ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第18話 仮想世界の申し子 (2)

 

 

 教会は各街に必ず一つは存在する施設だ。その役割はモンスターの特殊攻撃である《呪い(カース)》の解除や対アンデッド用に武器の祝福を行うこと。実際的な意味で攻略や戦闘を進めるのに有用な施設であり、魔法的要素を排除されたアインクラッドで最も神秘的とされる場所だった。

 とはいえ俺達の目的はそれらではなく、この教会の小部屋を借り上げて生活しているサーシャさん――アルゴ呼称《先生さん》を訪ねることにあった。教会は一定額のお布施を定期的に納めることで宿屋代わりにも使える。そして驚いたことに、今この教会には二十名を超える子供達が共同生活を送っているのだった。

 サーシャさんに保護されている子供達は、見たところ十歳から十二歳といったところだろうか。俺達の見た目は二年前から変化がないから、実年齢はもう少し上だろう。

 

「なあなあ、あんた強い剣士なんだろ? 何か手っ取り早く強くなる方法ってないのか? 先生は俺達に危ないことはしちゃ駄目だっていうけど、俺も戦えるようになりたいんだよ」

 

 アルゴに先導され、アスナ達と訪れた教会で大勢の子供達の姿と和気藹々とした様子に圧倒されていた俺に、真剣な目でそんな問いを発してきた子供もいた。どちらかと言えば年少組に見える赤髪の少年で、勝気そうな目と活発そうな雰囲気が印象的だった。

 

「こら、お客様に何言ってるの! それにあんたたちはモンスターと戦うなんて危ないことはしなくていいって何時も言ってるでしょ!」

「でもさ、また今日みたいなことがあったら困るじゃん。街の皆だって、軍はオーボーだって言ってたぜ? 俺があいつらを追っ払って先生や他の奴らを守ってやるんだ!」

 

 拙いながらも義憤を抱き、強くなりたいと真っ直ぐに言い放つ。その様に眩しいものを感じるが、保護者代わりであるサーシャさんの方針を初対面の俺が覆すわけにはいかないだろう。それに命懸けの戦いに(いざな)う剣を、面白半分で子供に与えていいとも思えなかった。今まで戦いとは無縁に過ごして来れたというのなら、最後までそうあって欲しい。

 

「君がみんなを守りたいって気持ちはとても大切なものだ。そしてそれと同じくらい先生も君を守りたいって思ってるんだよ。もう少しだけ我慢してもらえるか? 俺達が君達みんなをこの世界から開放してみせるから」

「……ほんとか? ほんとに、そんなことできるのか?」

「ああ、お兄ちゃんやそっちのお姉ちゃんはとっても強いんだぞ、フロアボスだってたくさんやっつけてきたんだ。俺達が絶対ゲームクリアしてみせるから、モンスターと戦うなんて危ないことを言うのはもうやめような。もし剣を振り回したいっていうなら、この世界から帰ってから新しいゲームを遊べばいいだけなんだから」

 

 膝を折って視線を合わせ、しっかりとした口調で諭すと、不承不承ながら頷いてくれた。素直な子で良かったよ。

 俺達のことをサーシャさんが紹介してくれたときに、真っ先に剣を見せてくれなんて言ってきた男の子だ、純粋に剣を振って戦ってみたいという気持ちもあるんだろう。そう思ったので多少の効果を期待して矛先を逸らしておいた。

 残念ながらVRMMOってジャンルがソードアート・オンラインで盛大にこけた以上、向こうの世界に帰ってもバーチャルリアリティ対応で遊べるゲームなんてないだろうけど。ま、嘘も方便だ。

 俺達のやり取りを見守っていたサーシャさんがほっと胸を撫で下ろしていた。アスナとユイはにこにこしてるだけだからいいけどさ、アルゴ、お前はそのにやにや笑いを引っ込めろ。

 

「それじゃ、先生はこの人達とお話があるから皆はお昼まで自由時間ね。それと絶対に一人で外に出たりしないこと、いいわね」

「はーい!」

 

 元気の良い声が唱和し、思い思いに散っていく子供達を見送ってから、俺とアスナ、ユイ、アルゴにサーシャさんを加えた五人は一階の食堂に場所を移し、片隅に設えた丸テーブルに腰を落とした。俺達が席に着くとサーシャさんが「今お茶を用意しますから」と一礼して厨房へ。程なくサーシャさんが戻り、白い丸テーブルの上に五つのカップが並んだところでサーシャさんも席に着いた。

 

「お騒がせして申し訳ありませんでした。子供達もお二人ほどの有名人と会ったことはないせいか、どうにも興奮してしまったようでして」

 

 《閃光》の威光ここに極まれり、かな。アスナは特に女の子から絶大な支持を得ていたように思う。憧れのお姉さんといった感じだろうか? 加えて幾人かの男の子もぼーっとアスナに見惚れていたし、もう流石としか言い様がない。

 俺? 最初は《黒の剣士》だってことすら信じてもらえませんでしたが何か? 何でも彼らの抱くイメージと実物の黒の剣士は全く違うそうな。「この兄ちゃん強そうに見えねえ」とほざいてくれたお子様の、悪意なきクリティカルヒットに膝から崩れ落ちそうになったのは内緒だ。そこまで弱っちく見えるのか、俺……。

 アルゴは腹を抱えて笑い転げていやがるし、ユイには何故だか《良い子良い子》と頭を撫でられたりと散々な目にあった。

 

「応援してもらえるのは嬉しい事ですよ。ね、キリト君」

 

 まあそうだな、と答えておく。

 

「サーシャさんこそすごいですよ。こんな大人数を保護して共同生活を送るなんてなかなか出来ることじゃないです」

「そんなに格好良いものじゃないです、こうなったのも成り行きというかなんというか……。私もゲーム開始から一ヶ月くらいはゲームクリアを目指して頻繁にマップに出ていたんですけど、そんな折に街の中でうずくまって震えてる子供たちを見つけたんです。それで、どうしても放っておけなくなっちゃって。それからは似たような境遇の子たちを集めて、ご覧の通り教師と保母さんの真似事をして過ごしてます」

 

 向こうの大学では教職課程を取っていたんですよ、と懐かしそうに口にするサーシャさんだった。柔和な笑みを浮かべ、穏やかな口調で「子供達と過ごす毎日が楽しい」と告げる姿は一本筋の通ったものだ。自分の為すべきを見極め、迷うことなく己の道を邁進しているプレイヤーに共通する芯の強さがそこにはある。

 

「私は早々にドロップアウトしてしまいましたから、お二人のように最前線で戦ってくださる方には申し訳なく思ってます」

 

 その言葉通りに顔を曇らせ、丁寧に頭を下げるサーシャさんに、俺とアスナは慌てて頭を上げてくれと宥める羽目になった。

 

「皆、それぞれの役割を果たしているだけです。サーシャさんだって立派に戦ってますよ、恥じることなんてありません」

「ありがとうございます、そう言っていただけると気持ちも楽になりますね。実はアルゴさんから名高き《黒の剣士》と《閃光》なんて二つ名を持つすごい方々が訪ねてくると聞かされた時は、驚きすぎて目が点になってしまいました。正直に申し上げますと今も少し緊張しています」

 

 その穏やかに話す様子からは緊張とか気後れのようなものは感じられなかったが、あえて追及するほどのものではないだろう。居住まいを正し、早速本題に入ろうと口を開いた。

 

「今日は急に押しかけてしまってすみませんでした。どうしてもあなたにお聞きしたいことがありまして」

「アルゴさんからお話は伺っています。そちらのユイさんのことですね?」

「ええ、この子は俺達が保護したときには記憶を失っていました。そちらのアルゴに頼んでユイの縁者を探してはいるのですが、一向に進展がありません。そこで伝聞ではなく一度ユイの姿を直に見てもらおうと訪ねさせていただきました。どうでしょうか? この子をどこかで見かけたことがあったりは?」

 

 横目で話題の中心であるユイを見ると、サーシャさんの用意してくれたカップからホットミルクを美味しそうに飲んでいるところだった。んくんく、と可愛らしく嚥下する様を眺めやり、思わず眦を下げてしまう。癒し効果は抜群だ。

 

「……残念ですが」

 

 しばしユイをじっと見つめていたサーシャさんは、やがて無念そうに力なく首を横に振った。そうですか、とアスナが幾分気落ちしたように目を伏せた。

 

「私は二年前からずっとはじまりの街の巡回を続けています。一エリアずつ、どこかで困っている子供が取り残されていないかを確認してまわっていますから、もしユイさんがはじまりの街で暮らしていたのなら絶対に気づいていたはずです」

 

 ですからおそらく別の階層で暮らしていた子だと思いますよ、と確信に満ちた声で続けたサーシャさんだった。まあそうだろう。はじまりの街は広大な敷地を誇るとはいえ、同時に最大の人口を誇る都市でもあるのだ。仮にユイくらいの目立つ容姿のプレイヤーが長く滞在していたのなら、ここまで目撃情報が出てこないなんてことはない。とっくにアルゴの情報網に引っかかっているはずだ。

 

「お力になれず申し訳ありません」

「こちらこそ無理を聞いてもらって感謝しています。ユイのことは焦らず調査を続けます」

 

 と言ってもその手の事はアルゴに一任するしかないんだけど。攻略に宛てる時間も足りていないため、とてもユイの保護者探しまで手が回らない。アルゴに頭を下げて継続調査を頼むしかなかった。

 

「よろしければ私のほうでも知人に当たってみましょうか?」

「申し出は大変嬉しいのですが、そこまでしてもらうのも悪いですよ。それにサーシャさんだって色々大変でしょうし」

「あの、サーシャさん。少し立ち入ったことを聞くようですけど、毎日の生活費とかはどうなさっているんです? サーシャさん一人で二十人以上の宿代に食事代を捻出するのは、その、難しいんじゃないかと……」

 

 さすがに言い出しづらい話題のためか歯切れ悪く語尾を濁したアスナだった。俺やアスナのように上の層で戦えるのならモンスター一体当たりに得られるコルもでかくなるし、長時間狩りに従事することも珍しくない。というか日常だ。必然、懐は暖かくなりやすいため、仮に子供の十人や二十人の生活を面倒みろと言われてもどうにかなる。もちろん経済的な面に限るが。

 しかしサーシャさんは子供達の面倒を見ながら日々の糧を得る必要があるため、レベリングだって本腰入れてかかることはできないだろう。安全マージンを確保できない以上、下層のモンスターをどうにか相手どるくらいで精一杯なんじゃないか?

 

 まあ攻略組は攻略組で、日々高値更新を続ける強力な武具の数々を確保しなければならないため、金銭面の苦労が皆無なんてことは間違ってもありえないのだけど。NPC店舗の物価変動はなくとも、プレイヤー間の取引においてはアイテムの値は日々釣りあがっていく。これはもうモンスターを倒して糧を得る、オーソドックスなMMOシステムの根本的な問題だから嘆いてもしょうがない。

 ゲーム内通貨の総量が消費速度を越えて増加し続けると何が起こるか。簡単だ、通貨価値の減少――すなわちインフレの発生である。攻略組に留まるためには加速し続けるインフレ現象に適応し、高性能装備の更新をしなければならない。そのために生活のほとんどを狩りに費やすことが必須ともいえるわけで、攻略組が過酷だといわれる理由の一つだった。攻略組と中層以下のプレイヤーで装備に顕著な差が出るのは、経済力の観点からも当然のことなのである。

 

 そうした状況に対処するためか、プレイヤーの稼いだコルをシステムに還元させる、いわゆるインフレ阻止を目的とした仕組みも用意されている。日々の生活を彩る衣食住を賄う費用は言うまでもなく、武具の耐久度を回復させる研磨、狩りに費やす消耗品、プレイヤーの財布から金貨を吐き出させるクエストだって存在する。

 例えば俺が持つドロップ確率を変動させるエクストラスキル《宝石鉱山》、その獲得クエストはコルを大量に消費し、かつ今以って達成条件の不明な代物だ。多数のプレイヤーが挑戦し、失敗し続けていた。

 つまり《宝石鉱山》獲得クエストはインフレを抑えるために用意された、『失敗を前提とした』クエストだったんじゃないか、そう思わせる節があるのだ。もちろんこれはあくまで一例であるが、アインクラッドを形成する妙なるシステムバランスのおかげか、俺の知るMMOと比すればこの世界の物価上昇は非常に緩やかなものだった。

 

 とはいえ碌に狩りに出れないプレイヤーにとって物価上昇は大きすぎる問題である。こうした状況下で救いといえば、下層の街では宿屋や食事にかかる料金が低価格のまま変動しないことだろう。

 日々の収入に乏しいプレイヤーが軍の横暴に怯えていてもこの街――はじまりの街を離れられないのは他の層に比べて格段に物価が安いためだ。誰だって空腹を抱えた毎日を過ごしたくないし、宿屋の部屋を確保できなければ常に睡眠PKの脅威に晒されることになる。どんなに居心地が悪かろうと簡単にこの街を出て行くわけにはいかない事情があるわけだ。

 

「お察しの通り、私一人ではとても賄える額ではないのですが、ここを守ろうとしてくれる年長の子もいまして。彼らははじまりの街周辺でしたら問題なく戦えるレベルですから、皆で協力しあってどうにかやりくりしてます。それにアルゴさんも援助してくれてますから、子供達の誕生日を祝うくらいの贅沢は出来るんですよ」

 

 本当に助かってます、とサーシャさんがアルゴに向かって丁寧に頭を下げる。へぇ、そんなことしてたのかアルゴの奴、なんて深々と感心していると――。

 

「感謝するならオレっちじゃなくてキー坊にすると良いヨ。寄付金の大半はキー坊の財布から出てるから」

 

 絶対わざとに違いない生真面目な顔で、しれっとそんな事を告げるアルゴに思わず目が点になった。

 

「そうなんですか? では改めまして――黒の剣士様、度重なる援助に御礼申し上げます。今日は子供達まで助けていただいたようで、感謝の言葉もありません」

「は、はあ……」

 

 丁寧に頭を下げられても困惑するばかりだった。俺の与り知らぬことで感謝されても応えようがないのだけど……。え、なにこれ?

