MH ~IF Another  World~   作:K/K

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長くなりそうなので前後編に分けることにしました。


超越するモノ(前編)

 山を突き破り現れた巨大な生物。それを見た者たちの反応は様々であった。

 一度見てから顔を前に戻し二度と振り返ろうとはしない者。呆然としながらその生物をただ凝視する者。何度も何度も振り返り、その生物との距離を確認する者。

 それぞれが心に受けた衝撃を体現していくが、それでも共通していることが一つだけあった。皆足を止めずその生物からひたすら距離をとろうとする。

 誰もが規格外の生物に味わったことの無い恐怖を抱いていた。

 

「走れ走れ走れぇぇぇ!」

 

 先頭を走るのは真っ先に逃げ始めていたヴィヴィ。その後ろをディネブが無言で付いて行く。とても運動が出来るようには見えないヴィヴィであったがその足は俊足であり、身軽とはいえ鍛えている兵士たちも見失わないでいるのが精一杯なほどの速度で走る。

 

「このまま、目的地に、行くつもりですか?」

 

 三番目に付いて来ている兵士長は、走りながらもこの先の動向を尋ねる。宛ても無く逃げても意味など無い。

 

「駄目だ! あいつを目的地には連れて行けない! どこかで必ず振り切る!」

 

 ヴィヴィの言葉に兵士一同目を見開く。

 

「しかし――」

 

 反論しようとしたとき地響きが聞こえる。しかしそれは一回に留まらない。二回、三回と一定の間隔で聞こえてくる。

 

「来たぁぁ! 追って来ましたぁぁぁ!」

 

 兵士の一人が恐怖で引き攣った声を上げる。

 振り向く暇など無いと分かっているにもかかわらず背後の脅威から目を逸らし続ける恐ろしさに負け、兵士長並びに他の兵士たちも背後に首を向けてしまう。

 人など容易く踏み潰し、大地との境目など無いぐらい圧することが出来そうな巨大な四肢と、そこから生える巨体を前へと押し出す爪。引裂くような鋭い鉤爪のような形はしておらず、押し出す度に削れていったのか先が均一な平面と化していた。

 遠くに居る筈なのに近くに居るかのように詳細が見える。それほどまでにその生物は桁外れの大きさをしている。

 一歩踏み出すだけで兵士たちが数十歩走った距離分前進する生物。首が短く顔と胴体が一体化したような姿をしており、亀を連想させるがその鈍重そうな見た目とは裏腹に前脚、後脚を動かす速度は速く、最初に開いていた距離がたった数歩で三分の一ほど縮められた。

 

「びびってないで足を動かせっ!鈍っているぞ!」

 

 白い生物の迫力に呑まれていた兵士たちが苛立つヴィヴィの声に正気を取り戻し、振り向くのを止めて逃げることに意識を集中させる。

 

「ここから先に行った場所に道が少し狭まっている場所がある! そこに逃げ込む!」

 

 声を大にして周りに指示をするヴィヴィ。その切羽詰った様子に誰もが首を縦に振らざるを得なかった。

 

「……ディネブ殿もここは大人しく逃げに徹して下さいね」

 

 ディネブにしか聞こえない程度に声量を抑えるような声。ヴィヴィしか気付いていなかったが、ディネブの砲剣を掴む手はこれ以上握れば拳の方が壊れるのではないかと思える程、強く硬く握り締められていた。

 無言、無表情ではあるがそこには隠しきれない激情が秘められている。

 走る者と追う者の距離は最初に稼いでいた分もあり、少しずつ狭められているものの完全に追い付かれるにはまだ時間が掛かる距離であった。

 地響きを起こしながら走る生物に山が迫ってくるような圧迫感、恐怖感を覚える兵士たちであったが、その僅かな距離の差が震える心にほんの少し程度の安心感を与える。

 しかし、そんな中でも厳しい表情をし続けながら心の裡で一分一秒たりとも集中を途切れさせない者たちが居た。それは先頭を走るヴィヴィとディネブである。

 極寒の地に於いて異常な程の汗を流す二人。走るディネブなら兎も角として、衣服の内側に周囲の温度調節用魔法陣を描いているヴィヴィが本来汗など描く筈も無い。

 彼が汗をかく理由、それは彼が密かに行っているある行動のせいであった。

 そのとき前方を走っていたヴィヴィは大きく叫ぶ。

 

「死にたくなければ今すぐ倍以上の速度で走れッ!」

 

