緑と橙色の縞模様が入った鱗に一対の鶏冠を持った見知らぬ生物が、口外まで伸びている長く尖った牙を見せながら現れた。
「うわっ!」
思わず飛び退くヒス。
その間に生物は茂みの中から出て、全身を見せる。
(でかい!)
自分の身長とほぼ変わらない大きさをした生物。慌てて剣を抜いて向けるが、生物の持つ長い牙と鋭い爪を前にするととても頼りなく見えた。
一対一では不利だと考えたヒスはすぐに仲間を呼ぼうとする。大声を出す為に口を大きく開いた瞬間、生物がいきなり爪を振り上げて飛び込んできた。
「ぐあっ!」
剣を振るう暇も無く、反射的に仰け反ってしまう。するとそのままバランスを崩し、無様にもその場で尻餅を突いてしまうが、これが運良く生物の強襲を躱す形となり、直撃する筈の爪はヒスの左腕を掠めるだけであった。
生物を見上げる体勢のまま剣を突き出し、間合いに入ってこない様にするヒス。
注意を払いつつ左腕の具合を見る。衣服を易々と裂き、その下の肌に浅いが切り傷を付けていた。赤銅色の肌に薄ら浮かぶ、三本の線。
これが直撃していれば腕が落とされていたかもしれないと想像し、背筋を冷たくしつつ、すぐに援軍を呼ぼうと再び口を開き――
「――ッ! ――ッ!」
――そこで初めて自分の体に異変が起きていることを知る。
舌が動かない。喉が動かない。口自体に感覚が無かった。
異常はそれだけに留まらない。
手足の触覚はあるというのに力が全く入らない。地面に付いた手足をまるでゴムの塊に置き換えられた様な感覚であった。
力を入れようにも手足にどれほどの力を加えているかまるで分からず、通常ならばすぐに地面を突いて簡単に起き上がれる筈の動作も筋肉が上手く操作できないことによって、尻餅を突いた格好から仰向けになって倒れてしまう。
(立たないと! 早く! 早く! じゃないと!)
頭の意思ははっきりとしているのに、体中が動かない。腕は肘を曲げられず真っ直ぐに伸びたまま。脚の方は逆に膝を曲げたまま真っ直ぐに伸びない。
まるでひっくり返ったカエルの様な無様な体勢。
手や足、その指先に至るまで懸命に力を込めるが全く反応しない。唯一動くのは眼球のみ。しかし、首も動かせないので見える範囲も極限られたものであった。
動けないヒスの耳に砂が擦れ、小石が跳ねる音が聞こえる。一定の間隔で聞こえてくるそれは間違いなく足音であった。
(動け! 動け! 動け動け動け動け!)
血管が切れそうになる程力を込めても微動だにしない体。
その間にも迫ってくる足音。すぐ近くに聞こえるというのに、眼しか動かせないのでその足音の主を視界に収めることすら出来ない。
近くにいるというのに遠い。
やがて足音が止まる。どうして足音が止まったのか。その答えを既にヒスは知っていた。
何故ならばその足音の主がヒスを真上から見ているからだ。
逃れられない恐怖からヒスの眼球は忙しなく動き続ける。どう足掻いても目の前の恐怖から目を逸らすことが出来ず、否応無しに向き合わなければならない。
(見るな! 見るな! こっちを見ないでくれ!)
縦に割れた瞳孔が真っ直ぐヒスを見る。それだけで心臓の鼓動はかつて無い程に早まる。
口に収まりきらない程長く鋭い牙、その先端からは溢れ出た唾液が滴っている。それが突き立てられたとき一体どのような苦しみを味わうことになるのか。想像したくもないのに次々と過去に受けた痛みを参照として、空想がヒスに幻の痛みを与える。
(くそっ! くそっ! くそっ! 殺るならやれ! さっさと殺れ!)
