえず脈はゼロではないと相手に教えるために「金に困れば手放すかもしれない」と書いておく。
筆を置き、背を伸ばす。
そろそろ寝るかと思い、歯を磨くための塩を用意する。それから水桶を片手に井戸に向かおうとしたところで――見付けてしまった。
なぜか部屋の真ん中に、ポツンと水が満たされた桶が置かれているのである。
摩訶不思議。ホラーだった。この屋敷には妖怪がいるのだろうか。
俺は歯磨き道具を畳に置くと、般若心経を取り出した。
このお経には悪霊の力を「空にする」という効果があると言われている。
色即是空、空即是色。いわゆる空の思想である。眉唾だが、試してみるのも一興だった。
「……何をしているのですか?」
「座敷童……ではないな」
忍者が出て来た。富士川合戦の時に活躍した女忍だった。
俺たちは水桶を挟んで向かい合った。しばらく待ってみたが、相手は無言である。暇なので俺は二本の指に塩を挟むと、おもむろに口に突っ込んだ。
「あ、あの」
しゃこしゃこと歯茎に塩をすり込んでいく。
歯を磨きながら女忍を眺めていると、彼女は次第に身体を震えさせていた。怒りに震えているのかと思ったが、そうではない。瞳が光っている。涙目になっているのだ。
「私、責任を取って貰いに来たのでございますです……」
「ごぼっ」
むせた。気道に塩が入り、喉に痛みが走る。
いきなり何を言い出すのだろう、この女忍は。責任とは何だ。
一瞬エロい妄想をしてしまう俺だったが、よくよく考えてみると俺は彼女の仲間を大量に殺している。
復讐にでも来たのだろうか。
……いや、それはない。殺そうと思えば何時でも殺せたはずだ。
「あっ、すいません。大丈夫でございますですか?」
女忍は咳き込んだ俺の背中をさすってくる。覆面をした黒装束の少女が、物音を立てずに、何時の間にか背後にいる。ホラーだった。
「誤解させる言い方をしてすいませんでした。あの作戦で、私の仲間はほとんど死んでしまったのでございますです。ですので隠密としてのお仕事ができなくなって、お殿さまに暇を出されてしまったのです」
「つまり、責任とは」
無慈悲な派遣切りだった。俺は新しい雇用先というわけだ。
話を察した俺に、女忍が頷いた。
「はい、お察しの通りです。お願いします。どうか私を雇って下さい。故郷には五人の弟たちがいるのでございますです」
「五人もいるのか……」
この時代、七五三というように子どもが成人するまで生き残るのも神頼みだった。
子どもを大量に作るのは家名を残すために必要なことだったが、それでも運が悪ければ後継者が絶えることもあった。
子どもの五人程度なら多すぎるわけではない。
そして伊賀は農耕に適さない山国だ。一族を食わせるためには出稼ぎをするしかなかった。
それが忍者である。
下賎な仕事と馬鹿にされ、命をゴミのように捨てて、ようやく食っていけるのが伊賀の忍だ。
「……はぁ」
俺は溜息を吐いた。こんな年端もいかない小娘が血みどろの人生を送っているのである。思わず憐憫の情を覚えてしまう。
溜息を聞いた俺に、断られると思ったのか。女忍はビクリと身をすくませていた。
「二百石を扶持する」
「……え?」
「流れ者の傭兵忍者を重く用いるつもりはない。俺は囲い込んだ忍のみを用いるつもりである。不満ならば余所に行け」
「いいえ、不満などはございませんです!」
忍者の囲い込みはいずれ通る道だった。
武田は『三ツ者』、北条は『風魔』、松平は『服部』、隣国の大名たちは専属の忍者集団を抱えている。だが今川にいる忍者は傭兵契約をしている伊賀衆のみである。
「二百石だなんて、本当にいいのですか? 私の聞き間違いではございませんですよね?」
「一族を呼び寄せるなり、故郷に仕送りをするなり、好きにすればよかろう。働き次第で加増も有り得るから、頭数を揃えることも考えておけ。十人いれば四百石は出してやる」
「よ、よんひゃ!?」
詳細は明日伝えると言い置き、俺は布団に入った。
翌朝。
俺の部屋に見慣れない女中がいた。
背は百四十センチもないほど低く、中学生ぐらいにしか見えない。黒髪を後ろでまとめて簪を差した髪型をしていている。涼しげな水色の着流しを着た美少女だった。
小柄なのに巨乳である。びっくりするほど豊満だった。脅威の胸囲だ。
ニコニコと笑っているロリ巨乳だった。
何だこいつと驚いていると、足下に一瞬で着替えが出現していた。
「では私は朝食の支度がございますですので」
「……あ、ああ」
とりあえず着替えを済ませると、何時の間にか女中が俺の背後にいる。
よくわからないが腕を前に突き出しているので、脱いだ浴衣を押し付けてみると、ロリ巨乳はそれを受け取ってニコニコ笑いながら去っていった。
部屋に食事の膳が運ばれ、釈然としないまま腰を下ろす。
「で、お主は何者だ?」