 ただでさえ限界に近い状態の兵士たちにしてみれば、ヴィヴィの言葉は無茶にも程があるものであった。

 足場に装備と疲労。それらの要素でかなり速度は削げられているものの今でもかなりの速さで走っており、少なくとも常人以上の速さではある。

 一体彼は何を思ってこのような警告をしているのか。兵士たちの頭にそんな疑問が過ぎる。

 だがその言葉から数秒後、彼らはヴィヴィの警告を実行できなかったツケを支払う羽目となる。

 背後から聞こえる地響き。そこに破砕音が混じる。割れるなどという生温いものではない、幾つもの音が重なって鼓膜を揺さぶるような耳障りな音。

 兵士の一人がそれに慄き、思わず生物の方を見てしまう。

 彼が見たものは走る生物が鋭角な顎を地面に突き立てた姿。地面に刺さる顎は長年凍り続けてきた凍土を容易く砕き割り、それによって盛り上がった氷の塊が生物の前で山を作っていく。走る速度に合わせて凄まじい速度で氷の山は大きさを増していった。生物を前にしてみれば氷の礫が集まっているような錯覚を覚えるが、実際の大きさは一つ一つが人の身体を覆い隠せそうな程の大きさがある。

 

「3……いや4人死んだか……」

 

 誰にも聞こえない程の小さな声でヴィヴィが呟いた直後、生物の前に積もって出来た氷山が弾ける。

 正確に言えば生物がその顎で掬い上げただけの行為に過ぎないが、あれ程の氷塊がまるで重さなど無いかのように宙に舞う光景など、非現実過ぎて思考がついていけなくなる。

 しかし本当の恐怖はその後にやってきた。

 舞い上がる氷塊がヴィヴィたちの方に向かって飛ばされて来ているのだ。一個の大きさを考えれば接触すれば無事では済まない。しかもそれが無数に降り注いでくる。

 大きな音と共に最後尾を走る兵士のすぐ後ろに自分の背丈ほどある氷塊が落下した。思わず飛び上がってしまいそうになる衝撃に兵士の表情が固まるが、更に無数の氷塊が自分の走る道へと降り注いでくる。

 何処にどんな大きさのものが落ちて来るのか確認する暇も無く、心の中で祈りながら氷の砲撃の嵐を突っ走るが、間も無くして怖れていた事態が起きる。

 

「があっ!」

 

 兵士の一人の背中に抱きかかえる大きさの氷塊が直撃した。例え鋼鉄製の鎧だろうと変形してしまいそうな勢いと重量を持った氷塊に、雪山用の装備など薄紙程度の妨げにしかならず、受けた兵士は目や口を限界まで見開いたまま転倒し、その場から動けなくなってしまう。

 手を伸ばせば助け起こせるであろう距離にいた数名の兵士たちは皆、脳裏に助けなければという考えが過ぎるが、降り注ぐ氷塊、地響く足音、背後から迫る圧倒的存在感と恐怖によって一瞬にしてそれが霧散してしまった。

 見捨てて行く兵士たちは心の中で無意味だと分かっているにも関わらず、倒れた兵士に謝罪の言葉を叫ぶがこのとき皮肉にもその行動が明暗を分けることとなった。

 倒れ伏せた仲間に対し謝罪の言葉を心の裡で吐くことも無く、ただ全力で走り続けることを考えた者が生き残ることが出来、反対に謝罪の言葉を吐いてしまったが為に全力で走るという行為からほんの僅かな時間、意識を離してしまったものが死を迎える。

 走り続けた者たちとそれから意識を反らしてしまった者を区切るかのように、成人男性の背丈程もある氷塊が複数着弾する。

 突如目の前に現れた氷の壁に急停止出来ず、逃げ遅れた兵士たち三名が氷塊に激突した。その反動で大きく後ろへと弾かれる三名。ほぼ全力で走っていた為に衝突の際の衝撃によって視界が定まらず、咄嗟に立つことが出来なかった。

 その間にも地響きはどんどんと近付いて来る。

 横たわった体に伝わる大きな振動に恐怖心を掻きたてられた兵士たちは、上手く動かない身体を無理矢理動かして身体を起こす。

 そのとき彼らの目に入って来たものは最初に氷塊の直撃を受けた兵士の姿。だがその姿も次の瞬間には城を支える柱の様な脚によって潰され、その姿を完全に見えなくなってしまった。

 人が虫を潰すかのように躊躇の無い踏みつけ、もしかしたら踏みつけた生物自体何かを踏んだという感覚も無いのかもしれない。それを証明するかのように踏みつけた足が何の余韻も無く前進してくる。ただ持ち上げられた脚と大地の狭間で血が糸のように引かれ、踏み潰された兵士の体の中にあったものが冷たい外気に触れ白い蒸気を出しているのが分かる。