突き付けられた絶望に自暴自棄となる。いっその事、一思いに殺してくれとさえ思った。
だが、相手はそんなヒスの内情など知らない。知ったとしても理解を示さない。
見下ろしていた生物が突如、顔を上げ、シャアシャアと鳴き声を上げた。
それが何を意味するのか。その答えは地面から伝わってくる振動によって教えられることとなる。
覗き込む目が更に四つ増える。計三体の生物がこちらを見下ろしていた。
声を出せるならばきっと最高に情けない悲鳴を上げていたに違いない。
ヒスは間もなく訪れるだろう地獄に声無き絶叫を心の中で何度も何度も上げた。
◇
「畜生! 多い!」
「くそっ! こいつら一体何匹居る!」
フラッグとボウは互いに背を合わせ、背後からの奇襲を防ぎながら周りにいる生物たちに剣を向け、必死に抵抗をしている。
横転した馬車から他の冒険者たちを救出し終えると同時に茂みの中から姿を見せ、問答無用で襲い掛かってきた。
転落した冒険者の様子を見に行ったヒスのことも気掛かりだが、今はそれどころではない。自分たちの身を護るだけで精一杯であった。
「でああああああああ!」
冒険者の一人が手に持った斧で生物に切り掛かる。咄嗟に後ろへ飛んで回避しようとする生物であったが、僅かに反応が遅く、胸に斜めの傷を付けられる。だが、傷は浅く、出血も少ない。体に生やした鱗やその下にある皮膚は、見た目以上に頑丈であるらしい。
刃の通りの悪さに舌打ちをする冒険者。次の瞬間、その口から絶叫が上がった。
仲間に気を捉えている隙を狙い背後から接近した生物が、その長い牙を冒険者の背中に突き刺していたのだ。
「ぎっ!」
刺された痛みで冒険者は背を仰け反らせる。するとその姿のまま体を硬直させ、地面に向かって横倒れになる。
「なっ!」
その様子を見ていた冒険者たちの口々から驚愕、動揺、恐怖といった声が上がった。勿論、その中にはフラッグもボウも含まれている。
「――毒か?」
「ああ、それも即死するような優しいもんじゃない。あいつの目を見て見ろ」
ボウの言った通りにフラッグは、倒れた冒険者の顔を見た。
手足や体に棒でも刺し込まれたかのように固まっているが、僅かに胸は上下している。そして眼球が忙しなく右へ左へと一秒足りとも止まることなく動き続けている。
まるで助けを呼ぶかのように。
フラッグは背中に冷や汗が一斉に浮き出てくるのを自覚した。自分が想像していたよりも遥かに残酷なことが起きていることを実感して。
「体の自由を奪う毒か……」
「気を付けろ! 毒が仕込まれているのは牙だけとは限らないからな! 奴らの攻撃はなるべく避けるようにしろ!」
「無茶を言う!」
先程の冒険者の様子から、毒を流し込まれたらほんの数秒で身動きが取れなくなるのが分かった。
そんな毒を持ち、体格は同等以上。素早さは上、数も上。爪と牙という立派な武器を持っている。これ程の難敵を相手に無傷で勝つなど熟練の冒険者でも至難の業である。
「うあああ!」
生物に向かって切り掛かる別の冒険者。素早く横に飛び、それを難なく回避する生物。避けた生物は威嚇するように切り掛かった冒険者に吠える。
「この!」
意識が完全にそちらへと向いた瞬間、生物の仲間が別方向から飛び掛かり、冒険者を強襲する。
「うぐあっ!」
軽く見ても成人男性程の重量がある生物に圧し掛かられ、地面に叩き付けられる冒険者。それでも剣を離そうとはしなかったが、更にそこへ生物の仲間が加わり、剣を持つ腕に噛み付く。
「ああああ! 止めろ! 止め――」
絶叫しながら振り払おうとする冒険者であったが、間もなくしてその動きが止まる。悲痛な表情のまま固まる冒険者に三匹の生物が群がり、爪と牙を突き立てていく。
冒険者が一人、一人減っていく度に無事であった冒険者の襲われる頻度が上がっていく。
一人に対し三匹以上で掛かっているというのに控えている生物の数はこちらを上回っている。
「うおおおおおおお!」
槍を持った冒険者が生物の喉にその穂先を突き刺す。喉を貫かれ、血泡を吐き出す生物。だが、生物は貫いている槍に噛み付いた。
「なにっ!」
傷口が広がり、流れる血の量も増える。最早助からないのは、誰の目で見ても分かる。しかし、この決死の行動によって僅かな時間とはいえ相手の動きを制することが出来た。