 

「なんだか本当のことっぽいけど、キリト君知らなかったの?」

「俺のこの顔を見てみろ。真実が何処にあるかなんて一目瞭然だろ?」

 

 心底驚いてますって顔をしてる自信があるぞ。突然明かされた事実に俺が目を白黒させていると、その張本人たる《鼠》はそれはそれは楽しそうに笑みを押し殺していらっしゃいましたとさ。

 

「そんな恨めしそうな目で見るなよキー坊、まるっきり嘘ってわけじゃないんだしサ。それに対価としてちゃんとオレっちが身体でサービスしてやってるダロ?」

「……キリト君?」

「待て、俺は無実だ」

 

 だからその不審者を見る目はやめてくださいお願いします。

 

「なあアルゴ、実は俺のこと嫌いだろお前?」

 

 俺の社会的評判を全力で引き下げにかかるんじゃない。

 推定大学生のサーシャさんは見た目にそぐわぬ初々しさで顔を赤くしているし、アスナは心なしか口元を引き攣らせているような気がする。信じるなよ? いくらなんでもそこまで爛れた生活は送ってないからな。

 

「まっさかあ、キー坊が嫌いだなんて、そんなことあるはずないじゃないカ。自覚が足りないヨ、キー坊」

 

 場を引っ掻き回して遊ぶのはアルゴの趣味みたいなものだけど、今日も切れ味鋭く絶好調だな。自重しやがれ《鼠》。

 一頻り俺とアスナ、それからサーシャさんもまとめて、三人諸共にからかい倒したアルゴは満腹の猫みたいに満足そうな笑みを浮かべていた。フリーダムな奴。

 

「実際はキー坊の健全な依頼を聞いた報酬だし、ここに寄付してるのもその一部なんだけどネ。キー坊が色欲の権化なんてことはないから、先生さんもアーちゃんも誤解しないでやってくれヨ」

「なら最初から俺の風評被害を拡げようとするんじゃない」

「キー坊はからかい甲斐があるからどうしても弄りたくなっちゃうのサ。そうは思わないかい、アーちゃん」

「本人の前で断言するのはちょっと可哀想な気もしますけどね」

 

 そこは否定しておけよアスナ。

 

「ま、冗談はこれくらいにしておこうカ。丁度お客様も来たようだし、キー坊弄りはまた日を改めて楽しむとしよう」

 

 索敵スキルでも起動していたのか、館内に響く来客を告げるノック音よりも早く来訪者を察知したらしい。真っ先にアルゴが席を立つ。オレっちここからはお仕事モードだから、なんて真面目ぶって俺達に言い置くと、客の出迎えに赴こうとしていたサーシャさんを押し止め、ふらりと部屋を出て行った。

 

「勝手知ったるなんとやら、だな」

 

 ホスト役を自然と請け負う手馴れたアルゴの対応に、感心半分呆れ半分な溜息を零す。子供達の反応やサーシャさんの態度から昨日今日の付き合いではないことはわかっていたが、どうやらアルゴはこの教会の住人とは確固とした信頼関係を築いているらしい。

 

「サーシャさんはアルゴとは長いんですか?」

 

 程よく渋みが出たお茶を一口啜ってから疑問を投げかけた。

 

「そうですね、昔からあれこれと手助けしてもらっています。見返りとしてはじまりの街で起こった事や軍の情報を流してほしいってお願いされてますけど、明らかにアルゴさんの持ち出しのほうが大きいですね。とても感謝してます」

「恥ずかしながら、俺は年端もいかない子供たちがこんなに保護されていることも最近まで知りませんでしたよ。あいつもそういうことしてるんなら素直に言ってくれればいいのに……」

「わたしも同じです。少しアンテナを伸ばせばすぐに知れたことなのに、気づきもしませんでした。あの、よろしければフレンド登録をさせていただいてよろしいでしょうか? 何かあったときは微力ながらお手伝いさせていただきます。もちろん出来る範囲で、ですけど」

 

 おお、アスナが真面目モード入ってる。

 

「それは……よろしいのですか? 攻略組のプレイヤーはとても忙しいと伺ってますけど」

「四六時中戦ってるわけでもありませんから平気ですよ。それに軍の動きがちょっとおかしくなってるみたいですし、このまま見てみぬフリは出来ませんから」

 

 これでもそこそこ顔は利くんですよ、なんて微笑むアスナだった。

 血盟騎士団副団長の影響力で『そこそこ』とか逆に怖いぞ。基本攻略組は下の諍いには関わらないし、血盟騎士団の方針も攻略第一だから組織立って動くのは難しいだろうが、アスナ個人のネームバリューだって侮っていいものじゃない。攻略組の実態を知らないプレイヤーにしてみれば、アスナを敵に回すことはイコールで血盟騎士団を敵に回すことだと勘違いもするだろう。バックに暗然とした武力を示すことができるのは、ギルド所属のメリットの一つだ。

 

 結局、恐縮はしたものの「ありがとうございます」とアスナの申し出を受け入れたサーシャさんだった。子供達の保護者役を務めている以上、手は多ければ多いほど良い、なんて打算めいた思いを抱くのはきっとこの場では俺だけなんだろうな。アスナとサーシャさんのやりとりには善意と正義感しか感じ取れず、まずメリットデメリットを計算してしまう我が身を少しだけ嘆いた。

 

「おや、オレっちがいない間に仲良くなったみたいダ」

 

 アスナがサーシャさんと毎日の食事事情を語っている傍ら、ホットミルクを飲んでいたユイが俺のお茶を欲しがり、その渋みにちょっとだけ涙目になる一幕を挟んでいると、アルゴが一人の客人を伴って食堂に戻ってきた。現れたのは銀色の長い髪を後頭部でポニーテールにした、女性にしては背の高いプレイヤーだった。小柄なアルゴと並んでいるせいか長身が目立つ。

 しかしなによりも注目すべきはその濃緑色の上着とズボン、そして鈍く輝く金属鎧だ。ケープによって多少なり柔和な印象にはなっているが、彼女が身に纏っているのは《軍》のユニフォームに相違ない。武装は右腰のショートソードと左腰の鞭か。メインは黒革仕立ての鞭の方だろう、最前線ではあまり見かけることのない癖のある武器だった。

 

 アスナと共に立ち上がりながら内心で溜息をつく。今日はよくよく軍と縁があるな。

 そんな俺の思いをよそに、緊張しているのか表情をわずかに強張らせたその女性は、まずサーシャさんに「お久しぶりです」と一礼し、返礼を待ってから俺とアスナに向き直った。

 

「はじめまして、私は《軍》所属のユリエール。ギルドマスターであるシンカーの副官を務めています。お見知りおきください」

 

 はきはきとした聞き取りやすい声だった。落ち着いたアルトの声だけではなく、空色に染まる切れ長の瞳と整った鼻梁が彼女にシャープな印象を持たせている。

 

「ご丁寧にありがとうございます。ギルド《血盟騎士団》副団長のアスナです」

「ソロプレイヤーのキリトです。で、こっちの子がユイ。ちょっと人見知りなんで挨拶は勘弁してやってください」

 

 ユイが俺の後ろに隠れてしまったのは、人見知りというよりはユリエールと名乗った女性に理由がある気がする。彼女の隠しきれない張り詰めた雰囲気をユイが敏感に感じ取ってしまったせいだろう。

 

「いえ、お気になさらないでください」

 

 子供の前だということを意識したのか、それともユイの可愛らしさに絆されたのか、ユリエールさんがそれまで纏っていた重苦しい空気が少しだけ緩んだようだった。サーシャさんが肩から力が抜けたユリエールさんを促して席に誘い、アルゴも素知らぬ顔で元の席に腰を下ろした。

 

「《黒の剣士》キリト殿、今日はあなたに依頼したいことがあり、こうしてアルゴ殿に労を取って頂いた次第。どうか我らにその力をお貸しください」

 

 全員が席に着いた途端、前置きもなしに性急極まりない様子でユリエールさんが本題を切り出した。その顔は緊張に張り詰めている。いや、どちらかといえば焦慮に満ちている、かな? 加えて濃い憔悴の色を押し隠しているような雰囲気も感じられる。

 突然名指しされたことへの驚きはなかった。アルゴが絡んでいる時点である程度予想できたことだし、このタイミングで軍の中枢にいるであろう女性を招き寄せた以上は、俺かアスナ、もしくはその両方に用があることは察しがつく。対象が俺だけなら純粋に荒事、アスナならギルド間の交渉も含めた交渉願いと言ったところだろうか。

 何にせよ、まずは文句の一つも告げておかなければなるまい。

 

「お話を伺うのは吝かではありませんが、少しだけお待ちを。……アルゴ、お前やっぱり厄介事を持ってきたな」

「そんな嫌そうな顔するなヨ、キー坊」

 

 気持ちはわかるけどサ、とか言っちまうお前も正直どうかと思うけどな。ユリエールさんがすごく気まずそうな顔をしてるぞ。

 

「それで、お前が引き受けた仕事は?」

「例のごとく仲介だヨ、オレっちがキー坊への伝手を持ってることは割と有名だしナ」

「どんな風の吹き回しだよ。その手の依頼はアルゴのほうで全部断ってるはずだろ?」

「そりゃあ、オレっちに持ち込まれる依頼の大半はキー坊じゃなくても務まるからナ。オレっち気遣いの淑女だから、わざわざ多忙なキー坊を煩わせるようなことはしないのサ」

 

 妙な称号を自称するな。内心の溜息を押し殺し、胡乱な目つきになった俺を華麗に無視してさらに言葉を紡ぐアルゴだった。

 

「今回の場合はちょっと特別でネ、緊急事態って奴ダ。それに軍の動向はキー坊も気になってたみたいだし、丁度良い機会だと思ったんだヨ」

「緊急事態ってわりにはのんびりしてんなあ」

 

 本当に急ぎの依頼なら俺のホームを訪ねるなりフレンド・メッセージを飛ばすなりいくらでも手はある。となると緊急事態ってのも額面通りに受け取るようなものじゃないのか? ……何せアルゴだしなあ、油断ならん。

 礼儀を無視して頬杖をついて呆れてみせる俺に「お行儀悪いよキリト君」とすかさずアスナから注意が飛んできた。アスナは真面目だ、なんて苦笑いを浮かべながらすぐに居住まいを正した。

 

「あくまでオレっちは仲介人、焦ってるのは依頼人のほうダ」

 

 俺の指摘を受けても何処吹く風で他人事を貫き通すアルゴはいつも通りと言えなくもない。しかし切迫感に乏しいアルゴに反比例するように、ユリエールさんの顔を悲壮感が帯びていく。

 

「キリト君……」

 

 理由はわからずとも悲嘆に暮れたユリエールさんに胸を痛めているのか、アスナが気遣わしそうな表情で俺を伺い、そんなアスナに「わかってる」とだけ答えてアルゴとの会話をひとまず切り上げた。

 

「話を脱線させて申し訳ない。俺に依頼があるとのことですが?」

 

 俺が話を聞く態勢に入ったと見て取ったのだろう、ユリエールさんは改めて居住まいを正し、緊張と決意に尖らせた切れ長の瞳を俺へと向ける。彼女の持つ硬質な雰囲気と合わさってか、幾ばくかの気圧されそうな迫力を感じた。それだけ真剣だということだろう。

 

「恥を承知で申し上げます。私のレベルでは到底突破できないダンジョンに幽閉され動けないシンカーを救出するために、名高き《黒の剣士》の力を何卒お貸し願いたい。どうか、どうか! この通りです……!」

 

 悲痛な面持ちで頭を下げる女性の姿に、とにもかくにも居心地の悪い思いを抱かないわけにはいかなかった。自分よりも明らかに年上のプレイヤーにこうも下手に出られると調子が狂ってしまう。攻略組を意識している時は問題なく割り切れているのだが、今日はオフのつもりでいたから今ひとつ切り替えが上手くいってないのかもしれない。

 

「シンカーというのはあなた方《軍》のギルドリーダーであるシンカーのことですよね?」

「はい。もっとも最近ではシンカーはほとんどお飾り状態でしたので、軍のトップと言い張るのも空しく響くだけかもしれませんが……」 

「攻略推進を唱える強硬派のキバオウ、弱者救済を唱える穏健派のシンカー、という評判は俺の元にも届いています。軍に所属する高レベルプレイヤーの支持を多数集め、実働戦力をほぼ掌握していたのはキバオウだということも。既に実権の大半がキバオウに移り、今現在シンカーは名目上のトップに過ぎない。そういう理解でよろしいでしょうか?」