 あっけなく仲間の一人が死んだ。それも全身を潰されて死ぬという無惨な死に方で、氷塊の向こう側に逃げ延びた兵士たちにはそれを見ることが出来なかったが、逃げ遅れた兵士たちはそれを目の当たりにしたことで未来の自分の姿を見せられているような気分であった。

 最早風前の灯火となった三人の兵士たちの命。残酷な結末を突き付けられた三人の行動は三者三様であった。

 一人はもう助からないことを悟り、その場でしゃがみこんで完全に諦めた態度をとる。

 一人は覚悟を決め、逃げることも諦めることもせず腰に差してある剣を抜き、迫る生物に向かってその剣先を向ける。

 一人は最後まで生きることを諦めず、何とか逃げようとして生物へと背を向け走り出した。

 諦観、無謀、足掻き、それぞれがそれぞれの決めた行動をとるが、それは辿る道が違うだけであり待つ結末は全て同じものであった。

 最初に結末を迎えたのは剣を向け、生物に斬りかかった兵士であった。

 巨大な生物を前にして兵士が握る剣は余りに小さく、頼りない。そして決死の覚悟で巨大生物に斬りかかる様も、同等の相手であったならば英雄譚の一節を彷彿とさせる雄々しいものだったかもしれなかったが、現実の光景はあまりにかけ離れた大きさの差のせいで兵士の姿はある種の滑稽さがあった。

 間近まで迫り、振り上げた剣を生物に向けて叩きつけようとする兵士。鬼気迫る表情をした兵士に対し生物が行ったことと言えば、ただ軽く首を上げるという動作。

 しかしそれだけで決着は付いた。

 生物が首を動かした瞬間、兵士の姿が地上から消える。次に兵士の姿が現れたのは地上から数十メートルの高さが有る空中であった。

 生物がやったことはその顎を跳ね上げるという行為のみ。だがそれだけで兵士の死は確定した。

 兵士が宙を舞っている間に生物は次に諦観して地面に座り込んでいる兵士を踏み潰す。あまりに呆気なく兵士の身体は地面に広がる赤黒い染みと化した。

 そして最後に狙われるは逃げようとした兵士。前方を塞ぐ氷塊を避けて何とか先に逃げた兵士たちの背が見えた直後、生物が氷塊を砕きながら前進してきたことにより砕かれた氷塊に潰され、更にその上から生物に圧せられ氷塊の一部と化した。

 

「……少しは足止めになったか?」

 

 予言通りに四人の兵士が死亡した後にヴィヴィはそう呟く。死んでいった兵士たちに対する憐憫の言葉など無く、ほんの僅かでも生物の歩みを遅めることが出来たのかどうかの方が重要であるらしい。

 ヴィヴィの言葉が耳に入って来たのか一瞬兵士長の顔が赤い憤怒の形相に染まるが、すぐにその顔から怒りが消え、代わりに深く眉間に皺を寄せ哀悼の表情となった。

 部下が死んだ直後に慈悲の無い言葉を聞かされ怒りを覚えたものの、自分もまた部下を見捨てたという事実を思い出し心中で深く詫びる。

 国の為にいつでも命を投げ捨てる覚悟で日々、心身を鍛えてきた。しかしその為の命が国とは全く関係の無い場所で意味も無く散らされていく。それは耐えがたい苦痛であった。

 ヴィヴィは苦悶する兵士長の顔を一瞥するが、何も言わず先頭をひたすら走り続ける。

 やがてヴィヴィが言った通り、目の前に両脇を山と山に挟まれた道が見えてきた。山を崩して現れたあの生物がこのような場所を前にして諦めるとは思えなかったが、それでも走る速度を遅らせることが出来る。

 背後の生物の気配を感じながらヴィヴィたちはその道へと入る。

 入った道は側に立つ山のせいで日が当たらず薄暗く、そのせいで気温も低い。その低温のせいで道には薄い氷が張られており、走る度に氷が割れ小気味よい音を鳴らすが、今はそれに耳を傾ける余裕は無かった。

 暫く走った後ヴィヴィたち一行は違和感を覚え、背後を見る。あれほどまでに荒々しく響いていた足音が無くなり、追って来ていた生物の姿も無い。

 この道に入ったことで諦めたのかという淡い期待が兵士たちの頭を過ぎるが、それとは対照的にヴィヴィとディネブは警戒する態度を崩さない。

 

「近くには……居ない? 姿が消えた?」

 

 信じられないといった様子でヴィヴィは呟く。何かに集中しているせいか走る速度が若干緩んでいた。

 

