男は狩った獣の肉と皮を売って生計を立てる猟人であった。
寡黙で表情は乏しく無愛想であり、そのせいで友人と呼べるような者は存在しなかった。
だが、猟人としての腕は確かなものであり、人から狩猟を依頼されることもあった。そして、依頼された狩猟を失敗したことは無かった。
最初は数か月に依頼が一件あればマシであった。しかし、数を熟していくうちに依頼の件数は増えていく。それは腕が評価され、信頼されていく証でもあった。
やがて、男の腕前を聞きつけ弟子を志願する者が来た。初めは断っていたが、志願する者の熱意や依頼の件数が増えてきたこともあって弟子をとることとなった。
独りでしていた狩猟が一人、二人と増えていく。
ある日、男は女を紹介された。無骨な男とは対称的な育ちの良い女である。紹介したのは何度か依頼を受けた依頼人であり、その依頼人の娘である。
依頼人曰く男に一目惚れしたと言う。
何かの冗談かと思っていたが、女の方があまりに熱烈に迫って来るので冗談ではないことだけは伝わった。
女性と縁の無い生活を送っていた男は、どう接すれば良いのか分からず素っ気無い態度を繰り返していた。しかし、女はそんな態度にもめげずに何度も男にアプローチをしてきた。
男は言った。『この仕事はいつ命を落としてもおかしくはない。自分が死んだらどうするのか?』と。
女は答えた。『貴方の居ない世界など耐えられないので、私も死にます』と。
何とも世間知らずで直球な女の回答に呆れたが、そこまで言わせてしまったからには蔑ろにするのは男として恥ずべき行為だと思い、男は女の気持ちを受け入れることにした。
初めて会ってから五年。男と女は夫婦となった。
そして、翌年。男と女の間に子供が生まれた。女の子であった。
男は我が子を抱いたとき戸惑った。早くに両親を亡くしている男にとっては自分の血を分けた子というものに現実感が無く、どうしていいのか全く分からなかったのだ。
妻ができ、子が生まれても夫として父親としてどう生きるべきなのか答えが見つからない。
見つからないので正直に女へ言った。
女は笑って答えた。『そのままの貴方でいて下さい』と。
それで良いのか男には分からなかったが、他に答えも無かったので男はただ真面目に猟人としての生き方を全うした。
獲物を狩り、金を作り、弟子を育て、また狩りをする。それを何年も繰り返した。
気付くと男は大所帯の狩猟集団の頭になっていた。娘も大きくなりいつの間にか歩き回って言葉も喋っている。
娘が初めて喋ったとき、男は娘に父と呼ばれた。
長い時間を掛けてようやく自分が父親であることを自覚出来た。これが家族だというのを再認識出来た。
一度失ったものを取り戻した男の働きは目覚ましいものであり、今まで以上の成果を上げた。
男にとってこの時が紛れもなく絶頂期であった。
しかし、頂点に辿り着くということは、それからは下がって行くということ。
下がり方は人それぞれであったが、男の下がり方、否、落ち方はは酷いものであった。
初めに失ったのは数人の弟子であった。
ある日、帰りが遅く探しに行ったところ、惨たらしい姿となって発見された。誰が誰なのか分からないぐらいに滅茶苦茶になっていた。
その惨劇の場所には今まで見たことのないぐらいに大きな足跡が残されていた。
次に失ったのは妻と子であった。
惨劇を引き起こした犯人を見つける為に男が不在だったときに起こった。
空振りで男が家に戻ると家は破壊され中には赤い大きな染みが広がっていた。
それが嘗て妻と子だと理解してしまったとき、男は絶叫を上げて絶望した。
亡骸を抱き締めることも掬い上げることも出来ず、赤い染みに縋りつくようにして泣いた。
