今川義元の野望(仮)   作:二見健

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11.広忠帰還

 東三河の征伐が完了したのは太原雪斎の出征から一ヶ月後のことだった。

 

「快・進・撃! ですわ!」

 

 今川館の城主の間にて、義元公はご満悦のようである。

 

 雪斎は東三河を勢力圏に組み込むことに成功していた。北条早雲が切り従え、松平清康によって失陥していた土地である。それはすなわち今川義元が先代に劣らぬ器量を持つことを内外に示したことになる。

 

「たった一ヶ月で東三河を平定してしまうなんて、流石はわたくしの師匠ですわ。師匠の軍略と今川家の圧倒的すぎる武威に、三河の田舎者たちも、さぞ震え上がっていることでしょう! おーほっほっほ!」

 

 雪斎不在の間、長らく不機嫌だった義元が久々に笑みを浮かべているのを見て、関口氏広は胸を撫で下ろした。政務に飽きた義元が「自分へのご褒美」とか言って大量の着物を買いあさっていたが、それでも機嫌が直らなかったのである。

 

「それで、師匠は何時頃お戻りになられますの?」

 

 義元の期待の視線に、氏広は言葉に詰まった。

 

「えっと……私見になりますが、戦後処理を終えてからになるので、ここからさらに三ヶ月ほどはかかるものかと」

 

「そんなに、ですの?」

 

「はい。東三河の利権を今川家のものとしなければ、何のために出兵したのかわからなくなりますから。雪斎様が不在でも富を集積する仕組みを構築するまでは、帰るに帰れないのでしょう」

 

「それは師匠でなければ出来ないことですか?」

 

「姫さま」

 

「わかってますわ。ええ、わかっていますとも。銭の重要さは骨身に染みるほど師匠に叩き込まれていますから。今のはただ愚痴っただけですわ」

 

 氏広から見ても、いじけている義元は可愛らしかった。

 

 雪斎から送られてきた文には、東三河衆の所領の安堵状や褒賞などの要求、活躍した駿府衆の将を東三河の城主に推挙、預かっている人質を吉田城に集めて管理していることが書かれていた。

 

 それらの処理で最低でも一月はかかるだろう。さらにそこから二ヶ月で新領地を整備して戻ってくるというのが氏広の見積もりだった。それでも非常識な速さである。雪斎が三ヶ月で戻ってくると考える氏広も、どこか頭がおかしかった。

 

 なお吉田城は牧野家から領地交換で得た城で、城下には渥美半島の貿易港である吉田湊があり、今川家にとっては東三河支配の重要拠点になっていた。

 

 雪斎は吉田城に入って各方面に指示を出しているようだ。

 

「まったく。これでは師匠を三浦のお爺さまの後任にできないではありませんか」

 

 先日、義元の自分へのご褒美を耳にした三浦範高が卒倒してしまったのである。

 

 義元の仕打ちも鬼畜すぎたようで、老骨に鞭打って今川家を支えていた宿老は、命に別状はなかったがふて腐れてしまい、布団の中で「もう全部雪斎に任せればいいんじゃないかな」と口にして、現実逃避して孫を可愛がっているという。

 

 氏親は二人の宿老を置いていたが、片方の朝比奈泰能は富士川で戦没し、三浦範高は老齢である。範高の息子たちも無能ではないが、これからも今川家を背負い立つには不足を感じた。朝比奈泰朝も武将としては有能すぎるぐらいだが、政治や外交は苦手としている。

 

 もはや今川家の両輪体制は崩壊していたのだ。

 

「いずれにせよ、耕作が始まる春頃までには師匠はお戻りになりますわよね。ならばわたくしは師匠のお叱りを受けないよう、政務に励むだけですわ」

 

「着物の件で、まず間違いなく叱られるんですけどね」

 

「うっ。あ、あれは貨幣を現物に交換しただけですわ!」

 

「それなら売っても構わないですよね?」

 

 猿知恵を駆使して言い訳をする義元に、無情にも氏広は宣告する。

 

 義元は「うっ」とうめき声を上げ、畳に崩れ落ちた。

 

「……せめて師匠にお披露目するまでは、手元に置いておきたいですわ」

 

 氏広は内心で溜息を吐いた。

 

 いじらしい。これは断れそうにないなと氏広が思ったその時である。

 

「あの、ちょっといいっスか?」

 

 襖の向こう側から声がかかる。

 

「誰か」

 

「未来の宰相、三浦氏満っス」

 

 氏広はそいつの物言いにイラっとした。

 

 未来の宰相は太原雪斎が内定している。間違っても三浦の元穀潰しなどではない。

 

