ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第13話 黒の剣士、白の閃光 (1)

 

 

 第75層主街区コリニア。

 数日前に俺自らが開通させて街開きを見届けた場所であり、現在の最前線となる街でもあった。

 都市部を囲む外壁は四角く切り取った白亜の巨石を積み上げられており、その街並みはと言えば高い円柱の柱を均等に配した神殿が目立つ。歴史に名立たるローマ水道を模したと思われる広い水路が美しい景観として街を彩り、しかして転移門前にそびえたつ巨大なコロシアムが威容さを際立たせるために、美の造詣と戦の匂いを見事に調和させた城塞都市という印象を強く抱かせられる。コリニアとはそういう街だった。

 新たに街開きが行われると当然そこには攻略組が足繁く通うようになり、攻略組でなくとも一見のために訪れる中層ゾーンのプレイヤーが増え、彼らを目当てに商人プレイヤーや職人プレイヤーが挙って商売に精を出す。一時的にプレイヤーの大移動が行われるようなものだ。街そのものの雰囲気も悪くなく、この活況もしばらく続くだろう。

 

 第75層が転移門で行き来できるようになって早三日が経つ。その間にフィールドマップは踏破され、いよいよ迷宮区に挑もうというのが現在の攻略組の状況である。無論、フィールドマップの攻略には俺とアスナも尽力した。というか、二人で疾風怒濤の速度で駆け抜けた、というほうが正確だろうか。脇目も振らずに攻略に邁進し、その結果としてごく短期間でフィールドボスの撃破と迷宮区入り口へのマッピングを完了させた。手練のパートナーがいるとソロ戦闘よりずっとソードスキルが使いやすく、攻略も安全に進むなと感心しきりだ。

 俺とアスナも攻略組の一員として今日も元気に攻略を進めようとこの街を訪れ――そこで一人の男によって行く手を塞がれていた。血盟騎士団所属の両手剣使いにしてアスナの護衛役、クラディールだ。

 奴の表情を見ると明らかに機嫌が悪そうで、これは一悶着あるかと嫌な予感を覚える。そしてそれはすぐに確信に変わるのだった。

 

「アスナ様、これ以上の黒の剣士への肩入れは認められませんぞ。早急にパーティーを解消し、我らの指揮官としての活動を再開していただかなければ困ります」

「わたしの行動は幹部会議で決定された正式なものです。あなたに咎められるようなものではありませんよ?」

「咎めもしましょうとも。先日迷宮区に通じるマップも発見され、アスナ様は今日からそこの男と迷宮区に進む予定なのでしょう?」

 

 勿論と頷くアスナにクラディールは泡を吹くように狼狽し、ワナワナと身体を震わせていた。なんつうか大袈裟なリアクションだな、それにそういうことはギルド本部でやってくれないか?

 しばらく口論は続きそうだと暢気に考え、辟易とした内心がどうにか表に出ないよう努める。何もこんな早朝、攻略組の皆が転移門から出現し、攻略に赴こうとする時間を選んでアスナを説得しなくてもいいだろう。時間が経過する毎に野次馬の数が増えていることに気づけ、気づいて立ち去ってくれ。

 そんな俺の願いをクラディールが斟酌してくれるはずもない。険しい眼差しを俺へと向けたままのクラディールに俺は知らん振りを決め込み、沈黙を選ぶことにした。反応しようがしまいがこの男の機嫌が悪くなるのは変わらないのだから、ここはアスナに任せておこう。

 

「だからどうして迷宮区攻略を咎められなければならないのです。血盟騎士団には同ギルド内でしかパーティーを組んではいけないなんて馬鹿げた規則はありません」

「ギルドの備品部に問い合わせた所、野宿用の装備一式がアスナ様から申請されていたと聞きましたぞ。ただでさえ危険な迷宮区を、信用ならぬ小僧と二人きりで夜を明かすなど、そんなことを認められるはずがありません! 再考を!」

「キリト君の実力はわたしたちが最も良く知るところです。わたしにはあなたの危惧がわかりません」

 

 あー、アスナ。クラディールが言ってるのは剣の腕のことじゃなくて俺の人格、もっと直球で言えば男としての信用性の問題だと思うぞ。その程度のことを聡明なアスナが気づいていなかったとも思えないのだけど……知ってか知らずかピントのずれた返答をしたアスナだ。俺を信用していると受け取っておくべきか、あるいはこんな公衆の面前でそっち方面の口論が白熱するのを避けたのか。

 そもそも命の危険が大きい迷宮区の探索に、クラディールが口にしたような男女の関係を持ち込むことほど馬鹿な話もない。はっきり言って邪推である。軽蔑するようなアスナの視線に射抜かれ、ようやく話題の選択を誤ったことを悟ったのか一瞬口ごもるも、クラディールはすぐに気持ちを切り替えたのかさらに言葉を続けようとする。

 

 どうにも俺はクラディールに的外れな警戒をされているような気がしてならない。そりゃアスナが魅力的な女性であることは俺だって認めるし、そんな彼女に不埒な思いを何一つ抱かないかと問われれば口ごもるけどさ。……仕方ないだろ、俺だって男なんだから。

 しかしな、この男は俺が攻略そっちのけでアスナを口説くほど節操なしとでも思ってるのだろうか。そいつは甚だ不本意な評価だ。それとも単に俺が気に入らないだけか?

 

「アスナ様は我がギルドの副団長なのですぞ。我々を導く義務とてありましょう」

「わたしが一時的に攻略シフトから抜けることは幹部会議で承認されています。わたしとキリト君が組むのはわたしの一存で決められたことではなく、ギルドの意思だということを忘れないように。そもそもクラディール、あなたは今日活動日だったはずでしょう。パーティーメンバーはどうしました?」

「アスナ様の一大事なのです。護衛任務を優先するのは至極当然のことと心得ております」

 

 もしかしてサボタージュかお前。そりゃまずいんじゃないか?

 クラディールが攻略をさぼろうとレベリングをすっぽかそうと俺は気にしないのだが、奴の上役であるアスナにとっては許容できない無分別な行動だろう。そんな俺の想像通り、アスナはさらに雰囲気を鋭く変質させた。

 

「当然のわけないでしょう。大体あなたの言う護衛任務は解かれているはずよ」

「何を仰いますか。例え任務でなくともこのクラディール、アスナ様のためなら我が身を削ってでも自主的に護衛に励みましょうとも。無論、昼夜問わず全力を尽くしてご覧に入れます。なに、ご心配には及びません、今まで通りなのですから」

「……ちょっと待って。まさか、ここ一ヶ月朝晩にわたしの自宅近くをうろついていたプレイヤー反応は、クラディール、あなたなの?」

「おお、流石はアスナ様ですな。私の陰ながらの警護を見破り、その上で暖かく見守っていてくださったとは。感激ですぞ」

「そ、そんなわけないでしょ!? 自宅監視なんて護衛の範疇ですらないわ。何考えてるのよこのバカ!」

 

 段々ぞんざいな口調と冷えた双眸に変化していくアスナの態度に然もありなんと見守っていた俺だったが、臆面もなくストーカーしてましたと告げるクラディールにはたまらず絶句した。アスナが血盟騎士団副団長の仮面をかなぐり捨てて罵ったのも無理はない、オレンジ認定のされない行動とはいえ、倫理的には完全に犯罪行為を自白したくせにここまで誇らしげなのは何故だ。

 肌が粟立ち、ぞくりと背筋に寒気が走る。こいつ、こんな危ない奴だったのか?

 悲惨なのはアスナだな。我が身を抱くように震え上がった少女の姿にはとことん同情する。まさか護衛の男が身辺を脅かしていたとは思うまい。むしろそういった輩を排除するための護衛任務じゃないのかよ。ヒースクリフにしては人選を誤ったな。いや、確かクラディールの話だとアスナの護衛を選んだのは参謀職のプレイヤーだったか?