周辺には弟子を惨殺した犯人と同じ足跡が残されていた。
男は仇を討つ為に全てを捨てることを決意した。平穏も地位も金も家も何もかも捨て、復讐のみに生きることを誓う。
その日から男は姿を知らぬ仇を探す日々が始まった。
手掛かりは足跡と残忍な手口。相手はただの獣ではない。必要以上に獲物を食い散らかしており、まるで弄んでいるかのようであった。
探し始めてすぐに仇の正体を知った。
仇は片目の無い獣だという。
見たこともない程の巨体を持ち、獲物を喰らうこともあればただ殺すだけという野生ではあるまじき行為をする最早魔獣とも言うべき存在。
話を聞けば、その魔獣は多くの被害を生んでいた。当然ながら討伐に動いた者たちもいたが、全て返り討ちにあったという。
男も命が惜しければ関わらない方がいいと忠告された。
男にとってそんな忠告は意味を為さない。何故なら命など惜しくはないからだ。
男は歩き回り、話を聞き、魔獣を探す。
そして、遂に見つけた。黒々とした鋼の体毛を持ち、見上げる程の巨体を持った魔獣を。
男は魔獣に挑んだ。命など最初から捨てた戦い。
結果として男は片足を失った。惨敗であった。
武器は殆ど通じず、歯が立たなかった。
だが、一矢報いて魔獣の片耳を切り飛ばしてやった。魔獣はそれに怯んで男にトドメを刺さずに何処かへ行ってしまった。
瀕死の重傷を負った男は、それから一年近くを怪我を治す為に費やすこととなった。
すぐにでも魔獣を追い掛けてたかったが、男の執念とは裏腹に体は言う事を利かない。四肢の一つを失うということはそれだけ重大な欠損であった。
怪我が治った後の男に待っていたのは、無くした足を補う為の訓練であった。
木製の義足を付け、歩くという訓練。全てがもどかしく感じられる訓練。
だが、男は訓練に耐えた。耐えて、耐えて、耐え続けて僅か一年で片足を失う前の動きを取り戻した。
二年間の療養の末に男は再び魔獣を追う。
まだ魔獣が討伐されたという話は聞かない。二年間、いつかその話を聞いてしまうのでは、というのが男にとって最大の恐れであった。
二年間、男は身体能力を取り戻す為に費やしたのではない。魔獣を倒す為の武器も作っていた。
試行錯誤を重ねて作り上げた武器。これならば確実に仕留められるという確信と自信があった。
そして、決着の時は訪れる。
◇
その獣はどこにでもいるような普通の獣であった。
肉食ではあるが小さな小動物しか狩らず、性格も比較的に温厚であった。
幼い子供であった獣は母に狩りの仕方を教わりながら毎日を過ごしていた。
やがて、その日に終焉が訪れる。
終焉を齎したのは猟人たちであった。
肉や毛を求めていたのだろう。獣の母は猟人たちの武器によって呆気無く命を奪われた。
残された獣は何が起こったのか分からず、猟人たちを恐れて逃げ出した。
あまりに夢中で逃げたせいで獣は道が途中で切れ、崖になっていることも気付かなかった。
一瞬の浮遊感の後に獣は崖から転がり落ちた。崖肌に何度も体を打ち付けたときに運悪く片目が潰れ、最後に脳天に強い衝撃を受けて意識を失った。
獣が目覚めたとき、獣の世界は一変した。
全てが曖昧に見えたのだ。何もかもドロドロに混ざったように境界が無くなり、分からなくなった。
残された目を通して見える光景に獣は恐れることを知らず、寧ろ子供のようにはしゃいだ。獣の知性は赤子のように純真無垢とも言えるものへ変わってしまった。
それから獣は独りで摩訶不思議となった世界を生き始める。
獣がお腹が空いたと思えば、曖昧な世界に食べ物が現れる。獣が遊びたいと思えは玩具が現れる。
獣はそうやって何でも与えてくれる世界を楽しんだ。
