迷宮区――正確には迷宮区タワー。
各階層に必ず一つ存在する、天を貫かんとプレイヤーを圧倒してくる円形の巨大建造物は、その名の通り入り組んだ迷宮構造をしている。
フィールドと比べて迷宮区の攻略が難しいとされるのは、まずはその迷路状マップの複雑さが理由としてあげられる。加えて敵モンスターのレベルも、同階層のフィールドモンスターに比べて一段階上の場合がほとんどである。そこに意地の悪いトラップ群が仕掛けられているとくれば、誰もが挑戦することに及び腰になるのも仕方なかった。
とはいえ怖いからと迷宮区攻略を諦めることはゲームクリアを諦めることと同義だ。攻略組のプレイヤーに忍耐と慎重さが求められるのは、そうした危険に満ちた迷宮区を注意深く探り、また、警戒を長時間続ける必要があるためだった。死の顎は常にプレイヤーを噛み砕こうとその牙を尖らせている。そんな場所をソロで活動し続けてきたのだから、俺が命知らずだと散々に言われているのもむべなるかな。
そもそも今現在、アスナとペアで攻略していることだって本来ならば軽率な真似だった。迷宮区の攻略は普通1パーティー6人体制というアインクラッドのシステムに倣って、5人ないし6人を1チームとして動く。迷宮区の回廊がやや手狭であるため、フロアボス戦を除けば2パーティー以上で動くのは逆に効率が悪いとされているものの、だからと言ってソロやペアでは危急の際の呼応戦力に不安がある。ゲーム開始初期ならばともかく二年が経とうとする今では、すっかり少人数パーティーの姿は見かけなくなっていた。
もちろんレベルを落としたフィールドマップではその限りではない。が、最前線では定員を満たしたパーティーで挑むのが常識である。そういう意味では俺もアスナも非常識と言えるわけだ。俺に関しては既に今更な問題でもある。むしろパーティーを組むことが珍しいくらいなのだから論ずるに値しない。……悪い意味で。
そんな俺に付き合わせることに申し訳ない気持ちもちょっとばかりあるものの、そんな罪悪感よりもずっと高揚感の方が大きいのはご愛嬌というものだろうか。なにせ俺と組んでいる少女、すこぶる強い。『閃光』の名は伊達じゃないと無言の内に示すように、まざまざと実力の程を俺に開帳してくれていた。
ソロでは味わえない連携の妙を実感できるのは新鮮な感覚だ。勿論俺とアスナはフロアボス戦を初めとする集団戦では何度も轡を並べてきているのだし、別に連携するのが初というわけではない。では何が喜ばしいのかと言えば、彼女の高すぎるポテンシャルだった。必要なことを遅滞なく、そして俺の期待以上に完璧にこなすアスナの実力は相当なものだ。加えてペアで動いているため、常に息を合わせてカバーし合える連帯感はちょっとした快楽というか、とにかく気持ち良い。
ここ一週間の迷宮区攻略を共に過ごしてなおさらに実感した。アスナの実力は単純なレベル数値以上に飛びぬけた水準にある。ペアを組むのにこれほどの逸材はいないと感心しきりだった。
クラディールとの決闘騒ぎから一週間が経ち、俺とアスナは75層迷宮区の最上部付近に到達していた。俺のペースで進めると宣言した通り、昼夜問わず迷宮探索に勤しみ、幾夜か野宿で超えながらの強行軍である。
もちろんずっと迷宮区に篭りきりだったわけでもなく、武具の消耗やアイテムストレージの限界を迎える前に街に戻ってもいた。それでも随分なハードワークをペアであるアスナにも課してしまった。しかしその甲斐あっていよいよフロアボスに続く扉の発見なるか、という段階まで迫っている。
実を言えばこのペースは相当早い。60層以降攻略スピードが落ちてきているところに、70層以降からのモンスター強化という問題が重なり、このところの攻略速度は芳しくなかったからだ。それをフィールドマップ踏破込みで十日そこそこというのは中々のハイペースだった。ここまでくれば今日明日にでも最奥に通じるマップが発見されるだろう。クォーターポイントでこの迅速な攻略を可能にしたというだけでも俺とアスナが組む意味はあった。後は油断せず残り少なくなったマップデータの空白部分を埋めていくだけだ。
視線を巡らせればわずかな光源しか存在しない薄暗い空間が広がり、その中にぼんやりと浮かび上がる黒曜石に似た透明感のある素材で造られた円柱が見える。暗闇に閉ざされるという程ではないものの、視界の制限される嫌な回廊だった。足元には薄い
そんな不気味な気配を漂わせる迷宮をアスナと二人慎重に進んでいく内に、今日何度目かのモンスターと遭遇した。光源に乏しいせいで肉眼による視界が心もとない。索敵スキルのおかげで不意打ちの心配がないのが幸いだ。出来ればモンスターとの遭遇戦は最小限に抑えたいのだが、狭い回廊内では易々と敵のいないルートを選ぶことも出来なかった。
愚痴を零している暇もなく、即座に臨戦態勢を整え、新たに湧き出したモンスターへと備える。隣に立つ細剣使いの存在が心強い。
低い唸り声を響かせて全貌を露わにした敵を凪いだ心持ちで観察する。奴の背丈は俺の倍はありそうな雄雄しい体躯をしていた。そして赤銅の肌は分厚い筋肉の鎧に覆われ、彫りの深い顔は鬼のそれだ。とんでもない握力を秘めていそうな拳には反りのある刀を握っている。
刀はその拵えからすると打ち刀なのだろうが、奴の巨躯のせいか野太刀を向けられているような気分になる。西洋の悪魔というよりも東洋の鬼そのままな印象のモンスターだった。モンスター名称に悪魔を冠しているものの、いっそ赤鬼とでも名付けてくれたほうがわかりやすい気がする。まあアルファベット表示で『Akaoni』とかされても失笑物か。
こいつはモンスター分類としては悪魔種に区分けされる。強大な膂力と巨体に似合わぬ敏捷性を秘めた怪物、攻守共にバランスの良い強敵だ。
剣を握り直し、地を蹴る。真っ先に俺が切り込んだことが戦闘開始の合図となった。
挨拶代わりとばかりに繰り出した俺の二刀が防御されるのも構わず、幾度かの連撃を浴びせかける。盾持ちのモンスターではないため攻撃成功判定も引き出しやすいのだが、その代わりというべきか、硬質な筋肉の鎧に相応しい防御力の高さがダメージを最小に留めている。面倒な、と舌打ちする思いで剣撃を続けた。細かなステップを刻み、反撃を封殺する勢いで剣閃を叩きつけていてもそれだけで押し切れるはずもなく、やがて反撃のソードスキルが俺へと襲いかかる。
三連撃のカタナスキル《緋扇》。
その全てを受けきるには体勢が悪いと早々に判断し、一撃目と二撃目をどうにか弾き落としてひとまず前衛を離脱。一気に後方へと飛び退いた俺を奴の太刀は捉えることが出来ず、三撃目は空を薙ぐ音を響かせるだけだった。
技後の一瞬を縫うようにして、そして後ろへと退く俺の離脱にわずかの狂いもなく合わせ、飛び込む疾走を見せた剣士が一人。無論、アスナである。彼女は俺が下がるのを予期していたかのように絶妙なタイミングで空中へとその身を躍らせると、突進の勢いを殺すことなく突きの嵐を見舞う。ソードスキルの燐光は細剣が敵の身体に叩き込まれる都度火花のように散り行き、合わせてモンスターのHPバーを大きく削り取った。
しかし古今東西『鬼』というのはタフだと相場が決まっているものだ。アスナの強烈な連続攻撃を受けていながら怯むことなく刀を振り下ろそうとする姿は、強靭な体力を十二分に伺わせるだけの迫力があった。技後硬直にあるアスナがその一撃を避けられる道理はない。故にその空隙をカバーするのは俺の役目だった。
一時離脱から間髪入れず間合いを詰める。アスナを狙った上段斬りは俺の下段からの切り上げによって相殺してしまう。その一瞬の隙で体勢を立て直したアスナが一歩引き、同時に鋭い掛け声が俺の耳に届く。
「キリト君、わたしが合わせるから終わらせよう!」
「了解!」
アスナへと返した俺の声に、どこか高揚の高鳴りが混じっていたのは自覚していた。未だにこの瞬間は胸にこみ上げるものがある。いい加減慣れるべきだとも思うんだけどな。
俺の二刀剣技が青の光を纏って真正面から鬼の胸へと叩きつけられる。その刹那、俺のソードスキルが支配する剣の空間に触れるか触れないかのギリギリの距離を保ち、隣でアスナのソードスキルが流星の煌きと共に突きこまれた。そこにタイムラグは一切なく、同時同着の剣撃が鬼の硬い体表を貫き致命のダメージを与えていたのだった。
断末魔の叫びが響き、次いでポリゴン結晶の欠片がばらまかれることで戦闘は終了した。俺もアスナも今しがた成功させた連携の妙技に確かな手ごたえを覚え、興奮からか互いに紅潮した頬を見合わせてハイタッチを一回。にんまりと笑みを交し合った。
通常二人以上のプレイヤーが一体のモンスターを相手に、同時にソードスキルを放つのは至極至難の技とされている。お互いの剣技の軌道が重なり合ってソードスキルを阻害してしまうためだ。ひどい場合は双方のソードスキルキャンセルという最悪の結果すら招く。だからこそ集団戦では前衛と後衛の入れ替えが重要となるのだった。つまりスイッチである。
一口にスイッチ行動と言っても、その応用範囲は広い。基本は前衛が単発で重めのソードスキルを放ち、敵に命中させて怯ませるなりガードさせてわずかの硬直時間を稼いで後衛と位置を入れ替えるのだが、どんな局面でも教科書通りの戦い方が出来るわけではない。前衛のHPが注意域に減らされたり状態異常にかかった場合、あるいは複数の敵を相手にしている場合も、悠長に前衛のソードスキルを待つわけにはいかないのだ。時々刻々と変化する戦況、ハプニングが当たり前の戦いの中で、適宜のタイミングを計って前衛と後衛の入れ替えを行わなければならなかった。
ソードアート・オンラインは剣を冠する世界だけに遠距離攻撃に乏しく、プレイヤーは常にショートレンジの間合いを迫られる。加えてモンスターがソードスキルを頻繁に繰り出す手合いだと、システムアシストに乗った高速の剣閃が極狭い空間で入り乱れることになるため、波状攻撃ならともかく包囲攻撃は難しい。ある程度の空間を確保できなければお互いの技が干渉しあって邪魔し合うという結果に終わってしまう。プレイヤー側がよっぽど連携に熟達していないと包囲して袋叩きという選択は取れないのだ。
無論、例外もある。狭い場所で入り乱れるから危険なわけであって、それをものともしない広い空間――フロアボスの座する広間ならば十分に包囲攻撃を仕掛けられる。というかフロアボスくらい巨大な相手、物理的な意味でダメージ判定範囲のでかいモンスターでもない限り、プレイヤー側が多対一で戦うのは推奨されていなかった。
アインクラッドで通常の集団戦と言えば、次々とスイッチする波状攻撃を指すか、槍のようなある程度離れた場所からソードスキルを仕掛ける遊撃手による連携、あるいは前衛が引きつけている間に他のメンバーが遊撃としてソードスキルを放ち、すぐさま前衛がタゲを取り直すことを指す。それが今日まで行われてきた戦いの中でプレイヤーが編み出してきた戦闘の鉄則、生き残る算段であり、常識だった。
恐るべきは《閃光》の戦闘センスか。アスナはプレイヤーに根付いた常識をついに打ち破ってみせた。
俺がアスナの何に感心したかと言えば、『システム的に不可能ではないが推奨されていない連携技能』を俺との間に成立させたことだ。俺の放つ剣技と干渉しあわない軌道を描く細剣スキルを的確に選択し、敵味方の激しい剣技の応酬の中で最適なタイミングを図って技を繰り出す。まさしく神業である。乱暴に言ってしまえば、一人と一人が交互に戦うアインクラッドの常識を塗り替え、二人同時に戦場に立つことを可能にしたのがアスナだった。
あまりに高水準すぎる連携技を彼女は習得し、確立させていた。
少なくとも今の俺にアスナ並のサポートは無理だ。この連携は俺が主となり、アスナが従となる形だからこそできる高等技能だった。……悔しいので負け惜しみを言っておくと、技能そのものを真似できないと言ってるわけじゃない。多分俺でも単発剣技に限定すれば使える。
ただし、戦闘の最中に百回やって百回成功させる自信はない。成功のおぼつかない不安定な技能に命を懸けるわけにはいかない、そういうことだ。そんな危なっかしいものを俺は技とは呼びたくないし、そこまでリスキーな戦い方は出来ないのである。だからこそ命懸けの戦闘の最中、恐れることなく戦術に組み入れるだけの錬度に達しているアスナに戦慄したのである。……うん、負け惜しみでしかない。
どうやってそんな高難易度技能を完成させたのか興味津々だった俺がその旨をアスナに問うと、実に意外な答えが返ってきた。
「何のためにキリト君を相手に何度も決闘してきたと思ってるの。君の癖や戦い方全部を学んで連携を深めるためよ」
そう事もなげに言われて絶句したものである。その飽くなき探究心というか脱帽するしかない志も然ることながら、そんな理屈で俺の戦闘時の呼吸を完璧に把握してしまうアスナの、その身に秘めた
実のところ、今までアスナが腕試しと称して何度も俺と決闘を繰り返してきたのは、アスナが単に負けず嫌いなせいかと思ってた。勘違いしててマジごめんなさい。敗者にはメシを奢る権利をあげようとか煽ってホントすいません。
ともあれ、アスナの活躍によってタイムラグなしの同時連携という強力な武器を手に入れた俺達は、適宜最適の戦闘行動を取ることで苦戦の一つもせず迷宮区を駆け回ることが出来ていたのだった。ここが最前線の迷宮区ということを考えればとんでもない快挙である。これほど心強い相棒と組んで戦闘を続けていると、ペアを解消した時が不安になるくらいだった。
アスナのことを以前から飛びぬけた戦闘センスの持ち主だとは思っていたが、久しぶりにしがらみもなくペアを組んだことで改めて実感させられた。冗談抜きでアスナの実力には舌を巻く。天才、秀才、そのどちらもがアスナを称すに相応しいものだ。才能だけでも努力だけでも到達できない領域に彼女は立っていた。
いや、喜ぶべきことではあるのだけど。それはそれで悩みも生まれるもので。同じギルド所属というわけでもないのに絶妙な呼吸で完璧にサポートして貰えるというのは望外の喜びだし、ここまでされてしまうと今度はアスナを血盟騎士団に返したくなくなってしまう。
このままペアを組み続けられないものだろうか? むしろ血盟騎士団から彼女を奪ってでも、と半ば本気で血盟騎士団副団長様の引き抜き算段を始めてしまう俺なのだった。
……冗談デスヨ?