 たしか今では雪斎の傘下で祐筆をやらされていたはずだ。東三河で馬車馬のごとくこき使われているはずの少年が、どうして駿府にいるのだろう。

 

「あの鬼畜坊主から――」

 

 三浦氏満が口を開いた瞬間、彼の後ろ首に鉛色に輝く刃が押し当てられていた。首筋に触れる金属の冷たさに、氏満の膀胱が緩んで、ちょろちょろと黄色い液体が畳を湿らせている。

 

「発言には気を付けるのでございますですよ」

 

 伊賀衆筆頭、楯岡道順が忍者刀を握り締めていた。

 

「雪斎禅師から文を預かってきたっスよ」

 

「いや、何事もなかったかのように続けないで下さい。主君の前で粗相をするというのは切腹物の大失態ですよ」

 

「ここは見なかったことにするのが、器の見せ所っスよ?」

 

 なんだろう。

 荒事は苦手なはずの氏広だが、今は猛烈にこの男をぶん殴りたい。

 

「雪斎様からの文ですか」

 

 まず先に氏広が内容をあらためた。

 

 氏広は文面を頭に入れると、文を義元に差し出した。義元が一通り読み終えるのを待ってから、眼鏡をくいっと指で押し上げる。

 

「松平広忠が雪斎様に直談判したようです」

 

「そのようですわね」

 

「糸を引いているのはお付きの阿部定吉でしょう」

 

 思えば最初の時も阿部定吉は雪斎に接触しようとしていた。今回も同じように、義元への直訴ではなく、雪斎に根回しを行おうとしたらしい。

 

 雪斎が東三河を落とした。次は西三河である。

 このまま今川家が単独で西三河を攻略してしまえば、何もしていなかった松平広忠たちの立場が宙に浮いてしまう。

 

 しかし、今川家の手を借りて岡崎城を奪還するというのも面白くない。今川家に借りを作ってしまうと、家来のように扱われるのではないかと危惧している。その心配は的外れではなく、実際に雪斎たちはそうするつもりだった。

 

 今川家が西三河を切り取って、西三河の利権を根こそぎ奪い取ってから松平広忠を岡崎城に入れる。

 

 こうすることで松平広忠は今川に頼らなければ何もできない傀儡と化す。

 

 阿部定吉も有能な男なので、今川がやろうとしていることを察したのだろう。故に広忠たちは今川に先んじて岡崎城を奪還すること決めたようだ。だが、単独では如何ともしがたいため、今川家に武器や兵糧などの支援を求め、万が一の時には後詰めになって欲しいという。

 

「都合のいいことを言いますわね」

 

「お互いさまですけどね。万が一というのは、おそらくは織田弾正忠でしょう」

 

 西三河は織田信秀の勢力圏だった。

 今川が手を突っ込むのを、黙って見守っているはずがない。

 

「そういえば、かの御仁は三河守に任官されたそうですわ」

 

「やまと御所に七百貫文を献上したそうですね」

 

「銭の力を知る強敵というわけですわね」

 

 織田信秀は尾張の守護や守護代を上回る軍事力を持っていた。

 

 商業都市を押さえており、銭で雇っている兵も多い。そんな信秀が西三河に狙いを定めているのは、やまと御所から貰った官位を見れば明らかだった。

 

 松平広忠が西三河に攻め込むには今しかないと思うはずである。今川や織田に先んじて岡崎を取らなければならないのだ。広忠は織田や今川に制限時間を設定されたようなものだった。

 

「師匠は……」

 

 広忠たちの提案に乗るべきだと文に書いている。

 

 その上で、必ず織田弾正忠が出てくるだろうとも断言していた。

 

 楽観しているわけではないようだ。

 つまり、織田弾正忠と渡り合うための腹案を抱いているということである。

 

 ならば氏広は雪斎に任せてみてもいいのではないかと思った。

 

 義元もそう思ったのだろう。

 

「……氏広さん。返書を書くので、少しの間、一人にさせて下さいな」

 

「承知しました」

 

 義元が漆塗りに金箔を散らした文箱を開けて筆を手に取った。

 

 余談だが、義元は達筆である。

 

 東三河衆、野田菅沼家の定村が義元の書状を受け取った時、あまりに達筆すぎてまったく読めなかったらしい。定村は家臣たちに文字が読めないから教えてくれとも言えず、寺に駆け込んで和尚から読み方を教わったのである。

 

 後日、やはり学問はするべきだなぁと改めて思った定村は一念発起して筆を取り、やがて三河の高名な能書家と呼ばれるに至るのだった。

 