「……その通りです」

 

 ユリエールさんは悔しさからか唇をきつく噛み締め、無念そうに拳を震わせていた。シンカーの副官として思うところがあるのだろう。

 以前から軍の内部分裂は進んでいたし、シンカー派とでも呼ぶべき勢力はキバオウ派に抗しきれず、日々影響力を落としていた。察するにいよいよ両者の争いに決着がつこうとしているのだろう。とはいえ、それだけならわざわざアルゴが話を持ってきたりはしない。

 軍の内紛か。シンカーの幽閉とは穏やかじゃないな。

 

「シンカーを救出というのもよくわかりません。もう少し詳しく説明していただけますか?」

 

 そもそもダンジョンに取り残されて動けないってのはどんな状況だ? さっさと転移結晶で帰ればいいだろう。それとも転移結晶のストックを忘れていたのか? だとしたらかなりの間抜けだ。

 

「ここから先はどうか他言無用で願います。度重なるキバオウの専横に私達はキバオウらの追放をシンカーに願い出ていました。そんな折にキバオウからシンカーへと『今後のことについてお互いに丸腰で話し合おう』という提案があったのです。シンカーはキバオウの言葉を信じ、非武装のまま回廊結晶で会談場所に赴きました。しかしその回廊結晶はキバオウの罠であり、シンカーは自力で帰還不可能のハイレベルダンジョン奥地へと強制的に送り込まれてしまったのです。……二日前のことでした」

「二日前……。シンカーさんは無事なんですか?」

 

 思いもよらぬ陰謀に顔を強張らせたアスナが思わずといった風に尋ねると、「黒鉄宮の生命の碑を確認する限り無事のようです。おそらく安全地帯に逃げ込めたのでしょう」と、こちらは青褪めた表情でユリエールさんが補足した。

 ふむ、詳細を聞いたことで尚更疑問符が湧き出ることになるとは思わなかったな。というか丸腰で話し合おうって提案を馬鹿正直に聞き入れたのかよ。他人のアイテムストレージなんて確認できないんだし、適当に嘘でもついておけばいいのに。

 

「シンカーは良い人すぎたんです。最後までサブリーダーのキバオウを信じて、そのせいで結果として裏切られ、今回のどうしようもない苦境に追い込まれてしまいました」

 

 良い人……。シンカーとキバオウの対立は根深いものだと聞いていたし、そんな状況でこの有様では危機感が欠如しているとの謗りを避けられないんじゃないか? 一組織のトップとしては危うすぎる。

 

「なにやらおかしなことになっていますね。キバオウは何故そんなことを?」

「キバオウの目的はシンカーに成り代わり、ギルドリーダーの座につくことでしょう。キバオウの度が過ぎた専横には軍内部でも不満が募っていました。キバオウはこのまま不満が高まれば自分が追放されると恐れ、先手を打って軍を掌握しようとしたのだと思います。このままでは遠からず軍の人事から会計を含む全てがキバオウの思うが侭になってしまうでしょう。……そうですね、協力をお願いするのですから話しておかなければならないでしょう。黒の剣士殿は――」

 

 キリトで構いませんよ、と嘴を差し挟んでおく。

 

「わかりました。ではキリトさん、あなたは軍の前身であるMTDをご存知でしょうか?」

「日本最大のネットゲーム総合情報サイト《MMOトゥディ》の略称ですね。クライン――現在の風林火山の代表者がはじまりの街を離れた後、ゲーム開始以来初心者支援に最も貢献していたシンカーがはじまりの街の皆に望まれ、設立したギルドがMTDだったはずです。当初のギルド方針は《食料や情報のような限られた資源をプレイヤー間で公平に分け合い、協力しあう事》でしたか」

「……驚いた。キリトさんは軍の事情にとても詳しいのですね」

 

 意外そうに目を丸くする様に思わず苦笑いが浮かんでしまう。今はともかく、ゲーム開始当初はクラインも関わっていたギルドなのだから多少気にかけるくらいはしていたさ。もっとも当時の俺にシンカーを手助けするとかそういう殊勝な考えは露ほどもなかったけど。

 

「いえ、それも道理ですか。シンカーはあなたにとても感謝していましたよ。ゲーム開始初期の混乱期を乗り切れたのはあなたの助言があったからだと」

「感謝なんていりませんよ、俺がクラインに伝えた知識はあくまで知識でしかありません。手探り同然の状態で乏しい情報を生かし、きっちり形にしたシンカー達の努力と功績こそ称えられるべきものです。だからこそ軍は最大規模のギルドに成長したんですから」

 

 知っていることと出来ることは違う。知識だけで生き抜けるほどアインクラッドは甘くない。

 軍の前身――MTDは初心者プレイヤーの寄り合い所帯から始まったものだ。ゲーム開始当初の混乱期は千を超える死者を出した絶望的な状況だった。そんな中で右も左もわからない初心者を糾合し、あるいは保護しようとしたシンカー達が頼りにされないはずがない。

 シンカーやクラインが開始した草の根活動に助けられ、後にはじまりの街を発っても籍だけは軍に置いているプレイヤーも多数存在する。この事からもどれだけ頼りにされているかはわかるだろう。恩義という意味でシンカーやクラインを慕っている者は多い。

 

「ですが俺も通り一遍の経緯しか知りませんし、軍が最前線を退いた後の状況にも詳しくありません。以前はシンカーとキバオウも上手くやっていたようですけど?」

「ええ、彼らは最初から対立していたわけではありません。シンカーがバックアップにまわり、数多の情報を収集、整理し、レベリングや有力なクエストを効率的にこなすシステムを作り上げました。そしてキバオウが部隊を率いて最前線を戦う両輪の形が出来上がっていたのです。キバオウ達当時の前線組がギルドの名称変更を訴え、MTDからアインクラッド解放軍に変わりこそすれ、リーダーとサブリーダーが露骨に派閥を率いて権力争いをするなんてことはなかった……」

「軍が分裂する契機となった25層――最初のクォーターポイントを迎えるまでは、ですね。あの戦いでキバオウの率いた部隊が壊滅の煽りを受けた。軍が最前線から退いたのはシンカーとキバオウ、どちらの判断だったんです?」

「キバオウです。彼は自分に同調する幹部プレイヤーの支持を得て、体制の強化を打ち出しました。その中には公認の犯罪者狩りや効率の良い狩場の独占も含まれます。キバオウはシンカーの反対も押し切り、マナー違反を繰り返して他のギルドやプレイヤーとの友好すら省みなくなった……!」

 

 シンカーを蔑ろにされたことにか、それとも強引に過ぎるキバオウの施策を憂いてか、ユリエールさんは憤懣遣る方ない様子だった。しかし怒りに語調を荒げる女性剣士には悪いが、俺は彼女の憤りに同調するでもなくぼんやりと眺めていた。キバオウが犯罪者に強硬な態度を取るようになり、強引なレベリングを推進するようになったのもわかる気がして、一方的に謗る気になれないのだ。

 25層で多大な被害を出したのはクォーターボスの脅威は勿論だが、その裏には犯罪者プレイヤーの暗躍があったとされている。情報伝達の遅れ、虚偽情報の流布、作戦の混乱。あの戦いで多くの部下を失ったキバオウにしてみれば到底許せるものではなかっただろう。その時の怒りが、後に犯罪者狩りと称されるほどに苛烈な対応を固めさせたのではないだろうか。

 元々キバオウは理屈よりも感情で動くタイプの人間だし、犯罪者を取り締まることでアインクラッドに秩序をもたらそうとしたとか言われるよりも、ずっとしっくりくる。

 

「ハーフポイントを超える頃にはキバオウとシンカーの対立も深刻化し、派閥争いで軍内部も混乱していたと聞いていますが?」

「面目ありませんが、その通りです。数を(たの)んだ狩場の独占は軍に確実な戦力増加と莫大な富をもたらしました。キバオウ一派の支持者も続々と増えていき、シンカーの発言力は日に日に衰えてしまいました。幹部会議でもほとんどキバオウ達の意見を追認するだけの有様だったのです。それどころか彼らはシンカーが口出しできなくなったのをいいことに、最近でははじまりの街で《徴税》と称した下劣な恐喝まで始める始末……」

「俺も徴税現場は見ましたけど、とんでもなく非効率的なシステムを作り出したものですね。試みとしては面白いと思いましたけど」

「面白い? 一体何が面白いと言うのです?」

 

 しまった、正直に言い過ぎた。思いっきり睨まれてるよ、俺。

 

「この街で暮らしてるプレイヤーの多くは軍の庇護を受けて生活しているわけでしょう? いってみれば軍が貴重なリソースを割いて彼らの生活を守り、援助している。となると、徴税するアイテムやコルの何割かは元々軍の物資だったことになる。なのにわざわざ人力で回収して回ってるんですから非効率極まりないですし、徴税部隊の横暴さも住民の心象を著しく悪化させるだけの悪手に見えました」

 

 権威を笠に着てアルゴ達に難癖をつける様はまるで《囚人ゲーム》の看守のようだった。虐げる行動が何らかの後ろ盾によって肯定されているとき、人間は普段の人格からは信じられないほど豹変し、過剰な攻撃性を持つようになる。

 

「徴税は軍の方針からも逸脱した唾棄すべき行為です。私達に力があれば決してあのような真似はさせなかった」

「ユリエールさん達にとっては悪くないと思いますよ? はじまりの街の住人の不満は徴税部隊に向けられているのですから、後はシンカーが彼らを追放でもすれば人気取りに使えます。徴税部隊はキバオウ派のものとされてるみたいですから、シンカー派で彼らを取り締まれれば尚よしですね。実はシンカー派の仕込みだったなんてことは……?」

 

 どちらの派閥にも徴税部隊を組織するメリットは生じる。キバオウ派にとっては上層部への不満を逸らす生贄として。それは影響力を回復させたいシンカー派にとっても同じだ。ただし両陣営とも徴税部隊を蜥蜴の尻尾切りとして処分することが前提にあるけど。

 

「なっ!? そんなことはありえません! 徴税部隊の編成に私達は一切関わっていないのですよ!」

「……ええ、そうなんでしょうね、あんまりにも効率の悪いシステムだったもので邪推してしまいました。お許しください」

 

 なんていうか素直な人だなあ。シンカーの副官っていったっけ。彼女の上司であるシンカーも人の良さばかりが聞こえてくるし、二人してこれじゃキバオウ達にいいようにやられるわけだ。正義感とか人柄、あるいは事務能力なんかは申し分なさそうだし、戦えない人たちの助けになろうって気持ちも立派だけど、どうも足元が見えてないところがある。

 

 不思議なのはキバオウ達だ。一体何のために徴税なんて実入りの悪いシステムを組んだんだ?

 はじまりの街で狩りにも出ず困窮した生活を送るプレイヤーからどれ程の徴収が期待出来るかなんて、俺よりも彼らのほうがずっと知り尽くしているはずだろう。言っちゃなんだが貧乏プレイヤーを脅してアイテムやコルを提供させるくらいなら、そのへんの狩場で雑魚敵を蹴散らしていたほうが時間当たりの効率はずっと上だ。

 軍のしている徴税なんて手間と労力ばかりがかかり、住民のヘイトを稼ぐ割にメリットが少ない。好き勝手に振舞う徴税部隊を果断に処断して軍内部の網紀粛清を図るとかでなければ、せいぜいが軍所属の人間のストレス発散につながるくらいじゃないか? そこまでしなきゃならないほど軍が追い詰められているとは思えないんだが。

 

「徴税が悪法であることは否定しませんよ。ですが、軍が分裂したのは何もキバオウだけのせいじゃないでしょう。シンカーにだって非はあった」

「聞き捨てなりません。彼の何が悪かったというのです」

 

 滅茶苦茶睨まれた。これは嫌われたかな? 怖い怖い。

 

「シンカーが掲げた弱者救済の方針は確かに尊いものです。ですが、モンスターから獲得できるアイテムやコル、あるいは食料や情報を均等に分け合うということは、言い換えれば《稼ぎの多いプレイヤーの取り分を切り崩して、その余剰分を稼ぎの少ない者に与えること》に他なりません。ゲーム開始初期の混乱期ならばいざ知らず、狩りに慣れて生活が落ち着いてしまえば、積極的に戦いに出る者から不満が出るのは避けられなかったはずです。あくまではじまりの街の住民を優先させようとしたシンカーと、彼らにも自助努力を求めたキバオウ。最終的にキバオウに付いたプレイヤーが多かったのも、そのあたりに事情があるんじゃないですか?」

「それは……」

 

 人間、頑張れば頑張っただけの成果は欲しいものだ。それに命を張って資源を稼いでいるプレイヤーにしてみれば、はじまりの街で震えて縮こまってるだけのプレイヤーに、どうして俺達が命懸けで獲得した貴重な物資を大盤振る舞いしてやらなきゃならん、という思いが募って当然だろう。もちろん多少の施しなら彼らだって納得ずくだったろうが、度を過ぎれば反発につながる。

