MH ~IF Another  World~   作:K/K

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白色の使い

 べちゃべちゃと道を歩く複数の足音。あまり舗装されていない道である為、水はけが悪く、歩く度に湿った音がする。

 足音の主は五人の男女。会話をしながら歩いている光景は和気藹々としたものだが、それぞれ腰や背中に携帯袋と武器を所持している点から一般人でないことが分かる。

 

「なあなあ。まだか? まだか?」

 

 伸ばした赤毛を後ろで一本に束ね、そばかすが少し目立つ二十歳前後の青年が前を歩く男の肩を指先で叩く。

 

「もう少しだと思うけど」

 

 青年に急かされながら、前を歩く男は地図を開いて現在位置を確認する。男も赤毛でそばかすがあり、後ろにいる男とよく似た顔立ちをしているが、こちらは赤毛を短く切り揃えている。

 

「ちょっと私にも見せて下さい」

 

 黒髪の長髪に眼鏡を掛けた女性が地図を覗き込む。するとその端正な顔を顰めた。

 

「この地図、逆さまじゃありませんか? ローグ?」

 

 黒髪の女性に指摘され、ローグと呼ばれた短髪の男は少しの間地図を睨むように見る。そして、小さく『あっ』という言葉を洩らした。

 

「しっかりしてくれよー。兄貴」

「あれ? 一体どこから間違えていたんだ? お前は分かるか? レオ?」

「俺が知る訳ないじゃん」

 

 ローグの質問にレオと呼ばれた青年は肩を竦める。呼称と顔立ちから分かる通りレオとローグは一つ違いの兄弟であり冒険者でもある。二人揃って冒険者となったという過去を持つ。

 地図を正しく持ち直して改めて見てみるものの、既に自分たちが何処にいるか分からなくなっていた。周りに目立つものもなく一行は完全に迷子になったことを悟る。

 

「はあ……困りましたね」

 

 黒髪の女性が額に手を当て、疲れた様に溜息を吐いた。

 

「今日は野宿になりそうだね」

 

 特に困った様子も無く言うのは、茶髪を肩にかかる程度まで伸ばした女性。小柄である為、少女にも見える。

 

「ネイはそれでいいかもしれませんが、こう何日も野宿が続くと私もそろそろベッドが恋しくなってしまいます」

「あはははは。リヨナは繊細だねー」

 

 黒髪長髪の女性の名はリヨナ。この集団の副リーダー的存在。そして、ネイと呼ばれた小柄な女性こそが皆を率いるリーダーである。見た目と体型のせいで幼く見えるが、この中で年長者である。

 

「ナハだったら、街までの道が分かるんじゃない?」

 

 ネイは集団の中で最後尾にいる人物に話し掛ける。その人物は、見た目の年齢は二十代半ばの若者であるが、異様な風体をしていた。

 まずはその衣服。上から下まで何故か左右非対称なのである。上着は右袖が長袖で左手袖は半袖。色も右側が濃い茶色に対し、左側は薄紅色をしている。履いているズボンも片方は裾が足首まであるが、もう片方は膝下までの中途半端な長さをしていた。

 頭には何種類ものの鳥の羽で飾られた冠を被っており、両頬には赤い顔料で三本線が引かれている

 

「……我々は今分岐に立っている。……運命によって流され、たどり着いた分岐に。……先にあるのは安寧か苦難。……安寧を取るのならば日々を変わらずに生き、大いなる流れから外れて生きることとなる。……苦難を選ぶならば我々は触れてはならない流れに呑まれていくだろう。……だが、それはどうしようもない。……全て運命。……例え、それが異なる運命と重なるものであろうと」

 

 ブツブツと独り言のように吐かれた言葉は、抽象的であり回りくどく難解とも言える内容であった。

 

「相変わらず何を言っているのか……」

「うーん。つまりは、普通の事か悪い事が起きるってことかな?」

 

 とある民族の出身であるナハ=ニクは、常に常人には理解不能なことばかり喋っている。運命の流れを読む力がある一族――奇抜な格好もその一族の伝統衣装らしい――であるが、傍から見れば良くて変人。悪くて狂人の類にしか見えない。

 仲間も言っていることの殆どが理解出来ない有様であった。

 

「……異なる運命と交わる。……即ち既にある運命と違うということ。……逆らうことは出来ない。……我々の運命、宿命、流点、分岐、選択は既に始まり、同時に終わっている。……全ては運命の糸を操る神々の手の中」

 

 悟ったように独り言をし続けるナハ。リヨナは、それを不気味そうに眺めている。

 

「いい加減もっと分かり易く言ってもらえると助かるのですが……」

「まあまあ。ナハの言うことって大概当たるじゃん。私たちが気を付けていれば、良い事があるかもしれないよ?」

 

 前向きな意見を言うネイ。

 

「当たるかもしれないけど、それって僕たちがそういう風に捉えているから当たっているって感じというのが近いかも」

「俺は正直あんまり信じていないね。占いよりもはっきりしない言い方だから」

「こらそこ! 茶々入れない!」

 

 隣に内緒事のように囁くような体で皆に聞こえるような声量で話し合う兄弟に、ネイはびしりと指差しして注意する。

 彼らがパーティーを組んでまだ三年も経っていない。個人の経験もまだ新人の域を出ていない冒険者である。今回の仕事もとある森から薬草や鉱石などを採取してくるという簡単なものであったが、些細なミスで余計な時間を食う羽目となっていた。

 行きは気を張り慎重になるが、仕事帰りに怪我や失敗をするのは新人冒険者特有のものである。一流と呼ばれるには最初から最後まで完璧に熟してこそ。

 

「でも本当にどうしましょうか。食料も薬も大分消費していますし、あまりここら辺りは詳しくありませんし、どんな魔物が出るかも分かりません」

 

 野宿するにもそれなりの事前情報が必要となる。夜行性の魔物が多い土地で野宿などほぼ自殺行為に等しい。

 幸いまだ日が高いが、あとどれほどこの森を彷徨うのか分からない。早いうちに打開策が欲しいところであった。

 