横から現れた生物が冒険者の足に噛み付く。更にもう一匹現れ、今度は腕に噛み付いた。
「うぐあっ!」
槍に貫かれた生物は絶命するものの、倒した冒険者も道連れに倒される。
一対一ならば辛うじて戦える。だが、その隙に他の生物に襲われる。
同数ならばもしかしたら拮抗していたかもしれない。だが、所詮は『もしも』の考え、この戦いに最初から平等なものなど無かった。
「くそっ! 畜生! 畜生! 何なんだよ! お前らは!」
理不尽なまでにあっさりと命を奪っていく生物たちに対し、ボウは怒りの声を上げるが、生物は一切怯まない。言葉が通じないから怯まないのではない。ボウの怒声で命の危機も恐れも抱かなかったからである。
「落ち着け! 取り乱すな!」
「来いよ! 掛かって来いよ! 一匹残らず殺して皮を剥いでやる!」
フラッグの忠告を無視してボウは吼える。
するとその声に反応したのか、囲んでいた生物たちが急に動き出し、円形に囲んでいた一部に穴を開ける。
まさか声に怯んだのか、そんな楽観的な考えをしてしまう二人。しかし、その考えがあまりに甘かったことをすぐに実感することとなる。
最初に異変に気付いたのはフラッグであった。
構えていた剣が左右に揺れる。初めは緊張からくる震えだと思っていた。だが、良く見ると震えているのは剣や腕だけではない、体全体が震えている。
恐れから全身が震えているというのであろうか。
確かに危機的状況なのは間違いない。しかし、一人前の冒険者であると自負している自分がここまで露骨な恐怖を見せる筈が無い、というプライドがそれを否定する。
そこで気付く。この震えは、自分自身が起こしたものではないことに。震えの原因は地面から伝わってくる振動が伝わって起きているということに。
ならばその振動の源は何か。
答えは凄まじい鳴き声と共に現れた。
「……マジかよ」
呆然と呟くボウ。新たに現れたそれに先程まで怒りの熱で燃え上がっていた怒りは完全に鎮火し、代わりに恐怖という冷たさで全身を強張らせていた。
他の生物たちと比べ倍以上の体格。それに比例して頭部にある一対の鶏冠は、自分の存在を象徴するかのように大きい。爪、牙もまた長く、大きく、鋭い。
今まで襲って来ていた生物たちが皆、子供のように見える程であった。
一目見ただけで確信する。今現れた生物こそ、この集団のボスであることを。
止めようも無い恐怖が二人の全身を支配する。生まれて初めての感覚であった。自分の死を確信してしまう。
恐怖で二人の動きが鈍ったのをボスは見逃さなかった。
その巨体を支える脚で地面を蹴り付けた瞬間、巨体が軽々と宙を飛ぶ。
二人との距離は約十メートルあった。だというのにこのボスは助走を一切せず、ましてや人よりも重量があるというのに脚力のみでその距離を飛ぶ。
飛び掛かってくるボスの非現実的さに、戦いの場であることを忘れてしまう程、唖然とする二人。
今見ているものは夢ではないのであろうか。そんな考えを刹那思ってしまう。だがすぐに理解するこれは夢であると、どうしようもない悪夢であると。
ボウの胸部にボスの足が当てられたかと思えば、足の爪が深々と胸に突き刺さり、そのまま跳躍の勢いと体重により地面に激しく叩き付けられる。
「ごはっ!」
周囲に砂埃が舞う程、背中から強く押し倒されたボウ。地面とボスに挟まれて胸骨は折れ、それが内臓を傷付ける。
「がはっ! はっ! はっ!」
口から零れる血の泡。傷付いた臓腑からの血が口から溢れ出している。
刺さった爪を引き抜くボス。湿った音と共に赤い血が糸のように引かれた。
内側から溢れる血を何度も吐くボウであったが、爪によって送り込まれた麻痺毒がすぐに体の自由を奪っていく。
「――っ! ――っ!」
血を吐くことすら出来なくなり、それでもこみ上げてくる血は器官を塞ぐ。どんなに苦しかろうが、指一つ動かすことも出来ない。
間もなくしてボウは自らの血に溺れ、その意識を永久に失うこととなった。
「う、うああ……」
友の死の形相。それはあまりに惨たらしいものであり、フラッグの心を更なる恐怖で揺さぶる。
色々とやった。人が見れば残酷とも言えることもした。少なからず人道に背くこともした。
だが、だが、だが。
「こんな、こんな死に方をさせられるようなことはしなかった!」