 あと、最後に一つ疑問が残った。

 

 使者としての役目も果たせそうにない三浦氏満に、わざわざ腹心の楯岡道順を付けて送り込む理由がよくわからなかった。

 

「どうしてあなたが文を持ってきたのですか?」

 

「あの鬼畜坊主、どういう風の吹き回しか、爺さまの見舞いに行ってやれって言いやがったんスよね――って、刺さないで! あっ、俺っちの玉のお肌に傷が! あっ、ちょ、チクチクする痛みが、段々と気持ちよく……」

 

「忍者刀に塗ってある痺れ薬が効いているだけでございますですよ」

 

 氏広は溜息を吐いた。

 

 あの雪斎も時には優しくなることがあるようだ。だが、なにも三浦氏満ごときにその優しさを向けなくてもいいのにと思ってしまう。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 桜井(松平)信定は松平長親の三男だった。

 

 兄の信忠は人望がなくて隠居させられ、後を継いだのは信忠の息子だった。わずか十二歳の少年である。信定はまた失敗するだろうと笑っていた。若すぎる頭領に誰が従うというのか。松平の頭領は自分にこそ相応しいと何度も思ったものである。

 

 しかし松平清康への侮りは、あっという間に無くなった。

 

 山中城を攻撃し、足助城を攻撃し、どちらも屈服させてしまったのである。吉良家とは盟友関係であり、西三河に敵がいなくなった。

 

 東三河の牧野を攻めると、奥平や本多などが松平の援軍にやってきて、牧野の城が落ち、戸田は戦わずして屈服した。

 

 誰もが思い知らされたのだ。松平清康は不世出の英傑だった。

 

 桜井信定も清康ならば松平を任せられると安心したのだ。これからは分家として、また清康の叔父として宗家を支えていこう。そう思っていた。

 

 亀裂は東三河攻めの最中に起こった。

 

 牧野、奥平、伊奈本多、戸田、菅沼、西郷、設楽。

 東三河の領主たちが次々に松平に従う中、時勢を見極められず、清康のもとに出仕しなかった家があった。

 

 宇利城の熊谷家である。

 熊谷直実の末裔と称している一族だった。

 

 清康は手下に命令して宇利城の大手門と搦め手を攻めさせたが、それは清康らしくない稚拙な城攻めだった。三河武士は勇猛だったが、走るだけというのは軍略ですらない。

 

 それを見ていた桜井信定は呆れきった。

 

 松平軍を迎え撃つは、宇利城の城主である熊谷兵庫頭だった。

 彼は大手門の強度を信頼していなかったため、逆に敵を迎え入れて限界まで引きつけるという作戦を練っていた。

 

 松平軍は不自然に開いた城門に違和感を覚えることもなく、我先に城内に飛び込んでいったが、待っていたのは兵庫頭の槍だった。松平軍は一瞬の油断を突かれて倒され、兵庫頭が猛烈な勢いで逆落としに襲いかかった。

 

 攻撃を受け止めたのは松平親盛だった。

 

 松平清康の甥であり、福釜松平家の当主である。

 三河物語には「戦については凄腕で他に超す者はいない」と書かれているが、実際には忠誠心以外の取り柄はなさそうだった。とはいえ清康はその忠誠心を愛しており、親盛はお気に入りの家臣だった。

 

 信定は白けた目をした。

 

 阿呆めが。言わんことではないと、大声で叫んでやりたかった。

 

 清康の作戦も悪かった。熊谷家が小勢力だったため、大軍で攻めれば負けることはないと慢心していたのだろう。

 

 結局、親盛は死んだ。味方の助けがなかったことに「甲斐なき味方の振る舞いかな」と歯がみし、壮絶な討ち死にを遂げた。

 

 熊谷勢の狂気的な突撃はやがて限界を迎え、兵の過半を失って城に引き上げた。戦の幕は菅沼定則(定村の父)が下ろした。調略していた者を使って城に火をかけさせたのである。熊谷備中頭は城から落ち延び、歴史から消えた。

 

 とにかく戦は終わった。

 

 ようやく領地に戻れると安堵していた信定は、清康から思いがけない言葉を浴びせられることになった。

 

「なぜ左京亮(親盛)を見殺しにした!」

 

 衆目の中で面罵したのである。

 

 清康の目にはこう映っていた。

 お気に入りの家臣が敵に襲われているのに、信定は見ているだけだったのだと。

 

 信定にとって熊谷勢の突撃を受け止めるのは愚策だった。

 狂った兵は適当に受け流して、疲れさせてから弓で射殺すればいいのである。実際、熊谷勢は疲弊して撤退したのだ。

 