「……兆しだ」

 

 ナハが空に向かって指を向ける。皆がその方向に目を向けると、空に向かって一筋の煙が昇っているのが見えた。

 

「人か、もしくは家があるのかもしれませんね」

「いざという時には頼りになるねぇ! ナハは!」

 

 ネイは褒めながらナハの肩を軽く叩く。褒められてもナハの表情は微動だにしない。

 

「これでもっと愛想が良ければなぁ」

「いやいや。これも彼の持ち味なんだよ」

 

 ナハの無愛想に兄弟がそれぞれの感想を洩らす。

 

「兎に角早く行ってみよう!」

 

 ネイの号令に皆が煙の方角に向かって歩き始める。

 

「……始める。……分岐点が。……不幸は無数の羽音に運ばれ、禍は闇に紛れて襲い掛かってくる」

 

 小さく呟くナハの声は、皆の足音に掻き消され誰の耳にも届くことは無かった。

 

 

 ◇

 

 

 煙の下に辿り着いた一行は目の前の光景に少し驚いた。人一人、小屋一つでも居れば十分であったが、そこにあったのは多くの家。働いている人たちも沢山居り、明らかにそこは村であった。

 

「おや? 旅の方々ですか?」

 

 村の入口に立っているネイたちに気付き、白髪の老人が人の良さそうな笑みを浮かべながら声を掛けてきた。

 

「あの……実は私たちは冒険者でして……」

 

 少しだけ言い淀みながらネイは自分たちの素性を明かす。言い辛そうにしていたのは、冒険者という人種は一般人からの好き嫌いがはっきりと分かれている職業なのだ。

 個人の差などがあるが基本的に冒険者はプライドが高い。自分たちが特別な仕事をしていると自負していることからくるものであるが、そのせいか、一般的な職に就いている者達を見下す傾向にある。その結果小さな村などで横暴な振る舞いをし、問題を起こすことも多々あった。

 そのせいで村や特定の施設が冒険者の立ち入りを禁止にしたり、冒険者だと分かった途端、問答無用で外に叩き出すなどのことが起きている。

 格好からすぐに冒険者だとばれるのが分かっていた為、ネイは隠さずに素直に素性を話し、誠意を見せることにした。

 

「ああ、そうでしたか。あの森を歩くのは大変でしたでしょう?」

 

 老人の態度は温厚そのものであった。それどころかこちらへの気遣いさえ見せている。身分を明かす度にあまりいい顔をされないネイたちにしてみれば、ある意味新鮮な経験である。

 

「実は、少し休める場所を探しているんですが……?」

「それなら、この村の奥に食堂を兼ねた宿屋があります。そこに行くといいでしょう。食事も中々のものですし、宿代も安いですよ」

「そうですか! ありがとうございます!」

 

 礼を言い、老人の言う宿屋に向かおうとするが、ネイはふと気になったことがあり老人に尋ねる。

 

「宿屋があるって言いましたが、この村は結構外から人が来ているんですか?」

 

 あまり大きいとは言えない村の中にある宿屋。食堂を兼ねているというが、村の人間が頻繁に利用するとは考えにくい。やはり商売として成り立たせるには、それなりの理由があると考え、それと同時に何らかの益なるものがあると冒険者の直感が囁く。

 

「あの宿屋は親子で経営しているのですが、まあ、半分趣味のようなものもありますね。それでも、そこそこお客さんは入っていますよ」

 

 期待した答えは無かったが、それでもこの村には何らかの理由で来訪者が多いというのは分かった。

 

「そうですか。ありがとうございました」

 

 一礼した後、ネイたちは村の奥に向かう。

 移動の間に村の様子を観察する。決して大きい村とは呼べないが、それでも結構な人数の村人が確認出来た。

 誰も彼もが入口の老人と同じく、ネイたちの姿を見ると挨拶をしてくる。今まで無かったと言っていいほど気さくな人達であった。

 

「何か随分と感じが良いですね」

「珍しいな、こういうのは」

「いつもなら、顔を顰められるか無視されるのが多いからね」

 

 本来ならばこれが普通と呼べる対応の筈が、冷遇に慣れてしまったネイたちは悲しいことに違和感を覚えてしまう。決して嫌な気分では無いのだが。

 

「いつもこんな感じだったらいいのにね?」

 

 ネイが普段のことを思い出し、苦笑する。

 皆がやや戸惑っている中で、ナハだけは普段と変わらず、呟き続けていた。

 

「……渦巻くのは業。……哀しみ、怒り、憧憬、崇拝が混沌としている。……既に魅入られているのか? ……否、望んでその道を歩いている。……根は何処までも深い」

 

 不吉さが漂う言葉も声が小さ過ぎるせいで誰にも届かない。

 しばらく道なりに沿って歩いていると、目の前の民家よりも一回り以上大きな建物が見えてきた。

 

「あそこのようですね」

「行こ行こー!」

 

 少しだけ歩く速度を上げる。

 建物の前に着く。建物には看板など無く、前もって情報を聞いていなかったら宿だと分からない。

 

「すいませーん!」

 

 扉を軽く叩きながら、中の人たちに聞こえる程度の声で呼び掛ける。

 反応はすぐにあった。

 扉の向こうからタッタッタと足音が聞こえてくる。

 

「はい! お待たせしました! 御用は何でしょうか?」

 

 現れたのは清楚な衣服を纏う二十歳前後の女性。栗色の髪を横で束ね、肩に掛けるように垂れ下げている。

 

「実は、今日ここで泊まりたいのですが……」

「お客さんですか! ちょっと待ってて下さいね! お父さーん! お客さーん!」

 

 奥に向かって呼ぶと、少し経ってから男が一人やってきた。

 歳は見た目からして四、五十歳。少女と同じ栗色の髪をしているが、所々に白髪が混じっている。恰幅が良く、捲られた袖から出ている二の腕は、冒険者としても通用するのではないかと思える程太く、逞しい。

 女性の言葉や事前に老人から聞いていたことから、この男性が女性の父親らしい。

 男性は目を細め、鋭い目付きで品定めをするようにネイたちを見る。

 