「なかなかフロアボスに通じる大扉が見つからないね」
「そうだな、そろそろ発見されても良い頃なんだが」
安全エリアに辿り着き、その広い部屋の隅っこで仲良く壁に背を預けている俺とアスナは、気の抜けた様子で休憩兼雑談に花を咲かせていた。既に75層迷宮区の最上階まで来ているのだから、ボスに通じる大広間の発見も今日明日中には達成できるだろうとは思うものの、ここまで来たら俺達の手でマッピングを完成させたい。
もちろんこの場合、マッピングの完成と言っても迷宮区全てを網羅するわけではなく、あくまでフロアボスの間の位置を確定させ、討伐隊結成への道筋をつけることである。広大な迷宮区のマッピングを言葉通りの意味で完成させていたら攻略どころの話じゃない。時間がかかりすぎる。
「いよいよ最難関の75層フロアボス戦も間近なんだよね。……気が重いなあ。正直戦いたくない、ってわたしが言うのは良くないよね、やっぱり」
「ここには俺しかいないし、今くらいはいいんじゃないか? 特別に口止め料貰わなくても《閃光》様の弱音は黙っておいてやるよ」
「そこは素直に慰めてくれればいいのに、キリト君は意地悪だ。ふーんだ、そんなこと言う人にはお昼を分けてあげません。あーあ、折角の手作りなのになあ」
……ナンデスト。
「俺に死ねといいますか!?」
「そこまで言うこと!?」
血涙を流さんばかりの俺の剣幕にアスナが目をまん丸にしてびっくりしていたが、俺にとってはそこまでのことだった。
わかってない、アスナは自分がどれだけすごいことをしてるのか全く理解していない。料理スキル完全習得者が作る弁当という事実だけなら俺とてこうも嘆いたりはしないさ。でもな、アスナの料理は特別なんだ。言うなればオンリーワンなんだってことを知っておいてくれ。
アスナはその鋭敏な味覚を最大限生かし、プレイヤーの味覚再生エンジンに与えられるパラメータ数値を調味料毎に完全に解析した。その数、実に百種類以上。その上で、こっちの世界の調味料アイテムからマヨネーズやら醤油やらと同等の味を持たせたオリジナル調味料を作り出したのだからすごい。それらの調味料を駆使してアインクラッドでは絶対にお目にかかれない、懐かしい料理の数々を再現することに成功したのがアスナだ。その価値は計り知れない。どんだけ多才なんだよお前。
攻略の最前線に立ち続けた《閃光》が戦闘に全く関係ないスキルを所持するのみならず、日常スキルの熟練度を最高値にまで到達させていることが既に異常事態なのだった。いくら熟練度の上昇しやすいスキルだからと言っても、完全習得にまで達するというのは並大抵の努力ではない。その信じがたい事実を知った時に、思わず「アホじゃねえのお前」とつぶやいてしまい、青筋立てたアスナに笑顔で威圧されたなんてこともあったなぁ……。
いやさ、「君のせいでもあるんだからね」と言われて俺にどう反応しろと? 攻略に役立ちそうなスキル情報なら幾度かアスナに話したこともあるし、その有効性の範囲とか限界をお互いに検証したこともあるけど、日常スキルに関しちゃ俺は門外漢だぞ。誓ってアスナに料理スキルを薦めた覚えなんてない。そもそも俺が驚いていたのはアスナが料理スキルを取っていたことではなく、熟練度を最高値に到達させていたことだし。
多忙を極める血盟騎士団副団長が、どうやってそこまで料理スキルを研鑽する時間を確保できたのか疑問だった。情熱の一言で済ませるにはちと厳しいと思うんだ。
「もう、そんながっつかなくても、ちゃんとキリト君の分はあるから心配しないで。はい」
「サンキュー」
そんなこんなで必死でアスナのご機嫌伺いをした甲斐もあって、程なく俺の手には紙包みで保護されたアスナ手製の昼食が確保されていた。珠玉の一品の耐久値を間違っても削ってしまわないよう、殊更丁寧な手つきで紙包みを開いていく。現れたのは丸いパンをスライスし、その間に焼いた肉と野菜をふんだんに挟み込んだ手の平大のサンドイッチだった。ただしそれは見た目だけだ、味付けはアスナオリジナルの調味料によってあちらの世界の料理が再現されているはず。
まるで宝探しをしているような気分でわくわくと胸を弾ませ、両手で大きなサンドイッチをゆっくり口元に運ぶ。鼻孔をくすぐる胡椒のような香ばしい匂いが食欲を誘った。料理への期待値が最大になったところで、ついに俺はサンドイッチへとかぶりついたのだった。
がぶりと一口。そして口腔内に広がる味に感動を覚えた。
濃い目の味付け、甘辛いとろっとしたソース、なにより分厚い肉としゃきしゃきとしたレタス風の野菜に噛り付く懐かしの感触。
「美味い……」
うん、その一言で十分なんじゃなかろうか? 余計な修辞とかいらないって。食感まで含めてよくぞここまで再現したものだと感心してしまう、これは間違いなく俺が二年近く前まで頻繁に食べていたジャンクフードだった。というかアスナさん、君はなんだってファーストフード系列の味付けまで再現できるのでしょうか? 家庭料理とは別物だぞ、これ。
「ふふ、毎回同じこと言ってるよキリト君」
「毎回美味いものを出すアスナが悪いんだ」
「うわー、ひどい褒め言葉を貰った気がする」
そんな風に感動と戦慄を同時に味わっていた俺を眺め、アスナはくすくすと楽しげに笑みを浮かべていた。そして懐かしの味を最後の一口まで存分に噛み締めて深い充足感を覚えていた俺に、絶妙なタイミングで冷たいお茶まで差し出してくる。
アスナは世話焼きかつ気遣い上手で、こういうのを育ちが良いっていうのかもな。とにかく視野が広くて、色々なことに気が回るやつだった。これはもう俺もアスナのファンクラブに入るしかないな。噂で聞いたことがあるだけで本当に存在するのか、あったとしても誰が仕切ってるのかとか全く知らないけど。
「なあアスナ、ちょっと頼みがあるんだけど」
「残念だけどお代わりはないよ? 用意しておいたお弁当は今のでおしまい。んー、迷宮区に潜り続けて今日で三日目だし、そろそろ一度街に戻ろっか。出来れば今日中にフロアボスのフロアは発見しておきたいね」
「そうだな、夕方まで探索しても見つからなければ一旦引き上げることにしよう。……って、そうじゃなくて、いや、それも大事ではあるんだけど」
「あれ、違った?」
「違ってはいないけど、俺が言いたいのはむしろ前半の方」
「ご飯のこと? そんなにお腹空いてるなら何か作ってあげてもいいけど、いくらスキルコンプしてたって迷宮区の中じゃたいした料理は作れないわよ?」
何だか俺が腹ペコキャラにカテゴライズされてるような気がするが、スルーだスルー。貧しい食生活を送ってきたことは否定しないけど食欲そのものは人並だと思う。だから別にアスナの用意してくれた昼食で足りなかったわけではない。
それに料理スキルには器具やら食材が必須で、準備もなしに大掛かりな料理が出来るわけではないことも承知している。この場でアスナに無茶を言う気はなかった。だから俺がアスナに頼みたいことは――。
「アスナ……」
「な、なに……?」
がしっと彼女の肩に手を置き、これ以上ないほどの真剣な表情を作ってアスナの瞳を覗き込む。……うわ、アスナの肩細いな。というかノースリーブの騎士服から露出してる肩口は寒くないのだろうか。色っぽいけど。
いやいや、違うだろ。そんなことに感心していてどうする。
俺の緊張が感染したのか、アスナはわずかに身体を強張らせ、どこか上擦った調子の声音をしていた。そんなアスナに畳み掛けるように俺は重々しく口を開き、告げる。
「明日からも俺に弁当を作ってくれ。つーかペアを解消した後も頼む。礼は必ずするから」
「あ、あのね……」
がくりとアスナの頭が垂れ下がり、頭痛を堪えるように額に手をやってしまった。そんなに呆れるようなことか?
