今川義元の野望(仮)   作:二見健

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二年ぶり更新
作風変わってるけどお兄さん許して


9.松平の姫君

 花倉の乱で討ち死にした井伊直宗には直盛という嫡子がいた。

 

 嫡子が健在なのだから家督の相続は問題なく行われるはずである――というのは江戸時代以降の考え方だろう。

 

 重臣たちによる合議の結果。

 

 井伊の総領を先代当主の弟である直満の息子、亀之丞が襲ったのである。この亀之丞が幼少だったため父親の直満が補佐する形を取ったのだ。

 

 先代の息子、井伊直盛は四十代半ばの男だった。

 

 本来なら大過なく井伊家を継いでいたはずである。だが、父親が花倉の乱に参加するという政治的な失態を犯したため、直盛にその責任が着せられたのである。自らも花倉に参加して、命からがら逃げ延びた直盛は、重臣の合議を押し切れるだけの発言力を持っていなかった。

 

 この決定に憤ったのが家老の小野道高だった。

 

 彼は駿府まで馬を飛ばし、今川義元との面会を取り付けたのである。

 

「話はわかりました」

 

 駿府城にて御簾越しに対面した今川義元は十代半ばの姫君だった。

 

 少女特有のきんきんと響く甲高い声をしており、その見た目はおおよそ武人という言葉から縁遠い人物。箸よりも重いものを持ったことがない、という比喩がよく似合っている小娘である。

 

 小野道高はこのような小娘に二カ国の太守が勤まるのだろうかと訝しむ。

 

「花倉では今川家に弓引いた当家なれど、反逆した先代直宗は戦死しております」

 

「そうですか」

 

「これより井伊家は心を入れ替えて誠心誠意お仕えいたす所存。過去の遺恨は水に流して頂きたいと伏してお願い申し上げます」

 

「信じるに値しませんわ」

 

 当然だろう。

 言葉でどれだけ誠意を述べたところで、事実として井伊家は敵だったのだ。

 

 まだ花倉の乱の戦後処理が終わっていないため捨て置かれていた井伊家だが、いずれ今川家は本腰を上げて井伊家の内紛に介入し、都合のいい傀儡当主を送り込もうとするだろう。

 

 今川家にとっては、これが既定路線なのだ。

 だからこそ小野道高は今川家に利益を示さなければならない。

 

 今川義元が言外にそう告げたことで、小野道高は心胆を寒からしめた。

 

 畳の上でのことだが、手慣れている感があった。

 何よりも、威があった。駿州と遠州を統べる王たる気迫が広間に満ちている。

 

「……質を出します」

 

 一瞬、義元が何かを探るような気配がして、小野道高は身体を硬直させた。

 人質では足りなかったか、いやしかし……と冷や汗を流している彼を余所に、姫の視線は列席している重臣たちの中に向けられている。

 

 その人物は僧形の出で立ちである。男は正座をして黙考していた。少女の目線が男の言葉を求めていることに気付いてないわけがないのだが、戦国大名になったからにはこれぐらい自分で考えて結論を出せと、あえて突き放している様子である。

 

 少女が雑念を抱きまくっていることに気付いた関口氏広が咳払いを一つする。

 

 これでは義元の機嫌を損ねてしまったのではないかと顔面蒼白になっている小野道高があまりにも哀れだった。

 

 小野道高に、気を取り直した義元が問いかける。

 

「それは、誰の娘です?」

 

「直宗の妹にございます」

 

「先代の妹ということは、次代の叔母ですか。不足しているのではありませんの?」

 

「しかし当家には他に質に出せそうな女はおりませぬ」

 

 義元が視線を横に向けた。

 

 関口氏広が頷いた。偽りではない、と言うことである。

 

「よろしいですわ。ならば井伊の娘はわたくしの養女にしてから、関口さんの妹にします。家来のみなさんもよろしいですわね?」

 

 今川家の重臣たちに異論はない。

 

 ちなみに、もし関口氏広が男だったらこの井伊家の女に『瀬名姫』を産ませていたかもしれない。しかしこの世界の氏広は女である。後の徳川家康の正室になるはずの女は、この世界では生まれ落ちることはないようだ。

 

「では井伊家の総領は直盛に与えます」

 

 異議は出なかった。

 

 話は次に移る。

 

 井伊直盛が臣従することは決定したが、今の井伊家は分家の直満が牛耳っている。まずはこれを排除しなければならないのだが、内乱が終わったばかりの今川家には外征を行う余裕がない。

 

「問題は井伊を乗っ取ろうとしている連中の排除ですわね」

 

「最悪、井伊を攻めなければなりませんが、まずは重臣一同で審議してみましょう」

 