 シンカーがギルド員の手にした資源をなるべく多くのプレイヤーに満遍なく配り共有しようとしたのに対し、キバオウは住民への援助は最小限に抑え、余剰分をギルドの強化に回そうとした。キバオウの胸にはいずれ攻略組復帰を、という目論見もあったのかもしれないが、軍の高レベルプレイヤーにしてみれば攻略に参加するしないはともかく、キバオウについたほうが利益がでかいからそうした。その程度のことだろう。

 軍の派閥争いはキバオウが上手くやったというより、なるようになった結果今の状況に落ち着いた、という見方のほうが正しい気がする。

 

「誰もが聖人君子になれるわけじゃない。シンカーは公平性を重視しすぎて、実際に戦っているプレイヤーへの配慮が足りなかったのだと思います」

「私達が間違っていたと?」

「まさか。シンカーの為した善行を否定なんて出来ませんよ。シンカーに敬意だって持っています」

 

 人間として正しいか正しくないかで言えばシンカーが正しいし、命を大事にしているのだってシンカー達だろう。ただ、俺にはキバオウの主張の方が肌に合うだけの事だった。

 アインクラッド全百層を制覇することで開放を目指す俺達攻略組の方法論(メソッド)は、外部からの助けがない事を前提で成り立っている。もしも今この瞬間に現実世界からの救援によって俺達が開放されるなら、今日まで最前線を攻略するために払ってきた犠牲の悉くが無駄になるからだ。その場合ははじまりの街を出ずにじっと救出を待つことが正解になるのだし、どの選択が正解だったかなんて終わってみなくてはわからない。

 

「……シンカーは誰にも死んで欲しくないと考えていただけです。だからこそ、再三キバオウが要求した攻略組復帰だけは頷かなかった。だというのに彼らは痺れを切らしたのか、独断で部下のハイレベルプレイヤーを最前線に送り込んでしまいました」

「コーバッツ中佐達のことですね。しかし彼らはシンカーからも委任を受けている、と口にしていましたけど?」

「事後承諾です。もしも作戦前に話を通そうとしていたならシンカーが頷くはずはありませんでした。なによりキバオウ達の独断専行は最悪の結果を生み、十二人ものプレイヤーを無策に戦死させてしまったのです。とても許せることではありません」

「キバオウ達もコーバッツ中佐達を考えなしに送り出していたわけではないと思いますよ? 最前線のマップ攻略は普通ワンパーティーで行います。その規模の人数で挑むのが一番効率が良いとされているからですが、75層に現れた軍は二つのパーティーで部隊を編成し、効率を落としてでも安全を重視していました。俺は軍内部のゴタゴタまでは知りません。けれどキバオウ達が考えなしに部下を全滅させたという評価は些か酷だと思いますよ。あの時のクォーターボスは……誰が偵察隊を率いても全滅していましたから」

 

 確かにユリエールさんの言う通り、キバオウがコーバッツ達を最前線に向かわせなければ軍から死傷者が出ることはなかった。――コーバッツ達の代わりに攻略組から犠牲が出ただけのことだ。

 75層の死闘とその後の惨劇を思い出し、憂鬱になった。ええい、余計なことまで思い出すな。

 

「ユリエールさん、あなたが今話している相手は攻略組プレイヤーです。外からの救出の可能性を選ぼうとせず、アインクラッド全百層を踏破することで現実に帰ろうとしている人間なんですよ。攻略組が用いる論理は、あなた方の信じるそれとは少しばかり違うのだと知っておいたほうが良いです」

 

 攻略組は安全を半ば犠牲にして未知のマップやモンスターに挑んでいるのだ。あるいは俺達はアインクラッドからの開放を人の手に委ねてじっと待つだけの忍耐力を持てなかったプレイヤーなのだ、と言い換えることも出来るのかもしれない。

 

「では、キリトさんはキバオウを支持すると?」

 

 厳しい眼差しを向けられ、思わず苦笑いが浮かんだ。

 

「あの男は俺の助けなんて欲しがっちゃいません。それに俺だって無条件でキバオウを肯定しているわけじゃない」

 

 もっともその事情はシンカーに対しても同じだけど。

 シンカーとキバオウのどちらかに付く気もない。これが二人の個人的な諍いを端緒とした問題なら解決の目処もすぐにつくのだろうが、現在の軍の権力争い――これから先を見据えたギルドとしての活動方針を巡るせめぎあいに、彼らと大した縁のなかった俺が下手に介入をして良いとは思えなかった。

 放っておけば遠からずキバオウが全権を握ることになるだろう。しかしどちらがトップに立とうが結局軍の混乱は続くのだ。現在軍に起こっている問題は、言ってみれば攻略組と中層以下のプレイヤーを隔てる意識の差を凝縮した縮図のようなものである。一朝一夕で意識改革が出来るはずがない。

 

 軍は規模がでかくなりすぎた。誰がトップに立ってもこの状態から纏め上げるのは至難だろう。まして彼らは攻略組ギルドのように一つの目標を共有することも出来ないのだから尚更厳しい。

 俺なら無理にまとめようとしないで、適当にギルドを分裂させることを考える。設立当初の理念を貫くシンカーと攻略組復帰を見据えるキバオウ、彼らのそれぞれに同調するメンバーを選抜し、改めて互いの領分を定めるのだ。場合によっては完全に別ギルドとせずとも、部門毎に指揮系統と権限をはっきりすれば不満も抑えられるかもしれない。

 

 どのみち対立を解消する目処が立たないのならさっさと妥協し、交渉で条件のすり合わせをした上でギルドを縮小したほうが、状況は落ち着くだろうというのが俺なりの意見だった。ただし今となってはシンカー派が弱体化し過ぎていて使えなさそうな手でもある。彼らの実際の力関係はどうなっていることやら?

 とはいえ所詮は部外者の戯言だ。俺のスタンスがあくまで攻略優先であることは変わらないし、そこに軍の建て直しなんて大仕事が入る余地はない。

 

「……アルゴ殿」

「まあ諦めることだネ。オレっちは《軍》と《黒の剣士》の友好まで保障した覚えはないし、攻略組の腕っぷしを見込んで話を持ちかけてきたのはそっちだろう?」

「それは……そうですが」

 

 助けを求めるようにアルゴを伺うユリエールさんだが返答はにべもなかった。眉間に力を込めて考え事をしているアスナに救いを求めるように目をやり、次いで困り顔になって俺達を伺うサーシャさんへ。長話に退屈して暇を持て余したのか、テーブルの上のカップで手遊びを始めているユイに視線を滑らせ、やがて悲痛な表情で黙り込み、俯いてしまった。

 沈黙が場の空気を際限なく重くしていき、通夜のような息苦しささえ覚えるほどに――なんてなるはずもなく。

 

「さて、軍の事情はともあれ、キー坊はすぐに出発できるのカ?」

「元々午後から迷宮区に潜る予定だったから準備は万端だよ。あと二、三確認したらってとこだ。アスナはどうする? ユイを連れて戻ってもらっても構わないけど」

「冷たいなあ、ここまで関わっておいて後はお任せなんて出来るわけないでしょ。わたしも最後まで付き合うわよ」

「ありがたい」

 

 アスナの参戦は戦力的な意味でも心強いし、俺自身アスナにフォロー役を担ってもらうことを期待していたことは否めないだけに、ますますアスナに頭が上がらなくなりそうだ。

 

「――というわけで、わたし達もシンカーさん救出に協力させていただきます。ついてはもう少し詳しいお話を伺いたいのですが」

「……え? あの、私達の助けになっていただけるのですか? 私はてっきり断られるものだと」

 

 ユリエールさんは何度も目を瞬かせ、しばらく呆然としたままだった。

 

「ほら、キリト君のせいで誤解されちゃってるじゃない。君はもう少し言葉を選んだほうが良いよ」

「そうはいっても、俺は一度もシンカーを助けにいくことに反対なんてしてないぞ。ちゃんと言葉は選んでるって。なあアルゴ?」

「オレっちも《黒の剣士》の友好は期待するなって言っておいたけど、協力を諦めろなんて言った覚えはないなあ」

 

 早合点『させた』ことは悪かったけど、キバオウがやりすぎている点は同意するし、シンカーを助け出すことに異論もない。こっちにはこっちの思惑もあるから今までの態度も反省しないけどな。アスナだってそれをわかってたから口出しせずに黙ってたんだし、俺達は共犯のはずだぞ? もっともそんなことまでユリエールさんに知らせる必要もないけど。

 

「こういう人達なんです。あまり深く考えないほうがいいですよ?」

「あ、ありがとうございます……?」

 

 呆れ顔で肩を竦めるアスナの言葉を受けても今ひとつ実感がないのか、狐につままれたままの面持ちで礼を述べるユリエールさんだった。これ以上この人を探っても意味はなさそうだし、後はこっちで適宜情報の摺り合わせをすればいいだろう。

 

「一通りの合意が出来たところで、シンカーの幽閉されたダンジョンが何処なのかを教えてもらえますか?」

「それが、はじまりの街の中心部、その地下に広がるダンジョンなのです。黒鉄宮、つまり私達《軍》の本拠地に入り口があるのですよ。シンカーはおそらく一番奥です」

「黒鉄宮に入り口ですか。ベータテスト時分から聞いたことがなかったですね」

「おそらくは上層攻略が進むことで出現するタイプのダンジョンなのでしょう。キバオウ達は外部のプレイヤーはもちろん、シンカー派にも発見の事実を伏せて自分達の派閥で独占しようとしたようです。シンカーも長らく知らされていなかったそうですから」

「未踏破ダンジョンには希少価値の高いアイテムも多いですからね。ダンジョンそのものがレアな経緯で出現したものですし、結構な稼ぎになってそうだ」

「それがそうでもないようなんです。私も先日挑戦してみて実感したのですが、ダンジョンに配置されたモンスターは60層相当の強さを誇る上に、次から次へと休む間もなく湧出してくるんです。聞いた話では以前キバオウ自身が率いた先遣隊も攻略に失敗し、大赤字を被ったとか」

 

 この時ばかりはユリエールさんも声を弾ませ、小気味良く答えた。散々自分達を困らせてきた相手だけに胸のすく思いだったのだろう。

 

「……ではもう一つ、ユリエールさんがシンカーを救出に向かった時はソロだったんですか?」

「はい」

「軍の他の連中――シンカー派のプレイヤーは?」

「高レベルプレイヤーの大半はキバオウ派に鞍替えしていて、シンカー派のプレイヤーに60層クラスのダンジョンに潜れるプレイヤーは残っていないんです。シンカーを罠に嵌めたキバオウ派のプレイヤーを頼るわけにもいかず、シンカー救出作戦は遅々として進んでいません。そこでアルゴ殿に藁にも縋る思いで頼らせていただいた次第です」

 

 そう言ってユリエールさんは口惜しそうに唇を噛むと、己の無力を嘆くように組んだ拳を額に押し当て震えていた。出来ることなら自分の手で救出したいのだろうし、一刻も早くシンカーの元へ行きたいという思いが溢れ出しそうだ。

 

「最後の確認です。その黒鉄宮のダンジョン――この際地下迷宮でいいか、そこのマップ情報は揃ってます? 具体的にはシンカーがいるであろう場所までの道案内を、ユリエールさんに期待していいのか、ということですが」

 

 マップ情報を買い取らせてもらって俺とアスナだけで向かったほうが効率は良さそうだけど、ユリエールさんを納得させるのは骨かな? いや、軍が秘匿してきたダンジョンのマップ情報を俺が手に入れようとするのもよくないか。

 

「勿論お任せください。ダンジョン最奥の安全地帯までマッピングは済んでいますので、道中のモンスターさえなんとかできるなら迷わずに辿りつけるはずです。ただ、未確認情報となりますが、ダンジョンの奥でボスらしき大型モンスターを見たという話もあります」

「なるほど、気をつけます。大まかな事情は理解できました。シンカーも非武装だというのなら無闇に安全地帯を動いたりはしないでしょうが、万一もあります。すぐに出発しましょう」

「ありがとう……ございます……」

 

 頭の中で色々と情報を整理しながら告げた俺が面食らうような勢いで頭を下げ、安堵で涙が滲むユリエールさんの背中をアスナが優しく撫でさする。「お礼はシンカーさんを救出した後で。まだやることは残ってるんですから」と穏やかに発破をかけるアスナに「はい」と笑顔で頷いていた。

 ダンジョン内のプレイヤーとはメッセージのやりとりもできず、フレンド機能による位置情報の特定もできない。生存を確認できるのは黒鉄宮に刻まれたプレイヤーネームだけだった。ユリエールさんはいつシンカーの名前に横線が引かれるか気が気でなかったのだろう。そういえば昔、アスナもリズの安否を心配して泣いていたことがあったっけ。大事な人を想う気持ちは誰でも一緒だな。

 そんな二人の様子を横目に、俺は成り行きを見守っていたサーシャさんへと向き直った。

 

「申し訳ないのですが少しの間ユイを預かってもらえませんか? 俺のほうでも仲間に連絡を入れてユイを迎えにきてもらいますので、それまでの間お願いしたいのです」

「ええ、もちろん構いませんよ。それじゃユイちゃん、少しだけ私と一緒にお留守番をしていましょうね」

 

 サーシャさんは俺の要請にも嫌な顔一つすることなく笑顔で快諾すると、腰をかがめてユイと視線を合わせ、優しく語りかけた。しかし当のユイはそうした決定が不服だったようで――。

 

「ユイも一緒に行く!」

 

 垂れ目がちな目尻を精一杯吊り上げて、真っ向から拒否の姿勢を見せたのだった。

 

「ユイ、これから向かうところは危険がいっぱいなんだぞ」

「そうだよ、ユイちゃん。サチさんがすぐお迎えにきてくれるから、それまではサーシャさんと一緒にいよ? ね?」

「嫌……! ユイはパパ達と一緒にいるの! いなきゃ駄目なの!」

 

 一体どうしたというのだろう? 今までユイがここまで語気荒く俺達に食い下がることはなかった。涙まで浮かべて懇願を繰り返すユイは簡単には納得してくれそうにない。

 アスナに目を向けてもユイが示した態度の豹変に苦慮しているのか、困惑を浮かべたまま打開策は見つからないようだった。早くも娘の反抗期が来たのだろうか?