 それなのに、どうして清康に責められなければならない。

 

 信定は清康を深く恨んだ。

 

 以降、信定は病気と称して出仕しなくなり、森山攻めにも参加しなかった。松平家の者たちは、信定はいずれ裏切るのではないかと噂するようになる。

 

 やがて噂は大きくなり、阿部定吉が信定に内通していると疑われ、定吉の息子に清康が斬られた。森山崩れである。

 

 織田信秀は敗走する松平家を追撃し、安祥城まで追い詰めた。信秀は松平家の勇者を大勢討ち取ったが、城を落とすことはできず撤退する。

 

 新たに当主になったのは清康の娘だった。十代半ばの少女である。

 

 ――話にならんな。

 

 清康は特別だった。信定もそれを認めている。

 だが、清康の娘はどう見てもただの小娘だった。

 

 信定は清康の弟である信孝に声をかけ、岡崎城を横領した。何のことはない。落ちていたものを拾っただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 松平広忠は今川から後詰めの約束を取り付けると駿府を発った。

 

 今川義元からは兵糧や矢銭を支給されている。

 さすがに兵を借りれば今川家に頭が上がらなくなるが、これぐらいなら問題ないだろうという判断で、阿部定吉が受け取っていた。

 

 とはいえ広忠たちは三河に寸土も持たず、わずかに数人の郎党を引き連れているだけだった。それでも広忠の顔色は以前よりも改善している。一歩ずつだが着実に状況が好転しているように思えたのだ。

 

「竹千代様は駿府に置いていきましょう」

 

 定吉の進言に、広忠は迷っていたが、やがて頷いた。

 

 竹千代は保険である。

 

 もし広忠たちが失敗しても、竹千代さえ生き残っていれば宗家の血が絶えることはない。竹千代は今川家の援助を受けて、おそらくは傀儡になるだろうが松平家の当主に就けるだろう。

 

 広忠たちはまずは今橋城に向かった。

 

 今橋城主である牧野保成は先日の雪斎の軍事行動によって今川に降っている。

 広忠たちが今川家の支援を受けていることも知っていたらしく、広忠のために瀬木城を使ってくれと快く申し出ていた。

 

「まずは人を集めなければなりませぬ」

 

「果たして今の私たちに付いてきてくれる者がいるのでしょうか」

 

 不安を隠せない様子の広忠に、阿部定吉は優しく言い聞かせた。

 

「我らが今川の支援を受けていることを耳にすれば、桜井信定に嫌々従っている者たちの何人かが必ずや助勢してくれるでしょう」

 

 ほどなくして急報が入った。

 

 雪斎からの使者で、名を小原鎮真といった。

 

 十代半ばの陰気そうな少女である。

 前髪で両目が隠れており、黒無地の着物を着ているためか、幽霊のような不気味さすら感じられた。

 

「雪斎禅師は手が離せませぬゆえ私が参りました」

 

 鎮真は挨拶もそこそこに言い放った。

 

「一つ。牟呂城と連絡を取るべし。

 二つ。大久保を信じよ。

 三つ。織田と独力で戦うべからず」

 

「それは?」

 

「禅師からの言伝です」

 

 広忠は不快を覚えた。

 

 大久保家は松平家の重臣である。

 総帥、大久保忠俊、弟に忠次、忠員、忠久という蒼々たる顔ぶれだった。

 

 たしかに大久保が味方についてくれれば心強いどころか、桜井信定を岡崎城から追い出すことも可能だろう。大久保家はそれだけの力を持っていた。

 

 逆に言えば大久保が敵に回れば、広忠たちは岡崎を奪還できないということである。

 

 しかし、雪斎ほどの男がそんな当たり前のことをわざわざ伝えるのだろうか。

 

 それに織田と勝手に戦うなと指図するのも納得できない。たしかに万が一のために後詰を依頼しているが、それは同盟国に対する援軍であるべきだ。松平は今川の家来になったわけではないのだから。

 

 今川から支援を受けている身ではあるが、それだけは頷けない話だった。

 

「それと、こちらが本題なのですが、船団を用意しております。私はしばらく牧野殿の牛久保城に逗留するので、必要ならば一声おかけ下さい」

 

 鎮真はそれだけ言うと、さっさと瀬木城を後にしてしまった。

 船を貸してくれるという好意は嬉しいが、それにしても鎮真は愛想のない少女だった。

 

 やがて瀬木城に松平の譜代家臣が集まり始めた。

 