「なんで君はそこまで真剣な顔をして、そんなどーでもいいことを迫力満点で言うのよ。一体何事かと身構えたわたしが馬鹿みたいじゃない」
「そうは言うけど、俺のモチベのためには割と死活問題だぞ。アスナは俺を餌付けした責任を取るべきだと思うんだ」
具体的にはここ十日ほどの間俺の食生活を豪華にして、俺の舌をとんでもなく肥えさせた責任だな。アスナの料理に慣れたらNPC経営のレストラン料理すら味気なくて食えなくなるぞ。まして俺の主食だった携帯食料なんて比べる土俵にすら上げてもらえない。
「餌付けって、あのねえ……。それに責任って、普通女の子が男の子に迫るものじゃない?」
「それは前時代的ってことで廃止にしよう。もしくは男女平等ってことでよろしく」
「よろしくじゃないわよもう。別にお弁当くらい気が向いたら作ってあげなくもないけど……ちなみに、キリト君はわたしにどんなお礼をしてくれるつもりだったの?」
お、アスナも冗談に付き合う気になったらしい。まあアスナの料理が惜しいっていうのは本当だけど。冗談抜きでアスナの料理を三食欠かさず食べられる生活とか憧れるぞ。多忙なアスナにそんな無茶言えないし、そもそもそこまで図々しくもなれないけどさ。
「まずはレアアイテムが鉄板か? コルでもいいならそれなりに。あ、それともフロアボスの首とかのほうがいいか?」
「こらこら、料理の対価にそんなの要求しちゃったらわたしがすごい悪女みたいじゃない。大体、フロアボスの首とか二重の意味で駄目に決まってるでしょ。女の子にプレゼントするには血生臭すぎるし、わたしはキリト君がフロアボスにソロで挑むなんてもう許す気はないわよ?」
「心配するな、俺もこれ以上フロアボスにソロで挑む気はないから。結晶無効化空間の可能性を考えるとソロはきつすぎるしな」
それならいいけど、と不承不承頷くアスナだ。
ただ、できればソロ偵察は続けたいというのが俺の本心に違いなかった。危険が膨れ上がることは否めないが、74層クラスの難易度ならまだやりようはある。罠の可能性を見据えるに、そこまでリスクを負う価値があるかと言えば首を傾げるしかないわけだけど。毎回74層フロアボス戦クラスの綱渡りを続けてたら、どこかで不慮の事故を起こしてお陀仏になりかねない。
結晶無効化空間でさえなければなあ、と心中溜息を一つ。転移結晶に限った話でもない。ポーションと回復結晶を比較すると、回復結晶が真価を発揮するのはレベルが100を越えて以降である。だというのにこの後のボス戦全てが結晶無効化空間ってのもゲームバランス的にどうよ、と突っ込みたいところだ。とはいえその程度の推測でフロアボス相手にソロ突撃するわけにもいかないし、当分は先遣隊頼りになる事情は変わらない。
そんな内心などおくびにも出さず、しばしの間物思いに沈んだ。
75層を攻略して以降の攻略スタイルもある程度は考えておく必要がある。どこかのギルドに身を寄せるのが現状一番手っ取り早いんだけど、どの段階で入団の意思を明らかにするかがまず問題だろう。その前に入団先の選定も必要なんだけど。
ギルドを一から作るのは手間だし、今の段階で俺がメンバー募集してもわざわざ所属ギルドを変えてまで入団してくれるとは思えないしな。職人プレイヤーの確保も併せるとどうしたって時間がかかりすぎる。攻略の助けになるとは思えない。
効率を求めて攻略を推し進めるならやっぱり血盟騎士団、聖竜連合、風林火山が最有力だ。それらのどこかに頭を下げて入団するべきだった。
「そういえばクラディールの奴はどうなったんだ? 謹慎は解けてるんだろ?」
この前の決闘の件もあるし、血盟騎士団に入団するに当たって最大級の爆弾が奴だった。そのため、良い機会だからとアスナに奴の消息を尋ねることにする。前回街に戻った時にも、アスナはギルドに攻略進度の報告も含めて顔を出していたはずだから、ある程度の情報は持っているはずだ。
「わたしが命じた分はね。あの後、団長が改めてクラディールに罰則を下して、今は観察処分に落ち着いてるみたい。ゴドフリーが監督役としてクラディールに付いてるって話だったけど」
監督役? しばらくは監視付きってことか。
えーっと、ゴドフリー、ゴドフリー、っと。脳内で検索しているとすぐに該当者が浮かんだ。あいつか、もじゃもじゃの巻き毛をした大男。
その大柄な体躯に似つかわしい
ただ、俺のような人見知りタイプと馬が合うかどうかは微妙な男だ。というかあまり好かれていなかったような?
「大丈夫なのか? 確かゴドフリーって俺を嫌ってた気がするんだけど。クラディールと組み合わせて良からぬ方向に事態が転ぶとか嫌だぞ?」
「事の軽重は弁える人だから心配いらないわよ? 完全決着モードで決闘を仕掛けたクラディールを簡単に許しちゃうことなんて絶対ないし。それにゴドフリーはキリト君の力を認めてるもの。《黒の剣士》は攻略に必要なプレイヤーだって判断が先立つはずだから、クラディールに何か言われても一顧だにしないでしょうね」
「へえ……」
と、口では納得した素振りを見せても表情でそれを裏切っている俺を見て、アスナが苦笑いを浮かべた。むう、まずいな、最近アスナの前で感情を素直に出しすぎている気がする。それでなくてもアスナは俺の表情を読むのが上手いんだから、このままだと彼女の前では何もかもが筒抜けになってしまうのではないだろうか。
そんな風に密かに戦慄していた俺にアスナは詳細な事情を語ってくれた。
「ゴドフリーはキリト君を嫌ってるわけじゃなくて、わだかまりを捨てきれてないのよ。以前の57層フロアボス戦を覚えてる? あの戦いでうちの団員から戦死者が出たのは、キリト君が聖竜連合の団員を優先して庇ったせいだって言ってね」
「……あの時のことか。別に聖竜連合を優先したわけじゃないんだけど。……いや、言い訳だな」
血盟騎士団の前衛メンバーと同じく聖竜連合の前衛壁戦士が後衛と分断され、取り残された。その時俺は単純にHPに余裕のなかった聖竜連合の前衛を庇い――そこで血盟騎士団の前衛戦士が判断を誤って、スイッチを待たずに距離を置こうとボスに背を向けてしまった。その隙をつかれて背中に一撃を受けたことで動きを止められ、そこに強攻撃の一撃を貰ってしまったのだ。結局、救援の手は間に合わずHPバーを吹き飛ばされてしまった。
迫る死の恐怖にパニックになったのか、それともボスの射程から迅速に逃げ切る自信があったのかはわからない。あるいは俺が視界に割って入ったせいでスイッチのタイミングを早とちりしたのか。どんな理由で判断を誤ったのかの答えは本人が墓に持っていってしまったし、どれだけ推測を重ねたところで彼の命は戻ってこないのだから明らかにする意味もなかった。
人事は尽くした。その結果、一人は救えた、一人は救えなかった。
それがフロアボス戦で珍しいことではなくとも、その事実がつらいことには変わりない。
「いいえ、言い訳なんかじゃないわ。ゴドフリーもわかってるのよ、キリト君を責めるのは責任転嫁でしかないって。けど簡単に割り切れることじゃないから、結果としてキリト君にきつく当たってしまってるだけ。……君は強いから、強すぎるから、その分期待がどんどん大きくなっちゃってるのね。八つ当たりでしかないのは本人が一番良くわかってるわ」
痛ましげに、そして申し訳なさげに告げるアスナに気にするなと一度首を振ってから、軽く息をついて頭上を仰いだ。
「ままならないもんだよな」
「ほんとにね」
この世界で生きていれば、そして攻略組に身を置いていれば、人の死は不可避のものだった。しかし避けられないと言っても、その痛苦に慣れることはない。フロアボス戦くらいでしか顔を合わせることのない、顔見知り程度の相手の死でさえ胸にじくじくとした痛みを生じさせるのだ。それが親しい相手なり、己の部下だったなりすればその悲哀は俺の比じゃないだろう。割り切れないというのも無理はない。そもそも割り切ることが正しいのかどうかさえわからなかった。
血盟騎士団はギルドの建物内部にギルド員から出てしまった戦死者を弔う菩提を祀っていると聞くけど、大抵のギルドで似たようなことをしているんだろう。死者の弔いは同時に生者への慰めでもある。死者を忘れるべきじゃない、けれど同時に、戦友の死を引き摺るべきではないという、そんな切実な戒めが込められているのかもしれない。
しばらくの間、俺とアスナの間に会話はなかったが、やがてアスナが「そういえば」と口にすることで沈黙を終わらせた。
「この前、キリト君はクラディールとの決闘で二刀流を使わなかったよね。あの時キリト君が言ってた約束した相手ってリズでしょ? どんな約束をしたのか気になるなあ、わたし」
重苦しくなった空気を払拭しようとでもしたのか、アスナは殊更明るい声でそんな話題を振ってきたのだった。アスナの気遣いは有り難いんだけど、その話題のチョイスは勘弁な。
「ノーコメントで」
「むぅ、そう言われると余計に知りたくなる」
普段は澄ました顔ばかりで中々隙を見せないアスナが、今は子供のように唇を尖らせていた。そんなアスナの仕草に思わず笑みが漏れてしまう。
「リズの許可を取ってきたら話してやるよ。それまでは駄目だ」
「なんだかリズにも同じこと言われそう。すっかり仲良くなっちゃったね、リズとキリト君」
「共通の話題があるからな。誰かさんの話題は毎回盛り上がるんだ」
「……よし、わたしもリズとお話する時はキリト君の話題で盛り上がろう」
「おっと、やぶ蛇だったか」
そんな軽口を叩き合い笑い合った。ここが迷宮区の中だと思えば暢気なものである。いや、迷宮区の中だからこそこうした余裕は有り難いものだろう。そんなことを考えていると、不意にアスナが何かを思いついたように小首を傾げた。
「それにしても二刀流、かあ……」
「どうした?」
「うん、たいしたことじゃないんだけどね。キリト君と団長がぶつかり合ったらどっちが勝つかなって考えてたの」
《聖騎士》対《黒の剣士》。その行方は如何なる結末を迎えるのか。
それは今に始まった疑問でもなかった。アスナが口にするのを聞くのは初めてだったが、もう一年近く前から似たような話題はそこかしこでされてきたものだ。同じ《ユニークスキル》と目される希少スキルだけに耳目を集めやすかったのだろう。俺とヒースクリフの激突に野次馬染みた期待が集まることは避けられなかったのかもしれない。
ただなあ……俺としてはあんまり答えたい質問でもないんだよ。《二刀流》と《神聖剣》のスキル性能に限ったぶつかり合いなら互角だ、と言えるんだけどさ。
「アスナはどう思ってるんだ? ちなみに世間での評価だと互角ってことらしい」
集団戦での指揮とか含む総合力ではヒースクリフが上、一対一の個人戦闘に限っては甲乙付け難いってのが一番有力な説らしかった。情報源は当然アルゴだ。アスナは俺の問いにわずかばかり考え込んだ後、やや自信なさ気に答えた。
「……四対六で団長の有利、かな? ちょっとキリト君に甘い判定になってる気もするけど」
「概ね正解。十の内三つまでなら俺が取れる。四つ取れるかどうかはその時の調子と運次第。五分五分まで持ち込むのは無理だろうなあ……。付け加えるならその勝率は初撃決着モードでのものだかんな、半減決着モードだと十やって二つ取れれば御の字ってところまで俺の勝率は落ちる」
完全決着モードは想定の意味がないから割愛するけど、まあ、お察しということで。
つくづく化け物だよあいつ。レベルは俺のほうが上のはずなのに、どうにも勝てるビジョンが浮かばない。短期決戦で攻め切れれば俺が一矢報いる、その程度の勝率しか確保できないんだから。
その勝率にしたところで、今現在のヒースクリフを全力と想定した上での話だ。50層のクォーターボスを相手にした時ですら注意域にHPを落とさなかった男だけに、正直俺には未だヒースクリフの底が見えなかった。戦闘に限っても悠々と俺の上をいく男。加えて単なる戦闘巧者で片付けられない、指導者としての非凡な才覚すらヒースクリフは持ち合わせているのだから、あれほど多才な男も珍しい。75層のフロアボス戦を思えば頼もしい限りである。
「何ていうか、キリト君ってそういうとこ妙にあっさりしてるよね。簡単に自分の方が弱いとか言っちゃうんだから」
「おいおい、比較対象はおたくの大将なんだから喜んでおけよ。そりゃ俺だって悔しいとは思うけど、ヒースクリフが俺より強くても困ることはないんだから、必要以上に対抗意識を燃やしても仕方ないだろ。むしろあいつが強ければ強いほど俺が楽出来るから大歓迎だ」
どことなく不満げなアスナの様子にどう答えるべきかと一瞬悩み、結局当たり障りのない返答を口にした俺だった。
「そうなんだけどね。ちょっと複雑」
「そんなもんか?」
別にいいと思うんだけどな、俺が誰に負けてもさ。この前のクラディールとの決闘だって俺の負けで終わってるんだし、元々無敗伝説を築いているわけでもない。アスナのやつ、俺相手の決闘で白星がないことでも気にしてるのか?