「ああ、よくおいで下さいました。さあさあ。どうぞこちらへ」

 

 厳つい顔に反して物腰の柔らかい態度。外見に少しだけ威圧されていたネイたちは、表情に出さずに安心した。

 ネイたち女性は娘の方に連れられ、男性陣は娘の父に連れられて泊まる部屋へと案内される。

 

「ここです」

 

 部屋の前に立った娘がそう言いながら扉を開ける。

 

「わあ」

 

 思わず感嘆の声を出してしまう。

 決して内装が豪華な部屋では無い。ベッドが二つ置かれ、椅子やテーブル、クローゼットと最低限の家具が置かれただけの簡素な部屋であったが、木の枝を屋根に、敷き詰めた草をベッドに、自分の腕を枕にして野宿をしてきたネイたちにしてみれば十分過ぎる程の部屋であった。

 

「良い部屋ですね!」

「そうですか? ありがとうございます」

 

 社交辞令と取られてかもしれないが、紛れも無い本音であった。

 

「これからどうしますか? 食事を先に済ませるなら、今から一時間後にお出しできます。もしよろしければお風呂の方も準備しますが……」

「ぜひお願いします!」

 

 身だしなみ。清潔とは嫌でも疎遠となってしまう冒険者業だが、やはり女性として自分が日々薄汚れていくのは我慢出来ない。

 

「ではすぐに準備しますね」

 

 一礼して去って行く娘。残った二人は、このままベッドの上に飛び乗りたい衝動に駆られるが、綺麗とは言えない格好をしている為それをグッと堪える。丁寧な扱いをしてくれる相手には、それに見合った態度でいなければ申し訳ない。

 しばらくの間、部屋の中で無駄話をしながら時間を潰す。そして、三十分程経ったとき娘が部屋を訪れた。

 

「待たせて申し訳ありません。お風呂の準備が出来ました」

「はい!」

 

 ネイは嬉しそうな態度を隠さず、リヨナも表面上は落ち着いているものの、内心ではネイと同じぐらいに喜んでいた。

 娘に風呂場まで案内されると、脱衣場で装備を外す。この時二人とも短剣を一本だけ持って風呂へと入った。これは、宿屋の親子を信じていないからではない。冒険者にとって身に染み付いた習慣とも言える。実際、彼女らには無意識の行動であった。

 湯船に浸かる前に体を湯で流す。そのまま体を洗おうとしたとき、リヨナが気付く。

 

「石鹸がありますね」

「そうなの? 取ってくれる」

 

 リヨナからネイに石鹸が手渡され、それをタオルで擦る。泡が立つと同時に花の香のような甘いニオイも立ち始めた。

 

「良い香り……もしかしてこれって高いやつかな?」

「かもしれませんね。でも、こう言ってはなんですが、この宿にはあまり似合わないものかと」

 

 きめ細かい泡立ちから、一般的に売られている様な石鹸とは考えづらく、それこそ貴族たち相手に売られているような高級品である。

 

「自家製?」

「その可能性も否定できませんね」

「まあ、どっちでもいいじゃん。せっかくだから使わせてもらおうよ」

「そうですね」

 

 汚れた肌を石鹸の泡で清めた後、湯船に入り疲れと汗を流す。三十分程湯を堪能した後、ネイたちは風呂から上がった。

 脱衣所には、宿屋の物らしき簡素な着替えが置いてある。折角綺麗にしたのに、薄汚れた衣服を再び纏うことに抵抗があったネイたちは喜んでそれを着る。この服からも風呂場にあった石鹸のニオイがした。

 脱衣所の外に出ると、ネイたちと同じ格好をしたローグとレオが立っている。彼らからもまた花の香りが漂ってきた。

 

「遅いなー。女の風呂は長すぎじゃないのか? あんなもんさっさと洗って入って終わりだろ」

「レオ。あんまりとやかく言うもんじゃないよ。女性には女性の事情があるんだから」

 

 ローグが文句を言うレオを窘める。

 

「ごめんごめん。待たせたね。あれ? ナハは?」

「あそこにいる」

 

 レオが指差す方に目を向けると、ナハが壁に背をもたれさせて瞑想している。他とは違い宿屋が用意した服を着ておらず、いつもの姿をしている。

 

「何で着替えてないの?」

「それどころか、風呂にすら入らないぞ」

「どうかしたんですか?」

「何か色々言っていましたが、要約すると『気が進まない』らしいそうです」

 

 相変わらず掴み所が無いというべきか、本心が分からない仲間の行動。悪人でないことは間違いないが、時折ついていけなくなることがある。

 

「……とりあえずご飯を食べに行こうか」

 

 仲間の奇行はひとまず置いておくとして、腹が空腹を訴えつつあるのでそれを満たすことを優先とした。

 食堂へ行くと、大きなテーブルの上に様々な種類の料理が置かれ、出来たてだと誇示する様に湯気を上げている。

 野菜をふんだんに使ったサラダ。厚く切られた肉のステーキ。燻製肉と野菜が入ったスープ。小麦の香り漂うパン。

 

「おおー!」

 

 レオが目の前の料理に目を輝かせる。他の面々もほぼ同じであった。個人の宿屋である為、そこまで豪勢な食事を期待していなかったが、予想を大きく上回る料理を出されれば無理も無い。

 

「さあ、どうぞお席の方に」

 

 娘が言うと同時にネイたちは飛び掛かるような勢いで着席する。唯一、ナハだけは急がず慌てずマイペースで空いた席に向かっていた。

 皆が席に着くと同時に四方から手が伸び、テーブルに置かれた料理が次々とネイ達の手元に運ばれたかと思えば、次の瞬間には彼女らの口の中へと消えていった。

 

「んー」

 

 舌が多彩な調味料、香辛料、旨味を感じ取るとそれが一気に脳まで駆け抜け、感動で脳が震える。ネイ達が、ここにくるまで食べてきたものといえば乾燥させ日持ちを良くした塩辛い肉と、小麦粉を練って固め、食べる時に水でふやかすパンもどきだけ。