「……ディネブ殿。済まないが見失った。……だが決して油断はしないでくれ。『奴ら』はこちらの考えの上を行く」

 

 ヴィヴィの警告にディネブは無言で頷く。

 いつ敵が現れるのか分からない狭い道をひたすら走る。誰も声を出すことは無く走る音だけが中で反響する。

 言葉にせずとも、誰もが内心であの巨大な生物がいつ襲ってくるかもしれないという恐れを抱いていた。

 十分後、一分後、あるいは十秒後。山を突き崩し自分たちの前に姿を現すのではないかという幻想が頭の中から離れない。

 耳の奥にこびりついた生物の足音。今は聞こえず静かになっているが、その静けさのせいで気を紛らわすことが出来ず、頭の中で何度も反響する。

 逃げている。距離も開いている。姿も見えない。なのに恐怖が薄れることが無い。追い駆けられた時間は短いものであったが、兵士たちの心の中に根付く恐怖は深い。

 やがて狭い道の先に光が射すのが見えた。薄暗い道を通って来た兵士一行にはその日差しの眩しさがあまりに美しく見え、恐れや怯えで凍てつく心にほんの僅かな安心と言う温もりを与えてくれる。

 狭い道を抜けたときヴィヴィたちが見たものは、目の前に広がる凍り付いた巨大な湖であった。

 ヴィヴィは道から出るとしきりに周囲を確認する。しかし何も見つからないのか重たい息を吐き走るのを止め、早歩きへと変えた。

 表情には出さないもののあの生物から逃げる為に数分間以上全力疾走していた為、ヴィヴィ自身もそれなりに体力を消耗していた。一応、補助魔法をかけていたので疲労などを抑えていたが、本来身体を激しく動かすことは専門外である。ヴィヴィは歩きながら少し乱れた呼吸を整え、さりげなく白衣のボタンを二つほど開き内に篭った熱を外に出す。

 一方、ディネブの方はというとやはり激しく動き続けたせいで額から汗を流し全身からも熱による蒸気が立ち昇っていた。しかしヴィヴィとは違い呼吸は一切乱れてはおらず平常時と変わらない間隔で呼吸をしている。魔力は持っているが魔法などの技術を一切使用できないディネブの本来の身体能力であり、背負う砲剣の重さも加味すれば壮年の男性とは思えない化物染みた体力であった。

 足早に歩きながらヴィヴィは後ろをついてくる兵士たちの様子を見る。ヴィヴィやディネブとは違い激しく呼吸が乱れており、一回一回空気を吸う量が大きく頻度も多い。顔色は赤く染まり、そこから滝のように汗を流し、踏み出す一歩が重い。

 怪物に追われているという状況のせいで感覚が麻痺していたが、一旦それから解放されたことにより限界以上酷使していた反動が出ていた。

 その上しきりに周囲を見回す兵士が何名かいた。せわしなく首や眼球を動かし、周りに過敏なまでに注意を払っている。

 どさりという小さな音が鳴る。通常の状態ならばそれが木々に積もっていた雪が地面に落ちたというものだと分かるが、精神が恐怖によって昂っている彼らにとっては小さな音一つでも内にある恐怖を弾かせる切っ掛けとなる。

 

「う、うああああああああ!」

 

 雪の落下音と同時に兵士の一人が奇声を上げて腰の鞘から剣を抜く。そして別の兵士がそれを見て恐怖を触発され身を護る本能からかこの兵士も剣を抜いた。

 短時間の間に深く刻まれた恐怖によって起こる連鎖反応。屈強な兵士であろうとも恐れや怯えからは逃れられない証明であった。

 

「そいつらを黙らせてくれるかね?」

 

 奇声や抜剣行為にヴィヴィがやや苛立った口調で兵士長に頼む。

 

「――分かっている」

 

 醜態を晒す兵士たちの姿を見ながら、兵士長は唇を強く噛んだ後に了承の言葉を吐いた。今まで鍛えてきた兵士たちが一回の遭遇でここまで精神的に追い詰められるとは予想外であったと兵士長は思っていたが、兵士長もまた心に深く恐怖が根付いていた。

 仮に今起こっている兵士たちのパニックを見て気持ちを冷めさせていなければ、自分が目の前で繰り広げられていることをしていたかもしれないという思いがあった。

 兵士長はパニックを起こしている兵士の一人に近付くとその腕を掴む。腕を掴まれた兵士はビクリと体を震わせ、反射的に兵士長の方へと顔を向けた。

 兵士長は兵士の顔が自分の方を向いたタイミングでその兵士の頬を叩く。あまり強い力で叩かず手首の動きだけでの平手打ち。

 雪原に乾いた音が響く。

 叩かれた兵士は思わず呆然としていたが、それによって自分が取り乱していたことを自覚したらしく顔が羞恥で赤く染まる。叩かれた頬の赤みが消える程、兵士の顔は真っ赤であった。