アスナの不満の正体はともかくとして、ヒースクリフの底が見えないのは攻略組の一員としては素直に喜ばしいことだった。ヒースクリフの実力が高いほどフロアボス戦での戦死者も減るんだ、どうせなら奴一人で全てのボスを狩ってくれないかな、とかちょっとだけ思うこともあるけど。
もしくは攻略組の壁戦士全員に神聖剣が発現するとかしてくれたらと思う。二刀流よりは断然神聖剣が欲しい。ヒースクリフほど上手く扱えるプレイヤーはいないだろうが、神聖剣スキルが付与してくれる固さは生存率という意味ではピカ一である。盾持ちプレイヤー全員に持っていてもらいたいスキルだった。
で、アタッカーには二刀流並の火力を付与してくれるエクストラスキルが欲しい。そこまで戦力が充実できればクォーターボスとだって恐れることなく戦えるようになるはずだ。
神聖剣と二刀流がせめてエクストラスキルであることを願っちゃいるんだが、既に発見から一年が経とうとする今になっても使い手が一人ずつしかいないんじゃ望み薄だった。ユニークスキルの可能性が濃厚である。そもそも発現条件すらわかってないスキルだしなあ……。
まあ高望みをしてもしょうがないか。現有戦力でどうにか遣り繰りしなきゃならないのは今に始まったことでもないのだ。馬鹿な妄想はこれくらいにして、そろそろ気合を入れるとしますかね。
「さて、と。昼食タイムは終わりにして、そろそろ攻略に戻るとしようか。できれば今日中に探索を終わらせたいもんな」
「ん、わかった。キリト君の負担が大きくなるけど、前衛は任せるね」
「ソロよりは格段に楽だから心配すんな。むしろアスナの神業サポートのほうが神経使いそうなもんだけど、大丈夫なのか?」
やっぱり正式呼称がないと不便だ、《同時連携》ってことで売り出すかアスナに相談してみようか?
「パーティーメンバーが増えたりで戦場が複雑化すると使えないし、神業なんて言われるほどのものじゃないよ? 確実に合わせられるのは単発剣技だけだしね。頑張っても精々三連撃スキルまでで精一杯。それ以上の大技と連携するのはまだ無理よ」
「いや、十分アスナがやってることは規格外なんだけど……」
現時点でも相当な戦力アップにつながってるし、これで上級剣技の連携まで可能になった日には空恐ろしいことになる。連撃の数が増えれば増えるほど難易度はぐっと増していくから、多分四連撃スキルくらいまでが限度だろうけど。
「規格外の権化みたいなキリト君に言われてもなあ」
そんな失礼なことを零すアスナにでこぴんでもしてやろうかと思いながら、第75層迷宮区タワー最上階エリアの未踏破エリアを早々に埋めてやろうと気合を入れ直したのだった。
血盟騎士団副団長《閃光》アスナ。
細剣使いとしては間違いなくアインクラッド最高の使い手で、個人戦闘能力に限っても攻略組プレイヤーの中で五指に入る。規格外スキル保有者である俺とヒースクリフを除けば、あるいは頂点に立ちかねない強さの持ち主だった。その上で集団戦の指揮を如才なくこなす戦術眼と指揮能力を持ち合わせ、多数の部下を纏め上げる手腕も健在、となると欠点らしい欠点が見当たらない少女だ。
強いていえば、自分がどれだけ凄いことをしているのかいまいち自覚に乏しいところか。俺の褒め言葉を受けても謙遜してるわけじゃなく、素で大したことじゃないと判断しているところが天才肌の証明なのかもしれない。これだから努力する天才って奴は本当に手に負えない。命の懸かった世界だけに頼もしい限りだった。
彼女はこのソードアート・オンライン開始当初から最前線に立ち続け、それは今もなお継続している。その姿勢は一貫して《プレイヤーが一丸となって攻略を目指す》こと。そのために攻略組内部を纏め上げようと奔走し続けてきたからこそ、《閃光》の名は攻略組の中で最上級の尊敬を勝ち得ているのだった。
それは攻略組に限った話でもない。およそアインクラッドで《閃光》の名を知らない者はいないとされるほど、その名は憧憬と崇拝の対象でもあった。この世界にプレイヤーが閉じ込められておよそ二年。それだけの期間、ずっと《プレイヤー開放》のために最前線で戦い続けたプレイヤーを厭うような人間こそ稀だろう。
――俺だって。
折れず、曲がらず、一途に攻略を主導する姿を尊敬せずにはいられなかった。襲い来る苦難に一度たりとも怯むことはなく、《この世界には負けたくない》と一点の曇りなき信念を抱き、その矜持を傷つけることなく戦い続けた稀有なる細剣使いに憧れないはずがなかった。あるいは俺ほど彼女を眩しく思っていたプレイヤーもいないんじゃなかろうか。
だからこそ俺は誰よりも血盟騎士団に敬意を払ってきた。彼女が範となった高潔な騎士たる姿。ただひたすらに前を見据え、アインクラッドの希望として揺るぎなく立つ様には脱帽するしかなかった。……幻想を、抱かずにはいられなかったのである。俺にとっての触れ得ざる者、神聖不可侵たる輝きを放つ少女として。
だから。
彼女を敬っていた。彼女を頼りにしていた。そして、彼女に甘えていた。
俺は彼女に甘え続けていたのだと、今、この時になってようやく理解した。思い知らされることになった。突然に響く女性の叫びを契機にして。
食後の休憩から数時間後。幾度かの戦闘を挟んで、再びモンスターが俺達の行く手を阻んだ――瞬間、突然に響き渡ったアスナの絹を裂くような悲鳴を、俺は最初誰が発したものだったのか判断することが出来なかった。
「いや……! 来ないで! こっちに来ないでよっ!」
常は気丈な態度を崩すことのないアスナの表情は青褪め、恐怖の色が色濃く浮かび上がり、桜色の唇を戦慄くように痙攣させていた。歴戦の戦士として堂に入った構えはその面影なく腰が引けていて、威嚇のつもりなのか敵に向けた細剣《ランベントライト》は、怯えを示しているのか小刻みな震えを隠せていなかった。
相棒の豹変を青天の霹靂として俺は一瞬呆然の体を晒したものの、今は戦闘の真っ最中だと己に言い聞かせて精神の再構築を果たす。俺までパニックになっていても仕方ない。
眼前には不定形の白いもやとしか言えないモンスターが座していた。ぼんやりと人型の輪郭こそ保っているものの、確とした形を定めることはなく、風にそよぐ布のように時々刻々と自らの身体をゆらゆらと揺らしていた。人型という形こそ異なるが、イメージとしては妖怪《一反木綿》の奔放さにも似た動きだ。75層の迷宮区は《暗視》スキルなしでは探索が難しいくらい光源に乏しいから、その分お化けとか妖怪のようなイメージを抱きやすいのかもしれない。
アストラル系列に位置するモンスター種。
その特徴は索敵スキルに引っかかりづらく、
その分斬撃属性や貫通属性を持つ剣や槍の攻撃に補正がつくため、俺の片手直剣やアスナの細剣ならば互角以上に戦える属性持ちだ。それに俺もアスナも索敵スキルは鍛え上げているから先制攻撃を取られることもなかった、特に苦戦するような敵でもない。それ故に、奴を目にした途端アスナが恐慌状態に突入した理由がわからなかった。
「アスナ! 落ち着け!」
「あ、キリトくん……」
「どうしたんだよ、お前らしくもない」
目の光は翳り、強張り動揺した表情は恐怖に引き攣っている。戦闘に集中する以前の問題だ、こんな状態のアスナを見るのは初めてだった。
「――だめ、だめだよ、こんなのだめ……だめなんだから……!」
「お、おい、待てアスナ!」
俺の檄を受けて一瞬アスナが正気づいたようにも見えたが、残念ながら彼女の混乱は継続していた。というより俺の顔を見てさらに悪化したのか、青褪めた顔にくっきりと恐怖が浮かび、俯き気味に独り言を繰り返す始末だ。そうしてそのまま俺の制止を振り切り、地を蹴って突撃を敢行した。
その突進の鋭さは流石《閃光》と言えるものだったが、彼女が正気を失っているのは明らかだ。何の技巧も凝らさず真正面から飛び込み、そのまま工夫の一つもなくソードスキルを放とうとするなど、常のアスナの沈着な戦いぶりからはとても信じられるものではない。
アスナとて70層を越えてモンスターのアルゴリズムに変化が現れてきているのは承知していたはずだ、いくら速くともそんな初心者のような考えなしの戦い方が通用するはずがないということも。
――この……馬鹿ッ!
予想に違わずカウンターの痛打を浴びせかけられ、アスナはその衝撃に弾き飛ばされた。俺は内心悪態をつきながら吹き飛ばされたアスナをどうにか受け止め、敵との距離を離そうと一旦アスナを胸に抱えたまま後方に飛び退いた。その間アスナはぐったりと俺に身を預けているだけでぴくりとも動かない。素早くアスナの状態を確認すると、特に状態異常にかかっているというわけでもなかった。となると動けないのは精神的な不調が原因か。アスナのやつ、一体どうしたって言うんだ?
アスナは攻略組でも最上位クラスのレベルを誇るし、装備だって同様である。故にアスナの被ったダメージは大きくない。それでも回復結晶を取り出してアスナのHPを全快させたのは、今のアスナの不安定さに嫌な予感を覚えたためだ。万一の不安が脳裏に過ぎってしまうほど、混乱したアスナの様子は尋常なものではなかった。
「いいかアスナ、まずは深呼吸しろ。それから今の無謀な行動の理由を手短に話せ。それが出来ないのなら今すぐ転移結晶で離脱しろ」
白いもやから視線を外すことなく、矢継ぎ早に告げてしまう。ここが安全圏であったなら幾らでもアスナを慰めよう、時間をかけて彼女が落ち着くのを待ち、ゆっくりと理由を尋ねることだってしよう。しかしここは戦場だ。一瞬の判断ミスが死につながる、俺たち攻略組が親しみ恐れる未知の迷宮区。そんな場所で悠長にアスナの復調を待ってもいられなかった。
「わたし、お化けが大の苦手なの。それが理由で65層と66層の古城迷宮は、団長に無理言って攻略シフトから外してもらったくらい……」
無謀に突撃して痛撃をくらった衝撃によるものか、はたまた俺に回復結晶を使わせた申し訳なさによるものか、意気消沈したアスナがぽつりぽつりと口にする。その様子に俺は無言で聞き入っていた。しかし、お化けが苦手とはまた意外な事実が出てきたな。
65層と66層はホラー系フロアとして有名な階層だ。レイスやバンシーのようなアストラル系モンスターが跳梁跋扈する、お化け屋敷を彷彿させる場所である。確かあの時は珍しくヒースクリフが迷宮区攻略に積極的で、逆にアスナはレベリング責任者として団員を率いて別の狩場に篭っていたはずだ。妙なこともあるものだと首を傾げていたのだが、なるほど、そんな裏事情があったのか。
「アスナがアストラル系モンスターを苦手にしてるのはわかった。けど、それは敵に突っ込んだ理由にはならないよな?」
お化けが苦手だというのなら震えて縮こまる方が自然だ。やぶれかぶれに突進するよりは怯えて逃げてしまうほうが有り得そうなものである。むしろアスナがそうした事情を抱えているのなら、転移で避難しないにしろ後ろに下がってもらったほうが有り難かった。
生理的な苦手意識なんてそうそう払拭できるものじゃない。後は適材適所として俺に全て任せてくれれば良いし、その程度で文句を言うような間柄でもなかった。それはアスナだってわかってるはずだろうに、どうしてあんな真似をしたんだ?