 秘境、荒地など人の手が及んでいない土地、文明の無い場所で仕事をすることから冒険者にとって食事とは数少ない楽しみである。何せ場所が場所ならば、得体の知れない植物や動物、虫などを嫌でも食べなければならない。焼いて食べる、塩をかけて食べるなどまだ良い方で、最悪生のままで食べなければならない状況もある。殆ど獣の所業である。

 手の込んだ料理は人であること、人の文明を思い出させる。

 美味しい、美味いという世辞を出す余裕が無い程、勢いよく食事を腹の中へと放り込んでいく。傍から見れば品が無いが、娘の方は顔を顰めることなく忙しなく食べる様子を嬉しそうに眺めていた。

 大量の料理がネイたちの食欲によって瞬く間に消えていく。そんな中で、ナハだけはパンを千切り、それを一定のペースで黙々と食べている。呑み込むようにして食べる他とは違い、一欠けらのパンを数十回咀嚼してから呑み込むという非常にゆっくりとした食べ方であった。

 ナハがパン一つ食べ終わる頃には、テーブルの料理はほぼ完食されていた。仲間に気遣われなかったように見えるが、ナハ自身の食がとても細いことが仲間内で理解されているからこその結果である。

 彼は信仰上の理由で殆ど食事をしない。しても数日に一回程度。飢えない理由は、彼曰く目に見えない何かに力を分けてもらっているかららしい。

 

「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです!」

 

 限界寸前まで食べたネイが満足した表情で、料理の感想を言う。

 

「お口に合ってなによりです。父も喜びます」

 

 食欲が満たされると、今度は別の欲がネイ達の中で湧き上がってくる。瞼が重いとかんじる程の眠気。睡眠欲である。

 大口を開けて欠伸をするレオ。ローグも目を瞬かせている。リヨナも口を手で隠しながら欠伸を噛み殺していた。

 

「お疲れのようですね。どうぞお部屋の方でお休みになって下さい」

 

 娘の言葉に従い、ネイたちは自室へと向かっていく。

 

「あれ?」

 

 その途中で気付く。ナハの姿が無い。

 

「何処へ行ったんだろ?」

「また散歩じゃないですか? 寝る前によく外をぶらぶらしているのを見ますし」

 

 多少心配であったが、よくあることであり、いつの間にか戻ってきていることも多々あったのでナハならば大丈夫であろうと思い、特に焦ることなく部屋へと戻っていった。

 

 

 ◇

 

 

 仲間から一人離れたナハは、村の中を一人歩いていた。既に日が沈み、月が顔を出しているので村の外には誰一人居ない。家の中で一家団欒し、食事をしているのかもしれないと考えるが、どういう訳か周りの家からは会話も物音も聞こえない。あまりに静かなのである。

 各家の閉じられた窓の隙間から零れる光。まだ眠ってはいないのが分かるが、ならば何故これほどまでに静かなのか。

 ナハは立ち止まり、目を閉じ、意識を両耳に集中させる。すると掠れ、掠れであるが声が聞こえてきた。

 

『偉大――――よ――――白――――よ――――――我ら―――――救い―――――』

 

 何かに対し、何かを唱えている。それが祈りの言葉であることが、自然や運命を崇拝するナハには分かった。

 聞こえてくる声は、それ一つだけではない。小さく、囁くような声で全ての家から何かへ祈っている。

 常人ならば、まず不気味に思うであろうが、ナハは表情一つ変えずに黙って歩き始める。

 目的が無く彷徨っている訳では無い。彼には彼にしか聞こえない声、見えない何かによって導かれており、その意思に従って動いていた。

 そして辿り着いた場所は、村から少し離れた所にあった。

 家の焼け跡。燃え跡からかなり大きな家であったと推測されるが、完全に燃え落ちており原型は殆ど残っていない。せいぜい家を支えていた黒焦げの柱が刺さっているだけ。

 木々のせいで村からではまず見えない位置にある家。しかし、見れば違和感を覚える箇所が多々あった。

 焼けた土から青々とした雑草が生えている。このことからこの家が火事になったのはつい最近のことではない。そうなると何故村の者たちは、それほどの期間この建物を放置しているのかという疑問が出てくる。人手が無いというのなら分かるが、それでも一切手付かずなのが不自然であった。

 まるでこの場所は――

 

「……墓標」

「どうかしました?」

 

 独り呟くナハに答えるように声が掛けられる。それに驚くことなく、ナハは至って冷静な態度で視線を後ろに向ける。

 そこには笑みを浮かべる宿の娘。ネイたちを迎えた時と変わらぬ笑みであったが、ナハはそれを無表情で見ていた。

 

「散歩ですか?」

「……」

 

 ナハは答えない。娘は気を害することなく話を続ける。

 

「ここには立派なお屋敷が在ったんですよ。すごく綺麗で大きな屋敷が」

 

 ニコニコと笑いながら、まだ在った頃の屋敷のことを思い出しているようであった。

 

「そこに住む人たちは、みんな優しくてとても親切な方達ばかりでした。村の人たちも、色々としてもらって皆感謝している筈です」

「……」

「でも、あんな不幸が起きるなんて……本当ならここを綺麗にしてちゃんとした場所にしたかったんですが……あまり私たちの村は裕福では無いので……」

 

 哀しみと申し訳なさからか目を伏せる娘。

 

「……全ては虚ろの言葉」

「え?」

「思いに敢えて蓋をし、心の無い言葉を紡いでも無意味。この地、この跡を見れば真実が分かる」

 

 ナハは、この場所に着いた時からある強烈な思念を感じ取っていた。それは『怨み』『憎しみ』『怒り』という負の感情。

 感じ取ったまま考えると、この場所はこれで『完成』なのである。朽ち果てた残骸が広がるこの場所は、渦巻く負の感情を向けられた者にとっての『墓標』なのだ。

 

「……おっしゃっている意味が分かりません」

「……それもまた虚言だ」

「やっぱりおっしゃっている意味が分かりません」

 