 

「ユイ、お願いだから聞き分けてくれ。後でなんでも言うこと聞いてやるから」

 

 早々に白旗をあげて懐柔に走った俺は情けなかった。こういう場合、父としてもう少し怒ってみせたほうがいいのか? 甘やかすだけが教育じゃない、とはいうけれど。むむむ、子育てって難しい。

 

「違うの。私、帰らなきゃ。暗い、暗い場所。こことは違う、ずっと一人でいた私の居場所に。そうしないと、私が消えちゃう……」

「帰る? ユイ、もしかして記憶が戻ったのか?」

「記憶……。私の、冷たい記憶……。痛みの……記録。駄目……! うあ……あ……あああぁぁぁ!」

 

 なんだ? ユイの様子がおかしい……!

 おとがいを反らして高い悲鳴をあげるユイを呆然と見やる。力いっぱい開いた眼、愕然とした面持ち、生々しく浮かぶのは――恐怖。それだけじゃない。この世界で生きてきて一度たりとも聞いた覚えのない不快なノイズ音が時同じくして部屋に響き渡り、鼓膜を揺さぶる痛みに似た痺れに思わず顔を顰めてしまう。見ればアスナやアルゴ、ユリエールさんにサーシャさんも耳を押さえてこの突然のアクシデントに耐えていた。

 次いでザッ、ザッ、と砂をかくような断続的な音が響き――その瞬間、俺は確かに我が目を疑った。ユイの仮想体(アバター)がぶれているのだ。それはまるで出来の悪い記録映像さながらの光景であり、何が起きているのかわからずとも本能的に『やばい』と肝を冷やすには十分だった。こんな現象は聞いたこともないし、当然見るのも初めてだった。

 

 元々ユイは存在自体が不安定なバグ持ちプレイヤーなのだ、何が起こっても不思議じゃない。予期せぬ転移や場合によっては突然のHP全損すら起こりえる可能性を秘めている。今日までユイやその周辺、つまり俺達にも特におかしな現象は起きることはなく、平穏を保っていたから油断していた。

 そうしている内にユイは悲鳴をあげる力も失ったのか、その細い喉から発せられる声が先細っていき、やがて糸の切れた人形のようにぱたりと倒れ伏してしまった。耳障りなノイズ音も合わせて消える。

 

「ユイ、返事をしろ、ユイ……ッ!」

 

 慌ててユイを抱え上げるも意識がないのかユイが目を開けることはなかった。身体が消滅していない以上、命に別状はない――なんて賢しらに診断できるはずがない。こんな異常事態を前に、俺が培ってきた常識などいかほどの意味があるのか。

 ユイの状態に関する仮説に次ぐ仮説が脳裏を埋めては消えていく。混乱は一向に抜けることはない。力の抜けたユイの軽い身体を抱きしめながら、跳ね上がった心臓の鼓動をどうにか落ち着かせようと四苦八苦している有様だった。

 

「なんだったんだ……」

 

 呆然と漏れ出た俺の問いに答えが返されることはなかった。アルゴすらもこの時ばかりは厳しい顔つきで倒れたユイを見つめているだけだ。皆、対処のしようもなく沈黙だけがこの場を支配していた。ユイの消え入りそうな吐息だけがかすかに耳に届く。

 仕方ないか、気は進まないが――。

 

「……アスナ」

「なに?」

「予定変更だ、ユイもダンジョンに連れて行く。シンカー救出と並行してユイの求める場所を探すんだ。道中のモンスターは俺が速攻で殲滅する。ユイの護衛は頼んだ」

「了解。任せておいて」

 

 未だにユイのHPバーは表示されず、装備も制限されている。安全圏から出すことなんて論外なのだが、そうも言ってられなくなった。

 俺の言葉に逡巡することなく頷き、フロアボス戦を迎える時のように覇気を宿すアスナにこの上ない頼もしさを覚える。今日この時、この少女が共にいてくれる幸運に感謝しよう。

 

「それからユリエールさん、ユイの安全はこちらで面倒を見ます。ですから、どうかユイの同行をお許し願えませんか?」

 

 襟を正して頭を下げると、すぐにユリエールさんは「とんでもない、頭を上げてください」と恐縮した様子を見せた。

 

「最初に無理を聞いてもらったのはこちらです。ユイさんを連れていくことに文句などありませんよ」

「ありがとうございます」

 

 快く許可を貰えてほっとした。ここで断られるようなら軍の連中を薙ぎ倒してでも強行突破してダンジョンを駆けずり回る羽目になってたからな。ユリエールさんの手引きで穏便にダンジョン侵入できるならそっちのほうが良いに決まってる。シンカー救助と並行して進める必要があるし、首尾よくユイが求めた場所が見つけられればいいのだが。

 

「それじゃ、準備を整えて出発しましょう。サーシャさん、どこか適当な部屋をアスナに貸してやってもらえますか? さすがにここで着替えさせるわけにはいきませんから」

「あ、そうですね。それでは案内します」

「ユリエールさんもアスナと一緒にお願いします。俺はアルゴと話しておくことがありますから、終わり次第そちらに合流します。……そうですね、玄関口を待ち合わせにしましょう」

「了解しました。ですが、シンカー救出の依頼料金のことなら私もお話せねばなりませんけど……」

「こちらもユイのことで無理をきいてもらっちゃいましたし、今回の見返りを俺から要求することはありませんよ」

 

 生真面目に答える女剣士殿に苦笑を向けて礼は不要だと告げる。幾ばくかのコルやアイテムよりも今は時間を優先したい。

 

「よろしいのですか?」

「はい。どうしてもと言うのなら歩きがてらアスナと詳細を詰めてください。軍が血盟騎士団副団長にボランティアを強いたなんて取られない程度に」

「ふふ、わかりました。ご好意に甘えさせていただきます」

 

 冗談めかして告げると、幾らか緊張が解けたのか軽やかな笑みを口に乗せる。それから背筋をぴんと伸ばし、部屋に残る俺とアルゴに一礼すると、アスナとサーシャさんに付き添って食堂を出て行った。

 人数が半数になり、わずかの間部屋に静けさが満たされた。一度懐の少女に目を落とすと、ユイは規則正しいリズムで胸を上下させていた。呼吸も落ち着いているようだ。

 

「人払いの仕方も上手くなったネ、キー坊。もっともアーちゃんは察してたみたいだけどサ」

 

 かけなよ、なんて家主さながらに促すアルゴに大人しく従い、ユイに負担をかけないよう抱き上げたまま椅子に腰を下ろした。

 

「アスナはもう少し鈍いほうが楽に生きられるだろうにな。あいつは人に気を遣い過ぎだ」

「同感。ま、今はアーちゃんのことは置いておこうカ。さっきの話、キー坊はどう思っタ?」

「その前に確認させてくれ。アルゴがユリエールさんから救援要請を受けたのは何時だ?」

「今朝だヨ。ここで朝餉を囲った後、ガキ共連れて出かけた直後にメッセージ貰った。で、キー坊に連絡取れ次第って返しておいたんダ」

 

 アルゴがひょいと肩を竦めて答える。そこには緊張の欠片もないが、アルゴならそんなものだろうということで気にしない。

 シンカーが幽閉されたのが二日前。それからユリエールさんがダンジョンに突入して撤退。自分達ではシンカーの救出は無理だと結論付けて救援を求めるまでに要した時間。それらを考えれば、特におかしな経緯でもないか?

 

「そういう大事な事は先に伝えておいてくれよ。ただでさえ情報不足なのに、いきなり軍のお偉いさんと会ってくれなんて無茶だろ」

「丸投げしたのは悪かったヨ、オレっちにとっても今回の内ゲバは予想外だったんダ」

 

 迷惑そうに手を振り、投げ遣りに答えるアルゴに内心で頷く。キバオウは焦り過ぎだし、シンカーは脇が甘すぎだ。

 

「あの副官さんにはちっと厳しい顔合わせになっちまったけどナ。時間もなかったし致し方なしかネ?」

「色々探らせてもらった分はシンカー救出に全力で取り組むことで埋め合わせるさ、ユリエールさんに裏はなさそうだしな。純粋にシンカーを心配してて、一刻も早く助けたいって気持ちがすごく伝わってきた。……もっともそれ以外に関しちゃ、全面的に信用するのは危険ってのが正直なとこだけど」

「情報にこれでもかってバイアスかかってそうだもんナ」

 

 難しい表情を作って重い吐息を漏らす俺に、苦笑を浮かべながら同意するアルゴだった。

 キバオウ達が60層クラスのダンジョンに苦戦して逃げ回ったっていうのもな……。多分部下から上がってきた報告を鵜呑みにしたんだろうけど、だったら最前線にやってきたコーバッツ達は何なんだ、という話になる。

 たかだか60層クラスのモンスターに苦戦しているようでは75層の迷宮区を戦えるはずがない。まして70層以降に出現するモンスターはそれ以前と比べて討伐難易度が上がっているのだ。そこでまがりなりにも攻略を続けられたコーバッツ達が、60層クラスのダンジョンで逃げ回る事態に陥るとは考えづらかった。

 

 最初はコーバッツがシンカー派か中立の立場でキバオウの命令を聞かなかったのかと思ったのだが、ユリエールさんの話ではキバオウの命令でコーバッツ達は最前線に向かったらしいし、ならばキバオウがコーバッツ達を地下迷宮に向かわせることだって出来ただろう。辻褄が合わない。

 加えてユリエールさんが持つマップ情報を《誰が》《何処から》入手したのかも気になる。いや、それ以前にダンジョンのマップ作成が既に済んでいることにこそ疑問を持つべきか。キバオウ達が命を懸けて旨みのないダンジョンを駆けずり回った? それこそありえないだろう。

 

 キバオウは血盟騎士団が台頭するまでは聖竜連合と競って攻略を牽引していた男である。最前線の戦い方を知っているということは、安全マージンを確保できないダンジョンで無謀を通す愚も熟知しているということだ。

 地下迷宮は軍で独占しているのだから、逃げ回ることしかできないダンジョンのマッピングを優先する意味は何処にもない。じっくりレベルを上げてから挑めば済むだけの話である。そうなるとキバオウ達の撤退情報が誤っているか、さもなければユリエールさんの話にでてきたボスクラスの大型モンスターが撤退の原因だろうか?

 

 キバオウもあれで身内には甘い男だったはずだし、徒に部下を死なせるような部隊運用はしないはずなんだけどな。それとも俺の知らないうちに部下を省みない権力大好き人間にでも変わったのかね、あのサボテン頭。

 やっぱ時間が足りない。軍なんて大きな組織の揉め事に介入するなら最低でも数日は準備期間が欲しいし、一方の言い分だけで動くなんて恐ろしい真似をしたくないのが本音だった。

 溜息しか出ない心境の俺をよそに、アルゴは澄ました顔でカップを傾けている。余裕綽々だな、羨ましい。

 

「いやあ、恋する乙女って可愛いもんだねぇ」

「そんな事言っていいのか? あの人、絶対俺やお前より年上だろ」

「わかってないなあキー坊、女は幾つになっても王子様に憧れるもんなんだゼ? にゃハハハ、助ける側と助けられる側が逆だけど、今回のことでもしかしたら結婚までいっちゃうかもネ、あの二人」

 

 けらけらと毒気のない笑みを零すアルゴを目にして、俺の身体からも自然と力が抜けてしまった。

 

「まだ救出に向かう段階なのに暢気なことで」

「オレっちはキー坊を信じてるだけサ。――なーんてネ。今回の件、やっぱ裏があると思う?」

 

 そうやって真面目な顔をしていてくれると雰囲気も引き締まるんだけどなあ……。

 

「シンカーやユリエールさんにはなくても軍――キバオウにはあるんだろうよ。シンカーが罠に嵌められたのは二日前。だとしたら、なんで未だにシンカーが無事なんだ? ユリエールさんの推論通りキバオウの目的がシンカーの抹殺にあるなら、逐次シンカーの生死を確認するだろうし、生き延びていると知れば何かしらの手を打つだろ。そもそも丸腰でも安全地帯に逃げ込めるような場所にわざわざ転移先を選んだりしないし、ユリエールさんのようなシンカーに親しくかつ忠誠心の高いプレイヤーを野放しにしておくのもな……。本気でPPK(ポータルプレイヤーキル)狙いだって言うなら今回のキバオウの遣り口は杜撰すぎだ」