 

 クラディールは様呼ばわりするほどアスナを崇めているみたいだし、俺とは常識の置き場所が違うのだろうけど、それにしたって情熱の矛先がおかしい。気の遣い方が致命的にあさっての方向を向いている気がしてならないのだ。アスナに気があるにしては嫌われるようなことしかしていないし、かと言って彼女を崇拝しているにしては慇懃無礼が過ぎる。総じてどこかちぐはぐな印象だった。少し不気味である。

 血盟騎士団に仲間入りできるよう色々算段立ててたんだけど、全部白紙に戻そうかなあ……。

 思わずそんな埒もない思考に耽ってしまったが、俺が傍観者でいられたのもそこまでだった。アスナが身を隠すように俺の背後へと回り、そのままくっついて俺を壁にしたからだ。

 

「ギルドの問題はギルド内で解決するべきじゃないか?」

「キリト君、ここでわたしを見捨てたら一生恨むからね。ほんとに恨むからね。絶対ここから逃げちゃ駄目ッ!」

「アスナ、そうする気持ちは良くわかる。ほんっとうに良くわかる。でもな、間違いなく逆効果だと思うんだ」

「小僧! アスナ様から離れんかァッ!」

 

 ほら、こんな感じに。

 というか、こいつは一体どんなキャラをロールしてるんだよ。高潔な騎士たる血盟騎士団の規範は何処いった。俺の血盟騎士団への尊敬を根こそぎぶち壊すような真似は止めてくれ。

 出来ることなら他人のフリしてどこかに逃げたいくらいだった。ただ、ここで逃げたら後でアスナが怖いし、何より彼女が哀れすぎる。他人事として眺める俺でも今のクラディールは気味悪くて相手にしたくないのに、犯罪被害者たるアスナなんて涙目ものだろう。

 

「なあ、アスナもこの調子だし、今日のところはもういいだろ。俺が気に食わないならヒースクリフにでも文句言ってくれ、幹部会議でもなんでも開いて決定を差し戻せばそれで済む話じゃないか。アスナだってギルド方針に逆らってここにいるわけじゃないんだし――」

「いいですか、アスナ様。あなた様は血盟騎士団副団長というだけでなく、攻略組の、いえ、全プレイヤー憧れの女神なのです。どうか御自分の立場を思い出していただきたい」

 

 アスナの体温を背に感じながらさてどうしたものかと悩み、とりあえず事態収拾を図ってみようかと口を開いた俺だが、そんな俺のなけなしの努力をまるっと無視してクラディールは訳知り顔で語りだした。あのな、お前の俺への態度に今更腹を立てたりはしないけど、アスナを女神とか呼んで崇拝するくらいなら、せめてストーカー行動をやめてやれよ。ついでにアスナの言うことを素直に聞き入れてくれ。

 

「わたしが為すべきことは、攻略組の一人として一日も早く最上階に辿り着くことよ! そのために団長もわたしもキリト君とペアを組むのが最善と判断したの! やるべきことを放棄してこんな場所にいるあなたに立場をとやかく言われたくないわ!」

 

 さっさと任務に戻りなさい、と続けたアスナの台詞は雄雄しいことに違いないんだが、俺の背中に隠れたままだと色々台無しだった。

 何度も言うがクラディールに生理的嫌悪感を抱く理由は十分わかるし、面と向かって相対したくないのもわかる。けどさ、ますます俺と密着する行動そのものがクラディールの神経を煽っているんだとわかってますかね、アインクラッドで三指に入る美女と評価されてるアスナさん? 君はもう少し自分の影響力を知るべきだ。

 

「これ以上我侭を仰らないでいただきたい。ギルド本部に戻りますぞ、アスナ様」

 

 お前が言うなー、と疲れた声が脳裏を過ぎる。鏡見ろよ。

 問答では埒が明かないと見たのか、ついにクラディールが実力行使に出た。苛立った表情を隠さずにずかずかと大股で俺たちへと近づくと、強引にアスナの細腕を掴もうと手を伸ばそうとして――そこで俺は反射的にクラディールの右手首を握って邪魔してしまう。それは半ば無意識的なものであり、意図して動いたわけでもなかった。それ故、俺の行動に一番驚いたのが俺だったという笑い話はこの際どうでもいいだろう。

 ちらと肩越しにアスナを見やれば、彼女は相変わらず俺の背中に引っ付いたままだった。クラディールの強い執着からくる些か異常な行いが判明しているだけに、アスナを矢面に立たせるのは如何にも気が引けた。筋違いだとしてもここは俺が前に出るのが正しい気がしてくるのだから相当だろう。

 まあ、幾つか理屈をつけてみたものの、結局は女の子に頼られると格好つけたくなるのが男ってものなのだと、それだけで済む話だ。俺も結構俗っぽい理由で動いてるなと内心苦笑を浮かべながら、青筋立たせて俺を睨み付けるストーカー男と相対した。

 

「そこまでにしておけ。自分とこの上役を怒鳴りつけて腕ずくで、なんてどうかしてるぜ。女性をエスコートするときは力に訴えたりせずに、もっとスマートに事を運べよ。一度紳士の心得ってやつを学んでから出直してこい」

 

 お前が言うなー、と今度は呆れた声が脳裏を過ぎるが丁重に無視した。鏡? 知らないな。

 ほんと、どの口が言ってんだか。俺だって女性への配慮とか気遣いなんて偉そうに言えたもんじゃない――が、少なくとも今のクラディールよりはマシだと思いたいものだ。

 がっちりと腕を掴まれ面と向かって男として取るべき態度を駄目出しされれば、俺の存在を意図的に無視してきたクラディールとて嫌でも俺と向き直らざるをえない。嫌い抜いている相手に自分の行動を邪魔されているのだし、我慢できるものじゃないだろう。

 

「貴様ァ……ちょろちょろと小煩い《ビーター》の分際でこの私を侮辱するか!?」

 

 俺に掴まれた右腕を強引に振りほどくと、唾を飛ばすくらいに意気込んでそんな罵声を浴びせてきた。《ビーター》か、また懐かしい呼び名を出してきたな。

 豊富なベータ知識と経験を持った特別なベータテスターと、ずるい奴を意味するチーターを掛け合わせた言葉――《ビーター》。つまりはこの世界独特の造語であり、俺を指し示す代名詞なわけだが、それ、あんまし流行らなかったんだよな。

 発祥元は現在の軍の連中で、今まで陰口で聞くことは幾度かあったものの、直接俺をビーターと呼んで罵倒したプレイヤーは数えるほどしかいなかった。久しぶりにクラディールに言われて、そういえばそんな悪名もあったなと感慨深く思い出したくらいだ。

 

「侮辱じゃなくて忠告だよ。あんまり自侭が過ぎるとそのうちしっぺ返しがくるぞ。そう心配しなくても、お前さんとこの副団長は俺が責任持って守るし、ボス部屋見つけたらちゃんと返すよ。だから安心して帰れ」

「このガキがァ……!」

 

 挑発してるつもりはないんだけど、どうも逆効果だったっぽい。奴から感じ取れる薄気味悪さが確実に増していた。俺に対する怒気が内に篭って熟成し、ドロドロに粘性を帯びた良くない物へと変貌しているかのようだ。

 どうしたもんだろう。戦闘以外で、まして安全とされる圏内でここまで寒気を感じさせられることなんか滅多にないぞ。背中をぽかぽかと暖めてくれるアスナの体温がなければ、一目散に逃げ出したい程度には眼前の男と関わり合いになりたくなかった。

 誰かこいつ引き取ってくれないかなマジで。クラディールの上司であるヒースクリフにでも押し付けたいところだ。しかし生憎この場に聖騎士様はいない。くそ、使えない奴め。

 

「何度でも言うが、文句があるならお前んとこの団長に直接……」

「黙れ小僧、もはや我慢ならん! アスナ様、この私めが黒の剣士の化けの皮を剥がしてご覧に入れましょう! その暁にはこの男と迷宮区攻略に同行する件は白紙に戻していただきたい! ――黒の剣士、貴様に決闘を申し込む!」

 

 ……はい?

 あ、まずい、今俺の意識が飛びかけた。

 なんでここで決闘? そもそも化けの皮ってなんだ? いやいや、まずは落ち着け、落ち着こう俺。

 これはあれか? クラディールの頭の中では俺はアスナを騙す悪漢にでも認定されているんだろうか。詐欺師も真っ青の狡猾でズル賢い男としてアスナを言葉巧みに血盟騎士団から引き離し、クラディールはそんな卑怯者の手に囚われた自分達の女神様を救い出さんと決意した勇壮たる戦士、とか。……ありえない。あのな、女引っ掛ける詐欺師並に回る口とか、むしろ俺が欲しいくらいだぞ。口下手というか説明足らずを自覚するだけになおさら。

 

 まさかそこまで思い込みが激しいこともないだろうと冷や汗を流す。しかし純白のマントを翻して高らかに決闘の宣言をした男は、どういうつもりなのか一人悦に入ったように薄く笑んでいた。そのご満悦な様に、こいつ酒精で酔っ払ってるんじゃなかろうかという疑問すら浮かび上がった。一応この世界にはバッドステータスとしての泥酔はなかったはずなんだけど。

 自己陶酔入ってそうな男にますます相手にしたくない気持ちが募るも、ここで引くわけにもいかないとどうにかこうにか精神の立て直しを図った。HPバーは1ドットすら減少していないというのに、既に俺の心は疲労困憊である。嫌な精神攻撃だ。

 

「おい、いいのかよアスナ。あいつやる気満々だぞ。もういっその事このまま逃げちゃわないか?」

「わたしもキミとどっか遠くに行っちゃいたい気分なのは否定しないけどね。一応言っておくと、うちに決闘そのものを禁じる規則なんてないから、決闘の申し込みは非難できないわよ」