 あくまで娘は笑顔を浮かべ続けている。ナハは、感情を感じさせない瞳でそれを見ていたが、やがて目を離して何処かに向かって歩き始める。

 

「何処へ行くんですか?」

 

 娘の問いに答えず、ナハの姿は夜の闇の中へと消えていった。

 ナハが消えていった方向をしばらく見ていた娘であったが、浮かべていた笑みが消えると同じタイミングで視線を外す。そして、今度は朽ちた焼け跡へと目を向けた。

 娘は冷え切った眼差しで焼け跡を見ていたが、いきなり建物の残骸を蹴り付ける。一度では収まらず、何度も何度も蹴り続けた。

 静まり返った夜の空に、娘の蹴り付ける音が木霊し続けていく。

 

 

 ◇

 

 

 翌朝。眠りから目の覚めたネイはベッドの上で仰け反るように背を伸ばす。柔らかなベッドで寝ていたおかげで背筋から指先まで芯が通ったように伸びる。

 

「ううーん!」

 

 動きが滞っていた血液が全身を一気に駆け巡り、半覚醒であった脳に活力を与えて覚醒させる。

 

「おはようございます」

 

 既にリヨナの方は目を覚まして着替えも済ましており、起きたネイに声を掛ける。

 

「おはよう。ベッドはいいねー。ぐっすり眠れる」

「同感です」

 

 人前に出られる様に軽く髪を整え、部屋の外に出る。すると、ドアの前に衣服が入った籠が置かれていた。籠の中の服は、風呂に入った際に娘が洗濯すると言って回収したものである。

 服を手に取り広げる。丁寧に洗ってあり、汚れも無ければ土や泥、草、モンスターの血のニオイすら無い。まるで新品同様であった。

 洗濯された服を籠ごと持って再び部屋に戻る。数分後、冒険者としての装備を纏った状態でネイたちは部屋を出る。

 少し歩くとローグたちと会う。彼らもまた冒険者としての格好をしている。ネイ達と同じく卸したてのような光沢があった。ただナハだけは洗濯に出さなかったらしく昨日と同じ薄汚れた格好である。

 

「行こうか、そろそろ」

「そうですね」

 

 十分な休息を取らせて貰ったネイ達は、礼を言う為に宿の親子を探す。

 軽く探してみたが姿が見えない。他の客がいるかもしれないのであまり大声を出して迷惑を掛けたく無かった一同は、静かに探索する。

 いくつかある部屋の前を通り過ぎていったネイであったが、ある扉の前で足が止まる。その扉は他の部屋とは少しだけ作りが違っていた。

 この部屋が親子の部屋なのかと思い、ネイは扉を軽く叩く。

 

「はい!」

 

 中から娘の返事が返ってきた。

 

「ちょっといいですか?」

「すぐ行くのでお待ち下さい!」

 

 扉越しでも慌てているのが分かる程の足音。

 娘は扉を少し開けると、その隙間から滑るようにして身を出し、外に出るとすぐに扉を閉めた。

 

「どうしました?」

 

 余程中を見られたくないのか、娘を扉の前に立つ。その姿に若干の違和感を覚えるものの世話になった手前深く追求することも出来ず、また再び訪れることは無いと思っていたので無かったように振る舞う。

 

「私たち、そろそろ出ようと思っているんだけど……」

「あっ、そうなんですか?」

「宿代の方を払いたいと思うの。いくら?」

「五人での宿泊となりますと、これぐらいですね」

 

 娘の提示した料金に一同驚く。はっきりといって破格とも呼べる程の値段であり、安く済んだことを喜ぶ半面、やっていけるのだろうかという余計な心配もしてしまう。

 

「本当にこの金額でいいの?」

「はい。構いません。殆ど趣味でやっているようなものなので」

 

 娘の笑顔にそれ以上何も言えず、素直に宿代を払う。

 

「冒険者さんたちは、これから街の方に向かうんですよね?」

「うん。そうだよ」

「それだったらいい近道があるんですよ」

 

 娘はそう言って別の部屋に入っていき、そこから箱と一枚の地図を取り出す。

 

「村から出て、この道を真っ直ぐ行くと大きな洞窟があります。その洞窟を真っ直ぐ抜けると街への近道になっているんです」

 

 娘は分かり易いように地図に線を引いて、その地図をネイたちに渡す。

 

「洞窟の中にはモンスターなど出ませんが、中は暗くなっているのでこれを持っていって下さい」

 

 ネイたちに箱を手渡す。中を開くと、先端が布で包まれて膨らんだ子供の腕の太さ程の棒が入っていた。

 

「携帯松明だ」

 

 この松明は先端に特殊な薬品を染み込ませており、強く擦れば発火し、通常の松明よりも長持ちする。暗い場所での探検する時の必需品である。

 

「貰っていいの?」

「はい。私たちにはあまり必要の無いものですから。必要な方々に使って貰った方が断然良いです」

 

 にこやかに笑う娘にネイは頭を下げて礼を言う。

 

「何から何まで本当にありがとう!」

「いえいえ。そんなに大袈裟なことをしないで下さい」

 

 娘は照れるように謙遜する。

 

「じゃあ、私たちは行くね」

「お世話になりました」

「いい宿だったぜ。ありがとよ」

「縁が在ったらまた会いましょう」

「……」

 

 口々に別れの挨拶をする中、ナハは終始無言であった。

 宿を出るネイたち一行。その背中が見えなくなるまで娘は宿屋の前に立っていた。

 

「行ったか?」

「うん」

 

 娘の隣に父が立つ。その顔は欠落しているかのように表情が無い。見送る時に笑顔を浮かべていた娘も同様の表情であった。似ていないと思われた親子だが、皮肉にもこの時の表情は血の繋がりを感じられる程によく似ていた。

 

 

 ◇

 

 

 宿屋の娘に教えられた道を歩く一行。先日の失態からか地図を持つのはローグではなくリヨナが持っていた。

 特に問題も無く目的の場所へと到達する。

 

「おお……」

 