 二百の小勢まで膨れ上がったところで、広忠たちは瀬木城を牧野保成に返還して牟呂城に入った。牟呂城の富永忠安が広忠たちの支援を約束してくれたのである。牟呂城と岡崎城は目と鼻の先の距離しかなく危険は大きかったが、ここは危険を冒してでも岡崎の松平家臣を調略するべきだと阿部定吉が進言したのだ。

 

 広忠たちは牟呂城から岡崎城への調略を始めた。

 

 何としても大久保を口説き落とさなければならない。

 

 しかし事態は、そんな広忠たちの決意をあざ笑うかのように急変した。

 

 桜井信定が兵を出して牟呂城を攻めたのである。

 

 信定が攻めてくるのは想定しており、防衛の準備も入念なく行っていた。信定ごとき追い払ってやると意気込んでいた者たちは、敵軍の旗印に上り藤に大文字の家紋を見付けて目を疑った。

 

「そんな」

 

「……おお。このようなことがあっていいのか」

 

 阿部定吉が唖然としている。

 

 桜井軍の先陣にいるのは、大久保の兵だった。

 

「情けなや! お主らは広忠の小娘に籠絡されおったか!」

 

 大久保勢の先頭に現れた大柄な男が、牟呂城に向かって大声で口汚く罵っている。

 

 大久保忠俊。大久保党の総領だった。

 

「広忠は乱世に生きる器にあらず! ただの小娘ではないか! おまけに、器量も凡庸だぞ! なぁお主ら! 広忠のどこに惚れたのだ? 顔か? 身体か? 具合がよいのか? はははははっ!」

 

 大久保忠俊のあまりにも広忠を馬鹿にした発言に、広忠はわっと顔を覆って泣き出してしまった。

 

 阿部定吉は木戸に拳を叩き付ける。

 

「おのれ、大久保! なんと下品な!」

 

「ハッハッハ! 松平に衰運をもたらした阿部のジジイがいるぞ! 息子が清康公を斬ったというのに、恥知らずにも生きておる! なぜ切腹せぬのだ、阿部大蔵!」

 

「貴様らが……貴様らが頼りになるなら、私の役目など無くなるのだ! 誰も広忠様を支えぬから、私が支えておるのだ! 恥知らずは貴様の方だ、大久保忠俊! 清康様から受けた恩を仇で返すとは、大久保は畜生にも劣る一族だ!」

 

「言ってくれるな、大蔵。その口、黙らせてやろう」

 

 大久保忠俊は定吉に向けて矢を放った。

 

 矢は寸分違わず定吉に向かって突き進み、頬をかすめて木戸に突き刺さる。定吉の頬から血が垂れたが、定吉は気にせず大久保忠俊に怒鳴りつけた。

 

「腕が落ちたのではないか、大久保忠俊! 桜井信定に骨を抜かれたか!」

 

「我が矢が当たらぬとは呆れるほどの悪運だな。お主は間違いなく、松平家から運気を吸い取っておるよ」

 

 大久保忠俊は馬首を返す。

 

 定吉がまだ言い足りぬと空気を吸い込んだところで、広忠が「あっ」と呟いた。

 

 矢には文が結われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大久保勢は苛烈な城攻めを行い、敵味方の双方に多数の死傷者を出した。

 

 しかし牟呂城を陥落させるに至らず、大久保勢は日没前に城攻めを切り上げた。

 

 桜井信定は訝しんだ。

 

 大久保忠俊ほどの者が、あの程度の小城に手間取るだろうかと疑問を持ったのだ。相手が松平の姫君だから手を抜いたのかもしれない。

 

 信定は忠俊を呼び出して問い質した。

 

「我ら大久保を疑うというのか」

 

「いや、そうは言っていない。だが、相手は松平の姫君だ。大久保殿も自覚はないが気が引けているのではあるまいかと心配しておるのだ」

 

「そのような気遣いは無用だ。拙者は何度も言っているが、松平家は男子が継ぐべきだと思っている。昨今は姫武将なるものが流行っているようだが、そもそも戦とは男子がするべきもので、女人が入っていい場所ではないのだ」

 

「うむ。それは聞いているが」

 

 大久保忠俊は牟呂城に向かって、広忠を悪しざまに罵っていた。

 

 曲がりなりにも清康公のご息女だというのに容赦がなさすぎると、忠俊の罵声を聞いていた信定も思わず苦笑してしまったが、改めて考えてみるとあれも演技ではなかったかと疑ってしまう。

 

 いかんな、と信定は首を横に振った。疑心暗鬼になっている。

 

「大久保殿の気持ちは察して余りあるが、家臣たちが貴殿に疑いを抱いている。ここは神仏に誓いを立てて貰えないか」

 