 

「も、申し訳ありません」

 

 素早く剣を納め、兵士長に深々と頭を下げる。

 

「落ち着いたか?」

「は、はい!」

「ならいい」

 

 それ以上は責めず兵士長は他の兵士たちを見回す。

 

「自分もして欲しいという奴はいるか?」

 

 兵士長の冷静な声。叱られた兵士の姿。その二つがパニックを起こしていた他の兵士たちの頭を冷水でもかけたかのように冷やす。

 兵士たちは抜いていた剣を納め、叩かれた兵士と同じように兵士長に向かって頭を下げた。

 

「流石、流石」

 

 兵士たちに背を向けながらヴィヴィは軽く手を鳴らす。褒めているのか嫌味なのか判り辛い口調であり、醜態を晒した立場としてそれに強く反発することも出来なかった。

 

「部下が御見苦しい姿を見せました」

「いやいや。アレに追い駆けられてその程度で済んでいるのならば大したものだよ。私の知り合いも似たような経験をしたことがあるらしいが、あれは酷かったな。まだ二十代だったというのに老人と見間違える程に一気に老け込んでしまって、部屋から一歩も出なくなってしまったよ。まあ、一晩中追い駆け回されたのならば精神に異常をきたすのも分からなくはないがね」

 

 まさに他人事として話すヴィヴィであったが、兵士たちの顔色がまた優れないものとなる。

 

「いたずらに恐怖心を煽らないで欲しいのですが?」

「追い駆けられた程度で済んで幸運だったと言いたかったのだがね。更に不安を煽るようで恐縮だがあんなのは序の口だと言わせてもらおう。もしアレが私の知っている奴らの同類ならば、まだ実力の一端も見せていない筈だ」

 

 警告するヴィヴィに兵士長はある点について疑問を抱く。

 

「奴ら……以前にもあの様な存在と遭遇したことが?」

「――まあね」

 

 兵士長の問いをヴィヴィ肯定する。

 

「ならばアレは一体――」

 

 そこまで言い掛けたとき全身を突き抜けて行く様な冷気を浴び、その冷たさに言葉が途中で止まる。

 続けて頬へと当たる冷たい感触。それは肌の熱で溶け、一瞬にして水へと変わった。

 

「吹雪いてきたな」

 

 ヴィヴィの言った通り先程まで穏やかであった天気が変わり、空は厚い雲に覆われそこから雪が降り、山の方角から冷たい風が吹き、雪を吹雪へと変える。

 視界が一気に白く染まり見える範囲が狭まる程の吹雪。衣服には次々と雪が積もっていく。

 

「何処か避難する場所を」

「いや、このまま行く。一秒でも時間を無駄にしたらアレに追い付かれるかもしれない」

「この吹雪では遭難する方が先です」

「私の背中を黙って付いてこればいい。付いてくる限りは遭難などしない」

 

 確信を持ったように言うヴィヴィに兵士たちは懐疑的な視線を向けるが、あの生物から逃げる際見えている筈も無い場所から山によって狭まれた道のことについて知っていたことを思い出し、不本意ではあるが大人しく従うことを決める。

 舞う雪と吹く風は歩く兵士たちの身体から容赦なく体温と体力を奪っていくが、先頭を歩くヴィヴィは魔力で熱を一定に保っているので特に問題は無く歩き、ディネブの方も雪が体に積もっていっても身震いすることなく淡々と歩く。

 

(このまま少しでも距離を――)

 

 周囲を警戒しながらそんなことを考えていたヴィヴィであったが、あるものを視てしまい頭を殴られたかのように思考と足が止まる。

 急に立ち止まるヴィヴィに皆が不審な眼差しを向けるが、その疑問も次の時には一気に解消される。

 大地を揺るがすような足音。一度聞けば二度と耳から離れないように重く、腹の奥底まで響く。

 

「う、嘘だろ……」

 

 兵士の一人が今起こっている現実を否定するかの様な震えた声を出す。

 

「私が甘かった……」

 