「あ、これは申し訳ございませんです。まだ名乗っておりませんでしたね」
少女は俺の前で正座をすると、三つ指を突いた。三つ指……もう突っ込みたくない。
「伊賀忍の楯岡道順でございますです。どうか末永くよろしくお願い申し上げます」
その時、寝ぼけ眼をこすりながら岡部元信が部屋にやって来た。
「ふあぁぁー、超ねみぃ。今日もメシをたかりに来た五子でーす。ぐーぐーぐー……」
そう言えば世話係という名の穀潰しがいたが。
俺はロリ巨乳と脳筋を見比べて溜息を吐いてしまう。戦力差はおっぱいだけではなかった。あらゆる意味で岡部五子元信は敗北していた。
「五子。お主を世話係から解任する」
「はいぃぃ!? どどど、どうしたのお師匠!? 朝っぱらから笑えない冗談にもほどがあるよ!」
こうして俺の配下に専属の忍者(世話係)が加わったのである。
「五子の身体に飽きたから捨てるってこと!? ひどいよ、あんまりだよ! 五子のことは遊びだったの!?」
「まぁまぁ、落ち着いてください。五子さんの分も用意していますから」
「べ、べ、別にご飯なんかで懐柔されたりしないんだからね! 捨てるのは勿体ないから食べてあげるだけなんだからぁ!」
楯岡道順。別名、伊賀崎道順。
口癖は「ございますです」の年齢十八才の合法ロリ。完全敗北した元信だった。
番外3『外道坊主雪斎』
「皆発無等等、阿耨多羅三藐三菩提心」
俺は教典を頭の上に捧げ持ち、ゆっくりと下ろした。それから磬子(けいす)を棒で叩く。ごーんと、部屋の中に寂しげな音が響き渡った。
般若心経、修証義、寿量品偈、観音経普門品偈。すべて読み上げると一刻が過ぎていた。
朝比奈泰能の四十九日である。
俺は通夜から葬儀、初七日から七日ごとに訪れては読経をしていたが、本日は四十九日という一つの区切りである。そのため四十二日よりも列席者は多かった。
場所は掛川城の近くにある総善寺。朝比奈家の菩提寺である。
俺の宗派とは異なる曹洞宗の寺なのだが、何を思ったのか娘の泰朝が熱心に働きかけたらしく、俺に葬儀を頼み込んできたのである。
他宗派の縄張りに踏み入るのは正直気が進まなかったが、泰能の死の責任は俺にあるので断り切れなかった。
俺は数珠を握り締めると、列席者に向きを変えて、手を合わせながら頭を下げた。
「これでひとまず忌明けです。親族の皆様はお疲れさまでした」
朝比奈泰能の夫人がホッと溜息を吐いていた。
四十九日を過ぎると死者の霊が家から去ると言われている。寂しい言い方になるが、何時までも死者に縛られているわけにはいかないのだ。死者を快く見送ってあげるのが、現世を生きる者の務めである。
茶を頂き、雑談を交わしてから引き上げる。
列席者たちは忌明けの宴として精進料理のもてなしを受けるのだろうが、坊主の俺には関係ない話だ。
「軍師殿。いや、すまない。雪斎殿」
寺の門前で声をかけられる。振り返ると、朝比奈泰朝がいた。
相変わらずの貧乳だったが、心労が溜まっているのだろう。疲れた顔がゾッとするほど色っぽかった。
「喪主のそなたが場を外すのは如何かと思うが」
「見送りだ。堅いことは言わないでくれ」
泰朝は気恥ずかしげに頬をかいた。
「今回は父のために無理を言ってしまったと思っている。すまなかった。そして、ありがとう」
「いや。そなたに礼を言われることではない」
殺した相手のために念仏を読むのは、かつてない苦行だったが、すべて俺の自業自得だった。
と言うか、なんかもう吐きそうだった。ぶっちゃけ帰りたい。修行不足でごめんなさい。
「戦場ではきつく当たってしまったが、あなたのことを恨んでいるわけではないんだ。父は後事をあなたに託して、納得して死んでいった。娘の私があなたを恨むのは、父の死を貶めることだと思うんだ」
「そうか」
「うん。自分でも何が言いたいのかわからないけど、上手く伝わっているかな?」
多分だが、仲直りをしたがっているのだろう。
俺は別に泰朝と喧嘩をしているわけではないが、泰朝は富士川合戦で俺を罵ったことを引きずっていた。
『あなたは地獄に堕ちるだろう』だったか。気にするほどのことではない。
まぁそれっぽいことを言っておけばいいかと俺は適当に言葉を選んだ。
「すべてのものは滅びゆくものである、不放逸によりて精進せよ」
仏陀釈尊、最後の遺誡を引用しただけである。
手抜きもいいところの説法なのだが、なんか泰朝が号泣していた。
「うっ、ひぐっ、あ、ありがどうございまず」
「う、うむ。それでは拙僧はこれにて御免」
尻尾を巻いて逃げ出した俺の背中に、泰朝が大声を放った。
「雪斎様! 私は、父に恥じぬ武将になります! どうか私を見届けて下さい!」
返事は思い付かなかった。頑張れ若者と応援したくなっただけだ。
……実は俺も若者なのだが、それは言わぬが華である。