「キバオウ派がシンカーの生存に未だに気づいていない間抜け集団だっていうなら、シンカーを助けてそこで終わりなんだろうけどネ」

「一概にキバオウ派、シンカー派で分けられそうにないのも問題だ。絶対日和見の蝙蝠がいるだろ、ダンジョンのマップ提供とかもろなんじゃないか? シンカーもキバオウもよくこれだけの大組織を維持してられるよ。ギルドの運営とか俺には無理」

「人間三人集まれば派閥が出来るなんて言うし、集団の統率が如何に難しいかってことを示してるよナ」

 

 気楽なソロ稼業が板についてしまっているし、仮に俺がギルドを結成しようとしても十人規模の小集団が限界だろう。それだって攻略という目的を共有できる下地があればこそだ。それすらなく、構成員が三桁どころか四桁を数える超大規模ギルドなんて眩暈がしそうである。

 

「さっさとシンカーが強権使ってキバオウを追い出すなり出来てれば、また違った結果になってたのかな?」

「所詮はIfだヨ、ここまで(やっこ)さんが追い込まれた原因の一つはその優柔不断さにもあるんだから。シンカーはもうちょっと強気に出てもよかったかもネ。それになんだかんだ言ってもギルドリーダーって椅子に座り続けてたわけだし、軍の振る舞いと無関係でいられるはずもなイ」

「まあな。しかし軍の行く末がどうなるにせよ、俺に出来ることは少しだけ時計の針を進めてやることくらいか」

 

 シンカーを救出した後は知らぬ存ぜぬってわけにもいかないし、難題だなほんと。……マジで知らぬ存ぜぬを通したい。

 

「頑張れよー」

「馬鹿言うな、お前も働くんだよ。ここまで関わっておいて元も取れないんじゃ大損じゃないか。というわけでキバオウへのメッセンジャーよろしく」

 

 ええー、とか不満を漏らすな。仕方ないだろ、こちとらソロで使える手札が乏しいんだから。もう少しでいいから俺に付き合え。

 

「あの頑固者を交渉の席に引っ張り出せって? 無理無理、オレっちじゃ門前払いにされるのがオチだって」

「さすがにアスナの名前を勝手に使うわけにもいかないし、とりあえず俺の名前を出してみて駄目ならすぐに手を引いてくれて構わないからさ。頼りにしてるぜアルゴ」

「面倒なこと言うなあ、報酬は弾んでくれるのカ?」

「白紙の小切手でいいなら切るぞ」

 

 口元を歪めていつもの調子で告げてみると、アルゴは深い溜息をついて天を仰いでしまった。それから改めて俺と向き合ったアルゴの顔には「仕方ない」という諦観が滲んでいる。そういうとこがお人好しなんだよ、お前は。

 

「まーたそうやってオレっちを試そうとするんだから。人が悪いヨ、キー坊」

「毎回適正価格を書き込んでくれる《鼠》を信じてるだけだよ。それで返答は?」

「……ったく。期待はするナ、とだけ。所詮は保険なんだしそれでいいダロ?」

 

 話が早くて助かる。

 

「ああ、せいぜい気楽にやってくれ」

「わかったわかった、それじゃお仕事に取り掛かりますカ。あーあ、折角の密会だっていうのに色気も何もない逢瀬だったじゃないカ。キー坊は気が利かないんだから」

「だから俺に求めるものが間違ってんだよ。それとアスナに後で謝っておけよ、なし崩しで巻き込んじまったんだから」

「心配しなくても世渡りに関しちゃキー坊よりずっと上だゼ、オレっち」

「そいつもよく知ってる」

 

 強かな女だもんな、お前。

 

「オレっちを顎で使うんだからキー坊もしくじんなヨ」

「わかってる、油断する気はないよ。……ユイのこともあるしな」

 

 艶やかな黒髪に手櫛を入れながらユイの寝顔に目を向ける。普段ならこの上なく和ませてくれる光景なのに、今はとても痛々しく傷ついた顔に見えた。ユイのアバターがぶれた先程の光景を思い出し、この子は一体何者なんだろうと、何度も抱いた疑問が鎌首をもたげるように浮かび上がってくるのを止められなかった。

 

「ユイユイかあ。生活の痕跡が一つも出てこないから何かあるとは思ってたけど、やっぱし妙な事情持ちみたいだネ」

「何とかするさ。何せユイは俺の娘なんだから」

 

 あとその珍妙な愛称はやめてやれ、ユイが喜ぶなら別にいいけど。

 

「んー、今の発言はシリアスムードに相応しいのか悩んじまうゼ。キー坊が親馬鹿になったとは聞いてたけど、こりゃ相当だネ」

 

 これ以上はこらえきれないとばかりに、アルゴはくすくすと可笑しげに笑み崩れていた。それでもどうにか笑い声を噛み殺そうと努力し、やっとこさ搾り出されたアルゴの台詞を受けて、俺は敢えて胸を張って答えるのだった。

 

「俺が馬鹿をやる理由なんてその程度で十分なんだよ。そいつはお前が一番良く知ってるはずだろ」

「にゃハハハ、確かにそうダ。ま、冗談はさておき、それだけ大口叩いたんだからちゃんと全員連れ帰れヨ。ヘマやったらキー坊の恥ずかしい秘密をばらまいてやル」

「アルゴこそ、本当に門前払いなんてされたら指差して笑ってやるからな」

 

 キバオウ本人はともかく、その周辺にまったく伝手がないなんて言わせない。

 不敵に、そしてふてぶてしく挑発を返す俺に、アルゴもにやりと見慣れた笑みを浮かべ、「白紙小切手も忘れんなよー、ぼったくってやるから」といつもの調子で混ぜっ返したのだった。

 

 

 

 

 

 秋を彩り梢を揺らす街路樹を横目に、俺とアスナ、ユリエールさんの三人で歩を進める。ユイは未だに意識を取り戻さないため、俺が背負っていた。向かう先は軍の本拠地――《黒鉄宮》。

 黒鉄宮は《はじまりの街》でも最大規模を誇る施設だ。黒光りする建築材で組まれた巨大建築物は、遠目でもよく目立つ威容さを発している。まして今はその敷地の大部分を軍――ギルド《アインクラッド解放軍》が占拠してしまっていることもあり、物々しさも一入である。

 とはいえ黒鉄宮には全プレイヤーの安否を確認するための《生命の碑》が置かれているため、宮殿の正面を入ってすぐの広間は誰でも自由に出入りできる仕組みになっている。さすがの軍といえど、生命の碑に足を運ぶ権利まで阻害することは出来なかったのだろう。そんなことをすれば非難ではすまない騒ぎになっていただろうしな。

 

 しかし俺達がユリエールさんの案内で踏み入れたのは、生命の碑が置かれた広間へと続く正面入り口ではない。人気のない裏手に回るとそのまま数分間歩き、やがて宮殿を囲う深い堀へと降りていく階段が現れた。どうやらこの先にある下水道を経由して地下ダンジョンに侵入するらしい。

 俺達がここまでくるのに誰にも見咎められることはなく、何事もないまま辿り着けたことに拍子抜けしてしまう。ダンジョンの隠蔽を図ったというからキバオウ派閥のメンバーで入り口を見張るくらいはしているものだと思っていたのだが、そんなことはなかった。あるいは仰々しく歩哨を立たせないほうが対外的にも隠しやすいとでも思ったのかもしれない。人を動かせば噂になるのは避けられないし。

 ユリエールさんが足を止めて振り向く。道中の不安からか、その顔には多少の緊張が伺えた。

 

「ここから下水道に入ります。出現するモンスターは巨大なカエルやザリガニのような水中生物型で、レベル帯はダンジョンに出てくる奴らより数段落ちます。ただし数だけは多いので突破には時間がかかると思いますが……」

「打ち合わせ通り、ダンジョンエリアに入ったら俺が先頭に立って最速でモンスター群を殲滅します。アスナは二人の護衛として万一に備えて待機、俺が撃ち漏らしたモンスターを処理してくれ。ユリエールさんはユイをお願いします」

 

 ユイを背中から降ろし、ユリエールさんに預けながらの確認だった。特に反対意見が出ることもなく了解される。今日は踏破スピード最優先だ、ユリエールさんのレベリングだの悠長なことはやってられない。ユイの目指す場所の正確な位置がわからない以上、まずはシンカー救出をさっさと終わらせるつもりだった。

 

「行こう」

 

 俺の呼びかけに答える二人の声を背に受け、特に逡巡することもなく一歩を踏み出す。幸いというか、下水道は鼻の曲がるような悪臭に支配されているなんてことはなく、せいぜいジメジメした空気と薄暗さが不快に感じるくらいの場所だった。

 途中わらわらと出現するカエルやらザリガニは一刀の下に切り伏せる。敵群に真っ先に切り込み、二刀を振り回してひたすら蹂躙した。慈悲もない、遠慮もない、見敵必殺である。目についたモンスターの悉くを早急にポリゴン片へと変え、あるいは湧出の予兆を感知した瞬間剣を振りかぶってソードスキルを起動させる。そして先制攻撃、撃破。その繰り返しだ。

 数だけの雑魚を速やかに下しながら苦労もなく下水道を越え、やがて黒い石壁の続くダンジョンに突入した。暗鬱とした雰囲気なのは変わらずだが、水分過多な湿り気が感じられなくなっただけでも嬉しかった。

 

 そして地下迷宮に突入しても、二刀流を駆使した蹂躙劇の演目が変更されることはなかった。ダンジョンの奥深くに潜るにつれ、敵の種類がゾンビやらゴーストやらのオバケ系統に変化していったが、生憎と俺はオバケアレルギーなんて持っていない。恐れることなく狩りまくっていた。

 ちなみにこいつらのようなオバケモンスターが苦手な血盟騎士団副団長様は最初、顔色を悪くしていたものの、奥に進むに連れて落ち着いた態度を取れるようになっていった。以前リズに強がっていた通り、確かにアスナのオバケへの苦手意識は克服されつつあるようだ。

 

「す、すごいですね……」

 

 この台詞は俺の戦闘を眺めて幾度も目を見開き、そのたび感嘆の溜息を漏らしていたユリエールさんのものである。

 

「そこまで驚くことですか? キリト君の強さを見込んで依頼を持ち込んだはずでは?」

「正直、ここまですさまじいものとは……。最前線を戦う攻略組プレイヤーは皆このような一騎当千ぶりを発揮するのですか?」

「それこそまさかです。ここまでの殲滅速度を叩きだせるのは攻略組でもキリト君だけですよ。攻略組最強の矛なんて呼ばれてるのは伊達じゃないです」

 

 待て、その呼ばれ方は好きじゃない。なにせ対になる《盾》はあの男だ。あれと並び称されるくらいなら俺はへなちょこの矛でいい。

 

「次のT字路を左です」

「わかりました」

 

 案内役のユリエールさんの指示に大人しく従う。ユイを背負ってもらって申し訳ないが、今のフォーメーションが一番安全確実だ。もうしばらく我慢してもらおう。

 そんなこんなで下水道に踏み入れてから地下迷宮の奥深くまで踏み入り、およそ二時間にさしかかるか否かといった頃だった。ひたすらモンスターをちぎっては投げを繰り返した末に、ようやく目的地が見えてきた。右に大きく湾曲した通路を進むと、まずは大きく開けた十字路が視界を掠める。さらにその先に、打ち捨てられた墓地を思わせる、重く冷たい空気に満ちたダンジョンに不釣合いな、暖かな光が差し込む小部屋が姿を現す。どうやらシンカーが幽閉されている安全エリアで間違いなさそうだ、索敵スキルにもきっちりプレイヤー反応がある。――ただし、そこにある反応は二つ。

 

「なんでや! なんでわかってくれへんのや、シンカーはん!」

 

 光の先から届く叫びは、脅迫の罵声でもなければ最後通牒の突きつけでもなかった。かつて初心者(ビギナー)の代弁者としてベータテスターを(そし)り、糾弾し、今なお《アインクラッド解放軍》を二つに割って乗っ取ろうと企てていたとされる男が、身も世もなく関西弁を捲し立てていた。

 

「キバオウさんが何と言っても受け入れられません。最前線は攻略組に任せて、軍は下層の治安維持に努めるべきです。75層でどれだけ被害が出たのか、キバオウさんが一番良く知ってるはずじゃないですか!」

「だからこそ、戦力の底上げをせなあかんのやろ! 今のままじゃいつまで経っても攻略に参加できんわ」

「その結果がコーバッツさんたちの全滅だったんですよ! 攻略は血盟騎士団や聖竜連合に任せて、私達は下層で戦えないプレイヤーたちの保護に力を尽くすべきなんです。キバオウさんだって納得したはずじゃないですか」

「だからといってワイはレベリングのノルマ廃止にまで賛成したわけやあらへん。何度でも言うで! ワイら軍も攻略に参加すべきや! 軍の豊富な戦力と物資を腐らせるわけにはいかんのや!」

「ゲームクリアは攻略組のプレイヤーに任せて、軍は治安維持や後方支援に努める、それでいいじゃないですか!」

 

 コーバッツ中佐はキバオウさんの腹心だったはずでしょう! とシンカーが悲鳴のような叫びをあげた。キバオウもそんなシンカーに釣られるようにさらにヒートアップしていく。

 