「奴の主張のほうは?」

「それこそ団長に直談判してほしいわよ……。幹部会議は合議制だし、尊重されるべき決定だもの。そこで決まったことを団長を差し置いてわたしの一存で勝手に変更したくないわ。ただ、わたしと団長には幹部会議での決定を差し戻す権限があるから、クラディールの主張も決して実現不可能なわけじゃないのよね。そんな強権使ったことはないけど」

「盗人にも三分の理ってことか。つまり、クラディールの主張もアスナの思い切り如何ではどうにでもなっちまうってわけだな」

 

 肩越しに小声で確認し合う俺とアスナだが、その会話内容を思って重苦しい溜息が出た。どうしてこうなった。決闘宣言をした相手はと言えば、俺を逃がさないためか早速周囲のプレイヤーを下がらせ始めていた。自然と俺たちを囲むようにギャラリーの壁が出来上がっていく。

 ここは現在の最前線たる第75層主街区は転移門の前だ。これから攻略に赴こうとする攻略組所属の連中がぞくぞくと乗り込んできていたわけで、人口密度はいや増すばかり。せめて人目につかない場所で決闘宣言してほしかった。

 

「《黒の剣士》キリトと《血盟騎士団》のクラディールが決闘だとよ」「マジか、黒尽くめ(ブラッキー)先生を相手に決闘挑むとかすげーな。さすが血盟騎士団」「朝から面白い催しをやってるじゃないか」「賭けるか?」「やめとけ、賭けになんねえよ」「違いない、大人しく見物しときますかねっと」「今日はいいことありそうだな」

 

 楽しそうだな、野次馬ども。ノリが良いのは結構だが、出来ればこの場に残らず使命感に燃えて攻略を優先して欲しかった。それと俺は全然楽しくないし良いことなんて何もないぞ、アスナが俺の背中に密着してきた役得を除けば。

 

「ごめんなさいキリト君、こんなことに巻き込んじゃって……」

「アスナが悪いわけじゃないし、アスナとコンビ組むことに賛成した時点で多少のトラブルは覚悟してたよ。ま、あんまし気にしなくていいんじゃないか。あそこまで頑なになられたらどうにもならないだろ」

 

 それこそヒースクリフにお出ましいただく事でしか収拾のつけようがない。それを思えば決闘の一つ二つで事態が解決するなら気にするほどでもなかった。文句があるとすれば精々増え続けるギャラリー程度のものだ。それだって割り切ってしまえばそれで済む話だし、手の内なんてフロアボス戦に参加してる連中にはとっくに明かされてるんだから隠す意味もない。俺が決闘に勝てば丸く収まるならそれはそれで良しとしておこう。クラディールにはさらに嫌われるだろうけど、そこはもう諦めた。クラディールの機嫌を優先して攻略を遅らせるなんてそれこそ本末転倒だ。

 とはいえわからないこともある。俺が攻略組でも一、二を争う戦闘能力保有者であることはクラディールとてわかっているだろう。二刀流スキルの存在だってある。戦いがレベルとスキルだけに左右されるわけじゃないのは承知しているが、それでも大きなアドバンテージであることには変わりなかった。レベルとスキルを比較すれば俺の方が圧倒的有利な現実は変わらない。だというのにクラディールは一体どんな勝算があって俺に決闘を吹っかけてきたんだ? 不可解と言えばその点こそが最も不可解だった。

 

「なあアスナ、あいつってお前より強いのか?」

 

 ヒースクリフに迫る程の実力者なのかと尋ねたようなものだ。

 血盟騎士団は精鋭揃いのギルドである。その中でヒースクリフは別格にしても、アスナとて攻略組の中で頭一つ抜けた実力を持っていた。しかしそのアスナだって一対一に限れば俺を相手にするのは分が悪い。つまり最低限アスナクラスの実力を持たなければ俺を降すことは至難なわけだが、クラディールってそこまで強かったっけ?

 元々両手剣は乱戦に向いた武器でボス戦には不向きのため、フロアボス戦にクラディールが顔を出すことは稀だった。そのため、俺はクラディールの戦闘している場面をお目にかかったことがほとんどない。故に奴の正確な実力も知らないので今ひとつ釈然としないのだが、勝算もなしに決闘を吹っかけてきたとも思えなかった。

 俺よりもその辺の事情に詳しそうなアスナを見やると、止める間もなく進んでしまった事態に幾分気落ちした表情で項垂れていた。とはいえ俺の疑問はアスナの疑問でもあったのだろう、何時までも落ち込んでいられないと瞳に力を取り戻すと俺の隣に立ち並び、そのまま考え込むように口元へ指を当て、俺の疑問に答える。

 

「団員の詳しいレベルを話すわけにはいかないけど、うちのトップレベルを誇るのは団長で間違いないわよ。次席がわたしであることもね。レベルに限ればクラディールがわたしより下なのは確か」

 

 レベルに限らなくても、スキル、熟練度、技術、経験の各分野において血盟騎士団内でアスナ以上に抜きん出たプレイヤーは、団長であるヒースクリフ以外にはいないだろうさ。総合的な強さも然り。アスナの言葉は謙遜ということにしておこうか。

 

「だとすると尚更わからなくなるんだよな、俺のレベルが攻略組でもトップクラスだってことは暗黙の了解だと思ってたんだけど。単に奴の頭に血が昇って冷静な判断が出来なくなってる、って線もありといえばありか?」

「……複雑なのよね。君が強いのは歓迎するところなのだけれど、君の高すぎるレベルのせいでソロでフロアボスに挑むような命知らずになってるのかと思うと、素直に喜べない」

「そこは喜んでおいてくれると助かる。……どっちみち、クラディールの思惑はわからないか」

 

 苦笑と溜息を順々に零す。本来なら今頃攻略のために迷宮区に潜っていたはずなのに、どうしてこんなところで足止めを食らっているんだろう。

 

「一対一でキリト君の上を行けるのなんて団長くらいのものでしょ。わたしもクラディールが何を考えてるのかわからないから、十分気をつけて」

「そこは自分とこの団員を応援するべきじゃないのか?」

「わたしにストーカー男を応援しろって言うの?」

 

 ご尤も。嫌そうに顔を顰めるアスナの言い草に思わず笑ってしまった。

 

「さいでした。そんじゃ一つだけ注文な。俺を応援するなら、せめて奥ゆかしく内心だけに留めておいてくれよ。これ以上アスナのファンに睨まれるのは御免被る」

「ええ、心の中で精一杯応援させてもらうわ」

 

 よっぽどクラディールの行いが腹に据えかねたのか、答えるアスナは一点の濁りもない綺麗な笑顔を浮かべていた。自業自得とは言え、クラディールのやつも哀れな。あいつ、アスナに蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われたんじゃないか? アスナのために決闘なんて真似を仕出かしたんだろうに、当の本人からの好感度が右肩下がりというのも切ない話だ。同情はしないけど。

 アスナと顔を寄せ合って交わしていたひそひそ話を切り上げ、人の壁で簡易的に作られた決闘場の中央まで足を進めると自然、問題の男ことクラディールと再度相対することになる。奴の三白眼で睨みつけられるのも慣れたものだ。

 

「逃げても良かったんだぜぇ、黒の剣士様よぉ」

 

 黙して語らぬ俺が気に入らなかったのか、今度は嬲るように嫌味ったらしい声で告げるクラディールだった。怒りに逆上したままだった先の醜態とどちらがマシだったのやら、言葉を交わせば交わすほど奴から品性の鎧が剥がれ落ちていくようだった。まさか万人にこの調子とも思えないから俺限定の悪意なのだろうけど、こんな特別は心底いらなかったぞ。

 

「御託はいいからさっさと決闘申請を出せ。こうしてる時間だって勿体ないんだ」

 

 何処か投げやりになっていた自覚はあった。こんな馬鹿みたいな理由の決闘騒ぎで攻略を遅らせてどうするよ。

 

「ふん、いつまで余裕面をしていられるか楽しみだぜ」

 

 嫌な笑みを貼り付けたままクラディールはシステムメニューを呼び出し、手早く操作した。それから程なく俺の視界には半透明のシステムメッセージが出現し、クラディールから一対一の決闘が申し込まれたことを告げる。後は俺が受諾のYESボタンを押せば決闘開始までのカウントダウンが開始される。それ自体は見慣れたもので、幾度も目にしたことのあるメッセージだった。

 珍しいと言えばオプション設定が既に選択されていた事か。普通、モードを選択するオプション設定は申し込まれた側、つまり俺に決定権があるわけだが、あくまでそれは儀礼的、慣例的なものであって、申し込み側が先にモードを選択して申請を出すことだって特別非難されるようなことではなかった。若干のマナー違反には含まれるけど。目くじら立てて文句を言うほどの問題じゃない、というのが正確なとこかな?