「……わたしは、君の前では無様を晒せない」
唇を噛み締め、身を切るように重々しく喉から声を搾り出したアスナの、しかしその真意が俺にはわからなかった。いや、アスナが人に弱みを見せようとしない女だということはわかってる。加えて負けず嫌いの少女だということも。逆に言えばその程度にしか俺はアスナの気持ちがわかっていないということだ。だからと言って、それが先の行動を肯定するかどうかは別問題だったが。
「わかった、素直に答えたくないというのならそれでもいい。とりあえず今日のところは――」
転移結晶使って街に戻れ、明日以降の攻略については改めて話し合おう、そう続けようとした。何をそこまでこだわっているのかはわからないが、今のアスナは不安定極まりない。この状態で戦場に立たせるなんてことはしたくないし、ひとまず離脱させるべきだろう。そんな俺の思惑を凍りつかせるように、アスナの涙の混じった慟哭が薄暗い迷宮区フロアの空気を鋭く切り裂き、反響したのだった。
「――わたしはッ! 君だけには昔のわたし――情けないわたしを見せちゃいけないの! キリト君に負けない、キリト君が誇ることのできる立派な剣士で在り続けたいのよ!」
「ア、アスナ?」
いつになく激情を露わにする細剣使いをまじまじと見つめ、呆然と声を漏らすしかない俺に、アスナは嗚咽をこらえるように続けた。
「《誰よりも強くなれる》って言ってくれた、あの日の君の言葉だけは裏切れない。裏切りたくないの。二年間わたしを支え続けてくれた大事な言葉を、今更嘘になんてできない……!」
哀切極まりない涙声を耳にして、我知らず息を呑む。
切羽詰ったような、余裕のないその叫び。俺の言葉を守れないのは嫌だと涙を零す少女を、あるいはここが戦場だということを忘れて呆然と見つめてしまった。目を見開き、身体は硬直する。それは今この瞬間、時が止まってしまったかのようだった。
第一層フロアボス攻略戦。
随分と昔のことだ。俺達がこの世界に閉じ込められてから一ヶ月足らずで臨んだ、最初のフロアボスとの戦い。
ボスを前にしてのプレイヤーの裏切りと、その果てに俺が犯したPK。そしてオレンジに染まった俺のカーソル。痛みを噛み締めざるを得ない苦い記憶が脳裏を過ぎる。そして俺がアスナへと告げた言葉もまた、生々しく蘇り、反響した。
――君は強くなる。きっと、誰よりも強くなれる。
およそ二年の歳月を挟んで思い出させられたその言葉は、かつて俺自身がアスナへと告げた――贈ったものだ。自身の命を見切り、自暴自棄一歩手前の中で口にした言葉でもある。このゲームをクリアするために俺が利用しようとしてしまった才知溢れる少女に、せめて一片の懺悔を請おうとし、この世界を生き抜いてもらう一助を残そうとした。
あれは俺の優しさではなかった。そんな綺麗なものじゃない。彼女に対する後ろめたさと、先の見えなくなった真っ暗な心境と、あとは……あとはなんだったんだろうな。多分、アスナを案じることよりも俺の気持ちを優先したものでしかなかった。
だからこそだったのだろうか。だからこそ俺の言葉は彼女の中で変容し、その心の奥底に燻り続けた。抜けない棘となって、長い間彼女を苛み続ける結果を招いてしまった。
「アスナ、君は……」
「……ごめん、ごめんね。駄目、頭の中がぐちゃぐちゃで何もわかんないよ。わたし、急に何言ってるんだろう……」
潤んだアスナの瞳から頬へと涙が伝う。
冗談じゃ……ないんだよな? まさか、とも思う。だが――俺がアスナの生き方を決定付けてしまった? いつか俺の口にした言葉が、アスナにこのアインクラッドという世界で最も過酷な生き方を選ばせてしまったのだろうか。死を隣人として受け入れる無慈悲な戦場に赴き、血反吐を吐くように歯をくいしばって最前線に立ち続け、攻略組の範として先頭に立つ《閃光》としての役割を、俺こそがアスナに強いた?
だとしたら、それはもう《呪い》と変わらない。俺がアスナに遺してしまった、二年越しの呪縛。黒々と染まる、身勝手な押し付けでしかなかった。あの日、俺が《人殺し》という呪詛を贈られていたように、俺自身もアスナに消えない呪いを贈りつけてしまったことを今更に思い知る。
そうしていながら、その後も俺は真っ直ぐに立つ彼女の姿に憧れ、触れ得ざる輝かしいものを見る目をずっとアスナに向けてきた。羨望とも憧憬とも知れぬそれをアスナに送り続け、アスナはそんな俺の無責任な期待に応え続けてきた――《閃光》の仮面を自らに課して。
あたかも俺の理想そのままに。あたかも俺の願いそのままに。
血盟騎士団の副団長は、《閃光》は、アスナはそうやって長い間戦い続けてきた。俺の言葉を支えに、強くあれと自らに言い聞かせて。
それが故にアスナは恐怖に駆られながらも逃げることが出来なかったのか。戦うことのできない苦手なアストラル系モンスターを相手に、アスナは後退の二文字をついに選ぶことが出来なかった。ただただ俺の前では無様を晒せない、その一念によって。
俺は自身がずっと正しい道を歩んできたなどとはこれっぽっちも思っていない。それどころか俺は間違った道を選択し続けてきたのだと考えていた。失敗ばかりで正解を掴み取れない自分自身をひどく情けなく思ったこともある。
ようやく、本当にようやくだ。幾つも間違いを犯してきて、惑いながらも俺はそこに意味が欲しいと足掻けるようになった。つらいことからただ逃げるだけではなく、その全てが未来に繋がる何かであってほしいのだと切望するようになった。
それでもこうして自分がとんでもない選択をしてしまったのだと思い知らされるのは、後悔や悲哀よりも先に虚脱と諦観が先立つ。奇妙な空白が思考を埋め、溜息しか出ないような重苦しい気持ちを抱えながら――無造作に俺の剣が暴風の唸りをあげて振るわれる。リズ謹製の魔剣が残す翡翠の太刀筋によって、俺達に接近と攻撃を試みたアスナ曰くのお化けモンスターが勢い良く弾き飛ばされた。それは多分、アスナを傷つけてくれた分の怒りも乗せて振るわれた一撃だったのだろう。
……空気読めよお前。俺とアスナが大事な話をしてんだ、モンスター風情が邪魔をするんじゃない。
そんな八つ当たりめいた思いを抱きながら、もう一度アスナに目を落とした。俺の腕の中で弱弱しく震える様には《閃光》の面影なんて何処にもなかった。それこそお化け屋敷のアトラクションに涙を浮かべる女学生かなにかだろう。……それも、正確ではないんだろうけど。
今の彼女の涙は恐怖に由来するものではなく、彼女の言葉を借りれば俺の前で無様を晒す自己嫌悪と自己否定によるものなのだ。己に課してきた誓いを守れなかった悲哀と、それを上回る情けなさに、こみあげる感情を抑えきれていないのだろう。
あるいは、この世界に閉じ込められた当初、宿屋に閉じこもって塞ぎ込んでいたのだという彼女自身の過去に戻っていたのかもしれない。不屈の闘志をその身に宿す前の、等身大であるアスナの心。当たり前に青春を謳歌していただけの、特別でもなんでもない少女の姿。
俺が《黒の剣士》でも《キリト》でもなく、その根幹に桐ヶ谷和人があるように、俺は今、役割演技の仮面を剥ぎ取った先にあるアスナの素顔を垣間見ているのかもしれない。――脆弱な心を抱えた、一人の女の子。
アスナの頑なさは俺の撒いた種だ。俺がアスナを追い立ててきた。だったら、せめて間違った養分で咲き誇ってしまった花を刈り取るくらいはしてやらなきゃいけない。心中固く決意し、力なく俺に身を預ける彼女をどうにか促して立ち上がった。
「アスナ、左手出せ」
「キリト君?」
「いいから」
「う、うん」
エリュシデータは既に鞘の中だ。だから俺は空いた右手をアスナの左手と繋ぎ合わせ、左手にダークリパルサーを構えることで戦闘再開の合図とした。
「
「でも、これじゃキリト君が二刀流剣技を使えないよ?」
「片手直剣スキルはスキルスロットにセットされてるから問題ない。不足分はアスナ、君が埋めるんだ。いいか、今この戦場で俺の背中を守るパートナーはアスナなんだ。アスナだけが俺の力不足を補える。俺の命を守れる。……これから一度だけ、反撃を仕掛けるぞ。それで駄目なら転移結晶で離脱する。安全よりも優先するものなんてないんだ」
切り替えろと彼女を促すのは、はたして正しいのだろうか。……間違っては、いないと思うけれど。
俺もアスナも戦いの中に生きる身だ。葛藤も後悔も生き残った後に考えるべきもので、その全てが戦場の外で悩むべきものでしかなかった。俺は今までそうやって生きてきたし、そうでなければ生き残ってはこれなかった。
そして、その事情はアスナだって同じはずだ。俺と同様、ゲームクリアを目指してただただ戦い続けてきた。俺たちには共有する嘆きも、重ねる思いも確かにある、あったはずだ。今はお互いの命を守り、敵を撃破することのみに全霊を傾ければ良い。
「アスナは今出来る最善を尽くせ。不足分は俺が埋めてやる」
わずかの逡巡の後、わかった、と俺の横顔を見ていたアスナが了承の声をあげ、右手に握った剣を力強く握り直した。俺も左手に収まる剣の感触を改めて意識し、戦闘に純化した思考へと切り替える。
「いくぞ!」
「うん!」
そんな掛け声と共に俺とアスナは揃って前へと飛び出し、片手を繋ぎあったハンデなどなにするものぞとばかりに一気に敵の間合いへと入り込んだ。不定形のもやから腕が飛び出す。狙いは――アスナか。
アスナと手を繋いだままのため、ステップからの回避は使えない。そんなことをする気もなかった。宣言通りに敵の攻撃を弾くべく、俺が構えた剣に合わせるようにアスナの細剣も添えられていた。瞬間、交差される二刀十字。
俺が二刀流を操って敵の重攻撃を弾き飛ばす必勝の型と同等の形に持ち込み、成功したパリングの効果がわずかの停滞時間を敵に強いる。その一瞬の隙を利用して引き絞られた俺とアスナ双方の剣からそれぞれソードスキルの輝きが発せられ――互いの技軌道を損なうはずもなく同時に二閃の剣撃が叩き込まれた。
モンスターを撃破した証としてポリゴン片が乱舞し、経験値とコルの獲得数値が視界に表示される。その間に索敵スキルによって周囲の警戒を改めて行ってから、ようやく俺達は互いに顔を見合わせて緊張を解したのだった。
へなへなとへたり込むようにアスナがその場に力なく腰を落とし、その際に一切の緊張が抜けた彼女の左手が、するりと繋ぎあった俺の右手から離れていった。
「キリト君のおかげでどうにか戦えたけど……やっぱりお化けの相手は嫌……」
「ご苦労さん。鬼とか悪魔みたいなのとは恐れず戦えるのにな」
「こればっかりは中々ね……。はあ、こうやって戦ってればその内お化けにも慣れて怖くなくなるのかなあ?」
「案外なんとかなるかもしれないぞ。アスナの怖がりが、見えない、触れない、なんだかよくわからないもの、みたいな幽霊の特徴に根ざしたものなら、この世界のアストラル系モンスターは剣で斬れるんだから怖くない。そういう認識に上書きするところまでなら持っていけるだろうさ」
「すっごい荒療治だね」
「俺もそう思う」
剣ありきの思考はまさにこの世界に毒された証拠だと言える。
そんな思いも棚上げに、固く握った拳から意識して力を緩め、深呼吸をして心を落ち着けていく。内心で覚悟を決め、彼女の前で膝を折った。正面から真っ直ぐにアスナと向かい合い、そのまま真剣な眼差しを向け続けると彼女の表情に困惑が広がっていく。どちらかというとバツの悪さ、か?