 関口氏広が話を振るが、重臣たちが頭を捻っても妙案が出てこない。次第に重苦しい空気になってくる。今川義元は退屈そうに己の爪を眺めていた。

 

「よろしいか」

 

 ここでようやく僧形の男が声を出した。

 

 瞬間、広間の空気が張り詰めた。

 小野道高はただでさえ圧迫されるような空気だったのに、それすらまだ序の口だったということを、きりきりと痛む胃袋から思い知らされることになる。

 

「あら、師匠ですか。どうぞ、お気の済むまで存分にお話くださいな」

 

 義元の声が弾む。ああ、これではまるで、ただの女ではないか。

 

 だが、黒衣の僧侶は一顧だにしない。

 

「井伊直満を駿府に呼び寄せ、斬るべきかと」

 

 激震が走った。

 

 小野道高は腰を浮かせた。

 

 非情にもほどがあった。

 

 これは騙し討ちである。悪名を背負うことになる所業だった。だが、男の口調に迷いはない。そして今川家の重臣たちも異論を唱えず、むしろこれが最善とばかりに納得したように頷いていた。

 

「雪斎禅師の策こそ、今川家が取るべきものと思われる」

 

「異議なし」

 

「戦わずして敵を屈服させる。これこそ孫子の極意なり」

 

 重臣たちは口々に賛意を述べた。

 

 結果、井伊直満は駿府城に呼び出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

『井伊家当主、井伊直満は速やかに駿府に参上して弁明せよ』

 

 そう書かれていた文に目を通して、直満は何としても所領安堵を勝ち取るぞと意気込んでいた。

 

「今川殿は俺を当主と思うておるようだが、井伊の当主は息子の亀之丞なのだがな」

 

 直満は歪んだ笑みを浮かべた。

 

「しかし兄者。井伊家はまたしても今川家に屈服しなければならんのだな」

 

「言うな、直義」

 

 直満は信頼できる弟の直義を引き連れて駿府城に入った。

 

「服従するといっても形だけだ。守護使不入は守らせる」

 

「兄者がそう言うなら俺は従うが……」

 

 地方豪族の独立性を守っていたのが守護使不入である。地方豪族は幕府御家人となり、中央の威光を盾にして、守護からの徴税などから身を守っていた。

 

 この特権を破壊または簒奪することが、守護大名が戦国大名に生まれ変わるための必須条件で、今川家では義元が制定する今川仮名目録追加二十一条によってこの特権を否認することになるが、まだこの法律は施行されていなかった。

 

 駿府城で井伊の兄弟を対応したのは、関口氏広という小娘だった。

 

 いい身体付きをしている。

 教養がありそうで、所作も優雅だった。

 

 いずれはこういう女を近くに侍らせたいものだな井伊直満がにやけていると、関口氏広が足を止めた。

 

 見晴らしのいい渡り廊下だった。

 池のある風流な庭園が見る者の心をなごませる。

 

 氏広は帯に差していた扇子を抜いて、柱にカンッと当てて音を鳴らす。

 

 瞬間、渡り廊下の下から得物を手にした男たちがぞろぞろと現れた。

 

 直満の顔が、サッと青ざめた。

 

「謀ったか、今川義元!」

 

「騙し討ちとは卑怯者のすることぞ!」

 

 関口氏広は振り返りもせずに歩き去った。

 

 井伊の兄弟は顔を真っ赤にして怒鳴り付ける。まだ刀は預けていなかったため、抜刀して応戦しようとするが、無数の槍に囲まれてはどうにもならない。

 

 直満は血達磨になりながら、かろうじて一人に手傷を負わせることができたが、自分の血で足を滑らせて転んだところを槍で突かれて絶命した。弟の直義は兄が死したのを見ると刀を捨てて命乞いを始め、岡部貞綱に「見るに堪えぬ醜さよ」と吐き捨てられて斬首された。

 

 兄弟二人は首桶に入れられて井伊谷城に送り返された。

 

 井伊の総領は今川家の後ろ盾を得た井伊直盛が継ぎ、ここに井伊家の騒動はひとまずの落着を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 さて、花倉の乱の後始末の続きである。

 

 玄広恵探に荷担した福島氏は族滅。わずかな生き残りは諸国に散った。

 

 その中には後に地黄八幡と呼ばれることになる北条綱成も混じっていたのだが、雪斎はあえてこれを捕えようとはしなかった。今川家で飼い殺しにしたところで忠誠心など期待できるべくもないだろうし、川越夜戦の鍵となる北条綱成を横から奪ってしまうと、後の三国同盟が成立するかどうか怪しくなるからだ。

 