 だから俺も然して気にすることなく画面へと指が伸び――そこでぴたりと指が止まる。自身の目を疑い、一度瞬きをしてからもう一度申請画面を確認し、変わらずオプションモードに表示される《完全決着》の文字に今度こそ目を剥いた。

 

「完全決着モードだと!? お前、何を考えてる……!」

 

 続けた俺の「正気か」との問いに、「当然だ」と返すお前の何処らへんに正気が残っているのかと重ねて問いたい。よっぽど「冗談だ」と返す方が正常な反応だぞ。

 決闘には三つのモードがある。すなわち、初撃、半減、完全だ。この内、初撃、半減の二つは問題ない。それこそ俺だって何度も使ったことがある馴染み深いものだ。しかし、プレイヤーのHPをゼロにすることで勝敗を決める《完全決着モード》だけは決闘目的に使用したことがなかった。

 当然である。このゲーム世界を遊びでなく現実とした最たる理由、《HPがゼロになったら現実世界でも死んでしまう》ルールがある限り、完全決着モードなんて無用の長物どころか害悪でしかない。言うまでもなく俺たちプレイヤーの認識では完全決着は利用してはならないタブーだった。普通の神経をしたプレイヤーだったら選択肢にも挙がらないものだ。それこそかつて睡眠PKの手口を利用したレッドのような犯罪者でない限り。

 決闘システムの利用用途は訓練から腕試し、揉め事の解消手段と様々だが、決して殺人を目的に使われて良いものではなかった。それをこんな白昼堂々仕掛けてくるなど、正気を疑われても仕方ないだろう。

 

 ……待てよ。正気? もしもクラディールが正気であり、冷静に判断した上で完全決着モードを選択したならどうだ? まともに俺とぶつかり合っても勝ち目はないと踏んで、その上で勝利を貪欲に求めたのだとすれば――。

 改めてクラディールの表情を観察する。動揺の欠片もない、自身の決断に迷いのない顔をしていた。……これは突発的な決闘宣言じゃないな。初めから完全決着モードを想定していたことを伺わせる落ち着きぶりだ。

 クラディールを問い質した俺の言葉はこの場に集ったプレイヤーの間に静かに浸透していき、広場を満たしていた高揚したざわめきが困惑へと変化するのに時間はかからなかった。俺とクラディールの確執を知らないプレイヤーにとっては何が起きているのかを推測することすら困難だっただろう。俺だって推測は出来ても信じたくなどない。まさかクラディールが、自身の命を質に俺を負かそうとしているなど想像の埒外だ。

 

 確かにデスゲームに支配されたアインクラッドだからこそ出来る捨て身の戦法ではある。完全決着モードなら俺が戸惑って剣を振るえない、あわよくば不戦敗に追い込んでやろう、クラディールはそう考えたのか。しかしこれは思い切りが良いとかで済ませられる範疇じゃないぞ。

 諸々の混乱をどうにか押さえ付け、一体どういうことだと思考に沈む。

 何がそこまでクラディールを駆り立てる? アスナへの執着? 俺への反感? そこまでアスナが俺と行動を共にすることが気に入らないのだろうか。それにしたっていくら何でも優先順位がおかしすぎるだろうと思うけど。

 

「クラディール! 決闘だけならまだしも、完全決着モードなんて許されないわよ!」

 

 ここまで静観していたアスナがクラディールの暴挙を悟り、顔面を蒼白に染めながら俺と奴の間に割って入った。

 俺を背に庇い悲鳴のような叫びをあげたアスナの憤慨を前にしても、クラディールは愉しげに唇を吊り上げて余裕の態度を崩さない。その目にはどこか嗜虐的な色が見え隠れしているように見えた。

 

「おかしいですな、血盟騎士団には《完全決着モードを使用してはならない》などという取り決めはなかったはずですが」

「そんなの明文化するまでもないことだからに決まってるでしょ! とにかく申請を即刻取り消しなさい、これは命令よ!」

「聞けませんな。アスナ様に活目していただくためならばこのクラディール、命とて惜しくはありません。――さあ黒の剣士、剣を執るがいい! 正々堂々と決着をつけようではないか!」

 

 正々堂々って、あのな、お前はなにを言ってるんだ? それともこの期に及んでクラディールの本気を信じられない俺が悪いのだろうか。

 そんな愚痴も今は脇に追いやる。今はこの事態をどうやって沈静化させるべきかに目を向けるべきだ。既に挽回できる範囲じゃないような気もするが、このままでは確実にまずいことになる。

 

「駄目よ! キリト君、こんな馬鹿な決闘絶対受けちゃ駄目だからね! クラディール、あくまで退く気がないというのなら、このわたしが――」

「アスナ、構わないから下がってくれ」

 

 剣に手を伸ばそうとしていたアスナを制止し、告げた。

 

「キリト君!?」

「頼む、アスナ」

 

 振り向いたアスナは常になく焦っている様子だった。こんな状況じゃ無理もないか。

 攻略組のトップギルド、最強ギルドと評される血盟騎士団の副団長を務めているとは言え、中身は俺と然して年齢の変わらない一人の少女でしかない。こんな場面でまで動じるなというのも酷だろう。俺だって内心の動揺はかなりのものだ。

 

「……わかった。でも、やりすぎは駄目だからね、キリト君」

 

 じっと見つめあうこと数秒、アスナはその一言を残してゆっくりと俺から離れていく。

 場に漂う不穏な気配を察したのか当初のお祭りムードは完全に鳴りを潜め、固唾を飲むように俺たちを注視するギャラリー達。衆人環視の中でどうしてこうも自侭に振舞えるのだと、胸の内からクラディールに対して憤りが込み上げる。血盟騎士団が背負ってる最強ギルドの看板は、お前にとってそこまで安っぽいものだったのかよ。

 

「決闘を受ける前に聞かせてくれ、本気か?」

「はっ! 本気も本気に決まってんだろうが。怖気づいたかよ……!」

 

 やっぱり本気なのか……。

 俺にはお前がわからないよ、クラディール。アスナをギルドに連れ戻すことが、いや、俺から引き離すことがお前にとって攻略以上に優先することなのか? 俺が気に食わなくて、そのために俺を馬鹿にするだけなら放っておいても問題にはならなかったんだけどな。せめて今回のことも額面通りの決闘騒ぎに終始してくれていれば――。

 

「栄えある――」

「あん?」

「――栄えある血盟騎士団の団員としては余りに身勝手な台詞だな。《聖騎士》殿や《閃光》殿を万分の一でいいから見習えよ。いいか、俺達攻略組の命は、こんなつまらない決闘で遊ぶために費やして良いもんじゃない。ゲームクリアを待つ人たちの刃足らんとするのが最前線に集う俺達の務めだろう。だと言うのに何を血迷ってやがる……! 恥を知れ、クラディール!」

 

 お前も血盟騎士団の一員だというなら、わけのわからん理屈で命をチップにした決闘を軽々しく仕掛ける真似がどうして出来る。攻略組の規範たるトップギルドの重みを背負って戦うのが、最精鋭たる血盟騎士団所属の騎士たる務めじゃなかったのか。

 本当、なんだってこんな馬鹿を仕出かしてくれてるんだよ。この場にどれだけのプレイヤーの目があるかわかってるのか? 思いっきり醜聞だぞ。ついでにどんな結果になろうと俺と血盟騎士団の仲が緊迫化待ったなしだ。お互い損しかしない決闘じゃないか、これ。

 白昼堂々タブーを犯しにくるな、建前は建前としてしっかり守れ。別に心から他のプレイヤーのために命を懸けろなんて言わない。俺だって戦えない連中のために剣を振るうなんてご立派な主張を、建前以上に説いてるわけでも実践してるわけでもないんだから。

 それでもTPOを弁えてほしいと思ってしまうのは俺の我侭なのか? モラルに欠ける本音をぶちまけたいなら、せめてひっそりと仲間内で酒でも飲みながら愚痴ってくれ。それなら誰も文句言わないからさ。

 

 このまま不貞寝を決め込みたいくらいだったが、それでも何とかこの場を収めようと頭をフル回転させたのは、これ以上血盟騎士団の看板に泥を塗られる前に何とか事態を軟着陸させてやるためだった。

 完全決着モードの決闘なんて誰が受けてやるものか、ここはどうにか口八丁で切り抜ける……!

 そう考えてとりあえずクラディールに血盟騎士団所属の騎士であることを思い出させてみたのだが……これで少しは大人しくなってくれるだろうか? 一々芝居がかった態度が目立つように、クラディールは間違いなくプライドの高い男だった。一度他人の視線を意識させれば、多くのプレイヤーが見ている前で矢鱈滅多な支離滅裂さは見せたくないはずだ。クラディールだって自分の行いが道理に見合わないことくらい気づいている……はずだ。……頼む、気づいていてくれ。

 後はこのまま対応を間違えないように上手く誘導して、決闘自体を取り下げる方向に持っていければ――。

 

「ごちゃごちゃうるせえ! テメエはこの俺が必ず殺してやる、いけすかねえガキがッ!」

 

 クラディールの殺害宣言、もとい雄雄しい叫び声が広場を駆け抜けた。……全力で空耳であってほしかった。

 おい、なんでそうなる。折角の芝居を無駄にするなよ。それとも俺の台詞をそのまま弾劾として受け取ったのか?