「正直に答えてくれ。アスナはずっとあの日の事――俺が
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。謝るべきなのは俺なんだから」
意を決して尋ねた俺から目を逸らし、弱弱しい様子で俯いてしまったアスナにほろ苦い気持ちが湧き上がる。……君は人が良すぎるし、責任感が強すぎる。
多分、俺がいつまでも塞ぎ込んでソロを続けていたせいでもあるんだろう。俺が周囲を拒絶し続ける姿を見て、そのたびアスナは胸を痛めてきたのだと思う。それは彼女が差し伸べようとしていた手を振り払った――振り払い続けた俺の自業自得なんだから、本来アスナが気にするようなことじゃない。
理屈の上ではそうなるんだが……割り切れないことくらい、幾らでもあるか。俺は本当に周りを省みることが出来ていなかったのだと情けなくもなる。気を落ち着かせるためにもう一度深く息を吐き出した。そんなわずかな動作にすらびくりと肩を震わせるアスナの姿が痛々しく、憐憫を誘う。……きっと、今の俺にはアスナに告げるべき言葉がある、言葉にして伝えるべき大事な気持ちがあるはずだ。
「アスナはさ、何ていうか頑張りすぎだ。攻略は大事だし、俺達はそこから逃げるわけにもいかない。けど、それでも君はもう少し力を抜いて、適当に生きてみても良いんじゃないかって思う。……なあアスナ、俺はもう大丈夫だから。あの日のように君から逃げたりしないし、今は君と一緒に戦いたい、この世界を共に生き抜きたいと思ってるよ」
それが俺の素直な気持ちだった。
「俺はアスナを死なせたくない。いつか君に告げた――俺が君と向きあいもせずに押し付けてしまった言葉なんて、後生大事に仕舞い込む価値はないんだ。それでもアスナが不安だっていうなら、今度こそ俺がアスナを支えるからさ。君が今日まで背負ってきたものだって一緒に背負ってみせるよ」
俺が彼女に遺してしまった呪いを打ち消すように、俺が彼女を決め付けてしまった呪縛を紐解くように、切々と口にする。
皆に支えてもらってばかりだった俺がどこまでアスナの力になれるかはわからないが、俺がアスナに甘えるだけの関係はもう終わらせるべきだ。これからは本当の意味でパートナーとなって戦い、背中を、命を預けあって生きていく。アインクラッドの希望として立つ彼女の負担を分け合い、一緒にこの世界を戦い抜けばいい。
じっとアスナを見つめて想いを口にする俺に、アスナは驚いたように目を瞠って聞き入り、やがて花弁が綻ぶように微笑んでくれた。
良かった、と心底思う。俺がアスナに背を向けた日から続いてきた、俺がずっと見過ごしてきたボタンのかけ違いを、今、ようやく正すことが出来た気がした。
「本当にいいの? わたしが君に寄りかかっても幻滅したりしない?」
「ああ、いいぞ。幻滅なんてしたりするもんか」
むしろ幻滅されないように気をつけるのは俺のほうだと思う。
「わたし、君が思ってるよりずっと弱い女だからね? あっちの世界じゃいつも誰かの後ろに隠れてるような性格だったもん。それでもキリト君はちゃんとわたしを受け止めてくれる?」
「受け止める、心配するな」
アスナもこの世界に囚われてから随分なイメチェンを図ったもんだ。俺と初めて会った時はもう弱弱しさとは無縁の少女だっただけに、アスナ本人のカミングアウトには驚くばかりである。ふむ、誰かの後ろに隠れてビクビクしてるアスナか……。
「うむ、しおらしいアスナは是非ともお目にかかりたい」
「……ばか、キリト君のいじわる。君はとってもずるくて罪作りな泥棒さんよ。でも――わたしはそんな泥棒さんに頼ってもいいんだよね? 甘えても、いいんだよね?」
「もちろんだ、俺に意地の一つも張らせてくれ」
アスナへの感謝と、胸に灯る決意を添えて頷く。アスナの隠れた一面を知ることができたのは僥倖であり、それはより一層彼女への愛おしさを増す結果につながっていた。
しかし、元々アインクラッドでも最高峰の美人だとか言われてるのに、それに加えて可愛らしさまで追加とか反則だろう。涙で潤ませた瞳でおずおずと俺を見上げ、その上で蕩けるような甘え声を切なく響かせるアスナは、常の凛々しさとは異なるたおやかさを振りまいていた。何というか、男を刺激せずにはいられない、脳髄を甘やかに痺れさせる魅力に溢れているようで……いかんいかんと首を振って正気を取り戻す。
間違いない、アスナは天然の男殺しだ。長ずれば傾城傾国にだってなれる華やかさと淑やかさを併せ持っているんじゃないか? そんなどこか冗談に似せた思考が浮かび上がる。もっとアスナの甘えた姿が見たいとか自然に考えてるあたり、今の俺は相当アスナにやられていた。ホント、アスナを見てると綺麗とか可愛いって形容詞が陳腐化していくな。
アスナに見惚れていた俺の様子に気づいているのかいないのか。だったら、とアスナが切なさを帯びた声音で密やかに語りかけてくる。
「もう一度、わたしと約束して。わたしがキリト君を守るわ。わたしは絶対君を死なせたりしない。だから――だからね、わたしは弱い女だから、これ以上迷ったり不安になったりしないように……どうか君の言葉をわたしに刻んでください」
「ああ、約束するよ。俺がアスナを守る。俺は絶対君を死なせない、俺達は命を預けあったパートナーだ。だからアスナはもう一人で頑張り過ぎるなよ。これからは俺を頼ってくれ。いいな?」
「――はい」
目尻に浮かんだ涙を払いながら嬉しげに微笑むアスナはとても綺麗だった。この一瞬を記録結晶に残しておきたいと本気で思ったほどだ。
「ありがとう。わたし、君を好きになれて本当に良かった。大好きだよ、キリト君」
それは絶妙の追い討ちで、俺の想像以上に熱烈な想いの吐露だった。熱を帯びた吐息さえ今の彼女からは感じ取れるような気がする。その艶やかさと可憐さの前に俺の顔は真っ赤に染まり、湧き上がる高揚を鎮めることができない。慌しく鼓動を刻む心臓の音がうるさくて敵わなかった。
なんだろうなあ、と改めて疑問に思う。何でこんなに可愛くて一途なんだろう。その気持ちを向けられるに値するほど俺は大した男だとは思えないのだけど――だからこそ、相応しくあろうと努力を続けるべきだった。彼女がその気持ちを誇れるように。そして、俺が俺自身を誇れるように。
強くなりたい。もっともっと、今よりもずっと強く。
この剣の世界で誰よりも巧く、誰よりも速く、誰よりも強く在りたいと希求する。俺達プレイヤーの未来を切り拓くことが出来るだけの力が欲しい。茅場なんかに負けてたまるか、あの男の作り出した世界は俺が必ずぶっ壊してやる。
それは償いだけでも、贖罪だけでもない。きっと、俺に芳情を寄せてくれる全ての人への恩返しだった。
残念なことに俺達がそれ以上安穏とした雰囲気に浸っていることはできなかった。程なく俺達は剣の柄に手をやり、警戒心を一気に跳ね上げさせられたからだ。空気読まないモンスターが
空気読めないのはモンスターだけじゃないなと内心愚痴っていたことは黙っておくことにして……一体何処のどいつだ、間の悪い。
一通りの文句を繰り返すも、油断が大敵である事実は変わらない。迷宮区ではPKも十分可能だ。だからこそ相手を確かめるまではオレンジプレイヤーの一団を疑わなければならなかった。とはいえ、通常彼らは危険度の高い最前線、それも迷宮区に足を踏み入れることはまずないため、過度の心配はいらない。そんなプレイヤーの心理を突くように、かつて攻略組のプレイヤーを迷宮区内で罠に嵌めて殺害した《笑う棺桶》も今は壊滅状態だ。
だから俺とアスナが示した警戒も念のため以上のものではなかった。そして通路の向こうからひょっこりと出てきた顔を見て警戒を解く。予想通りに見知った顔――攻略組の仲間だった。俺と同じくアスナも身体から力を抜き、旧知の男を笑顔で迎え入れる。
「おお、プレイヤー反応があるから誰かと思えば、キリトにアスナさんじゃねえか。久しぶりだなおい」
にぱりと嬉しげに笑い、足早に駆け寄ってきたのはクラインだった。赤髪の下にバンダナを巻いた野武士面は相変わらず陽気な雰囲気で場を和ませる。その後にがちゃがちゃと鎧を擦れ合わせる音を響かせて風林火山のメンバーも顔を覗かせた。カタナ使いに槍使いと、欧州風のアインクラッドに似合わない六人の鎧武者が揃う。ちょっとした時代劇にでも迷い込んだ感じだな。
少規模ながら攻略組でも一目置かれる精鋭ギルド《風林火山》は、未だフロアボス戦で戦死者を出したことのない稀有なギルドの一つだった。ラフコフにギルドメンバーを殺されたクラインが、どれだけ仲間の安否に気を配ってギルドを運営してきたのかを忍ばせる話だ。あの一件以来、クラインは団員からただの一度も戦死者を出さずに今日まで最前線を戦ってきたのだから。大した奴である。
「久しぶりって程でもないだろうけど、迷宮区で顔合わせることは確かに珍しいか。クラインも攻略お疲れさん」
「おうよ」
「お久しぶりですクラインさん。キリト君のサポートをお願いされた時以来なので、わたしは十日ぶりくらいですね」
「その節はどうも。こうしてキリトと組んで貰えてホッとしとります。なんせこいつあ、てんで人を頼ろうとしませんので」
「同感です」
……み、身の置き所がない。なんでこいつらは会って早々俺の保護者みたいな会話を始めやがるんだ。クラインに兄貴風吹かされるのは今に始まったことじゃないにしても、アスナにまで姉貴風吹かされるとかたまったものじゃないぞ。大体、アスナはさっきまで俺の前で涙まで流して萎れていたくせに、なんだよこの変わり身。これが女というものかと戦慄しながら、格好付けの意地っぱりである自分自身を全力で棚あげしてジト目になった俺である。
「ところでキリト。おめえ、軍の連中を見かけなかったか?」
「軍? いや、会ってないけど。やつらが攻略に参加してきてるのか?」
「ああ、何時間か前に俺らと遭遇してな。そこでマップデータを無料で提供させられた。ったく、あいつら横暴なとこはちっとも治っちゃいねえ」
「そりゃ災難だったな。にしてもマップデータ無料提供とか大盤振る舞いじゃないか。少しくらいごねても良かったんじゃないか?」
「へん、俺は人間が出来てるからな。いちいち喧嘩腰になってられるかっての」
そう言って得意げな顔をするクラインだったが、ギルドメンバーからの「不満たらたらだったじゃないすか団長」との指摘に轟沈した。お前らーっ! と凄んで見せるクラインを肴に皆で笑い合う。やっぱこいつは得難い人柄をしてるよな、自然と場の空気を弛緩させる能力に長けている。別名いじられる才能。これ、一応褒め言葉だからな。
「キリト君は知らないみたいだけど、ギルドの例会で以前から軍が方針変更して上層に出てくる旨は通達されてたのよ。ただそれは75層攻略以後の話だったはずなんだけどね」
予定を早めたのかしら、と首を傾げながら補足説明を入れるアスナだった。
俺はギルドの例会には無縁だからそういう動きはアルゴの情報網頼みだ。今回のことは75層以後の話ってことだったらしいし、アルゴも現時点で俺に伝えるまでもない情報だと判断していたのだろう。俺にとってもフロアボス戦を共にしないプレイヤーないしギルド情報の優先順位は低かった。別段文句を言うようなことでもない。
「キリの字が74層フロアボスをソロで攻略するなんてことしたせいで、奴らの尻に火が回ったんじゃないですかね? 元々攻略に参加しないことに下から不満が募ってたって話でしょう?」