 広がった穴は大きく、大人数人を縦にも横にも並べてもまだ余る程のものであった。差し込む光は穴を数メートルしか照らさず、その奥には何も見えない闇によって塗り潰されている。

 ネイは、想像していたよりも倍以上の大きさに感嘆とも緊張ともとれる声を洩らしてしまう。

 

「わっ!」

 

 洞窟に向かって大声を出す。声は洞窟内を何度も反響しながら奥へと吸い込まれていった。

 

「かなり広いね」

 

 勿論大声を出したのは遊んでいるからではない。反響音によってどれほどの洞窟かを大凡調べる為である。

 

「ここを真っ直ぐだっけ?」

「そうです。暗いですからね。気を付けて行きしょう」

 

 携帯松明を取り出し、近くの岩に擦りつける。シュボボボという音を立て白く発光すると、そのまま白い炎出しながら燃焼し続ける。その際、煙が立つがそのニオイに一同顔を顰める。

 

「うえっ」

「こんなに煙が出るなんて、相当放置されていたのかな?」

「あんま気分の良いニオイじゃないな。燻製にされているような気分だぜ」

 

 

 松明に不満を漏らしつつ、ネイたち一行が洞窟内に足を進める。

 洞窟の影に入るとひやりとした冷たい空気が肌を撫でていく。

 

「暗いね……」

 

 松明を掲げても数メートルしか照らされず、更には足元まで光が届くのはせいぜい二メートル以内である。何があるかは分からない為、慎重に進まないといけない。

 すると、誰よりも先にナハが前に出る。いつもは後方で大人しくしている彼が、積極的に前に出るのは珍しいことであった。

 

「先に行ってくれるの?」

 

 ナハはネイたちを見なかったが無言で頷く。

 

「じゃあ、頼むね」

 

 ナハを先頭としてネイたちは洞窟内を進み始めた。

 明かりで照らしながら一歩一歩確かめるようにして進む一行。かなり遅い歩みであったが、未知の場所を進むにはこれぐらいで十分とも言えた。

 先に進む度に入口の光が遠ざかっていく。太陽の明るさと暖かさが徐々に無くなり、代わりに先の無い暗闇と冷めきった空気がネイたちを包んでいく。意識しても不安、緊張が募っていくのが分かる。

 もしかしたらあと一歩踏み込んだら足元が抜け落ちるのではないか。もしかしたら暗闇から何かが襲ってくるのではないか。不安と緊張からネガティブな妄想が浮かんでくる。

 尤もこれが非常に馬鹿々々しいことであるのはネイたちも自覚していた。あくまで妄想は妄想。深く考えれば馬鹿を見ることになる。

 いつまでも馬鹿げた妄想を引き摺っていないで前向きにいこうとした。そのとき――

 

「あうっ」

 

 急に立ち止まったナハの背中にネイが鼻をぶつけ、軽く呻く。前置きも無く止まったナハに文句を言おうするが、それを遮ってナハが独り言のように言葉を呟いた。

 

「来る」

 

 何が? と問おうとする前に洞窟内に反響する音。耳の奥に突き刺さるような高音。聞くだけで背筋が粟立ってくる。それも一つではなく複数重なっているので、その音量も不快感も並のものではない。

 

「何コレ!」

 

 片方の耳を手で覆い音量を抑えながら不快音の正体を探る為に松明を掲げる。

 天井に向かって伸びる灯り。すると一瞬だけであったが灯りの前を通り過ぎていく影があった。

 子供、下手をすれば成人男性に近い程の大きさの生物が羽を羽ばたかせて横切る。先程から鳴り響くこの高音は羽音によるものらしい。

 

「でかいぞ! あれ!」

「しかも一匹ではありませんね! 何匹かいます!」

 

 羽音に掻き消されないように自然と声が大きくなる。

 

「散らばらずに固まって! なるべく後ろから狙われないようにして!」

 

 ネイが指示を飛ばし、円形の陣を作る。暗闇という視界が限られた場所で戦うには出来るだけ死角を消さなければならない。その為には仲間同士の連携が不可欠である。

 集まることで松明の光も強まり周囲を照らす。これにより少しだけだが視界が広まる。

 皆が一斉に武器を取り出す。

 ローグは、刃渡りが一メートル程ある冒険者の間で最も使用されている長剣。レオは手入れが面倒くさく、刃毀れするのが嫌だという理由からそれらが無い鉄の棍棒を武器としていた。魔術を扱えるリヨナは、先端に赤い宝石が埋め込まれた杖。ナハは剣身が大きく曲がった狩猟などにも用いられる鉈。そして、ネイは長剣の半分ほどの長さの短剣を武器にしている。

 上を漂っている音が下へと降りてくるのが分かる。既に音は四方から囲むようにして聞こえていた。

 ネイたちは灯りを音の方へと向け、音の主たちが姿を見せるのを、固唾を呑みながら待つ。

 やがてその時が来た。

 掲げた松明が反射し、無機質な光を放つ目。その下には一対の鋭い顎。黒味がかった茶色の胸部前から六本の足。後部には細かく震える羽。そして体の大きさの三分の二は占めるであろう腹部。

 初めて見るその生物に驚き、そして生理的嫌悪を覚える。

 巨大な昆虫が人の歩み程度の速度で、それも複数迫ってくる。並みの感性を持っているのであれば強い拒否感を覚える光景であった、事実、ローグとレオは顔を顰め、ネイとリヨナはそれ以上の嫌悪感を露わにしている。唯一、ナハだけが無表情を続けていた。

 

「何だこいつら! 新種か!」

「どうでしょうね? ただもし新種ならギルドに持っていくとお金になりますよ!」

「それはいいな! 一匹か二匹捕まえていくか!」

「私は絶対に触りたくありません」

「私も絶対やだ!」

 