 堀越貞基は撤退中に謎の死を遂げ、表向きには落ち武者狩りにあったとされた。嫡子の堀越氏延は駿府で軟禁状態に置かれた。

 

 最終的に堀越家は所領のほとんどを今川家に没収され、かろうじて家名だけは存続した。

 

 また福島正成の死後、無主の城になっていた高天神城は小笠原氏興に与えられることになった。

 

 小笠原家の当主、氏興は信濃守護の庶流である。

 家格は充分であり、今川氏親の娘を母親に持つ。さらに息子の氏助と揃って今川家の通事である『氏』の字が与えられていた。史実では武田信玄から高天神城を守り抜いた人物であり、その実力は申し分ないと思われた。

 

「では、これより評定を始めましょう!」

 

 井伊家の臣従の後、今川義元は私室にお気に入りの家臣を集めて高々と宣言した。

 と言っても関口氏広や岡部元信のような何時もの顔ぶれに、朝比奈泰朝を足しただけである。

 

「アタシも参加して構わないのだろうか」

 

 泰朝は生真面目な性格をしているため居心地が悪そうだった。

 

 こいつら、茶菓子を広げているのである。

 

 これで真剣な話ができるのかと泰朝が救いを求めるように部屋の隅に目を向けると、黙々と茶を点てている黒衣の男と目が合った。

 

 が、男は何も言わずに作業に戻る。

 

 何だ。何なのだ。何か言えよ。泰朝は苛立った。

 

「評定って?」

 

「内患を取り除くことに成功した今、これからどうするべきなのかということですわ。各々の意見を聞かせてくださいな」

 

 茶菓子を手づかみで頬張っていた茶髪ポニー、岡部元信が「めんどくせー」という顔になる。

 

 一方の関口氏広は楊子で切り分けて賞味していた。

 

 これは育ちの差というよりも性格だろう。どちらも名門のお嬢様である。

 元信も最低限の礼儀作法は身に付けているのだが、それをまったく活用していないだけだった。

 

「そうですね。何事においても最初が肝心と言いますから」

 

 最初に口を開いたのはやはりと言うべきか関口氏広だった。

 

「ここで失敗すると再び内乱が起こるかもしれません。慎重に事を運ぶべきでしょう」

 

「え、そうですの?」

 

 まったくわかっていない義元だったが、もはや誰も呆れた視線を向けることはない。

 義元の頭が残念なのは、今川家の重臣たちには周知の事実であった。

 

「新当主とは侮られやすいですからね。私たちが何もせずとも井伊家がお家騒動で満身創痍になり、当家を頼ってきたことは幸運としか言いようがありません。井伊を征伐している間に武田が攻めて来れば最悪ですから」

 

「……お、おーほっほっほ。こ、これもわたくしの威徳あればこそですわ!」

 

 義元は冷や汗を垂れ流しながら、取り繕ったような高笑いをしている。

 どうやら氏広に指摘されるまで自分の立場が盤石だと思っていたらしい。

 

 それに気付いた元信が意地の悪い笑いをする。

 

「ねぇねぇ義元さま」

 

「なんですの?」

 

「今度はこっちから武田を攻めてみない?」

 

「ええっ!?」

 

 義元はビクリと飛び跳ねると部屋の隅まで後ずさった。

 

 早速ヘタレている義元である。

 

「いいい、五子さん、な、なにも武田家でなくとも、もうちょっと戦いやすそうな相手がいるのではありませんの?」

 

 本当に今川家をこいつに任せていいのかと、思わず泰朝は半眼になった。

 

 もちろん元信の発言は冗談である。

 

 議論とは多くの意見を並べることに意味があることを、雪斎の薫陶を受けていた元信と氏広はよく心得ていた。

 

 故に関口氏広は反論を口にする。

 

「私は外征に討って出るのは反対です」

 

「ふーん、氏広っちは反対なんだ」

 

「猪武者のあなたとは違って、私には考えがあるんです」

 

 ふふんと鼻を鳴らして自慢げな感じで口上を述べる氏広。

 

「今は内乱の傷を癒すのが先決。内政を充実させるべきです」

 

 泰朝は声にせず、なるほどと頷いた。

 最近の今川家は戦争続きである。そろそろ立ち止まって後ろを見ることも必要だろう。

 

 元信は少し考え込み「一理あるか」と呟いた。

 流石の脳筋でもこれぐらいは考えられるようだ――と他の者たちが思った直後。

 

「しかし、一理しかない。おまけに一害もあるよね」

 

「一害?」

 

 泰朝は首を傾げる。

 

「停滞は新しい風をせき止めてしまう、と言うことです」

 

「なるほど」

 