 後悔が込められたヴィヴィの台詞。しかし、それを誰も咎めることはしない。

 皆が背後に向けて最大級の警戒を抱いていた筈なのに、どういった方法をとったのかその足音はヴィヴィたちの前方から聞こえてくる。

 あのときと同じように一定の間隔で刻まれる足音。やがて吹雪の中で巨大な影が姿を現す。

 ディネブは背負っていた砲剣を構え、他の兵士たちも腰から震える手で剣を引き抜く。

 臨戦態勢が整った次の瞬間、その場に居る誰もが戦いの前であるというのに呆然としてしまった。

 何故なら吹雪の中に現れた影が突如として倍近い高さへと姿を変えたからだ。

 これ以上何を自分たちに見せつけるというのだ。

 皆の胸中にそのような言葉が浮かんだ次の瞬間――

 

 ――世界が揺れた。

 

 山が、体が、大気が、地面が全て揺れ動く程の咆哮。例えここから数十キロ以上離れていようと必ず聞こえる程の圧倒的声量。

 それを間近で聞くヴィヴィたちは堪った者では無い。

 反射的に耳を閉じても音が弱まることはなく全員が歯を食い縛り、眉間に皺を寄せ、脳に無理矢理入り込んでくる音の暴力を必死になって耐える。

 音に殺される。冗談では無く本気でそのようなことを考える者もいた。

 兵士の中には音に耐え切れなくなり膝を折り、地面に頭を付けて身体を胎児のように丸める者も現れる。

 人を殺しかねない程の咆哮。しかし、本当に圧倒されるのはこの後訪れる。

 容赦なく吹きつけていた筈の吹雪が咆哮によって次々と吹き飛ばされていく。雪は消え、風も弱まり、後に残るのは名残のようなそよ風のみ。

 人が抗うことなど出来ない自然の猛威を、その咆哮のみで真っ向から捻じ伏せていく。

 耳を抑えながらも視線を離すことはなかったヴィヴィやディネブの目には、不覚にもそれがまるで神の御業のように思えてしまった。

 長い咆哮が終わると吹雪もまた止む。

 吹雪が消え、良好となった視界には二本足で立ち上がるあの生物の巨体が写り込んでいた。

 

「……全く、嫌になる」

 

 圧倒的かつ底知れない実力を見せつけられたこと、その実力を目の当たりにして一種の感動すら抱いてしまった自分を嘲りながら、ヴィヴィは付けている面に手を当てる。

 しかし、それよりも先に生物の方が行動を起こす。

 大きく息を吸い込みながら顔を仰け反らせ、戻すと同時に口から何かを吐き出した。

 一直線に進む白い液体らしきものが、分厚い湖の氷を砕きながらヴィヴィたちに迫る。

 ヴィヴィとディネブは素早く左右に移動しそれを回避し、兵士たちも同じようにして避けるが、兵士の中には再び現れた生物の姿に半ば放心状態となってしまった兵士がおり、それにより他の兵士たちよりも行動が遅れてしまう。

 

「――あ」

 

 間の抜けた声を上げ、ようやく正気に戻ったときには生物が吐き出した液体に呑み込まれ、湖の氷と同じようにその身は瞬時に砕かれて周囲に撒き散らされる。

 このとき避けられた兵士にとって不運だったことがあるとすれば射線からややずれた位置にその兵士が立っていた為、完全には巻き込まれずその身が完全には砕かれず、大中大きさはまばらではあるが一目見ただけで人の死骸であることが分かる状態であり、生き延びた兵士たちは仲間の死体をまざまざと見せつけられることとなる。

 

「くっ! 固まるな! 狙いを分散させろ!」

 

 兵士長が叫ぶ。一か所に固まれば今のように殺害されるのを考慮し、一人でも生き延びられるようにする為の指示であった。

 

「これは――」

 

 ヴィヴィは避けた際に頬に付着した液体を指先で拭う。皮膚が爛れるようなことも刺激臭もない。あの生物が吐き出したのは紛れもなくただの水であった。

 

「やれやれ、桁外れな力を持っているとただの水さえこれほどの凶器か」

 

 愚痴るヴィヴィの前で、後足二本で立っていた生物が立ちあがるのを止め四足へと戻る。その際周囲にいたヴィヴィたちの身体に宙へ浮いたかと錯覚させる程の揺れが起きる。

 

「いちいちやることが冗談みたいだ」

 

 四足となった生物は再びその場で大きく口を開く。また水を吐き出そうとしている様子であった。狙いの先に居るのは三人の兵士。固まるなと指示はされたものの生物へと恐怖感のせいで動きが遅れている。

 生物はその動きの遅さを見過ごす筈も無く三人の兵士に向けてその口から液体を吐き出した。

 ちょうど射線上にいた兵士の一人はまともにそれを浴び瞬時に体が砕かれ絶命する。少しずれた位置に立っていた別の兵士はかすめるようにして当たった筈だが、水に触れた胴体は鎧ごと抉られ、駄目押しと言わんばかりに細かい氷の礫が体の至る所にめり込んでいた。