友人の人柄を知っているからこそ、この非道な死に納得が出来なかった。ここまでされる謂われは無い、こんな無惨なことを認められない、という思いで。
しかし、それは所詮、人の感情。彼らは自分が残酷なことをしているという自覚など微塵も無い。
餌がある。狩る手段がある。ただそれだけである。
餌の痛みも苦しみも恨みも怒りも憎しみも彼らは感じない。
餌を前にしてせいぜい思うことがあるとすれば、食べる順番くらいであろう。
「うああああああああ!」
絶叫を上げてボスに切り掛かるフラッグ。剣がボスの肩に食い込む。
肉に刃が食い込んでいる。血も流れている。しかし、それだけである。
どんなに力を込めようとも刃は、それ以上深く食い込まなかった。
お返しと言わんばかりにボスがフラッグの肩に噛み付く。長い牙が深々と突き刺さる。
「ああああああ!」
再び上がる絶叫。しかし、今度の絶叫は先程とは意味が違う。耐え切れない恐怖から上がった叫びであった。
ボスは噛み付いたまま頭を振り、投げ飛ばす。
飛ばされた地面をフラッグは地面を数度転がって、仰向けに倒れた。
そして、見上げた光景。そこにはフラッグ〈エサ〉を見下ろす無数の目。
「やめ――」
毒が回り、命乞いをする声をすら出ない。
身動きが取れなくなった獲物に、生物たちは一斉に掛かる。
意識が断たれるまでの数十秒の間、フラッグの経験したものは地獄という言葉ですら生温いものであった。
生きたまま喰われ、その間、痛みも意識もある。
地獄をもたらしたモノたちに悪意は無い。ただ食欲のみがあった。
――ああ……俺が……空っぽになっていく……
意識が完全に消える刹那、それがフラッグの最期に思ったものであった。
◇
「う、ぐ、ぐ、ああああ……」
横転した馬車から這い出て来たアセは体中に痛みを感じながらも必死になって逃げていた。
馬車の周辺には倒れた護衛たち。そのどれもが生物たちに群がられ、貪られている。
切っ掛けは付いてきている筈の冒険者用の馬車の姿が無かったことであった。
確認の為に馬車の速度を緩めた瞬間、突如馬車が暴走。慌てて外を見ると御者の姿が消えており、御者を失ったことで馬たちの操作が出来なくなり、結果横転してしまった。
横転した馬車から護衛たちが外に出ると、突如として茂みから謎の生物が強襲し、瞬く間に護衛たちを無力化して自らの餌にしてしまった。
その光景を馬車の中から一部始終見ていたアセは恐怖し、横転で激しく打ち付けられた体に鞭打って必死にこの場から逃げ出そうとしていたのである。
生物たちが食事に夢中になっているうちに何とか離れる。そんな考えをもっていたのであろうが、すぐにそれが浅はかな考えであったことを思い知らされることとなる。
生物の一匹が逃げるアセを見て、鳴き声を上げた。すると茂みの中から更に十数匹の生物たちが現れ、アセを取り囲んでしまう。
「ひぃ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
退路を断たれ、風前の灯となるアセの命。
「や、やめろ! やめてくれ! な、何でもする! ほ、欲しいものならば何でもやる!」
死にたくない一心で出てきた命乞い。言葉の通じない相手に対し、それが如何に空しく、無意味な行為であるかを追い詰められて余裕の無いアセは理解出来ていなかった。
ただ助かりたいという一心で必死になって相手に縋るアセ。
しかし、悲しいかな、既に生物たちはアセを捕食対象にしか見ていなかった。
どんなに無様に慈悲を乞おうとも生物たちの心は微塵も動かない。そもそも情けなどという考え自体が無かった。
獲物を前にして彼らは何も思うことは無い――かに思われたが、この獲物を前にして彼らは共通して一つだけ思ったことがあった。
十数匹の生物が一気に群がる。
「助けてくれ! 助けてくれぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
『この獲物は食い出がありそうだ』
これだったらこんな感じで暴れて、そしたらこんな風にやられちゃうんだろうなー、と考えていたら何か悪趣味な話になってしまいました。
グロも鬱も別に好きではないんです! 話と設定の流れなんです!
本当です! 信じて下さい!