 未知なる相手を前に怯まないように冗談を交えた会話をする。敢えて大きな声を出すことによって不安を消し飛ばす。冒険者らが戦う前に良くある行動の一つである。

 人程度の大きさで飛ぶのに多くの体力が必要なのか、昆虫たちは一気に距離を詰めずじれったさを感じる速度でじりじりと迫る。

 どんな攻撃手段を持っているかは分からないが、待ち続けることに業を煮やしたのかレオは鉄棍棒を振り上げ、真っ先に攻撃を繰り出した。

 鉄棍棒の先端が昆虫の頭部に命中。頭部は砕かれ、その勢いのまま地面に叩き落されると衝突の影響で体液をまき散らしながらバラバラに四散した。

 叩いた本人も驚くほどの結果である。

 

「こいつら脆いぞ!」

 

 巨大昆虫を一匹退治したレオが皆に声を掛ける。倒せない相手ではないことが分かり、警戒していた他の面々の士気が上がる。

 レオに続くようにローグもまた昆虫に向けて剣を一閃。だが、今度は先程とは違い羽の動きを変えたのか素早く飛び上ってローグの攻撃を回避しつつ松明の灯りの外へ姿を消してしまう。

 

「どうやらその気になればかなりの速さで動けるみたいです!」

 

 倒せなかったが情報を得ることは出来た。戦いに於いて敵の情報を知ることは非常に重要なことである。動きを知れば、必然的に対策も浮かんでくる。

 リヨナが短く言葉を紡ぐ。すると杖の先端にある宝石が赤く輝き始めた。リヨナが昆虫に向けてそれを振るうと、宝石から拳大の火球が飛び出し昆虫に命中。

 

 キィィィィィィィィィィィ

 

 鳴き声と焼ける音が重なる。全身を火で覆われた昆虫は足を上に向けた状態で地面に落ち、しばらくしてから動きを止めた。

 ネイもまた接近してくる昆虫の頭部と胴体の節を狙い短剣を振るう。短剣の刃は、昆虫の首半ばまで食い込む。一撃で切り落とすことが出来なかったが、ネイは更に松明の柄を短剣に叩き付け、その衝撃で止まっていた刃は更に食い込み昆虫の頭部を切断する。

 頭部を切り落とされた胴体は地面に落下したが、それでも手足や羽をばたつかせており、頭部の方も転がり落ちた先で顎を何度も開閉させていた。

 昆虫特有のしぶとさに辟易するネイ。が、このときネイは意識を昆虫の一匹に向け過ぎていた。

 視界の端に横から来る別の昆虫を捉えたとき、既に危険な間合いに入り込まれていた。

 咄嗟に短剣を振るうが短剣は昆虫の胸部に当たり足を一本切断するものの、胸部に刃が少ししか通らない。片手だけで振るったという理由もあるが、それでもこの昆虫はかなり固い外殻を持っている。

 胸に刃が食い込んだ状態で昆虫はガチガチと顎を合せる。人の肉すら容易く引き裂けそうなそれにネイの背筋は寒くなる。

 すると、昆虫は腹部を大きく後ろへ引く。ネイはそれを何かの予備動作と判断し、正面に立っていることを危険と感じると片足を引いて半身の体勢となる。昆虫が腹部を突き出すと先端から針が飛び出し、ネイが居た場所の空を貫く。

 尾の先の針。似たような生態を持つ昆虫を知っている者からすれば、そこに何らかの毒が含まれているのが容易に想像出来た。それでなくともあの大きさの針で体を貫かれたなら無事では済まない。

 針を外した昆虫は、再び腹部を引く。もう一度同じ体勢となる。

 何度も避け切れる自信が無いネイはすぐに離れようとするが、刃が外殻に思った以上しっかりと食い込んでいたのですぐに離れられない。武器を手放すことも考えたが、正確な敵の数が分からずしかも囲まれた状態、それこそ自殺行為であった。

 迷うネイの判断を嘲るように、針を突き出そうとする昆虫。だが、それよりも早く動く影があった。

 ネイの真横から何かが突き出され、腹の前を通っていく。それに反応してビクリと体を震わせて硬直するネイ。松明の光の下、突き出されるそれがナハの鉈であることに気付く。

 直後、昆虫が針をネイに突き刺そうと腹部の先から伸ばすが、ナハがそのタイミングに合わせて今度は逆に鉈を引く。引かれた鉈の曲線部分が、昆虫の針を引っ掛けてそのまま切断。ナハは引いた鉈を指に掛け、柄を回転させて持ち方を変えると昆虫の頸部を切り落とす。一連の行動は全く淀みの無いものであった。

 

「ありがとう! 助かった!」

 

 礼を言うネイであったが、ナハの耳には届いておらずしきりにぶつぶつ呟き続けていた。

 

「声が聞こえない? いや、声として認識出来ていないのか? 『波』が違うとでも言うのか? だがこの『波』の違いは誤差の範囲を超えている……」

 

 聞いていても何一つ理解出来ない内容であったが、ただ一つ分かったことがある。普段、無に等しい程感情の揺れが無いナハが明らかに動揺している。一体何が彼をこれ程動揺させているのだろうか。

 そんな疑問も近付いて来る羽音によって吹き飛ばされる。考えるよりも先にこの窮地を脱しなければならない。

 

「気を付けて! こいつら尻尾の先に針を持ってる! 毒があるかもしれない!」

 

 得た情報をすぐに仲間に伝える。

 

「毒ですか。一体どんな毒なのでしょうね?」

「そんなこといちいち考えてどうすんだよ! どっちにしろ体に悪いもんに決まっている!」

「無駄口を叩かない!」

 

 少しだけ余裕が出来てきたのか会話が増える。未知の敵が未知では無くなってきたことで緊張感はあるものの恐れは薄れ初め、体の強張りが無くなり、舌もよく回るようになってきた。

 

「陣形を崩さないでこのまま倒すよ! 地面に落としても、もしかしたら這って来る可能性もあるからきちんと止めを刺してね!」

 