 元信の発言を補足したのは氏広だった。口を開けば言い争いをしているという印象がある二人だが、互いのことはそれなりに認めているらしい。

 

 そこで話が途切れた。

 意見を出し合っている全員が、僧形の男を気にしているからだ。

 

 だが男は茶釜を無言で見詰めている。

 

「あの。師匠?」

 

 おそるおそる義元が声をかけると、雪斎は目を閉じてしまった。

 

 その間、ずっと無言である。

 

「やべーよ、やべーよ。お師匠すげぇ不機嫌だよ。これは話しかけたら死ねるって」

 

「いや、不機嫌か? 少し違うような感じだが」

 

 泰朝の見たところ、これは機嫌が悪いというには少し違う。

 

 火をかけた茶釜じっくりと眺めている姿は、そう――何かを待っているようだ。

 

 ちょうど思い至った時。

 

「失礼しますです」

 

 天井から少女が振ってきた。

 

 すわ曲者かと腰を上げた泰朝だったが、よく見れば雪斎の近くにいた忍びである。あの巨乳は忘れたくても忘れられない。泰朝は自分のまな板を見下ろしてちょっとだけ泣きたくなった。

 

「かの姫君は懸塚(かけつか)の港にございますです」

 

「ふむ。そうなったか」

 

 雪斎はようやく口を開いた。

 

 そこでようやく雪斎の機嫌が悪くないことがわかった。

 

「どうやら姫には天運があるようだ」

 

 むしろ、声には弾みがある。

 

「天運とは? 一体どういうわけですの?」

 

「敵国の争乱につけ込むための、格好の口実が手に入りそうだ」

 

「ねぇねぇ、お師匠。五子あんまり賢くないから、もっと分かりやすく言って欲しいんだけど」

 

「松平広忠が駿河に来る」

 

 困惑する元信を余所に、泰朝は膝を打った。

 

 三河だ。

 

 泰朝は静かな感動に打ち震える。

 

 雪斎の冷静な口ぶりから、計画はすでに練られているのだと察した。今でも充分に強大な今川家に、さらに一国を加えようというのである。それをいとも容易いことのように語るこの男の頭は一体どうなっているのだろう。

 

「折角だから、一つ講釈を垂れておこう。今川家の人間ならばすでに知っている話かもしれないが、ここで語ることに意味があるだろう」

 

「あ、五子ちょっとお花を摘みに行ってくるから」

 

 雪斎は腰を上げる。

 話をするのになぜ立ち上がる必要があるのかと疑問に思うまでもなく、彼は逃げようとした元信の首根っこをつかむと頭突きをぶち込んでいた。

 

「ひぎぃ! お師匠の鬼畜! 人でなし!」

 

「……っ、この石頭が」

 

 雪斎は顔をしかめていた。何をやっているのか、この二人は。

 

 おまけに義元も氏広も顔色一つ変えていないのだから、よくあることなのだろう。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 かつての今川家の軍師の目は三河に向けられていた。

 

 三河は海産物が豊富で、石高も高い。加えて三河は小勢力が割拠しているだけで武田家のような強力な勢力が存在していない。当時の松平家は分家が乱立していてまとまりに欠けていた。今川家にとってこれほど格好の獲物は他にいなかったのである。

 

 今川家の軍師、伊勢宗瑞。

 後の北条早雲が三河攻略に着手したのは、遠江を平定してからのことだった。

 

 宗瑞はまず遠江を切り取った。

 

 応仁の乱で西軍の細川勝元側についた今川家は、東軍の斯波義敏と交戦状態に入っていた。斯波義敏は尾張、越前、遠江の守護である。余談だが室町幕府管領である斯波義廉は西軍に属しており、斯波家は一族内でも争っていた。

 

 遠江の守護職はかつては今川家の分家、今川了俊のものだったが、了俊が幕府中央で失脚してからは斯波氏に与えられていた。宗瑞は斯波家を遠江から叩き出して、遠州を今川家の版図に加えた。

 

 次に宗瑞は一万の兵を率いて三河に討ち入った。

 斯波家を追撃するというのもあるが、それ以上に肥沃な三河を欲したのである。

 

 今川軍はまず今橋城の牧野古白という人物を血祭りに上げた。

 その武威に震え上がった東三河衆は一戦もせずに今川に下った。

 

 唯一、渥美半島の戸田家だけは今川家に恭順しなかったが、戸田家は独自の水軍を持っており、攻めても海に逃亡されるだけであるため、宗瑞はこれを捨て置くことにしたのである。

 

 宗瑞は軍を西に向けた。

 東三河の兵を加えた今川家の大軍が矢作川に迫ったのだ。

 

 しかし、奇跡はそこで起こったのである。

 