「ワイはそうやって全部人任せにするんは好かん! なにより部下の無念晴らすんが指揮官の務めちゃいまっか!?」

「それで犠牲を出したら本末転倒です! 私達は解放の日のために戦っているんですよ、犠牲ありきの戦いなんてしちゃいけないし、させちゃいけない!」

「はん、どいつもこいつも根性なしばっかで嫌なるわ! あんだけ攻略に参加せえへんのは間違いや言うてて、自分らのギルドから犠牲が出た途端掌返しおってからに! 甘い夢ばっか見られたらこっちが迷惑や!」

「誰もがあなたのように強くあれるわけじゃないんです!」

 

 喧々諤々。お互い一歩も引く事なく自論を展開させている姿に、俺達はその場を動かずじっと聞き入っていた。正確に言えばユリエールさんが呆然とした面持ちで足を止めてしまったために、俺とアスナもそれ以上動けなかった。

 

「なぜ……なぜキバオウがここに……?」

「そりゃ、キバオウに初めからシンカーを殺す気がなかったからでしょう。大方、自分の主張を認めさせるためにシンカーを孤立無援状態に追い込んだってとこかな?」

 

 心ここにあらずといった風情で零れ落ちた言葉に、俺は軽く肩を竦めて答えた。

 真実なんて大抵はこんなものだ。キバオウは良くも悪くも己の正義感を優先して動く男だし、PKを肯定するほどトチ狂ってもいない。我が強く自身の考えに固執するところはあっても、レッド連中のような救いようのない愚物じゃないんだ。

 

 しかし俺の内心は溜息の嵐だった。どうしてキバオウはこうも的外れな行動に出てしまったのか。

 本来説得というのは自分の考えを相手に受け入れさせる、言い換えれば相手から妥協を引き出すものだから、成功のためには心理的防壁が弱まる空間、つまり相手のテリトリーで行うべきだろう。誰だって敵地(アウェー)では警戒心が強くなるものだ。

 もちろん脅迫紛いの遣り口も場合によってはありだろうが、今回はシンカーを頑なにしただけらしい。

 

「ですが、今までキバオウは一度たりともシンカーに歩み寄ろうとなど……」

「シンカーもキバオウも、派閥の頭なんてやってれば不自由にもなるんじゃないですか? 何にせよ、まずは彼らと合流をしましょう」

「……パパ」

 

 アルゴには無駄足踏ませたかな、なんて考えながらユリエールさんを促し歩き出そうとした時、か細い、けれど鈴の音のように涼やかな響きに呼び止められた。それはユイが教会で倒れて以降初めて耳にした声でもあった。

 

「ユイ、もう大丈夫なのか?」

「うん。それよりパパ、あそこの部屋まで走って。ここは危ないの」

「危ない? それは――」

「ユリエール! ユリエールなのか!?」

 

 落ち着き払ったユイの態度とその言葉の内容の不審を問い質す前に、眩い光のカーテンの向こうから切羽詰った大声が届く。こちらからはシルエットでしか確認できないが、あちらからはそうでもないらしい。

 

「シンカー! 待ってて、すぐにいくから!」

 

 未だ混乱状態だったユリエールさんも一旦疑問は後回しにして、ひとまずシンカーの無事を喜ぶことにしたようだ。複雑そうに沈んでいた表情をぱっと輝かせ、一歩を踏み出す。

 

「来ちゃ駄目だ! その通路には奴が――」

「止めたらあかんシンカーはん! 全員ここまで気張って走れや! そいつはこの部屋までは入ってこれへん……!」 

 

 シンカーとキバオウがそれぞれ別の意見を口走る。俺達は彼らの急変した態度とそれぞれが口にした言葉の不可解さに顔を見合わせ――結果として足を止めたことで浪費した時間を使い、それはやってきた。

 シンカー達のいる小部屋の手前の十字路右側、直角に交差した通路の向こうからモンスターを示す黄色のカーソルが出現し、然程時間を置かずにそのカーソルの持ち主は巨大な全貌を露わにしたのである。

 その瞬間、奴を中心に空間が塗り替えられるような嫌な感覚が襲う。べっとりとした生暖かな風が吹き抜けたのだ。

 背筋を冷たく撫でる嫌な予感に緊張が高まるのを自覚しながらも臨戦態勢を整えていく。二刀を構え、油断なく見据えた先には無音のまま宙に浮いた大型のモンスターがいる。奴の持つ異様な雰囲気がこちらを圧して止まない。

 

 《死神》。そんなワードが脳裏を過ぎった。

 二メートル半を超える図体にぼろぼろのローブは人型の輪郭を形成し、フードに隠された顔は闇色をしていて細かい形は掴めない。けれどその目だけは血管の浮き上がった紅の眼球をしているのが極めて不気味だった。武器は闇を凝縮したような手に握った長大な鎌であり、その死神のシルエットは見る者の怖気を奮わせるものだ。

 このモンスターの固有名は《ザ・フェイタルサイズ》。運命の鎌を意味すると共に、《The》の定冠詞が示すのはボスモンスターである証だ。おそらくはこいつがキバオウ達が歯がたたず逃げ出すしかなかった元凶……。

 

「アストラル系のボスか、通りで索敵スキルに引っかからなかったはずだ。アスナは戦えそうか?」

「わたしが苦手なのは剣で切れないオバケだよ。だからあれは大丈夫」

 

 強張った表情を見る限り強がりも入ってそうだが、これだけ軽口叩ければ心配いらないかな。

 

「そいつは重畳。ユリエールさんは転移結晶の用意をお願いします」

「駄目です。どういうわけかここは結晶無効化空間に指定されているようです」

 

 青い顔で「結晶は使えません」と返され、自然と俺の顔も強張る。

 さっきの妙な感覚が原因か。よく見れば周囲の床や壁も微妙に異なる色彩に変わっているし、文字通り空間を塗り替えられたのだろう。これまでの道中で結晶無効化の兆候はなかったし、あの死神の特殊効果と考えるのが妥当だ。

 どうしてこうも結晶無効化空間に縁があるんだか。嫌らしい場面でばかりお目にかかるのも腹立たしいと地団太を踏む思いである。ゲーム製作者の底意地の悪さが透けて見えるようだ。

 さて、どうする? シンカー達のいる小部屋までの道は塞がれた。転移結晶は使えない。足手纏いが二人。この状況で取るべき方針は――。

 

「下がれ!」

 

 悠長に思考を巡らせている暇もない。ゆらりと死神が動き出したかと思うと、轟音と共に恐ろしいスピードで突っ込んできた。元々宙に浮いているためなのか、初速からトップスピードに入ってしまったかのようだ。はためくローブを翻し、暗闇が俺を呑みこまんと猛烈に迫りくる。

 

 ――だが、この速さについていくことは出来る。あるいは75層の激闘を経ていなければ、奴の急激なスピード差に幻惑され、彼我の距離感を狂わされたまま為す術もなくやられていたかもしれない。

 

 俺の二本の剣と死神の持つ大振りの鎌が衝突し、燐光と共に火花が散る。突進の勢いと鎌による攻撃を相殺し、硬直が切れた次の瞬間、果敢に奴の懐に踏み込み、左の太刀で一閃。怯んだのかどうかは知らないが、死神は音もなく距離を取った。緒戦はやや優勢だ。

 

「ユリエールさん、今から俺とアスナで隙を作ります。合図をしたらユイを連れて全力でシンカーの元へ向かってください」

「わかりました」

「アスナもそれでいいな?」

「もちろん」

 

 このまま撤退戦に移行しようにも、このダンジョンの湧出率だと挟み撃ちにされる危険性が高いし、それを恐れてここで俺とアスナがボスの足止めをすれば、ユリエールさんとユイだけで元来た道を引き返させることになる。どこまで戻れば結晶無効化空間の範囲外に出れるのかが不明な以上却下だ。ユリエールさん一人ではユイを守りきれない。

 無論、俺一人でこの死神じみたモンスターを相手取れるならアスナを護衛につけて引き返させるのだが……。

 

「気をつけろよ、こいつどうやらクォーターボスクラスの強さを持ってる。一撃でも貰えばあの世行きなんてこともありえるぞ」

 

 加えて俺の与えた一撃なんて奴のHPを一ドット削れたかどうかすらわからない微々たるものだった。防御力もとんでもない。これを俺達二人だけで倒すなんて到底無理だ、取るべきは逃げの一手しかない。

 

「どうしてこう無茶な敵ばかり出てくるのかなあ……」

「諦めろ、現実世界に戻ったら御祓いでもしてもらえばいいさ」

「その時は一緒に行こうね」

 

 冗談めかしたアスナの誘いを受け、苦笑気味に首肯を返しながら剣を強く握り直す。まずは生き残らないとな。

 

「俺が全力の突きを入れる。狙いは上段からの一撃を誘ってのカウンターだ。こいつの攻撃は速さ、重さ、共にスカルリーパーより上だった。アスナが上手く合わせてくれなきゃ二人してお陀仏だかんな!」

「こんな時にプレッシャーかけないでよ、キリト君のいじわる……!」

 

 俺とアスナ、そして死神。二人と一体が弾かれたように動き出す。まずは横薙ぎの一撃をバックステップで避け、そのまま間合いを詰められて波打つように軌道が戻された返しの刃を二刀で防ぐ。その間にアスナが一撃を加えるが怯んだ様子はない。やはり通常攻撃では隙を作り出すことは出来ないらしい。

 ふっと短く呼気を吐き出し、アスナが退避する時間を作り出そうとボスとの距離を近づけ左の剣で一突き。しかしその一撃は鎌の刃に合わせられてガードされてしまう。厄介なことに武器防御のスキルも高そうだ、と内心で溜息。

 息つく間もない連続攻撃をかわしつつ機を伺う。そして間もなくチャンスはやってきた。

 

「左に跳べ!」

 

 中段に構えた鎌が下から掬い上げられる。柄を使ったフェイントを見切った俺の警告にアスナも素直に従い、左右に散ることで間一髪回避を間に合わせた。そして、待望の上段からの一撃。

 

「ここだ……!」

「うん!」

 

 互いの剣がソードスキルの燐光を散らし、俺の剣に同期するようにアスナの剣が合わさり、二本の剣が織り成す下方からの強烈な打ち上げによって長大な鎌が跳ね上げられる。一時的に死神が無防備を晒した。

 そして俺の放ったソードスキルは単発ではない。右の剣が薙ぎ、左の剣で突く二段構えの連続技。昼間、軍の徴税部隊に威嚇で用いた技だった。今回のそれはアスナの助けを借りることで成功させた、一連の動きの中で回避と反撃を両立させる変則ソードスキルだ。

 

「ユリエールさん、今です!」

「はい!」

「パパ……!」

 

 俺よりも一瞬早く行われたアスナの呼びかけによってユイを伴い、ユリエールさんが駆ける。ユイが何かを言いたげに俺達へと腕を伸ばしていたが、生憎応えている余裕はない。とはいえ、強烈な一撃を浴びせかけられた《ザ・フェイタルサイズ》の反撃が間に合うことはなく、わずかの隙を利用することで死神を横目にすり抜け、無事に安全エリアへと辿り着かせることができた。

 ほっと一息をつく俺の隣に、これまた安堵を浮かべたアスナが立ち並ぶ。

 

「キリトさん、アスナさん、お二人も早く!」

 

 光の向こうから心底心配そうに呼びかけてくれる声に、しかし俺もアスナも諾と応えることが出来なかった。その理由は単純明快で――。

 

「こいつをすぐに出し抜くのは無理です! ユイを連れて先に脱出してください!」

 

 このボスはどうも安全エリアにプレイヤーを近づけないようプログラムされている節がある。死神の攻撃を捌きながら俺達二人が脇をすり抜けるのは分が悪すぎた。アスナ一人ならあるいは、ってとこか。

 

「そんな……!」

 

 俺の叫びを受けておそらくは絶句しているであろうユリエールさんに、これ以上告げることもない。キバオウの目的がシンカーの殺害にない以上、彼らをこのまま帰しても問題ないだろう。ユイのことは心配だが、今は仕方ない。

 すうっと息を吸い込む。

 

「キバオウ! 回廊結晶は!?」

「予備が一個、記録は済んどる!」

 

 返答はすぐだった。簡潔で助かる。

 

「後で弁償する。頼んだ!」

「はん、踏み倒されんよう祈うとくわ! シンカーはん、ユリエールはん、そっちのちびっこもすぐに脱出するで!」

「なっ!? 彼らを見捨てるつもりですか!?」

「黙っとき! この場であれとやりあえるんは奴等だけや、その二人が無理言うたんやから素直に従わんかい。何のために回廊結晶の有無を確認してきた思うとるんや」

「あ……援軍要請……」

「そや。――三十分、いや、二十分保たせいや《ビーター》! でっかい恩を着せてやるさかい、死ぬんやないで!」

「ああ! それとヒースクリフに借りを返せって言えば通じる! あとは適当に頼む!」

 

 もっともそんな戯言を伝えなくとも、腹心たる副団長の危機なのだからあの男が動くには十分だろう。ただしアスナが休暇でここにいる以上、ヒースクリフは攻略シフトに参加している可能性が高い。運よく捕まってくれることを願うしかないな。

 

「どうか、どうかご無事で……! キリトさん、アスナさん――!」

 

 最後にユリエールさんの悲痛な叫びを残して、光の向こうの人影が同時に消えていった。これでひとまずは安心である。

 