 ガラガラと俺の目論見が崩れる音がした。

 人目も気にせず殺害宣言とかちょっと勘弁してもらいたい。そりゃ感情が昂ぶっての暴言なんだろうとは察しもするが、お前は自分が何を口走ってるのか理解しているのかと小一時間問い詰めたいくらいだ。

 ここは『確かに私の心得違いであった。忠告感謝する、黒の剣士』みたいな台詞で格好良く去っていけば良い場面じゃないか? そのための芝居だったのだし、これならクラディールの面目だってどうにか保てただろうと思うんだよ。攻略組として、血盟騎士団の団員としての度量だって示せる。《過ちては改むるに憚ること勿れ》ってな、頭を下げることは決して恥じゃないんだよ。むしろ演出の仕方によっては強力な武器にだってなる。

 だというのに奴は我を貫いた。決闘の申し立てを引っ込めるつもりは毛頭ないってことか。どうしても白黒つけたいらしい。

 

 言葉に詰まり押し黙る俺を、クラディールはどこか濁った双眸できつく睨み続けていた。

 クラディールは攻略組としてそれなりに名の通ったプレイヤーである。相応に頭も回るはずだと考えてたんだが、それは俺の見込み違いだったのか? それとも俺への強い敵愾心がこの男本来の思考を鈍らせてしまっているのだろうか。憤怒に染まった表情と血走った目を見る限り、後者のほうが説得力がありそうだけど、何もそこまで俺を嫌ってくれなくてもいいだろうに。そんなに俺って性格悪いのかよ。

 俺のことが気に食わないなら、わざわざ突っ掛かってこないでひたすら無視に徹するとか出来なかったもんかな。いや、今回の場合は俺への反感だけじゃないか。敬愛する副団長様と侮蔑対象の俺が仲良く一緒にいることが許せなかった、ってのも一因というか主因なのだろうし。だからって完全決着モードの決闘を吹っかけてくるとかどれだけだよ……。この場合、冷静になれって俺が言うのは逆効果なんだろうなぁ。

 

 もうどうにでもなれという投げやりな気持ちと、あまりに理不尽な出来事を前にした八つ当たりを踏まえて決闘受諾画面を睨みつけ、長らく放置されていた《YES》ボタンを押し込んだ。事ここに至っては俺の口先一つじゃ止まらないだろう。どんな形であれ一戦してやらなきゃ収まりがつかないはずだ。一体何が悪かったのかと自省してみるも、全ては後の祭りだった。

 デフォルト設定のままなのできっちり60秒間のカウントダウンが始まる。同時にお互いのHPバーが可視化され、眼前に浮かび上がった。

 俺たちの間に浮かぶカウント表示がゼロになったとき、圏内においてプレイヤーを守る絶対のHP保護システムが切られ、決闘開始の合図となる。システムの上では決闘であっても、その内実は殺し合いと言って語弊がないのがひたすら憂鬱だ。まさか完全決着モードの下で剣を振るう日がくるとは思わなかった。

 こうなってしまった以上は仕方ない。集中力を高めようと呼吸を整えていく。半減決着モードですら場合によっては命の危険があると言われているのだ、完全決着モードなどという悪魔のルールが敷かれてしまった以上油断は命取りになる。決闘そのものを馬鹿にするつもりはなくとも、こんな馬鹿馬鹿しい戦いで命を落とすのは断じて御免だった。

 

「ここまで大きな騒ぎになれば確実にヒースクリフの耳に入る。どう言い訳するつもりだ?」

「テメエが知る必要のねえことだが……ふん、座興だ。付き合ってやる。――アスナ様がテメエとコンビを組むと知って、団長にはここ三日程通い詰めて再考を迫ったが、あの方は決して首を縦に振らなかった」

 

 せめてヒースクリフの名で思いとどまってくれないものかと口に出すと、クラディールは一瞬顔を歪めたものの意外なことに返答をよこした。もっともすぐに愉悦に染まった表情に戻ったあたり、俺の思惑通りに事態は動いてはくれないようだ。

 

「だがな、俺の熱意を団長は汲んでくれたぜ。ギルド方針に反した俺の主張を通したいのなら《剣で語れ》とな。俺の決闘は団長のお墨付きってわけだ。残念だったな」

 

 ……それ、絶対お前の勘違いだと思うぞ。

 得意げな顔で血盟騎士団の裏事情を語る男に、思わず半眼で突っ込んでしまいそうになった。《道理を無視して我を通したいのならば、己が剣を以って語って見せろ》とは如何にもヒースクリフの言いそうなことではある。しかしその言葉の真意はヒースクリフ自身にクラディールの主張を剣で認めさせてみろという意味だろう。間違ってもギルド外のプレイヤーである俺に決闘吹っかけて事を荒立てろというものではないはずだ。……まさか三日通い詰められて対応が面倒になった挙句、俺に丸投げしたとかいうわけでもあるまい。

 ヒースクリフは道義や義理を軽々しく無視して秩序を乱すような男ではない。もしも徒に混乱を呼び込むようなプレイヤーなら、今日のアインクラッドにおいて多数のプレイヤーから絶大とも言える尊敬と信頼を勝ち得ていないだろう。つまり今回の決闘はヒースクリフのお墨付きでも何でもなく、ひたすらクラディールの勇み足かつ拡大解釈による暴走だということだった。……俺にどうしろと?

 溜息を一つ吐けば幸せが一つ逃げるというのなら、本日の俺の辞書に幸福の文字はない。アインクラッドのキリトさんちでは、幸せさんは皆逃げ出して不幸さんがお留守番をしてますよ、ってなもんである。幸せカムバック……!

 

「あんた、羨ましくなるくらい都合の良い耳してるよ」

 

 いや、この際お目出度いと言うべきか? 語れば語るだけ墓穴を掘る男にどうしたものかと悩んではみても、これ以上は付き合ってられないという気持ちがどんどん大きくなってくる。早々に決闘を終わらせ、攻略に戻りたい。

 そんな内心を抱えた俺のぞんざいな言い草に、クラディールは再び眦を吊り上げて怒鳴りつけようとしたようだが、決闘開始までのカウントダウンが迫っていることに気づいて自重したらしい。腰から装飾過多の両手剣を抜き放ち、身体を前傾させる姿勢を取った。

 両手で握った剣は右肩へ担ぐように構え、剣先は俺に向けられた刺突の予備動作だ。ここまであからさまなのも珍しいため、おそらくは擬態だろうとは思うが、大前提として先手必勝の構えであることは確かだ。あそこから守勢に回るというのは考えにくい。

 翻って俺はと言えば、背の鞘から黒塗りの剣を引き抜き、右手に軽く握ったままだらりと腕と言わず全身を弛緩させていた。格好つけた言い方をするなら無形の位に近いか。後の先狙いの構えだった。

 

「テメエ、俺を舐めてんのか? 二刀流使いが剣一本しか使わねえのはどういう了見だ、あ?」

 

 ぴりぴりと高まる戦闘熱を肌で感じていた矢先に、相変わらず目を吊り上げて不機嫌を隠そうともしないクラディールが語気荒く問い質してきた。凄み方が不良というかチンピラである。俺が言えたことじゃないけど、もう少し品性ってやつをだな……。いや、それはいいから決闘に集中して黙ってろよお前。これから戦う相手に戦術を尋ねるとか馬鹿丸出しだぞ。

 

「ちょっとした約束があってな。プレイヤーを相手にする決闘では無闇に二本目の剣を抜かないようにしてるんだ」

「なんだとぉ……」

 

 そう怒るなよ、大した理由があるわけじゃないんだ。

 攻略に躍起になって周りが見えなくなっていたことを自覚したからこそ、少しだけ張り詰めた心の弦を緩めようと考えた。攻略とは関係のない遊び心(こだわり)を持ってみようか、と。

 リズの剣はゲームクリアのための力であり、この世界を終わらせるために振るう刃だ。だからこそ俺が左手の装備スロットを埋めて二刀流を存分に振るうのはモンスター相手だけと決め、決闘にリズの剣は極力使わないことにしたのである。不思議だったのはそうやって気持ちにゆとりを持たせた方が戦闘に集中できるようになり、攻略効率が若干上がったように思えることか。意外な成果を得た思いだ。

 

 もちろん矜持を命に優先させる気はない、PoHのような危険極まりないプレイヤーが相手ならば話は別だ。俺自身を守るために、そして仲間を守るために、どうしてもプレイヤーの命を奪わなくてはならない時が再びくるというのなら、その時はリズの剣を振るって全力で戦う。次にあの男と(まみ)える機会があるのなら、以前のように俺の剣筋が鈍ることはないと確信していた。