「拙者を疑っているのは家臣ではなく信定殿であろうが」

 

 大久保忠俊は思いきり顔をしかめた。

 

 本心を暴かれて面子を潰された信定は、内心で忠俊を激しく憎悪した。だが、ここで忠俊を斬っても何の解決にもならないどころか、逆に大久保が大手を振って広忠に助力してしまう。

 

 信定は大久保忠俊に七枚の起請文を書かせた。これは信定ではなく神仏に対しての誓いだった。熊野牛王の誓紙七枚を継ぎ合わせて書いた起請文で、誓紙の中でも最も厳格な形式のものである。

 

 信定は八幡に奉納された起請文に、ひとまずの安堵を得た。

 

 それからも信定は牟呂城を攻めたが、城は一向に落ちそうになかった。大久保忠俊は陣の後ろに引っ込んでしまい、要請を出しても「なぜ大久保ばかりに血を流させるのか」と言い返される。

 

 初日に大久保勢に犠牲を強いたのは事実である。それに起請文を書かせたせいで、へそを曲げられたようだ。広忠に内通することはないにしても、これで大久保勢は役に立たなくなってしまった。

 

 他の家臣たちは宗家の姫を攻めるのに及び腰になっている。

 

 潮時だった。

 

 信定は追撃を避けるために、夜闇に紛れて静かに兵を引いた。

 

 岡崎城に戻った後も信定は不安になり、大久保忠俊を呼び出して何度も起請文を書かせた。忠俊は合計で三回も起請文を書かされたが、特に不満顔を浮かべず、それがかえって信定を不安にさせたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 桜井信定は岡崎城を乗っ取ったといっても、形式上では広忠の後見として岡崎城の政務を代行している立場だった。

 

 これは信定が当主になれば、他の松平家臣たちが離反すると思われたからである。

 

 嫌われ者の信定はあからさまに宗家を乗っ取るわけにもいかず、甥の信孝を誘って岡崎の城代に付けていた。そうすることで自分への反感を避けようとしたようだ。

 

 信孝は三木松平家の当主である。

 

 当初は我が世の春を楽しんでいた信孝だったが、次第に桜井信定の専横に危機感を抱き始めた。もし広忠が殺されでもすれば、松平宗家は完全に信定のものになるだろう。そうなれば信定の下で甘い汁を吸っていた信孝は、果たして今までのように厚遇されるだろうか。むしろ利用価値がなくなり、失脚させられるのではないか。

 

 大久保忠俊は三木信孝がそう考えていることを見抜いていた。

 

 広忠を岡崎城に戻すためには、信孝を利用するしかない。

 信孝に声をかけて反応を確かめ、寝返りそうなら広忠派に引き込み、信定に付くようならその場で斬り殺す。

 

 忠俊は覚悟を持って信孝と面会した。

 

「……大久保殿か。何用か、とは聞くまでもないようだな」

 

 信孝は忠俊の顔を見て、すぐに何かを察したのだろう。

 

「わしは湯治に行く。あとは好きにせよ」

 

 広忠に付くとしても、失敗されれば自分の立場は危うくなる。

 だが、広忠と全面的に敵対してしまうと、広忠が勝った時に立場がない。

 

 それならあえてすべてを投げ捨て、何も見なかったことにするのが一番得になる。

 

 信孝の無責任な考えに忠俊は見下げ果てた。

 松平宗家を簒奪するような器ではない。だから信定ごときに操られるのだろう。

 

 忠俊は弟の忠員を使って再び牟呂城に矢文を撃ち込ませた。

 

 決行は桜井信定が自身の居城に戻る日である。

 

 城は取れるだろう。

 だが、異変を察した桜井信定が兵を引き連れて岡崎城に押し寄せるのは間違いない。

 

 当たり前だが、奪ったばかりの城は守りにくい。

 

 広忠の手勢が牟呂城を守り抜けたのは、万全の準備をしており、城主の富永忠安が城の構造を熟知していたからに過ぎない。

 

 話は変わるが、ここでちょっとした小話がある。

 

 大久保忠俊が兄弟たちと密議をしていた時のことだ。

 

「忠次、忠員、忠久。我々はこれから大事を成す。たとえ寝言であっても一言たりとも漏らしてはならぬ。一切の気を抜かぬよう心せよ」

 

 兄からそう言われた弟たちは決意を新たにした。

 親しい者、それこそ自分の妻にも打ち明けてはならぬと。

 

 だが、ここで忠久は不安になった。

 

 どうも自分には寝言の癖があるらしい。万が一、それを妻に聞かれたら。そしてそれを井戸端で他人の奥方に伝えてしまったら。大久保家の秘事が漏れてしまい、桜井信定に一網打尽にされてしまう。