「ありえますね。ちなみにクラインさん達とニアミスしたって言う軍の人たちの様子はどうでした?」
「2パーティーの12人編成、迷宮区に慣れてないせいか疲労の色が濃いように見えましたな。指揮官はコーバッツと名乗っとりましたわ」
「……そうですか、軍はこれ以上の権威失墜は避けたいはずですし、虎の子の精鋭部隊でしょう。おそらく安全マージンも十分取ってあるでしょうし、心配はなさそうですね」
「ま、そうでしょうな。それに75層はクォーターポイントですし、奴らも勇み足でフロアボスの部屋に抜け駆けするような真似もせんでしょう」
「ですね」
そんなクラインとアスナの分析を俺は冷や汗を流しながら聞き入っていた。どうにも74層のフロアボスをソロで撃破したことにより、予想以上に方々へと影響が出てしまっている気がする。他人は他人、自分は自分と割り切っていちいち浮き足立たないでほしいもんなんだけど……。それこそ俺の勝手な感想だと言われてしまいそうだな。
「軍の思惑はともかく、俺らもそろそろ話し込むのは止めにして動かないか? 同じ話し込むにしてもこんなところで周囲の警戒しながらより、街に戻って落ち着いて話すほうが気楽だろ。幸い時間は取れそうだし」
「ん? なんだキリト、お前ら今日は引き上げか? 俺らはもうちょいボス部屋探すつもりなんだが」
「そうよキリト君、わたし達も夕方までは探索を続ける予定だったじゃない。わたしのことは心配いらないから、予定を変えずにもうちょっと続けましょう。それに折角クラインさんと会ったわけだし、ここからは風林火山に合流させてもらって探索を続けても良いと思うわ」
そんなアスナの台詞に途端に色めき立つ風林火山の面々だった。おーい、お前までもかクライン。この世界は確かに男女比率が傾いていて女性は貴重だけど、そこまで喜ぶようなことなのかいな? そりゃ、アスナは美人で人当たりも良くて料理上手な超のつく優良物件だけどさ。
アスナを交えて攻略に励むという未来に鼻息荒くさせている彼らに、それは出来ないのだと告げることは何だかとてつもなく申し訳ないことだと思えてきた。攻略組はほとんど男所帯だから出会いがない。それはわかるんだけど、それにしてもクラインたちの喜びようはなぁ……。
アスナ、アルゴ、サチ、シリカ、リズベットと順々に親しい女性の顔を思い浮かべ、もしかしなくても俺はクラインらに袋叩きにされかねないくらい恵まれているのだなと改めて思う。決して口にしてはならないトップシークレットだと胸に刻んだ。
「その、な、真に言いづらいことなんだが……これ以上探さんでもフロアボスの部屋はそこにあるぞ?」
え、と俺を除く全員の間抜けな声が唱和する。ついでに鳩が豆鉄砲食らったような顔が幾つも並んでいた。
やっぱ気づいてなかったんだと頬を掻きながら、クライン達が現れた側とは反対側、俺とアスナが向かっていた進行方向の先を指で指し示す。薄暗い通路の先、鏡のごとく磨き上げられた黒い石で形成された回廊の突き当たりには、やはり同色の黒曜石製の巨大な二枚扉があった。
もう少し近づいてみようという風林火山の提案を受けて、俺とアスナもゆっくりと扉に近づいていく。間近に見ればその迫力に物怖じしてしまいそうだ。物々しいレリーフが刻まれていることや威容を放つ巨大な扉の造型が、自然とこれが最奥の空間なのだと主張してくれている。閉じきった扉の向こうから怖気を誘う冷気が吹き抜けて来るような、あるいはぞくりとさせる妖気が漂っているような気分にさせられるのだから、体感という意味でもこれがフロアボスにつながる扉なのだと示していた。
「……の、覗いてみるか?」
「止めとけ。結晶無効化空間の可能性が高い以上、不用意に踏み込むべきじゃない。それにこんな攻撃特化のメンバー編成の上、少人数パーティーじゃ偵察もままならないよ」
「……だな」
クラインも本気で言っていたわけではなく、重苦しくなりそうな空気を和ませようとしただけだろう。俺の返事に頷いたクラインの表情は、激闘を予感させるクォーターポイントの困難さを思ってか苦み走っていた。
俺もクラインと同じ思いだ。たった扉一枚隔てた向こうの空間に存在するはずの強敵は、一体如何なる姿をしていて、どれほどにプレイヤーを苦しめる強さを誇っているのだろうか。74層のフロアボスだった《ザ・グリームアイズ》とは比べ物にならない凶悪さを秘めているはずだった。攻撃力、防御力、回避力、なによりその凶暴性。どこまで被害を減らしながら勝利を掴み取ることができるか。いよいよ正念場だった。
ともあれ、まずは偵察部隊の派遣か。しかし壁仕様の重武装プレイヤーを中心に固めた偵察部隊を送り込むにしても、引き際の判断はひどく難しいものになるだろう。……本当、ヒースクリフ並の固さを持つプレイヤーが一部隊欲しいな。
「ところでキリト君は何してるの?」
「ん? 折角ボス部屋の前まで来たんで回廊結晶に記録中。今は……四時前か。明日すぐに偵察部隊が赴くこともないだろうけど一応な、これくらいは大した手間でもないし」
ここまで来たのだからと取り出した回廊結晶に場所を記録してしまう。24時間で記録は消えてしまうため無駄骨に終わる可能性が高いものの、こういうことは気づいた時にやっておかないと、いざという時に後悔することになりかねない。
「……キリト君、お願いだから先走ったりしないでね」
「……キリト、絶対そいつはおめえ個人で使うんじゃねえぞ」
「お、お前ら……」
妙に真剣な顔で告げるアスナとクラインだった。
お前達、絶対俺を誤解してるだろ! 俺は基本的にでっかい勝算ありか絶対に逃げ切れる自信のある時しかボスとソロで戦ったりしないぞ。確かに74層では結晶無効化空間なんてトラップ仕様だったせいで引き際を計れず、結果的に乾坤一擲の大勝負を演じてしまったけど、そんなの稀も稀でしかない。
そうした例外を除けば俺ほど安全を重視するタイプもいないと思うんだ。第一、引き際を冷静に計算できなきゃソロで生き抜くなんてことは出来なかったわけだし、俺が今日まで生きてることこそ俺が命知らずじゃない証明みたいなもんじゃないか? そりゃ低階層を攻略してた頃は死にたがりプレイヤーだったかもしれないけど、そんなのずっと昔の話だぜ? だからこそ、もうちょっと俺を信用してくれても良いと思うんだよ。昔は昔、今は今! ……駄目デスカ?
そんな不満、もといお願いを口に出してみたところ、
「キリト君は自分の胸に手を当ててじっくり反省してね」
なんて答えが笑顔と一緒に返ってきた。「考えてみてね」ではなく「反省してね」という所に、アスナの俺に対する絶大な信頼が込められているなあと感心した今日この頃である。ちくしょう。
最後にそんな締まらないやりとりを交わして、ようやく俺達は75層の探索を終え、しばしの休息を取ろうと転移結晶で街に跳んだのだった。
嫌な予感というのは当たるものだ。軍が予定を早めて最前線に参加してきたことに一抹の不安を抱えていた俺は、例に漏らず頭を抱える羽目になった。
以前の――25層以前の軍ならばここまで心配することもなかっただろう。しかし現在の軍はどれだけ好意的に見ても横暴さと頑迷さが目立つ組織に変じていたし、その組織に蔓延する空気が最前線に参戦することを決めたからと言って払拭されるとも思えなかった。いや、クラインの語ったことを踏まえると余計に悪化していると見るべきか。
「我々はこのアインクラッド全てのプレイヤー開放のために日夜戦っている! そのために攻略組と呼ばれるプレイヤー諸君の協力を得たいと考え、このフロアボス攻略会議に参加を申し入れた。無論、諸君らの懸念は理解している。今日まで攻略に参加してこなかった我々軍の精鋭の実力を疑っていることは、真に
時は75層フロアボスの部屋が発見された翌日、十時をわずかに過ぎた頃。場所は第55層主街区グランザム、名にし負う血盟騎士団のギルド本部だった。殺風景な広い会議室に椅子と机が並べられ、何十人ものプレイヤーが険しい顔をして席についていた。……空気が重い。
今、ここでは75層フロアボス攻略会議が開かれている。その大会議室の中、何十人という会議参加者が居並ぶ中で熱弁を振るっているのが、コーバッツと名乗った軍所属の男だった。
重そうな黒鉄色の金属鎧の胸にはアインクラッド全景を意匠化した紋章が踊り、鎧の下には濃緑の戦闘服を着込んでいる。それでも室内だからか、あるいは人前だからか、軍の画一化装備を際立たせる、視界を保護するバイザーとヘルメットは外していた。角ばった顔立ちと短く刈り上げた髪型が厳つさを前面に押し出し、三十路越えと思われる長身の男はじろりと会議の参加者を見渡して演説――要請を口にした。
プレイヤー開放のために長い間戦ってきた攻略組を前にして、自分達こそがプレイヤー開放の先鋭と口にする男の大胆さは中々のものだろう。不愉快気な数多の視線を無視して演説を続けられる一事を持ってしても、相当に肝が太いのだと思われた。
「結論を出す前に幾つか質問させていただきたいと思います。構いませんか、コーバッツさん?」
「勿論だ」
「では、軍の要請に対する採択に移る前に質疑応答の時間を取りたいと思います。疑義のある方はこの場で挙手をお願いします。ただし速やかな会議進行のため、質疑応答は各自一回でお願いします。議案がまとまらないようでしたら再度審議の時間を設けます」
性急なコーバッツの要求を会議進行役のアスナがやんわりと宥め、質問タイムへと突入した。まず挙手したのは青の大海を率いるディアベルだ。
「一番槍と言うことは軍が単独で偵察部隊を率いるわけではなく、あくまで偵察部隊の一員として参加するって認識で良いのかな、コーバッツさん?」
「うむ。我々とて君らを無碍に扱おうとは思わない。先陣をきらせてもらえればそれで良しとするつもりだ。ただし指揮権の完全委譲は認められない。我々は君らの風下に立つ気はないことを宣言しておく」
おいおい、前半と後半で思い切り矛盾してるじゃないか。突入するのは自分達だけでなくても良いけど指揮権は寄越せとか、滅茶苦茶不遜な要求だと思うぞ。あ、ディアベルが困った顔で着席した。アスナは澄ました顔を続けているけど、内心頭抱えてるんだろうな。
続けて発言したのは聖竜連合の前衛隊長を務めるシュミットだった。
「軍の代表者はシンカーさんであり、実働戦力をまとめてるのはキバオウさんだと聞いている。その両名はどうした? 姿が見えないが」
「心配には及ばない。シンカー、キバオウ、両大佐は私に全権委任してくださっている。両名共に私の判断を尊重するとのお言葉だ」
それ以上聞きたいこともなかったのか、シュミットはなにやら思案気味に腰を下ろした。
全権委任か、コーバッツの言葉に嘘はなさそうだが、いよいよきな臭くなってきたな。軍が上層に上がってくると聞いて、俺はてっきり軍の部隊を率いるのはキバオウかと思っていた。サボテン頭の関西弁が特徴的な男が脳裏に浮かぶ。
25層以来めっきり顔を見ることはなくなったものの、あの男こそが軍の最高レベルのプレイヤーだったはずだし、それは今でも変わらないだろう。人柄に角の立つ部分もあるが部隊指揮に支障が出るほどでもない、そもそも軍の中ではギルド長のシンカー以上に支持を集めているはずじゃなかったか? コーバッツの話では大佐の呼称のままのようだし、権限が縮小されたわけでもあるまい。温存というのもおかしな話だし、何か事情でもあるのか?