 もっとも今はそんな切羽詰った状況ではなかった。勝つことを義務付けられた戦い以外に二刀流は不要だ。……というか、この決闘に関しちゃ二刀流の火力を持ち込む利が俺にはこれっぽっちもないのだから、盾なし片手剣スタイルの方が都合が良い。二刀流の上位剣技なんて威力がありすぎて下手に対人戦に用いるとオーバーキルすぎる。うっかり決闘相手のHPバーを吹き飛ばしちゃいましたとか洒落にならない。

 どちらにせよ俺の言い分はクラディールにとって挑発にしかならなかったのだろう。それならそれで利用できる、ついでとばかりにもう一手打っておくことにした。多少でも効果が期待できるなら良し。

 

「そもそもこの決闘、あんたは挑戦者側だろうが。俺が上で、あんたが下だ。俺の戦い方にいちいち文句をつけられる立場じゃないってことをまず自覚しろ。……そうさな、俺もヒースクリフに倣ってこの言葉をくれてやるよ。――言いたいことがあるのなら剣で語れクラディール、繰言ばかり抜かすのは負け犬のすることだぜ」

 

 その繰言でクラディールを退けようとしていた俺自身のことは盛大に棚上げである。今日から座右の銘を《心に棚を作れ》にでもしようか。

 出来るだけ憎たらしく見えるよう、嘲りと不敵さを半々くらいにブレンドした表情を浮かべて口角を吊り上げる。戦闘を有利に進めようというのなら、対戦相手の平常心を奪う挑発――舌戦は基礎中の基礎だ。

 これが本来の力試し的な意味での決闘だというのなら、いくら悪どい俺でもここまで露骨に煽ったりはしない……と思う。多分。おそらく。めいびー。

 しかし今は別である。完全決着なんて馬鹿な手段を仕掛けてくれた相手だ、そんな野郎にかける慈悲を俺は持ち合わせちゃいない。この程度の挑発では手緩いくらいだった。

 

「この、クソガキが……っ!」

 

 ……手緩いはずだよな? 血管を浮き立たせるように顔面を怒気に染め上げたクラディールを見るに、些か手ごたえがありすぎて困惑する結果になった。ちょっとばかし意外だ、ここまで見事に挑発に乗ってくれるのも珍しい。珍しすぎて裏を疑いたくなるレベルだった。

 もしやすると激昂したフリをして俺を油断させるクラディール一流の芝居なのではないかと、そんな懸念が脳裏を過ぎる。あれが演技だとするなら相当真に迫っている、これは芝居の線も踏まえて警戒しておくべきか。そう考えたところでカウントダウンはついにゼロ。決闘開始だ。

 

 クラディールが前傾姿勢を保ったまま地を蹴り、攻略組プレイヤーに相応しい速度で俺に迫り来る。勢いそのままに右肩に背負った刃を力強く突き出す一撃に対して、俺もエリュシデータを操って剣の軌道をずらしにかかった。

 大振りの両手剣と細身の片手剣の間で火花を散らすように乾いた音が鳴り響くも、寸毫の見切りによって奴の剣が俺に届くことはない。刃は俺の脇を抜け、後方へと流れただけだ。クラディールの攻撃がソ-ドスキルでなく単なる通常攻撃だったために出来た回避方法だが、その一瞬の交差にクラディールは目を見開いて驚愕を露わにしていた。……この程度で驚くなよ、まさか今の一撃が俺に届くと考えていたわけでもあるまいに。

 

 その心根はともかく、クラディールとて相応の場数を経て攻略組の一員としての立場を得ている、想定外のことに一々動きを止めたりはしない。素早く剣を引き戻すと、鍛え上げられた筋力数値を生かして連続した斬撃を見舞ってきた。

 両手剣使いに推奨されるステータス構築は筋力優先だけに、クラディールの剣は一撃一撃が重い。それに対し、筋力、敏捷、共に偏重のないよう振ってきたバランス型ステータスの片手剣使いとしては、鍔迫り合いは不利と判断して回避と受け流しに努めるのが定石である。しかし俺がまともに片手剣対両手剣の定石を守ると考えてるなら認識が甘いぞ、クラディール。全プレイヤー最高のレベルは伊達じゃない。たとえバランス型ステだろうとお前に匹敵する筋力数値を誇るんだ、武器の重量の不利を覆して正面切って押し返すことだって出来る。

 

 ……こんな風にな。

 何度目かの剣戟に合わせて自らクラディールの懐に飛び込むように間合いを詰めると、お互いに袈裟からの鍔迫り合いに突入し――そのまま俺が力任せに押し切った。その瞬間、無防備な死に体を晒すクラディールだったが、俺はそこに一撃を入れることなく再び距離を取る。

 決闘の勝敗がHPをゼロにする完全決着である以上、俺にとってクラディールのHPを全損させて得る勝利条件などあってないようなものだ。見方によればこの決闘は女を巡っての痴情のもつれ合いが発端なのだし、そんな脱力するような理由で人を殺したくない。

 勿論威嚇の意味でクラディールのHPを削るのもありと言えばありなのだけど、多くのギャラリーの前で下手な真似をしたくなかった。『あいつは完全決着モードであっても躊躇いなくプレイヤーを傷つけられるやつだ』、なんて評判は嬉しくないのである。そのあたり、俺の対戦相手様はどう考えているのか聞いてみたいものだ。一片の迷いも感じさせない両手剣の太刀筋には苦い思いが募るばかりだった。

 

「へ、へへへ。どうやら俺を本気で攻撃できねえようだな、ざまあないぜ」

 

 俺に弾き飛ばされた不恰好な体勢を取り繕うようにクラディールが強気な態度を装う。無防備を晒していながらダメージを受けなかったことで完全決着モードを仕掛けた効果を実感したのだろう。俺が手出しできないと確信したのか、声と表情の両方に愉悦の色が混じっていた。……そう素直に感情を表すなよ、裏があるのかと不安になるじゃないか。

 改めて思うんだが、お前の役割演技(ロールプレイ)は本気で何処を向いてるんだ? 悪役を標榜したいのなら所属するギルドを間違えているし、血盟騎士団の団員として正義の騎士をやりたいというのなら、もう少しやりようがあるんじゃないかと思うんだけどな。

 

「安心しろ、あんた程度の腕じゃどれだけ剣を振り回しても俺にダメージを与えられないよ。好きなだけ攻撃しとけ」

「ふん、時間切れ(タイムアップ)引き分け(ドロー)狙いか。せこいことを考えるじゃねえかよ」

 

 お前が言うなー、とは本日何度目の嘆息だったことか。もう鏡を見ろとは言わない、お前は鏡に囲まれた生活を送ってくれ。

 挑発紛いの台詞には無言を貫く俺にクラディールは面白くなさそうな顔をしていたものの、すぐに気を取り直したのか獲物を甚振る嗜虐的な笑みを浮かべ、剣を構え直した。決闘開始の合図の時と似たような構えだ。

 

「そんな決着をこの私が許すと思うかァ……!」

 

 初めから許してもらおうとも思ってねえよ。

 クラディールの愉悦に染まった顔からはすっかり警戒心が抜けていて、どうやって俺を嬲ってやろうかという一点に気が逸っているようだった。気もそぞろなその様子からはとても決闘に集中できているとも思えない。必然、戦闘の駆け引きも稚拙で単純なものとなるだろう。

 今のクラディールに攻略組としての実力はない。油断と慢心が奴の手足を縛り、実力の大半を封印してしまっている。そんな状態でソードスキルを発動しようが怖くも何ともなかった。――そうなるように仕向けたのは俺だけどな。

 

 アインクラッドにおけるプレイヤー同士の戦いとは、即ちソードスキルの読み合いだと言って過言ではない。

 無論、ソードスキルなしでも勝利を手にすることは可能だが、システムアシストを得ることのできるソードスキルはその速さ、正確さ、命中性能が圧倒的だ。よっぽど仮想世界の動き方に熟達し、かつ高レベル高ステータスを実現したプレイヤーでないとソードスキルに迫る動きは出来ないだろう。そして出来たとしてもシステム判定的な意味でダメージ効率はソードスキルの方が圧倒的に上となる。結局ソードスキルに頼ることになるのだから、ソードスキルなしでの戦いを想定すること自体ナンセンスだった。

 相手の選択する剣技、自分の繰り出す剣技、そのぶつかり合いを如何に読むかが決闘の勝敗を分ける重要な鍵であり、そこに腕試しの醍醐味がある。しかし俺がクラディールを相手に仕掛けたのは、徹頭徹尾油断を誘うことでソードスキル発動に伴う一切の虚飾を剥ぎ取ってしまうことだった。

 

 自身が攻撃されないとわかれば警戒心が薄くなる。俺が引き分け狙いだと悟れば決着を急ぐ。加えて、様子見の段階での剣の応酬で、純粋な剣の技量では俺に分があるのだと察しただろうから、スキルを用いない剣腕の競い合いでは時間切れの可能性が高いと考えもしよう。行き着く先はソードスキルを使用した大ダメージ狙いの一手しかない。