 ネイは地面に落ちて蠢いている昆虫の背に短剣を突き刺し、実践してみせる。

 初めは浮き足立っていた一行であったが、相手の動きに慣れ始めてくると次々と昆虫を倒していく。

 特にナハの活躍は目覚ましく、暗闇だというのにまるで見えているかの様な動きを見せていた。

 今も昆虫の胸部に鉈を突き刺している。貫いた刃先からは昆虫の体液が滴り落ちていた。

 そこから脚を振り上げ、足底を昆虫に叩き付ける。蹴り飛ばす勢いで刺していた鉈を抜き、その鉈を今度は真横に向けて振るう。鉈の刃が別の昆虫の頭を真っ二つに割る。それだけでは止まらず、手に持っていた松明を頭上に掲げる。すると上から来ていた昆虫の腹部を焼き、そのまま炎上。地面に落ちた所を鉈で両断した。

 ネイたちが一匹倒している間にナハは三匹倒してみせた。

 だが、ナハの成果を見せられてもネイたちは特に反応を見せなかった。何故ならば彼女らにとっては見慣れた光景であったからだ。

 独り言が多く、他人とはあまり会話せず、会話したとしても意味の分からない言葉を言い続ける変人であるが、戦いの腕前はパーティーの中でも頭一つ抜きん出ている。

 数十分間の戦いの後、洞窟内に木霊する羽音の音が消える。全滅したのか、あるいは何処かへ逃げ去ったのかは分からないが、取り敢えず戦いは終わった。

 戦い終えた皆は、全身の表面が濡れていると分かる程の膨大な量の汗を流していた。動き続けていたこと、視界の暗い中で戦ったという緊張感から普段以上の疲労が感じていた。

 だが、負傷者無しという成果を考えれば代償としては軽いものである。

 

「はあ……はあ……どうする? 少し休むか?」

「ふぅ……ふぅ……いえ、少しでも早く洞窟の外に出よう。ここにいるのがあの虫だけとは限らないし」

 

 多少の無理をしても安全な場所を目指すという考えを示す。

 

「……そうだな」

 

 反論せず、レオはネイの意見に同意する。他の者たちが声を上げないことから他も賛成らしい。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 いつでも戦える様に武器を構えながら、ナハ、ネイ、リヨナ、レオ、ローグという順番で先へと進んで行く。

 最初の時よりもやや重くなった足取り。速度を緩めた分、体力の回復に回す。

 

「――ん?」

 

 足を擦るようにして歩いていた最後尾のローグが爪先に何かが当たったのを感じた。松明で照らす。暗闇が照らされ、出てきたのは金属性の具足。作りの具合から見てそこそこ値の張る物であった。

 

(何故ここに?)

 

 疑問に思うローグ。もう少し詳しく見てみようと灯りを向ける。すると灯りで照らされるギリギリの場所に反射する何かを見つける。近付いてみると、今度は金属の手甲であった。具足と同じような作りから同一の甲冑の部位だと推測出来る。

 松明を動かし、周囲を探索する。すると壁際に寄り掛かっている甲冑一式を発見した。

 甲冑の側により、しゃがみ込んでバイザーをずらす。

 

「う……」

 

 髑髏の空っぽな目と合ってしまい思わず呻く。

 

(だけど、どうしてこんな所にこんな立派な甲冑を着た人が?)

 

 あの昆虫にやられてのかと思ったが、その割には綺麗に残り過ぎている気がした。ならば別の要因があるかもしれない。

 もう少し詳しく調べてみる。すると甲冑の胸に気になる刻印を発見する。それは貴族、あるいはそれに属する者にしか許されない特別な刻印であった。

 

(この印は……! ますますおかしい! 嫌な感じがする!)

 

 広く、暗い洞窟に放置された遺体に得体のしれないものを感じ取ったローグ。

 しかし、彼は見落としていた。

 

(取り敢えずこのことを皆に――)

 

 だが、それを後悔する時間はもう彼には残されてはいなかった。

 

 

 ◇

 

 

 背中にゾクリと冷たいものが奔り、レオは足を止める。

 

「兄貴?」

 

 何故、ローグのことが気になったのかは分からない。ただ、頭の中で糸が千切れるイメージが不意に浮かんだ。

 

「兄貴?」

 

 振り返り呼ぶが返事もなければ姿も無い。だが、今いる場所から数十メートル離れた位置に光るものを発見する。皆が持っている筈の松明がどういう訳か地面に置かれていた。

 心臓の鼓動が早まるのを感じた。慌てて松明の置かれている位置に走っていく。

 

「兄貴……!」

 

 しゃがみ込み、置かれている松明の周辺を探すがローグの姿は無い。何処へ行ったのか、焦りながら立ち上がろうとしたとき――

 

「……え?」

 

 ――灯りが闇から映し出したのは間違いなく兄の一部。兄の靴の爪先。

 

(何だ? 何だ? 何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ!)

 

 当然の疑問が湧いて来るが答えを出すことを恐怖が拒ませる。もし、彼に正常な思考があったのならばこう思うだろう――

 

『何故、足が宙に浮いているんだ?』

 

 ――と。

 呼吸が真面に出来なくなる。視界がおかしくなる。全ての音が遠くに聞こえる。

 レオは震える手で徐々に松明を掲げていく。足、膝、下半身、手の指先が灯りによって照らし出され、そして上半身を照らそうとする。――がそれは出来なかった。

 出来る筈が無かった。ローグの上半身は、天井から伸びる白くブヨブヨした筒のようなものに呑み込まれていた。『いた』というのは正確ではない。呑み込まれて『いる』のだ。

 

「うあああああああああああああああああああ!」

 

 耐え切れなくなりレオは絶叫を上げた。しかし、そんな絶叫など意に介することなく白い死は、ローグをその命ごと呑み込んでしまう。

 あまりに唐突で、あまりに残酷で、あまりに呆気無い終わり。だが、それを想う猶予など彼らには無かった。

 暗闇に潜む白い死はまだ満たされてはいない。

 

 

 




真っ暗な場所でフルフルと戦ったらどうなるかなーというゲームをやっていた時に考えていたシチュエーションを実際に書いてみました。
ランゴスタはおまけみたいなものです。大して強くないですが、状況に状況が重なると凄まじい憎しみを抱く虫ですよね。
因みにこの話は、終わりを二通り書くつもりです。

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