 安祥松平家の松平長親が西三河の兵を糾合し、五百人の兵だけで今川軍の快進撃を止めてしまった。たかが松平の分家にすぎないはずの男が同族争いを続けてばかりの一族をまとめることに成功し、三河の救世主になったのだ。

 

 松平長親が率いる西三河衆は矢作川だけは決して渡らせまいと決死の抵抗を続け、奇襲をかけて戦意の低い東三河衆を敗走させた。

 

 今川軍の足が止まった。

 

 やがて戦線が膠着すると、宗瑞は背後の戸田家が気になってきた。この状況で戸田家に襲いかかられると、思わぬ敗北を喫するかもしれない。

 

 宗瑞は攻勢の限界に達したと判断して、軍を返したのである。

 

 松平長親は英雄になった。

 

 長親は分家の安祥松平家の者だったが、この戦いによって安祥松平家の勢いは本家を凌ぐようになった。言わば分家が本家に取って変わったのである。

 

 だが、どういうわけか長親は今川軍を撃退した翌年に隠居してしまう。

 

 家は息子の信忠が継いだのだが、英雄の息子というのは偉大な先代と比べられがちになるものだ。

 

 松平信忠は三河物語に『不器用者』と記され、『武勇、情愛、慈悲のいずれも備わっていなかった』とまでこき下ろされている。もっとも三河物語は作者が大久保一族のため、大久保を持ち上げまくり、松平家のことすら悪く書くことが多いから、疑って読む必要がある。

 

 真偽はともかく、松平信忠は暗愚であると思われていたようだ。

 

 最終的に信忠は家臣たちによって強制的に隠居させられた。

 

 後を継いだのが松平清康。長親を超える大器だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 阿部大蔵定吉は胸に決意を秘めて遠江の懸塚に上陸した。

 

 懸塚は天竜川の河口近くにある、遠江の貿易港だった。

 遠州灘海運の中心であり、天竜川水運によって集められた木材が、太平洋航路に乗って全国に輸送されるという。

 

 ようやく陸地に降りることができて、定吉は一息つくことになった。船旅は何度も経験しているが、未だに慣れないものである。

 

「ここが、今川家の領国ですか」

 

 そう言って定吉の背後に降り立ったのは、十代半ばの少女である。

 

 黒髪を三つ編みにしており、眼鏡をかけている少女だった。田舎くさい雰囲気というべきか。素材はいいのだが、いかんせん地味で、侍女の中に紛れると探すのに苦労しそうな容姿である。

 

 そんな地味な少女だったが、一つ目を引くものがあった。

 

 狸の耳と尻尾である。

 

 松平家には始祖が狸だったという言い伝えがあり、宗家の者は狸の飾りを付けることを家訓で定められていた。

 

「う~、気持ち悪い~」

 

 小舟の上でぐったりしている少女が家臣たちに運ばれていた。

 

 少女は広忠の妹で、まだ元服していないため、竹千代と名乗っている。広忠よりもさらに地味な眼鏡っ子だった。こちらも頭に狸の耳を付けている。

 

「ここから陸路で駿府に向かいます」

 

 阿部定吉は松平宗家の姉妹に向かって言う。

 

「歩くのですか?」

 

「姫の分だけ、馬を調達するつもりです」

 

 定吉と数人の側近は歩く予定である。全員分の馬を調達するだけの金がない。

 

 もとより三河侍だ。主に尽くすことに喜びを覚える者ばかりだから、一国を横断するぐらいでは苦にはならないだろう。

 

 だが、姫は首を横に振った。

 

「私も歩きます」

 

「え゛」

 

「いえ。それはなりませぬ」

 

 定吉は諫めた。

 広忠は駿府に到着してから大事を為さなければならないのだ。先のことを考えると、旅の垢にまみれるのは好ましくはない。

 

「いいえ、歩きます」

 

「ですが姫さま」

 

「お姉さま、大蔵(定吉)さんの言うとおりにしましょうよ~」

 

「頼みます、大蔵」

 

 だというのに広忠は何度言っても聞かなかった。

 

 最終的に定吉が折れざるを得なくなった。

 

 定吉は溜息を吐く。

 

 空は快晴である。不吉な気配は感じない。

 

 だが、定吉は己の予感をまったく信じていなかった。あの時も定吉の予感はまったく反応しなかったのだから。

 

 浜名湖の綺麗な景観を楽しむ時間も取らず、一同は駿府城へと出発する。

 

「うぅ~、わかりましたよ~、歩きますよ~」

 

 半泣きで付いてくる竹千代に、広忠と定吉はひそかに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 森山崩れという事件があった。

 