ちなみに軍の階級は少佐、中佐、大佐の三種類だけだ。1パーティー6人を一部隊と見なして、一部隊のリーダーを務める権限を持つプレイヤーを少佐、2パーティー以上の複数部隊を率いる権限を持つプレイヤーを中佐と呼称し、その上に団長と副団長の二人を指して大佐と呼称している。
この辺は現実世界の軍組織とはかなり異なっている。階級を厳格化しても仕方ないという判断があったのだろうと俺は踏んでいた。実際のところ、いくらゲーマーとはいえ戦略シミュレーションみたいなジャンル好きでもなければ、軍組織なんてまず馴染みがない。普通の人は兵卒、尉官、佐官、将官の区別なんてつかないし、その役割の違いなんて尚更ちんぷんかんぷんだろう。内外双方にとって、ゲーマーやアニメ好きに馴染み深い佐官階級の少佐、中佐、大佐だけ持ち出してきたのは妥当な判断だろうと思う。大事なのは呼称に伴う階級制度と権威化なのだろうし。
つまり大佐の称号はシンカーとキバオウしか持ちえず、軍所属プレイヤーの最高階級は中佐だ。まがりなりにも二人から全権委任を受けてここにいる以上、コーバッツはおそらく軍のナンバースリーなのだろうと思われた。
「軍が攻略に参加するのは76層以降だと聞いていたのだが、なぜ通達なしに予定を変えたのか聞かせてもらえるか?」
そう重々しく告げたのは血盟騎士団幹部のゴドフリーだった。
「通達抜きであったことは謝罪しよう。しかし予定の変更については答えることができない。私自身何も聞かされていないからだ」
ふむ。となると、シンカー、キバオウのどちらかの意向か。まあ考えるまでもなくキバオウの判断なわけだけど。シンカーは危険な最前線に参加することに反対している立場だし、果断な決断を苦手としているプレイヤーだったはずだ。こんな性急な真似はしないだろう。
腕組みをしたまま思索を飛ばしている俺を尻目に、それからも幾つか質問が飛び交い、コーバッツはそれらに実直に、あるいは傲岸に答えた。まごつくようなことは一度もなく、答えられない質問にはノーコメントを貫き、自身の知らないことは戸惑いなく知らないと口にする。
その様を見ていて、なるほど軍のような集団に重宝されるタイプだと感心した。この男は自らの思想を表に出さず、命令に忠実だ。あくまで組織の規範に則り、その決め事の中で最善を尽くそうとする人間である。私の部分を殺し、歯車としての役割を忠実に演じることの出来る実直に過ぎる男だった。その教条的な部分が外部にはマイナスとなりやすいため交渉事には向かないかもしれないが、しかし内部向けの人材としては非常に優秀だろう。
つまり俺が何を言いたいかと言うと、「おいこらシンカーにキバオウ、人選間違えてやしないか。お前らのどっちかが足を運べよ馬鹿野郎」ということになる。
断っておくと俺はコーバッツのような人間は嫌いじゃない。杓子定規な性格をしているのだろうが、決して悪い奴でもないと思っている。つーかPoHやらザザに代表されるラフコフの連中みたいに、PKが趣味とか何考えてんだか欠片も理解できないアホ共に比べたら、コーバッツのように真っ当な思想を抱いて攻略に参加してくれるプレイヤーは清涼剤に思えるものだ。歓迎も歓迎、大歓迎である。
能力にしたって慣れない迷宮区、それも最前線にいきなり部下を率いて無事に攻略を続けられる指揮統率は優秀さを伺わせるし、本人の戦闘能力だって部隊長としてかなりのレベルなのだろう。自信を裏付ける実力は間違いなく持っているのだと思う。
けどな、こういう場には致命的に向いていない。本人が根っからの善人なのか、《全プレイヤー解放のために戦う正義の組織》という軍の掲げるスローガン、金科玉条に忠実であろうとしすぎている。そのせいで自分達の立場こそがこの場で風下に立っているという、そもそもの前提条件が完全に抜け落ちていた。
軍が最前線に多大な影響力を持っていたのはゲーム開始から半年足らずの間までだ。その当時なら大目に見られていたであろう傲岸不遜な態度は、現時点では身の程知らずの大言壮語にしかつながらない。
長い間命を懸けて戦ってきた自負が攻略組のプレイヤーにはある。そしてここにいるのは皆攻略組に属するトッププレイヤーだった。そこで過去の栄光よ再びとばかりに鼻息荒くしゃしゃり出てきた連中がこうも大口叩いても、何を
ここでコーバッツが取るべき態度は、まず先達を立てて、その上で実力証明の場を与えてもらうよう計らうことだろう。最大規模のギルドであり、多数の有為な人材を抱える軍の最前線復帰は、攻略組にだって大きな力となるのだから殊更排他的に接する理由もない。そうやって機会を得た上で頭角を現せば自然と発言力だって強くなる。まだ二十以上も攻略せねばならない階層は残っているのだ、ここで焦ったって仕方ないだろう。
場の雰囲気が明らかに剣呑なものに変わってきたところで、気の進まない内心をこらえて挙手をした。うぅ、嫌だなあ、こんな空気の中で喋るの。しかしアスナに俺を頼れと言った手前、こういった公的な場で今までのようにソロを言い訳にして積極的にならないのもよろしくない。このまま会議がしっちゃかめっちゃかになる前にある程度方向性を定めておかないと。
「コーバッツ、あんたはさっき指揮権の委譲は認められないと言ったが、それは偵察部隊に限った話か? それとも偵察後の討伐隊結成の段階になっても主導的立場でないと戦えない、そう言ってるのか? 例えば――そこの血盟騎士団団長殿を差し置いて討伐隊の指揮を執りたい、と?」
別段、コーバッツを睨んだつもりはなかった。しかし俺の質問を受けて、コーバッツは初めて怯んだように口を閉じ、答えを口にすることを躊躇ったようだった。言質を取られることを嫌がったのかもしれない。
俺の意地が悪いとかそういう問題ではなく、最低限明らかにしておかなければいけないことを指摘しただけのことだ。もしこの問いを受けてなお軍が主導権を取ることに固執するのなら、俺は軍のボス討伐隊参加に断固反対の立場を取るつもりだった。さすがにそこまで勝手を通そうというのなら見過ごしてやる理由はない。どれだけ俺と軍の仲が険悪になろうが叩き潰す気でいた――もとい本戦にはご遠慮願うつもりでいた。最悪のボスを前にして討伐隊参加メンバー内で不協和音を抱えたくなかった。
もっとも軍の連中の俺に対する心証なんて、現時点で最悪な気もするけど。
「……否、だ。我々軍が望んでいるのはあくまで今回の偵察隊を率いる立場だ。本討伐の指揮に関してはその限りではない。無論、偵察隊の功如何では相応の立場を要求させてもらうが」
「ならいいさ。それ以上は《聖騎士》殿と《閃光》殿の仕事だ、俺が口を挟むつもりもない。俺の質問は以上だ」
少し意外だな、と思った。コーバッツの態度からは俺に対する然したる隔意は感じられない。この場に集ったほかのプレイヤーに向ける目と同じものを俺にも向けていた。お世辞にも軍に受けが良いとはいえない俺だから、多少は目に険が宿るものだと思ってただけに嬉しい誤算である。好きで嫌われてきたわけでもないし、コーバッツが俺に含むところがないのはありがたい。そんな内心のつぶやきは勿論声に出すことはなく、何でもない顔をして席に着く。
コーバッツの答えは俺を十分に満足させた。
軍が自身の立場を弁え、現在の攻略組の枠組みを尊重するというのなら俺から言うことはない。結局の所、攻略組は実力主義だ。軍がその要求に相応しい活躍を見せることが出来るというなら、それはそれで一向に構わなかった。向上心があるのは良いことだ。
現在血盟騎士団が攻略組を主導する立場にいるのだって、言ってみれば一番腕っ節が強く頼れる集団だからである。その武力の下地あればこそ六百余名のトッププレイヤー集団、攻略組の頂点に君臨していられる。
その立場が欲しいというのなら剣持て奪えば良い。攻略組最強の看板を欲するなら相応の力を見せろ。《聖騎士》と《閃光》の二枚看板を擁した最強ギルドを超えられるというのなら、是非超えてみせてくれとしか言えない。それだけのことが為せるなら軍が攻略組を主導したとて誰も文句はないだろう。
攻略組の戦力が増えること自体は歓迎すべきなんだ。多少素行が悪かろうが、戦死者を少なくして攻略速度を加速してくれるというのなら願ってもないことだった。
そんな思考に耽りながら、俺はそれ以上発言することもなく会議の行く末を見守った。
最終的に決定したことは偵察部隊を4パーティー24名で構成することだ。その内、軍から12名を選出し、偵察部隊の第一陣を担当することになった。さらに4ギルド合同で12名を選出し、彼らが第二陣を担当する。75層フロアボスの部屋は結晶無効化空間の疑いが強いため、第一陣の軍部隊を本命に据え、第二陣で用意した合同部隊が軍部隊撤退の補助、場合によっては救出任務を請け負うことになった。
第一陣が先に突入し、第二陣がボス部屋入り口、扉の前で待機することになったのは慎重を期すことと軍の意向を慮った結果でもあった。戦闘指揮の権限はコーバッツが有するし撤退のタイミングは自由とされている。しかし第二陣が踏み込んだ時点で問答無用に撤退戦に移行することだけは申し付けられた。
コーバッツが功を焦って撤退のタイミングを誤ることが懸念されたためだが、そんな裏を読んでいるのかいないのか、コーバッツは逡巡することなく頷いたのだった。偵察の成否よりもプレイヤーの安否優先、十分な情報が集まらなければ後日、軍を中心に再び偵察隊を組むと約しておいたことが良い具合に働いたのかもしれない。この辺りの匙加減はヒースクリフの配慮だった。やっぱあいつ人心掌握上手いわ。
「ボス部屋の扉の前で回廊結晶に記録した時間は昨日の午後3時53分。今が正午前だから、結晶が使えるのはおおよそ4時間だ。念のため確認しておいてくれ」
「うむ、君の協力に感謝する」
会議が終わり、コーバッツへと回廊結晶を渡しながらの俺の台詞だった。俺の視線が複雑だったのは何も高価な回廊結晶を無償で譲渡することに関してじゃない。元々今回の会議に先立って回廊結晶の提供は宣言していたし、今更惜しくなったわけでもなかった。
「……作戦決行は今日の午後三時ジャストだったか。なあ、何もそこまで急ぐことはないんじゃないか。軍選抜の12人はあんたも含めて皆、昨日まで迷宮区に出ずっぱりだったんだろ、休息だって必要だと思うんだ。何なら回廊結晶は俺がまた記録してくるから、作戦決行は明日に伸ばしてもらっても構わないんだぞ?」
そう、余りに慌しく準備と決行が行われることに妙な胸騒ぎを覚えたからだった。
軍が功を欲しているのは確かだし、それ自体を非難する気はない。攻略組に確固たる地位を築くために、最難関とされる75層クォーターポイントで活躍を残しておきたいという気持ちもわかる。コーバッツ個人は非常に高い攻略意識を持っているだけに、今回の戦いにも心に期するものがあるのだろうとは思う。
それでも、こうも急ぎすぎているように見えるとどうしたって不安になってしまう。俺が些か不景気な顔をしているのはそのせいだった。
「君の心遣いには感謝する。しかし心配には及ばない、我々とてクォーターポイントの恐怖と理不尽さは理解している。なにせ我が軍がかつて甚大な被害を被ったのが25層のクォーターポイントだったのだから」
そこでコーバッツは一度言葉を切り、わずかの間目を閉じ、沈黙を守った。もしかしたら過去に思いを馳せていたのかもしれない。
それからほどなく、コーバッツは目に力強い光を宿らせ、ゆっくりと口を開く。
「我々は同じ轍を踏むつもりはない。細心の注意の元で戦い、有益な情報を持ち帰るつもりだ。いいかね、これは我々の雪辱戦でもあるのだよ。同時にアインクラッドの趨勢を占う重要極まりない戦いだけに、我らの力を投入する意義は十分だろう。なればこそ、君は作戦の成功を祈っていてくれたまえ。我らの志は、決して苦難の前に敗れ去るものではないのだと」
「……ああ、そうだな。あんた達が無事に戻ること、作戦が成功してクォーターボスの全容が割れることを期待してる。なによりこの後控える本討伐戦で、あんたと肩を並べて戦えればいいな。武運を祈る、コーバッツ中佐」
「激励感謝する。また会おう《黒の剣士》キリト」
頑固と評す程に堅物で、独善的とも取れるほどに実直なその男は、そう言って俺に背を向け、堂々とした後姿を見せながら立ち去って行った。――そして、この時の会話が俺とコーバッツの交わした最後のものとなったのである。
報告は、以下のようなものだ。
9月19日午後3時丁度に作戦決行した偵察部隊の第一陣、軍選抜の2パーティー合計12人が75層フロアボスの部屋に突入した。
第一陣12名が部屋の中央に到達した瞬間に入り口の扉が閉まり、その扉は開錠スキルや直接の打撃斬撃等何をしても開かれることはなかった。そのまま五分以上が経過し、それまで何をしても変化のなかった扉が唐突に開いた時、第二陣として控えていた合同メンバー12名の見える範囲には何もなかった。先行した12名の姿も、死した時に残される装備アイテムも、そしてボスの姿も。――何も、本当に何も残っていなかった。
転移結晶による脱出の痕跡も見つかることはなく、黒鉄宮の生命の碑に刻まれたキャラネームを確認しに走った所、第一陣12名全ての名に横線が引かれ、二度と帰らぬ人となったことが決定的となった。
コーバッツ中佐死亡、並びにその部下11名全てが死亡。
ボスの大きさや姿形、攻撃の重さや防御の堅さ、機動力に特殊能力、ボスの名称すら依然として不明。
彼らが残したものは、戦闘開始5分にも満たない中で12名全てが死亡したこと、つまりはクォーターボスは前評判通りに規格外である事実と、転移結晶すら使われなかったことで結晶無効化空間の可能性が濃厚になった事実、一度踏み入れたら出入り口が封鎖されて脱出することが絶望的な事実、それだけだった。
それだけしか、残すことができなかった。
アインクラッドに住まう全てのプレイヤーを救うのだと、自らの頭上高くに掲げた高潔な志を持ち、かつての散っていった仲間の無念を晴らし、今こそ雪辱を果たさんと胸に期した男の、それが最後に為した功績だったのである。
――コーバッツの、嘘つき野郎……ッ!
システム外スキル《同時連携》は原作に存在せず、《システム的に不可能ではないが推奨されていない》と描写されていた戦闘陣形を、拙作アスナがデメリットを抑えて部分的に実現させた高等連携技能となっております。
75層の迷宮区構造、出現モンスター及びアストラル系モンスター種の特徴は独自設定です。
また、軍の階級を三種類としたのは拙作独自のものであり、原作では中佐の呼称しか出てきません。