 そして最後に残った兵士は、直撃は避けたものの他の兵士たちに当たって飛散した液体を頭から被ってしまう。

 

「う、うああああ!」

 

 浴びた液体が兵士に触れた瞬間、氷へと状態を変え兵士の体を氷漬けにしていく。

 

「寒い……! 寒い……!」

 

 ただでさえ気温の低い雪山。その中で文字通り身の凍らせられた兵士は少しでも体に温もりを戻すように自分の手で自分を抱きしめ、ガタガタと震える。

 瞬時に三人の兵士を戦闘不能にされた状況を見ながらも、ヴィヴィは冷静に分析を続けていた。

 生物が吐き出した液体は紛れもなく水であったが、その中には大小様々な氷の礫が混じっており人を軽々殺せる水圧の破壊力をより凶悪なものへと変えていた。そして、水の温度は付着すれば瞬時に凍り付いた点から氷点下を下回っていると考えられる。

 だが普通、ある程度水の温度が下がれば氷へと変わるものだが、何故か生物が吐き出すまで液体の状態を維持できていた。

 

(あの生物の体内には液体を固体に変えない特殊な物質でもあるのか?)

 

 そんなことを考えているうちに、氷漬けにされた兵士は蹲った状態のまま動かなくなった。死んだのかあるいはまだ生きているのか、見ているだけでは他の兵士たちは判断出来ない。

 

「くっ!」

 

 耐え切れず兵士長が助けに動こうとするが、それをヴィヴィの鋭い言葉が制止させる。

 

「行っても無駄だ。――もう死んでいる」

 

 かなり離れているにも関わらず確信に満ちた言葉。しかし、その言葉だけでは納得し切れない。

 

「何故言い切れる!」

 

 ここに来るまでに三人の部下を見殺しにした。そしてここに着いてから二人の部下を失った。五人とも名も知っているし、一緒に酒を酌み交わしながら食事もした。そんな部下の命を呆気なく散らせてしまった罪悪感から、兵士長は可能性が少しでもあるならば無謀は承知で何としてでも部下の命を救いたいという強迫観念に駆られていた。

 

「私には見えるんでね」

 

 兵士長の怒声に冷めた言葉を返しつつ、ヴィヴィは生物に目を向けたまま付けていた仮面を外した。

 仮面の下から現れた素顔は三十前後といった容貌。これといって美形という訳でもないが不細工とは程遠い平均以上といった顔立ち。

 ただそんな顔よりも更に目立つのが顔左半分に刻まれた裂傷の跡。額から目蓋を通り頬から耳付近にかけて刻まれている。

 そして、さらに注目すべきはヴィヴィの右眼。傷跡はあるが通常の左眼とは異なり、右眼には白目が無く、墨を流し込んだかのように黒一色に染まっている。

 殆ど瞳と同化したような状態であったが、あろうことかその黒い部分は生き物のように眼球の中で蠢いていた。

 その眼の色と蠢きに驚く兵士長の前で黒い部分は形を変え、文字のような姿へと変わると瞳を中心にして円形の魔法陣を目の中へと描いた。

 

「ディネブ殿。ここで一戦交える。勝たなくても負けなくてもいい時間を稼いでくれるかね?」

 

 圧倒的実力を持つ生物へと挑めとディネブに言うヴィヴィに、兵士長は正気を疑った。あれほどの差を見せつけてきた相手に単騎で挑むなど無謀でしかない。

 しかし、ディネブはそれに首を縦に振って応じ、背中から砲剣を下ろすと肩に担ぎ、生物に向かって歩き始める。

 

「馬鹿な! 死ぬつもり――」

 

 歩いていくディネブを追い、その無謀を咎めようと兵士長は前に立ち塞がり、考え直すよう説得の言葉を言おうとしてそこで止まってしまった。

 彼は見てしまった。今まで何があろうとも表情一つ変えることが無かったディネブが口の両端を吊り上げ、犬歯を剥き出しにしながら嗤っている顔を。ヴィヴィの言葉を心待ちにしていたかのような凶笑、あるいは悪鬼の笑みであった。

 ディネブの笑みを見た兵士長は何も言えず、横を通り過ぎて行くのを黙って見ているだけであった。

 歩む速度を徐々に上げながらディネブは担いでいた砲剣を構える。そして、歩みが走りと呼べる速度となったときディネブは吼えた。

 

「うおおおおおおおぉぉぉぉぉ!」

 