 

 忠久は知恵を絞り、誰も考えないようなことを実行した。

 

 寝る前に自分の顎を布で縛ったのである。そしてこれでもう安心だと爆睡したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 決行の日がやってきた。

 

「兄者。内膳(信定)が城を出た。桜井城に戻るようだ」

 

 弟の忠次が告げる。

 

「蔵人(信孝)も湯治に発った。頃合いぞ」

 

 一番下の弟、忠久も戻ってきた。

 

 大久保忠俊は最後の決意をした。必ずや広忠を岡崎に戻すと。

 

 事前に話を通していた林家や成瀬家、大原家などに使いを出した。

 

 いずれも松平家の古参である。

 忠俊が彼らに声をかけたのは、信頼できるからというわけではなく、彼らに話を通さずに事を成してしまうと、後の禍になると思われたからだ。

 

 松平の重臣には他にも酒井家があるが、酒井家の忠尚はあまり信用が置けなかった。大久保忠俊には人を見る目があったようで、史実では酒井忠尚は松平家から離反したり、三河一向一揆に参加して松平家を悩ませている。

 

 事を秘密裏に進めるためには、酒井は避けた方が無難だろう。

 

 やがて大久保家の上和田城に兵が集まり始めた。

 

「広忠様に本懐を遂げさせる。各々、覚悟はよいか」

 

 忠俊の号令に、郎党たちは静かに頷いた。

 

 忠俊たちが少数で奇襲をかけ、岡崎城の門を開き、すみやかに牟呂城の広忠たちを岡崎城に移す。そして信定の兵を野戦で撃退する。

 

 岡崎城の城門を守っているのは石川康利、康定の兄弟である。

 

 忠俊たちは闇夜に紛れて城門に近付いた。足音もなく近付いたが、篝火に照らされて見付かってしまう。

 

「誰ぞ」

 

 誰何の声が上がるが、答えずに斬った。二、三人が倒れた。

 

 石川康利は刀に手をかけたところを、大久保忠員に短槍で突かれた。

 

「く、くせも――」

 

 大久保忠次が石川康利の首に刀を押し当て、一気に引き抜いた。

 

 石川康定も喉に刀を突き込まれ、虫の息になっていた。

 

「……大久保忠俊、裏切ったか。熊野牛王の罰が下るぞ」

 

「起請を破れば地獄に堕ちるが、起請を守れば主に背いたとして七逆罪になる。どうせ罰を受けるのだ。ならば主を立てて、思い残すことなく咎を受ければよい」

 

 忠俊は石川康定に止めを刺し、二の丸に入った。

 

 番兵たちは慌てふためいていた。城代の信孝は湯治に行ってしまっており、石川兄弟が斬られたせいで誰に指示を仰げばいいのかわからず、敵が大久保忠俊と聞けば降伏するか転げ落ちるように逃げ出した。

 

「兄者。本丸を取ろうぞ」

 

「うむ。忠員。お主が先導せよ」

 

「承った!」

 

 槍を振りかざす忠員だったが、三木信孝が湯治に行っているため、ほとんど抵抗らしい抵抗にあうこともなく大久保勢は城主の間まで突き進んだ。

 

 城を取ったと見ると、大久保忠俊はすかさず牟呂に使いを出した。

 

 広忠を迎え入れるためである。

 

 この日、広忠はついに長年の悲願を遂げた。

 

 大久保兄弟が大手門で出迎え、広忠は数年ぶりに岡崎の土を踏んだ。

 

 広忠は気が抜けたような溜息を吐いてしまう。

 

「まるで夢の中にいるようです」

 

 家来たちは滝のように涙を流している。

 

 大久保忠次は感慨にふけっている主君に声をかけていいのか戸惑っていたが、やがて意を決して声をかけた。

 

「内膳が駆け付けるまで時がありません。城主の間にお入り下さい」

 

「……大叔父上が攻めてくるのですね」

 

 広忠の目に悲しみが宿る。

 

 戦いはまだ終わっていなかった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 那古野城にて、その男は肉食獣のごとき笑みを浮かべていた。

 

「どうやら義弟が困っておるようだ」

 

 尾張の守護又代でありながら、事実上の尾張の主催者になっている男。

 

 織田弾正忠信秀だった。

 

 評定の間に列席しているのは信秀の連枝衆(一門衆)、家老衆、城持衆、奉行衆、馬廻衆である。

 

 つまり織田弾正忠家の総力が結集している会合だった。

 

「このままでは西三河が松平広忠に奪われかねん」

 