実際のところ、世界は獣に何も与えてはいない。強く意識することで曖昧になってしまった世界で認識出来るようになったに過ぎない。
食べ物も玩具も本当はどんな形や姿をしているのか知らずに。
食べて遊び寝る生活を送り続ける獣。すると、獣の体に不思議なことが起こる。
食べれば食べる分だけ獣は大きくなっていき、体は強く逞しくなっていくのだ。
本来ならばとっくに成長が止まってもおかしくはない年齢に達しても獣は大きく成り続けいった。
壊れて見えるものが見えなくなると同時に獣の中にある枷も壊れ、獣は際限無く成長し続ける。
大きくなればお腹が空く。そうすれば一杯餌を食べる。
お腹が一杯になれば眠る。
退屈ならば玩具で遊ぶ。
獣はそうやってずっと過ごしてきた。そして、いつの間にか魔獣と呼ばれるようになっていた。
ある日、何かが魔獣にじゃれついて来た。
遊び相手が来てくれた魔獣は喜んで一緒に遊んだ。何かが飛んでいったが気にしない。相手が遊び疲れるまで一緒に遊んだ。
すると、急に耳が痛くなった。魔獣は痛みに驚いてその場から逃げ出してしまった。
赤子よりも純真な魔獣にとって痛みはとても苦しいもの。悲しくなって、悲しみが薄れるまで走り続けた。
悲しくなくなると魔獣は立ち止まって遊んでくれた相手を探す。でも、見つからない。
魔獣はまた悲しくなって歩き続けた。
そして、二年後。魔獣ははぐれてしまった遊び相手を見つけた。
魔獣はとても嬉しかった。また遊んでくれる。
◇
自分を遥かに上回る魔獣が猟人の前に立っている。片方しかない目で猟人を睨んでいた。
猟人は臆せず睨み返す。彼の腕には身の丈よりも長く、猟人の腕よりも太い槍が握られていた。
猟人がこの日の為に作った特製の武器であり、これならば魔獣の頑丈な体を突き抜ける。
息を荒げている魔獣。餌にありつけるので興奮している様子。
そんなに喰らいたければ喰らわせてやる。ただし、代償として命を貰う。
未来など見ていない捨て身の男に最早恐れるものなど何も無い。
魔獣が走る。男は武器を構える。結ばれた因縁が一つに重なる。
──瞬間、空から降って来た赫い彗星が男と魔獣を纏めて吹き飛ばした。
原形など残らず肉は礫となって辺りに散って行き、血煙は衝撃の余波によってニオイと共に彼方へ。
出来上がった大きな穴。男と魔獣がいた名残は大地の染みとなり、その上で踏み躙るようにして立つのは銀色の龍。
『裂く』という言葉を体現させたかのような全身の鋭さ。
羽ばたくことに全く適していない銛のような両翼。それでどうやって飛ぶのか想像も出来ない。
空のような水色の眼が自分の足元を一瞥。たったそれだけで興味を無くす。
両者の因縁が銀色の龍の介入で呆気無く終わる。しかも、龍が現れたのは至って単純なもの。
自分の縄張りに入って来たから。それだけである。
あまりに無慈悲な結末。復讐も因縁も恩讐も関係無く消し飛ばされた。
無粋の極みである龍の所業。だが、それを咎めるものなど存在しない。例え、真実を知る第三者が居たとしても咎めることは出来ないだろう。
銀色の龍が圧倒的な強者故に。
縄張りに入って来た邪魔者を消した龍は、胸を赫く輝かせながら空気を吸い込む。
両翼の後方から赫い光が噴き出したかと思えば一瞬で空へ飛び上がり、音を置き去りにして彗星のような赫い尾を残して飛び去ってしまった。
龍が飛び去った後、何も残らない。
誰も知ることはないだろう。男の復讐の物語を。魔獣の無邪気な物語を。
そして、銀色の龍のそれらを無に帰す強さを。
誰も知ることは無い。知る由も無い。
長い前置きがありますが、バルファルクがヒュー、ドカーンと彗星を放つ話です。