 そして――。

 油断がフェイントを省く。慢心が動きを単純化する。硬直化した思考が安易な選択に飛びつかせる。

 危険の存在しない場所から一方的に俺を攻撃できると考えている男が、この期に及んで対プレイヤー戦の基本を守ることはなかった。数撃ちゃ当たるとでも思ってるのかもな。

 嗜虐的な笑みを浮かべた男は意気揚々と剣を上段に構えるや、間髪入れずにソードスキルの初動モーションを開始する。そこに攻略組所属の強者としての技巧はない。繰り出すソードスキルを正確に読むことも容易かった。

 

 クラディールが放とうとしているのは両手剣スキルの上段突進技《アバランシュ》。

 受けようとしても両手剣特有の重さと突進の加重による衝撃が反撃の機会を奪い、行動の自由を縛られることを嫌って回避に成功しようとも突進技ならではの動きで距離を稼ぎ、反撃の間合いをすぐに脱してしまう。《アバランシュ》は攻防にバランスの良い優秀なソードスキルと言えよう。

 難点を言えば技後硬直時間が長めに設定されているくらいだろうか。しかしその短所は防御と回避を困難にさせる長所によって埋められていた。《アバランシュ》習得の熟練度が相当高く設定されているのも頷ける、実用性の高いハイレベル剣技である。

 おそらくクラディールが対モンスター、対プレイヤー双方に多用する技なのだろう。実用的な意味での技の効果の高さも然ることながら、上段から繰り出される重量感のある一撃は迫力に満ちているし、剣を命中させた時のエフェクトも派手で見栄えも中々のものだ。

 

 クラディールの両手剣が発するオレンジ色の燐光が目に眩しく輝き、準備が整ったとばかりに荒々しく地を蹴って真っ直ぐに突進を開始した。システムアシストを得たクラディールの身体は、先の踏み込みとは比べ物にならない速さで猛然と距離を詰めてくる。フロアボスの速さにも迫らんとするその一撃、しかしその攻撃こそを俺は待っていた。俺の狙いが引き分けにあると決め付けたお前の失策だ、その判断こそを悔やんでくれ。

 クラディールが仕掛けたタイミングと同期するように後方へと一気に跳躍、鍛え上げたステータス数値と磨き上げたプレイヤースキルが俺の意図した距離を正確に跳び退ることを可能にしてくれる。着地の体勢を低く設定し、一度たりともクラディールから目を離すことなくタイミングを図る。奴は俺の動きを小細工と見たのか、相変わらず警戒の緩んだ表情を浮かべていた。疑念を持たないでくれたほうが楽には違いないが、ここまで狙い通りに踊ってくれるというのも考え物だ。どうも裏を疑ってしまって落ち着かない。

 とはいえ、一度発動したソードスキルは途中でキャンセルしようと技後硬直からは逃れられないのだから、この時点で俺の狙いに気付いた所で結果は変わらないだろう。この先の主導権は俺にある。後は脳裏に描いた動きを微調整しつつ再現するだけだった。

 

 オレンジの燐光を撒き散らしながら大振りの剣が振り下ろされる――直前、片膝を立てるような低い体勢から一気に跳躍した。筋力、敏捷の高さが可能にする無茶な身体運用ではあるが、対戦相手のレベルに合わせて能力を制限しなければならないなどというルールは何処にもない。

 俺が攻略組でも随一のレベルを誇ることなど情報屋に尋ねる必要もなく手に入る情報だ。その上で決闘を挑んできた以上、彼我のステータスの差を考慮しないのは単なる怠慢であるし、それを理由に敗北を受け入れられないというのなら初めから決闘なんて手段を取るな、という話になる。レベル差を覆す戦術や技巧は確かに存在する。システム上の数値だけがこの世界の強さを決定付ける要因とならないことは、死を身近に置く攻略組の誰もが知っていた。そしてプレイヤースキルの研鑽の重要性を知るからこそ、レベル差がもたらす圧倒的な戦力の差もまた把握している。

 システムと経験の融合こそが攻略組を支える強さの根幹だと知っているはずのお前が、どうしてこんな馬鹿な真似をした? お前はこの決闘の先に何を見ていたんだよ。

 

 クラディールの繰り出した《アバランシュ》は上空高くに跳躍した俺を捉えることなく空振りに終わった。

 ソードスキルは確かに回避が難しい。ハイレベル剣技だとすればなおさらだ。システム補正は相手の回避運動に合わせて技の軌道を柔軟に変化させることすら可能とするのだから、その速さと正確さを掻い潜ることは至難だった。ソードアート・オンラインを象徴するシステムだけに力の入れようもすさまじいものだと感心するばかりだ。

 しかしシステム補正も万能の魔法というわけではない。スキル発動中に無敵になるわけでもなければ、必中の加護を持ったシステムでもないのだからやりようはいくらでもある。

 

 ソードスキル回避を可能にする一つの答えとして、プレイヤーの視界認識の外へと動くことが挙げられる。追うべき相手を見失い、すぐに視界に捉えなおせなければ、ソードスキルはキャンセルされるからだ。

 例えば今回の《アバランシュ》の場合、防御と回避を難しくする重量と突撃の複合効果を無力化させることを念頭に置く。システムアシストの効果はプレイヤーの認識に負う部分も少なくない。突進技特有のスキル発動中の視界制限を最大にするために距離を稼ぎ、その上で急激な上下運動で撹乱してしまえばいくらシステムアシスト下とは言え、容易に追随できるものではなかった。ゲーム世界とは言っても上下の動きに弱い人間の構造上の特徴は無視できない。

 

 そして俺の動きを追えていたとしても、既にクラディールの身体は技後硬直の檻に囚われているのだ、次の一手はかわせない。布石としてスキル発動後に距離を開けていたから、アバランシュで稼げる離脱距離も高が知れていた。

 跳躍の限界に差し掛かった軌道の頂点で体勢を上下逆に入れ替え、上空からの急降下に合わせて初動モーションを開始する。

 左手で照準を合わせ、右腕を後方に引く弓術のような構え。本来は右足を引き、腰を落とした低空ダッシュの姿勢から突き出す片手剣スキルなのだが、空中では足場を固定できないためにやや変則的な構えとなった。しかし発動そのものは問題なくシステムに承認され、俺の剣からペールブルーの燐光が尾を引いて宙に散る。

 

 片手剣基本突進技《レイジスパイク》。

 威力も弱い初期剣技の一つだ。しかしこの局面ではそれで十分。俺の狙いはクラディールのHPを削ることではないのだから。

 落下速度にスキルによる突進効果が付与され、さらに加速する最中、裂帛の気迫を込めて剣を力強く突き出す。一筋の剣閃が技後硬直中のクラディールへと迫り、狙い違わずクラディールに握られた両手剣へと吸い込まれた。白銀の刃の中央に黒塗りの刃の切っ先が射抜くように繰り出され、甲高い衝突の音色が広場を鋭く駆け抜ける。

 一瞬の静寂。

 しかし俺が着地し剣を引くのに合わせて、クラディールの大振りな剣の中央に生じた皹が瞬く間に広がっていく。剣の消滅――ガラスの割れるような硬質の響きが空気を震わせたのは、俺がエリュシデータを背の鞘に納めたのと同時だった。

 その瞬間、固唾を飲んで決闘を見守っていたギャラリーから爆発したかのような歓声が飛び交った。

 

「すげえ、なんだ今の動き」「絶対《武器破壊》狙ってたよな。そうか、あんな壊し方もあるのか、さすが黒尽くめ(ブラッキー)先生」「てか飛んでなかった? あの人また妙なスキルでも手に入れたのか?」「アホ、ありゃ単に跳び上がっただけだ」「キリトさんカッケー」

 

 ちらほら聞こえてくる雑談に頭を抱えたくなる。だからなんであんたらはそんなに楽しそうなんだよ。まさかこの決闘が完全決着モードで行われてることを忘れてるわけじゃあるまいな? 決闘開始前はそれでも悲壮感があった気がするんだけど、今はそいつも何処かにうっちゃったのかお気楽そのものの空気が漂っていた。

 まあいいけどさ、と頭痛をこらえて対戦相手へと目を移す。クラディールは既に技後硬直を終えて自由の身に戻っているはずだ。しかし己の剣が消失した衝撃から回復できないのか、未だにその場に膝を着いたまま呆然と死に体を晒していた。その姿に自然と溜息が零れてしまう。

 武器破壊は公開済みの技術だ、何を驚くことがある。俺が武器破壊技能の発見者だってことも別に隠されちゃいない。その俺を相手にしたのだから、武器破壊の可能性は当然想定しておくべきことの一つだった。