 信秀の発言の後、口を開いたのは織田信康だった。

 犬山城主であり、信秀の弟である。

 

「松平広忠という小娘の器量は存じていないが、あの清康の娘だ。百に一つは往時の勢いを取り戻すことも有り得るだろう。ならば小さい内に潰しておくべきではあるまいか」

 

「信康兄上はそう言うが、西三河を内膳に任せると決めたのは信秀兄上ではないか」

 

 話に割り込んだのは森山城主、織田信光。こちらも信秀の弟である。

 

「内膳信定は下手を打ったと見えます。このままあの御仁に任せるのは不安ですぞ」

 

 ここで白髪の老人が意見を述べた。

 信秀の腹心、宿老の平手政秀である。

 

 信奈のわがままに振り回されている健気な老人の面影は消え失せていた。

 公卿の山科言継や飛鳥井雅綱らを接待し、御所料を献上した切れ者である。

 

「このままでは内膳は負けるか」

 

「不運な御仁ですな」

 

 信光の問いに、平手政秀が答えた。その返答がすべてだった。

 

 戦国の世では、運のない者から消えていく。桜井信定に肩入れすれば、運気が傾いて共倒れしかねない。

 

「では内膳は助けぬと?」

 

「そうするべきでしょう」

 

「信定が岡崎城に戻る手助けをしても、織田に得るものは少ないですぞ」

 

「では内膳とは切るのか」

 

「捨て置けばいい。広忠にとっては抱えても使えぬ駒だ」

 

 家老の林秀貞も加わり、議論が高まっていく。

 

 信秀は脇息にもたれかかって眺めていた。表情は楽しげだ。

 

 信秀の娘である信奈は議論に参加できなかった。

 初陣も済ませていない小娘である。許可なく口を開けば父の目が凍り付くだろう。

 

 異母兄の信広は真面目な顔をしているが、たぶん何もわかっていない。ただ礼儀正しいため一部の家臣たちからは一目置かれていた。

 

 弟の勘十郎信勝は歯を食いしばって俯いていた。

 場の空気に押し潰されそうになるのを、賢明に耐えている。気弱な信勝にはこの空気は毒だろうなと信奈は少し心配になった。

 

「今川はどうか」

 

 信秀が問うと、一同が一斉に静まりかえる。

 

「広忠は今川家の後詰を得ているというが、まことであろうか?」

 

 織田信光が若干の不安を声に含める。

 

「出てくるだろう」

 

 断言した織田信康に視線が集まった。

 

「だが、今川は駿河を空には出来まい。武田の脅威があるからな。遠江も内乱から立ち直っておらず、動けるのは朝比奈ぐらいだろう」

 

「どうして言い切れる。詳しく話してくれんか」

 

 弟の信光に問われ、信康は少し考え込んだ。言葉を選ぶようにして説明する。

 

「高天神城は福島の代わりに小笠原が入ったばかりで、とても兵など出せる状況ではない。井伊は内乱で兵を失い、家を割って争っていた。天野は先日に動員を解かれたばかりで、すぐには動かせぬ」

 

「井伊が動かないという見通しは甘いだろう。それに飯尾や久能も兵を出せる。朝比奈だけということはあるまい」

 

「そうかもしれんが、我らとて単独で戦うわけではない。水野や佐治などに助勢を頼めばよいのだ。今川が相手とはいえ臆することはない。我らでも戦える相手だ」

 

「二人とも、そこまででよい」

 

 信秀は笑いながら立ち上がった。

 

「義弟には頼らぬ。三河は我ら織田家で収めるとする」

 

 おお、と一同から喜びの声が上がる。

 

「三河を攻めるぞ。者ども。戦支度をせよ」

 

 信奈は迷った。

 自分も出陣したいと言うべきか否か。

 

 迷っている間に、口を開く機会を逃してしまった。

 

「信広。今回はお前も連れて行く」

 

「はっ! この信広、槍働きにて父上をお助け致す所存!」

 

「後方で見物するだけだ。くれぐれも前に出るな」

 

「……は」

 

 信広の目に反感が通り抜ける。

 

 信秀はそれを見て取ったのだろうが笑顔は崩さない。

 

 やはり信広は凡庸だった。

 目だけが笑っていない、あの獣のごとき表情を見ても何とも思わないのだろうか。

 

「あ、姉上。ぼ、ぼく、早く帰りたいです……」

 

「アンタも凡愚よね。父上の血が流れているとは思えないわ」

 

「そんな。ひどいです、姉上」

 

 しくしくと泣いている弟に、信奈は呆れた眼差しを向けた。

 

 

 


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