 兵士長も初めて聞くディネブの声。最早人の声というよりも獣の咆哮に近い。あるいは人という種が進化の過程で失った動物としての咆哮に近いのかもしれない。

 生き残った兵士たちはディネブの吼える声に驚き、生物もまたその目をディネブへと向ける。

 ディネブの目と生物の目。このときになって初めて両者の視線は交差した。

 

「尾が来る! 跳べ!」

 

 それと同時にヴィヴィが叫ぶ。声が聞こえたディネブは何の躊躇いも無く、砲剣を持った状態でその場から跳び上がった。

 直後、生物はディネブに背を向けるような格好をしたかと思えば、人の姿など容易く隠してしまいそうな程の縦の幅を持つ尾を体の動きに合わせて振るう。本体の動きは鈍重に見えるが体全体を使って振るう尾の速度は風切り音が発生するほどであり、直撃すれば即原型を留めない威力を秘めていた。

 しかし、どんなに破壊力を秘めていようと当たらなければただの空振りでしかなく、事前に跳び上がっていたディネブの足元を僅かに掠めただけに終わる。

 跳び降りたディネブはそのまま走る速度を緩めずに生物に接近すると、尾を振って無防備になっている腹部分に向け、砲剣を突き出す。

 だが突き出した砲剣から返って来たのは、鋼鉄でも叩いたかのような甲高い音と痺れるような手応え。

 見た目通りの強固さ、刃が全く通らない。

 僅か一撃を入れただけでディネブは自分の武器が通じないことを悟ると、すぐに攻撃の手段を変える。

 腹を突かれた生物は体勢を戻し、ディネブを正面から見ようとするがそれよりも先に砲剣の砲身部分に魔術用の文字が浮かび上がる。

 先端を生物に向けると同時に砲口から火球が飛び出し、生物の額に直撃した。上がる黒煙、だがそれも煙から顔を出した生物がすぐに掻き消してしまう。

 直撃したものの生物の白く荒々しい外皮に僅かな焦げ目を付けた程度。その気になれば竜の皮膚すらも焼くことの出来る砲撃であるが、この生物にとっては目晦ましぐらいの効果しか望めない。

 砲撃が効かないと分かってもディネブは次々と生物に向けて火球を放つ。倒すことなど最初から叶わないという考えがあった故に、すぐに自分に敵の注意を引きつけ時間を稼ぐ手段に移っていた。

 生物も傷は負わないものの顔面付近に絶えず放たれる火球を嫌がったのか顔を背け、背面で受けようとするがディネブもまた砲撃を繰り返しながら移動し、顔から狙いを逸らさない。

 あわよくば視力を奪うという考えからの攻撃であった。

 それを見ていたヴィヴィであったが、次の瞬間に目を丸くする。何か彼にしか見えないものが見えたらしい。

 

「ディネブ殿! そこから全力で離れろ!」

 

 ヴィヴィの大声を聞き、砲撃をしていたディネブはあっさりと砲撃を止める。

 直後、全員が見ている前で生物は予想もしない行動に出た。

 特徴的な鋭角の平たい顎を氷へと突き刺してから顎を突き上げ、氷を深く抉る。それによって出来た穴に今度は大きく螺旋状の形をした爪を突き立てる。氷はいとも容易く削られ、大小様々形に変えられてから掻き出される。生物はその場で左右の前足で氷をありえない速度で掘削し始め、見る見る内にその姿を氷の中へと隠していく。

 通常、人間ならば自分が隠れる程の深さの穴を掘るのに道具を使用しても数時間は必要とするが、この生物は自分の体一つでたった数秒という考えられない速度で地面に潜行していく。

 何度目かとなる現実離れした光景に兵士たちはただ沈黙するが、それを見ていたヴィヴィは声を出して笑う。

 

「あっはっはっは! 成程! あの狭い道を通って尚且つ先回りも出来たのはそれのおかげか! そう言えば初めて見たときも山を突き崩してきたものなぁ! ――ふざけんなっ!」

 

 笑った末にヤケクソ気味の罵倒。

 

「どうしてそんなに早く潜れる? どうしてそんなに容易くこの氷を堀ることが出来る? 全く非常識な奴らだよ、お前らは! こっちが真面目に考えているのにすぐにその斜め上を行きやがって! こっちは常識の世界に住んでいるんだ。 お前の非常識を態々見せるな! 頭がこんがらがる!」

 

 髪を搔き乱しながら早口で言葉を羅列する。

 その間にも生物の身体は氷中へと埋まっていき、やがてその全身は完全に氷の中へと隠れた。

 

「まだだ! まだまだ! 走れ! ディネブ殿! 次の非常識が来るぞ!」

 




ウカムルバスの無双状態が続く前編でしたが、後編も無双していく予定です。

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