 三河を統一した英雄、松平清康が斬殺された事件である。

 

 清康は尾張に攻め込み、森山に陣を敷いた。

 

 織田信秀の弟、織田信光が兄を裏切って清康を森山に招き入れたのである。

 

 その時、定吉には謀反の噂が流れていた。根も葉もない噂だったが、三河衆の多くがこれを信じていた。

 

 ――阿部大蔵は織田弾正忠と通じている。

 

 その風聞をもって定吉は周囲から裏切り者のように扱われたのである。

 

 定吉は「いずれ斬られるだろう」と覚悟した。

 とは言えここで逃亡すれば噂が真実だったと思われるだけである。定吉にも武士としての意地があったから、槍働きで身の潔白を証明しようと決意した。だが、同輩からの疑惑の眼差しは定吉の想像を超えていた。

 

 定吉は次第に精神的に追い込まれていった。

 

 そしてそれは定吉の息子である正豊も同じだった。

 

 ある時、陣中で馬が暴れていた。

 それを見た正豊は「ついに父が斬られたのか!」と勘違いをしてしまった。

 

 ちょうど近くに清康がいた。

 

 正豊の頭の中では、これまで松平家のために身を粉にして働いてきた父が、根も葉もない疑いによって誅殺されたことになっていた。

 

 正豊の目がカッと憎悪に染まった。彼にとっては父の敵討ちだった。

 

 清康は護衛に守られていたが、正豊はすかさず「父の仇!」と叫びながら接近して刀を抜いた。

 

 驚くほどあっさりと、清康は斬られた。清康を斬った刀は村正だった。

 

 正豊は清康の側近にその場で斬られたが、すべては後の祭だった。

 

 松平清康の躍進はここで終わった。

 森山に集結した三河の軍勢は一戦もせずに敗走し、織田信秀の追撃を受けて大量の死人を出した。松平家の没落が決定付けられた敗戦だった。

 

 松平家の家督は清康の娘である仙千代が継いだものの、仙千代は大叔父の信定(桜井松平家)に幽閉されてしまう。

 

 それから定吉は仙千代を岡崎城から脱出させ、東条吉良家の吉良持広の庇護を受けて伊勢の神戸(かんべ)に亡命した。

 

 そこで仙千代は元服し、烏帽子親になった吉良持広から一字を貰って広忠と名乗った。

 

 広忠はしばらく無聊を囲っていたが情勢に変化がないため、やがて三河に帰国することにした。岡崎城に戻りたいところだが、大叔父に乗っ取られているため、仕方なく長篠の地に潜伏する。

 

 このままでは松平家が分家の信定に完全に簒奪されてしまう。

 

 定吉は暗い想像に身を沈めた。

 この男は息子が主君殺しになってからも、未だに松平家の重鎮という立場にいる。松平家には定吉ほどの外交能力のある家臣がいないのである。そんな定吉の頭脳が未来を描くと、いつも最悪の光景が目に浮んだ。

 

 松平信定は織田信秀の妹を貰っている。

 

 織田から姫を貰うあたり、松平信定は暗愚なのか、あるいは剛胆なのか。

 ともあれ信定は松平宗家の地位と引き替えに三河を売り払うつもりにしか見えなかった。

 

 ――もはや今川を頼る他ない。

 

 その思いが定吉を立ち上がらせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「今川では内乱があったようですが」

 

 駿府への道中で、ふと思い出したかのように少女――広忠が言った。

 

「内乱を征して家督を継いだのは義元という十代半ばの小娘だと聞きます」

 

 そう言えば、その義元は広忠よりも年少である。

 自分よりも若い少女が血で血を洗う家督継承を乗り切り、二カ国の太守として君臨している。一方の広忠は一族に家を奪われ、支援者を求めて各国を放浪する有り様だ。広忠は表向きは平然としているが、内心では義元のことを羨み、口惜しさに胸をかき立てられているのかもしれない。

 

「姉妹の争いですよね~。怖いです~」

 

 竹千代が身を震わせている。

 例えるなら広忠と竹千代が争うようなものだ。まさに末法の世だなと定吉は溜息を吐きたくなる。

 

 今川義元は、姉を斬った。実際に斬ったのは家臣だが、それは些末である。

 

「私も大叔父を斬らなければならないのでしょうか」

 

「……姫さま」

 

 広忠は溜息を吐いた。

 定吉は何も答えられなかった。

 

 数人が街道を進む。

 ここに至っては話題もなく、一同の足取りは淡々としていた。

 

 夕暮れになると旅籠に入り、夜明には出発する。

 

 そして昼過ぎに駿府に到着した。

 この主従は、いきなり駿府城の門戸を叩いたわけではなかった。

 