「進むも地獄、引くも地獄、ついでに踏み止まっても地獄だね。援軍待つなら踏み止まるべきかな? 正直どの選択肢も絶望的だけど」

「もう笑うしかないよな、この状況。一応、俺が奴の相手をしてアスナは離脱するって手もあるぞ」

「冗談、わたしが君を置き去りにして逃げられると思う?」

 

 心配するな、露ほども思ってない。

 

「『ここは俺に任せて先に行け』って言うのが男の浪漫なんだけど」

「『死ぬ時は一緒だよ』って返すのが女の意地なの。諦めなさい」

「サンキュ、アスナは良い女だな」

「あら、ありがと」

 

 今はやせ我慢だろうと笑うことにした。

 

「来るよ、キリト君」

 

 瘴気を撒き散らせて視界いっぱいに広がる死神の威圧感を跳ね除け、その禍々しい鎌を睨みやり、瞬間移動にも似た速さで動き出す死神に備えて腰を落とした時だった。

 

 ――そこまでです。

 

 凛、と。

 その一声で全てが停止した。死神すらも例外ではなく、力を持った言霊の前に沈黙し、縫い付けられている。あまりにこの場に似つかわしくない光景だった。

 そこに立っていたのは先程脱出させたはずの少女だ。艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、純白のワンピースに身を包んだ、小さな小さな女の子。

 

 しかし常は和やかに緩められた双眸は敵を鋭く見据える苛烈さを放ち、固く引き結ばれた口元がいたいけな少女に似合わない戦士としての風格を与えていた。武器も持たず、碌な防具も装備していないにも関わらず、少女――ユイは恐れを知らぬ足取りで一歩、また一歩と歩を進める。

 その様はまさしく王の歩み。有象無象を塵芥と意にも介さず、ひたすらに王者の貫禄を放つ絶対者のみが纏う空気だった。俺はこの威を以前感じ取ったことがある。そう、あれは75層ボス攻略を控え、皆が不安と緊張に暮れる中で威風堂々と歩み寄ってきた――。

 

「ユイちゃん、どうして!?」

 

 アスナの叫びにはっと目を見開く。そうだ、今は余計なことに気を取られている暇はない。

 ユイはついに俺達の前まで辿り着き、死神の眼前に立ち塞がった。まるでその対峙を合図にしたかのように動きを静止させていた死神が動き出す。奴の振り上げた鎌をこの目に捉え、慌てて剣を手に飛び出した。しかしそれすら杞憂だったのである。

 轟と空気を引き裂いて繰り出された死神の鎌は、ユイに届く前に全てが鮮やかな紫色の障壁に阻まれてしまったからだ。ユイを守る障壁に伴い出現したウインドウには《Immortal Object》の文字列が踊っていた。――すなわち、不死存在。

 

「大丈夫だよ、パパ、ママ。そこで見ててね。わたしの、最初で最後の親孝行を」

 

 肩越しに振り返ったユイは寂しげに微笑を浮かべ、すぐに死神と向き合った。ユイの細い右腕がすっと持ち上げられていき、刹那、炎を纏う驚愕の現象が引き起こされた。

 突如として発生した紅蓮の焔は轟々と燃え盛り、やがて全てを焼き尽くさんと視界いっぱいに広がった瞬間、逆再生でも見ているかのように炎の発生源――すなわちユイの右手へと凝縮していく。

 真っ赤な炎は少しずつ形を成していき、程なく質量を伴った一本の剣へと変じてみせた。ユイの背丈を優に超える輝ける炎の魔剣は、無言の内にその威容を知らしめる。圧迫感を伴う熱と輝きの奔流、神々しさすら感じさせるそれは、おかしな言い方になるが、この世界に存在してはいけない代物だと思わされた。

 

「恨みなんてありません。わたしはあなたの役割を知っているし、あなたの邪魔をする権利がないことも知っています。……でも、ごめんなさい。わたしがパパとママとお話するために、あなたは邪魔です。ですから今は――消えてください」

 

 怜悧な響きを伴って死を宣告するユイが頼もしいような、怖いような。凛々しくも酷薄な雰囲気を纏う娘の姿に俺の頬が引き攣る。あれはきっとアスナに似たんだな、そうに違いない。

 威嚇するように巨大な剣をぶんと振り回し、ユイはふわりと浮き上がりながら一刀両断の構えを取り――《ザ・フェイタルサイズ》を標的に、躊躇いの欠片も見せず唐竹の軌道で真っ直ぐ打ち下ろしたのだった。

 アインクラッドのモンスターが恐怖を覚えることなどない。彼らは所詮はプログラムで心なんて持たない。なのに、恐怖を覚えないはずのモンスターが今は小学生の背丈しか持たない少女に怯えているようにしか見えなかった。

 死神の大鎌が防御のために頭上へと掲げられ、しかしてユイの持つ火焔の刃はそんな抵抗など知らぬと言いたげに無造作に鎌を断ち切ってしまう。どこか現実感を喪失してしまったような面持ちのまま、俺はその異様な光景をじっと見つめていた。

 

 ……終幕だ。

 俺がそう結論付けた時、ついに死神の鎌が熱量と剣戟に耐え切れず砕け散り、勢いそのまま焔の魔剣が叩きつけられた。そこで起こったのは炎の爆発だ。数多の火球が次々と死神の身体に吸い込まれ、断末魔の悲鳴すら焼き尽くす有様である。

 オーバーキル。

 ふとそんな言葉が思い浮かんだ。

 死神を撃破したままユイは言葉もなく立ちすくみ、俯いている。熱せられた風に煽られ、黒の髪がうねっていたのも今は何事もなかったかのように落ち着き、炎色に照らされていたワンピースも元の純白に戻っている。なによりユイが操った巨大な剣は始まりと同様、炎の中で溶け崩れ、消滅していた。

 

「……ユイ」

 

 俺の呼びかけにユイはびくりと肩を震わせることしかしなかった。あれほど圧倒的な力を示して死神を葬った少女は、しかし今明らかに怯えている、怖がっているのだ。

 ならば俺の告げる言葉は、彼女にとっての弾劾になるのだろうか。わからずとも、あるいは、わからないからこそ、俺はその決定的な事実を口にせずにはいられなかった。

 

「記憶喪失の少女って設定は、もう守らなくていいのか? 何も知らない女の子のふりは、もう止めるのか? ……なあ、ユイ」

「キリト君?」

 

 アスナの訝しげな視線を、しかし今だけは振り払ってユイをじっと見据える。俺の問いに振り返った彼女は、儚げな、そしてとても透明な笑みを浮かべていた。全てを受け入れ、諦めたような顔。十に届かぬ少女が浮かべるにはあまりに不釣合いなものだ。

 

「いつから、気付いていましたか?」

「ユイが何かを隠してる、演技をしてるってことは、一緒に暮らしてる内に薄々とは。記憶喪失が嘘だっていう確信が持てたのは今日になってからだよ。……狸寝入りをするならもう少し上手くやらなきゃな、この世界では意識のないアバターは呼吸をしないんだから」

 

 以前から度々ユイは狸寝入りをしていた。最初は自分が本当に受け入れられているのかを確認するために俺達を観察しているのだと思っていたのだが、今日のあればかりは見過ごすには事が大きすぎる。自分で自分のアバターの像を乱すなんてことは、一介のプレイヤーに出来る事ではない。

 ああ、どうしてユイの擬態に気づけたのかは察してほしい。睡眠PKなるものが存在する世界でプレイヤーが意識のない状態――寝顔を他人に晒す事はありえないが、何事にも例外はあるということだ。たまさか俺はその例外に接する機会が多く、無防備な寝姿の比較対象に恵まれただけである。……文句あるか!

 

「ふふ、そういえばそうでした。初歩的なミスをしちゃいましたね」

 

 わたしもまだまだです、と零す割にはすっきりとした顔で自分の未熟を恥じるユイに、元々この秘密を隠し通す気はなかったのだと悟る。そう遠くない内に明かす心算だったのかもしれない。

 

「誤解しないでくれよ。俺はユイが嘘をついていたことを責める気はないし、ユイが記憶喪失のふりを続けるなら付き合ってもいいと思ってたんだ。ユイがつらい過去を忘れて俺達との生活を選ぶのなら、それがユイの幸せにつながるなら、俺は騙されたままで良かった」

「優しいんですね、キリトさん」

 

 キリトさん、か。

 ユイに父と呼ばれなかったことを自覚した瞬間、ずきりと胸に鈍痛が走った。その痛みが、俺はこの子のことを本当の家族のように思っていたのだと深く刻み込んでくれる。

 

「ユイが嘘をついてまで仮初の家族、安らぎの場所を求めたのならそれでよかった、そうであってほしいとすら思ったよ。だけど、そんな単純な話じゃないんだな? ……聞かせてくれ、ユイ。君は何者だ? ――君の望みは何処にある?」

 

 ユイが見せてきた数々の不思議。また、この世界の根幹を為すゲームシステムへの理解において、ユイは俺達プレイヤーとは一線を画す。ならばと俺はこう考えた。ユイはいかなる手段によってか、俺達をゲーム外から観察できた存在――デスゲーム開始以来初の現実世界からの来訪者なのではないか、と。

 だが、それも違うのだとすぐに本人の口から明らかになる。

 俺が一人胸の内に温めてきた問いを受けたユイは、じっと俺の顔を見つめたまましばらくの時を過ごし、やがて覚悟を決めたかのようにその心を語ってみせた。

 

「わたしはキリトさんに、わたしの最期を看取(みと)ってほしいのです。ずっと昔……あなたの剣にかかることを選んだプレイヤーが、暗く冷たい絶望の果てに求め、今際(いまわ)(きわ)に願った一滴(ひとしずく)の希望のように――」

 

 ――わたしも、あなたの手で終わりを迎えたいのです。

 

 薄く笑んだ表情はあくまで優しく、邪気の欠片もない。けれど無垢とは明らかに異なる透き通った瞳で、妖精のように愛らしく、朝露のように儚い少女は、その小さな唇から残酷に過ぎる望みを紡いだのだった。

 

 




 《純真無垢な天使》改め《嘘つきユイちゃん》は拙作独自の描写です。
 教会に住む子供たちの平均年齢を二歳ほど下げています。原作及びアニメの描写では、年齢に比して言動が幼すぎますので多少の調整を施しました。
 地下迷宮の死神こと《ザ・フェイタルサイズ》ですが、原作で90層クラスの強さ(キリト談)とされ、90層台のボスは激強い(茅場談)とのことなので、75層のクォーターボスに準じるレベルとして扱っています。
 また、軍が地下迷宮をマッピングできたことから、最奥の小部屋にプレイヤーが存在する状態で別のプレイヤーが近づくことをボスの出現トリガーとし、結晶無効化空間トラップはアニメでの結界を彷彿とさせる意味ありげな演出に色をつけた結果です。


 以下、ゲーム内インフレに関する長文解説です。

 アインクラッドにインフレーション(=通貨価値の減少)が起こっているというのは独自設定です。
 原作に『物価は常に一定』との記述がありますが、拙作ではプレイヤー間の取引をアイテムの値段設定を含めて自由売買で成り立たせているため、NPC店舗はともかくプレイヤー間では、需要と供給のバランスでアイテム価値は常に変動しています。また、層が進むにつれて時間当たりに獲得できるコルが増大し、ゲーム内通貨の総量も肥大していくため、インフレ現象は避けられないものとして扱っています。
 それと、もしインフレがどういったものかわかりづらければ、『高性能の装備、レアなアイテムはどんどん値上がりしていくのが一般的なMMORPGの特徴』と考えてもらえば大凡間違っていません。

 インフレの発生は最前線に残り続ける困難の増加、それに伴い攻略組を脱落するプレイヤーが多数出ていること、攻略組と中層以下のプレイヤーとの強さの隔たり等を作中で強調してきた一因となっています。MMOにおける経済力はプレイヤーの強さに直結する重要なファクター、という至極当然の話ですね。また、『狩りに消極的でゲームクリアに貢献しようとしないプレイヤーへの救済は圏内設定だけで十分』というゲームマスター側の意図も含ませています。

 インフレ阻止を狙い、例えばシステム側が通貨供給量を調整するとして、不自然にモンスターから獲得できるコルを絞ることは、結果として最もコルを稼いでいる攻略組に割りを食わせる形になります。それは最前線を戦うモチベ低下を招くため、拙作茅場晶彦の思想とは相容れません。ゲーム運営に必要なのは公平性であり、悪平等ではないということですね(※ただしユニークスキルは除く)。
 原作で物価を一定にした物語的な意義や事件フラグは描写されていなかったはずなので、この変更によって致命的な齟齬にはつながらないと思いますが、拙作では上記のような理由で物価変動が起こっているのだとご納得いただければ幸いです。

 インフレ設定に付随して、これまでも黒猫編でアイテムの市場相場を調べる役割の必要性、リズ編でモンスター配置の変更が緩やか等、幾つか原作との差異を示唆する描写を文中に含ませてきました。しかしプレイヤー間のパワーバランス、ゲーム攻略難易度に極めて大きな影響を及ぼしている設定変更にも関わらず、作中のプレイヤー視点ではカバーしきれない部分が多々あるため、今回あとがきにて尺を取って解説させていただいた次第です。

 ではでは、お目汚し失礼しました。

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