 定吉は知っていた。

 こういう時は、しかるべき手順を踏むべきだと言うことを。

 

「義元公より先に、太原雪斎なる人物に会わなければなりません」

 

 定吉は言う。

 

 彼の分析は正確だった。今川家の本質を見抜いていたのである。

 

「雪斎ですか?」

 

「はい。今川家の宰相とも言うべき人物です」

 

 広忠は怪訝な目をしていた。

 初耳なのだろう。雪斎の名は三河まで聞こえてこないからだ。

 

「義元公の守役のようなお方です。将を射んと欲すればまず馬を射よと言います。我らはまず太原雪斎を口説き落とさなければなりません」

 

「心の支度はできています。道すがら、ずっと考えていました」

 

 雪斎の居場所を探し回っていると臨済寺という場所にいることが判明した。

 

 臨済寺の前で、二人は頷き合った。

 竹千代は何のことかよくわかっていない顔をしている。

 

 三人はほとんど待たされることもなく寺内に通された。

 

 瞬間、定吉は「あっ!」と叫んでいた。

 すぐに口を押さえたが、してやられたという思いが強い。

 

「おーっほっほっほ! 三河から遠路はるばるご苦労なことですわね! わたくしが今川治部大輔義元ですわ!」

 

 定吉から見て左側で正座している男が、太原崇孚雪斎なのだろう。

 

 黒衣をまとい黒頭巾を被った陰気な男だった。抹香臭い坊主の見た目をしており、存在感はどっしりと重たい。

 

 意識せず定吉は平伏していた。それは広忠も同じだった。

 

「ここは公式の場ではありません。楽にして構いませんわ」

 

「……はっ」

 

 上座にいる姫君にそう言われても、二人ともまだうまく頭が動かない。

 なお竹千代はよくわからないという顔をしていて、広忠が竹千代の頭を床に叩き付けていた。

 

 これほど鮮やかな奇襲があるだろうか。

 

 雪斎と面会し、根回しをしてから義元を動かす。

 そのつもりが、初手で何もかもを止められてしまった。

 

 ――これが本物の外交か。

 

 定吉の肌が泡だった。自分も所詮は三河の田舎者だったのかと思い知らされた。

 

「あなたが松平清康の娘ですの? 存外凡庸な顔をしていますわね」

 

「――っ、松平次郎三郎広忠と申します」

 

 名乗るまでもなく、相手にはこちらの素性は筒抜けのようだった。

 

 慌てて名乗りを上げた広忠の判断は間違いではない。もはや手遅れの感は否めないが、取り返しの付かない失敗ではないだろう。

 

 見方を変えれば今川義元と謁見できているのだ。

 

 これを奇貨にできれば松平家の再興が叶うはず。

 

「此度は私どものために謁見の場を設けて下さったことに感謝します」

 

「それくらい大したことではありませんわ。過去には二度に渡って行き違いがあった両家ですが、戦国の世ですから昨日の敵が今日の友になることもあるでしょう」

 

「は、はぁ……?」

 

 訝しげに片目を細めてしまう広忠に、義元は閉じた扇を口元に当てて、記憶を掘り起こすようにして語り始めた。

 

「たしか松平家は新田義貞の末裔だとか。やまと御所が南北に分かたれた時代には、わたくしたちの先祖は陣営を別にして争ったわけですが、それも大昔の話。同じ源氏であり、名門の末裔ともなれば、手厚くもてなすのは当然のことですわ」

 

「は、はぁ。ありがたき仰せにございます」

 

 新田義貞の末裔というが、ただの自称である。

 広忠にしても大声でそのことを公言するのは憚っているほどだ。

 

「当家はかつて道閲殿(松平長親)に苦汁を飲まされたことがありますが、わたくしは道閲殿を賞賛こそすれ、恨みに思うことはありません。なぜなら名将は名将を知るからですわ。おーっほっほっほ!」

 

 もしやこの姫君は我らを皮肉っているのではあるまいか。

 いや、ただの馬鹿なのでは。

 

 場違いにもほどがある高笑いに定吉は疑念を抱いてしまう。

 

「それで、えっと……師匠。何の話でしたか?」

 

「……話の種が尽きたか」

 

 太原雪斎は広忠たちに目をやると、嘆息混じりに言葉を放つ。

 

「義元公はこう仰られている。必ずお手前を岡崎城に戻れるよう手配するだろう」

 

「何と! それはまことですか!?」

 

 広忠は思わずと言ったように中腰になっていた。

 

 定吉も耳を疑った。こうまで容易く事が運ぶのかと。

 

 彼らは何年も幽閉され、亡命先で雌伏していたのである。

 

 それがこの一瞬で切り開かれた。

 

 ――未来が拓けた。

 

 広忠の瞳が涙に濡れる。定吉も同じように感動していた。

 

 三河人は情の人である。自分の感情に正直で、とにかく純朴なのだ。

 

 すすり泣く二人に、義元が優しげな眼差しを向けていた。

 

「えと、えと、どういうことですか~?」

 

 竹千代は二人が泣いている意味がわからず首をひねっていた。

 

 それと、去り際に竹千代の名前を聞いた雪斎が、なぜか驚いた顔をしたのが定吉には不思議だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 面会の後、広忠たちは今川館に案内されて歓迎された。

 

 宴であり、諸処のことは家老の三浦範高が手配している。

 

 俺たちは臨済寺で座禅を組んでいた。両目を閉じて瞑想していると、義元が鈴を鳴らすような声を出す。

 

「次は三河ですわね、師匠」

 

 瞑想の最中である。

 俺が視線で義元をいさめるも、彼女は浮かれた様子で気にしていない。

 

「ついに今川家の旗が他国に翻る時がやってきたのですわ」

 

「何を言っている」

 

「まずは地を埋め尽くさんばかりの大軍で三河を平らげ、その武威によって尾張までもを切り従えることができれば、その時こそまさしく、わたくしは海道の覇者を名乗ることができるのですわ! おーほほほほ!」

 

 俺は警策(けいさく 木の棒)を取ると、気合いを入れて義元の肩に振り下ろした。

 

「小国、文徳なくして武功あり!」

 

「ひぎぃっ! 禍いこれよりも大なるなし!」

 

 乙女にあるまじき、濁点ばかりの汚い声でわめき始める。

 

 だがまぁ詰め込み教育の成果が出ていたのはよしとするべきか。

 

 なお「小国、文徳なくして武功あり。禍いこれよりも大なるなし」とは春秋左氏伝の引用で、鄭(てい)という国の名宰相、子産の言葉だった。子産は世界で初めて成文法を作った人物である。

 

「いきなり何をするんですの、師匠!? あ、でも、ちょっと気持ちよかったかも……」

 

「鄭は蔡(さい)を攻めて勝利を得たが、大国の晋と楚に幾度も攻められることになった。それと同じように三河に大軍を繰り出せば、武田と北条に背後から襲われて、今川家は没落の道を辿るだろう」

 

「むむむ。それではどうやって三河を取ろうと言うのです?」

 

「そのための松平だ」

 

「なるほど。広忠さんを岡崎の城主にして今川家の徳を示すというわけですわね。傀儡にするにはちょうどいいぐらいの地味な娘でしたし、妥当なところでしょう。でも結局は軍を使うことになりませんの?」

 

 なるだろう。流石の義元もそれはわかるようだ。

 

 だから、俺は言った。

 

「兵数は二千とする」

 

「……は?」

 

 義元は目を丸くしていた。

 

 その反応も当然だろう。二カ国の太守であり、現時点でも家を破滅させる勢いで限界まで募兵すれば二万もの兵を繰り出せる今川家が、わずか二千しか兵を出さないと言うのだ。

 

 下手をすれば義元は物惜しみをしたとして諸国の笑いものになる。

 

「い、いえ、何を言っているんですの、師匠。せめて八千は出さなければ、わたくしの面目が立ちませんわ」

 

 八千など論外だ。駿河を空っぽにするつもりか。

 

「織田が出てくるまでは二千でよい。とにかく急がなければならないのだ」

 

 織田信秀は西三河に攻め込む気配を見せている。

 

 やまと御所に大金を献上して三河守の官位を貰ったらしい。

 

 西三河が完全に信秀のものになる前に、三河を取っておかなければならないのだ。大国化した武田、北条、織田に囲まれるなど洒落にならん。

 

「それでも二千というのは……」

 

「ちなみに、お主は駿府で留守番だ。せいぜい内政に励んでおくように」

 

「内政ですか。わかりましたわ。大船に乗ったつもりでいて下さいな」

 

「やけに素直だな」

 

「わたくしの手にかかれば駿河の街は極楽浄土のごとく大発展するに決まってますわ!」

 

 ああ、なるほど。

 俺の留守中に自由を満喫するつもりなのだろう。

 

 構ってやらないと寂しそうにするくせに。どうせ三日ぐらいで自由にも飽きて家来たちを困らせるのだろう。

 

 俺が出征している間、何人もの家臣たちの胃袋がきりきり舞いするのだろうが、頑張ってくれと心の中でエールを送ることしかできない。主に氏広とか氏広とか氏広とか、本当に大丈夫なのだろうか。俺は激しく不安になった。

 

 

 


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