 だというのに、まるで想定外の出来事だったとばかりに驚愕の顔で自身の両手を見下ろすクラディールは、これまでの振る舞いと合わせてあまりに情けない。それとも武器破壊を、先読みを駆使した機先を制する戦いでしか発動できない技術だとでも勘違いしていたのか? だとしたら認識不足も良いところだ。

 

 システム外スキル《武器破壊》を仕掛ける機は主に二つ。

 一つは相手の繰り出すソードスキルを読み、その軌道に合わせて的確な技を選択した上で剣の軌道をぶつけ合わせる、言わば正統派の使い方。

 そしてもう一つが今回俺が披露した、技の放ち終わりを狙った裏技的な使い方だ。技後硬直中の武器衝突も技を仕掛けるタイミングとして十分に機能する。何故なら技後硬直時間も含めてソードスキルはモーションが完結しているからだ。もっとも判定はえらく厳しくなるけど。

 そもそも《武器破壊》って使い勝手が悪すぎる技術なんだよな……。

 モンスターへ仕掛ける武器破壊はシステム上は部位欠損として扱われるため、時間が経てば回復してしまう。加えて武器破壊自体、労力とリスクに釣り合わないために使う機会は著しく限定される技だ。つまりは対人色の強いスキルなんて枠組みになってしまうわけで、実のところ公開したことを少しだけ後悔していたりする。

 

 まあ針の穴を通すような正確さと繊細さが必要な、シビアすぎるシステム判定を乗り越えなきゃいけない時点で実用向きな技じゃないんだけど。いわば曲芸みたいなもんだ。

 ギャラリーの中にも感心してる奴がいるみたいだけど、こんな実用性の低い技の習得にくれぐれも躍起にならないでもらいたい。武器破壊を習得するために時間をかけるくらいなら、その分をレベリング時間に費やしたほうがずっとマシなのだから。

 結局のところ、武器破壊がプレイヤー戦における禁じ手だと知りながらクラディール相手に用いたのは、俺がこの決闘に勝利する方策が他に思いつかなかったからだ。勝負自体をドローにしてしまうこともありと言えばありだろう。しかし異常なほど俺に突っかかってきたクラディールがそれで納得したかどうかは怪しい。ここで白黒つけてしまったほうが後腐れがないと判断したのだが、はてさて。

 

 なにより努めて冷静を装ってはいても、俺なりに頭にきていた。

 ちらとアスナを見やり、再びクラディールに目を移す。攻略組の範として、今までアスナがどれだけ心を砕いて血盟騎士団を率いてきたと思ってるんだか。ギルドの運営だけじゃない。自身が手勢を率いてマップ攻略に励む傍ら、攻略組全体の意見調整のために他ギルドとの折衝だって数限りなくこなしてきた。

 彼女がゲーム攻略のために尽力し、命を削るがごとくの過酷な日々を己に課してきたことは今更語るまでもない。それこそ彼女の功績の程は血盟騎士団の団長であり、攻略組の象徴として君臨してきたヒースクリフに比肩もしよう。アスナが今日まで背負ってきた労苦と重圧が並大抵のものであったはずがない。

 

 そうしている内に今度は崇拝染みた期待を寄せられるようにすらなった。その全てに応えようと奮闘してきたのが攻略組の誇る《閃光》の姿だ、俺は彼女ほど努力の似合うプレイヤーを知らない。

 その尽力の悉くを土足で踏みにじるような真似をしたクラディールに、俺はどうしても苦々しい思いを抱かずにはいられなかった。衆人環視の中で堂々とタブーを破りにきたクラディールにお灸をすえたくもなる。俺自身散々アスナに迷惑をかけてきただけに、余計にそう思えてしまうのかもしれない。

 

「もういいだろう。降参(リザイン)しろ、クラディール」

 

 俺の宣告は憤懣遣る方ない心境がそのまま口に出たかのように冷淡な響きをしていたんじゃないかと思う。クラディールに向けた俺の双眸も冷め切っていたであろうし、それを繕おうとも思わなかった。値打ち物であろう愛剣を失ったばかりの両手剣使いを気遣う優しさは、残念ながら今の俺には存在していなかったのである。

 

「……まだだ、まだ私は負けていない!」

 

 負けを認めろと告げた俺の言葉に、呆然と膝をつくままだったクラディールがようやく反応した。もっともそれは俺が望むものではなかったが。

 語尾を震わせながら往生際が悪いとも取れるつぶやきを吐き出し、奴の執念深さを体現しているかのように三白眼へと昏い光が宿る。その諦めの悪さは大したものに違いなかろうが、どうにも使いどころを間違えているような気がしてならない。こうして不倶戴天の敵として睨まれるのも勘弁してもらいたかった。

 そりゃ、システム上武器を失ったからとて決闘の勝敗がつくわけではないし、勝利を諦めるにはまだ早いという判断だってわかるけどさ。

 何がクラディールをそこまで駆り立てるのか、自失から回復した両手剣使いは素早くシステムメニューを展開し、アイテムストレージから予備の武器を取り出した。無手だった奴の手に長大な両刃の剣が出現する。先程の剣に比べてやや無骨さが増したような剣だ。細工師に装飾を施してもらう前だったのだろうか。

 何にせよ、クラディールに降参の意思がないことは確かだった。徒労感がひたすら増していく。

 

「降参する気はないんだな、クラディール?」

「あるわけねえだろうが! 誰がテメエなんぞに負けるかよ……!」

 

 血走った目をしたまま、泡を吹くように喚き散らすクラディールだった。

 ……これはもう俺の手には負えないか。諦観と共にそう結論付けるのに大した時間はかからなかった。

 

「わかった。なら、この決闘はあんたの勝ちでいい」

「なんだと?」

 

 嘆息しつつ告げた俺の敗北宣言が信じられなかったのか、猜疑に満ち満ちたクラディールの訝しげな表情を尻目にさっさと「参った(アイ リザイン)」と告げて決闘を終わらせてしまう。勝者であるクラディールの名を綴る紫色の文字列が出現し、システム的にも決闘の勝敗が決定した。

 クラディールはぽかんと大口開けたまま固まっていた。

 あのな、なんでそこで鳩が豆鉄砲くらったような顔をしてるんだよ。俺が降参するのはお前の狙い通りだろうが。まさか本気で俺のライフをゼロにして勝利するつもりだったわけじゃあるまいな? いくらなんでもそこまでしたら攻略組にいられなくなるぞ。

 

 意外だったのはあれだけ盛り上がっていたギャラリーが何の反応も見せなかったことだ。街中で派手に決闘騒ぎがあると、良かれ悪しかれプチお祭り状態になるものだし、勝敗が決まった瞬間こそ最も盛り上がるものだけど。俺が降参した瞬間にわずかなざわめきがあがったくらいで、それ以外には歓声の一つもなかった。完全決着モードなんて前例がない決闘なんだし、案外こんなものかもな。

 そんな感想を抱きながら、呆気ない幕切れに呆然としているクラディールにそれ以上目もくれることなく踵を返し、離れたところで見守っていたアスナの元へとゆっくり歩み寄っていく。クラディールに向けていた苦み走った渋面を労わりの表情に変え、「お疲れ様」と朗らかに俺を迎えてくれたことが有り難かった。

 

「俺が収めたほうが角が立たないと思ったんだけど、色々と力不足で悪いな。後は任せていいか?」

 

 元々奴に嫌われてる俺なら強引に押さえつけたところで何が変わるわけでもなかった。それにクラディールの論理でケリをつけてしまえば、決闘そのものを俺と奴の個人的な諍いだと強弁できなくも……さすがにそれは無理か。俺の芝居にクラディールが乗っかり、素直に剣を引っ込めてくれていればと思わずにはいられなかった。

 

「任されました。それとすぐに終わらせるからちゃんと待っててね。先に行ったりしないように」

「わかってる、ここでアスナを置いていくほど空気が読めないわけじゃない。心配無用だ」

「君はわざと空気読まないとこがあるから心配なの」

 

 すれ違い様、ジト目で告げてクラディールの元へと歩き出したアスナの後姿を苦笑いで見送った。

 意図的に空気読まないとは失礼な。俺の場合読まないんじゃなくて読めてないだけだぞ。そう返すのは俺の傷口を広げるだけだから絶対に口にしたりなんかしないけど。

 そんな馬鹿な言い訳をつらつら考えている内にアスナがクラディールからやや離れた位置で足を止めた。向かい合うには若干お互いの距離が遠いようにも見えるが、あれは多分心の距離が物理的な距離に転化されているのだろう。気丈な血盟騎士団副団長様とて一人の少女、ストーカー男には極力近づきたくないのが本音なのかもしれない。

 嫌われた当の本人はそんな上司の微妙な距離感に気づいた様子もなく、アスナの姿を目にして喜色満面の表情を浮かべていた。

 

「おお、ご覧いただけましたかアスナ様。私めの覚悟が黒の剣士を退け、あの小煩い小僧に黒星をつけることに成功しましたぞ。これも偏にアスナ様を想わんがため、私の忠誠でございます」

 

 酔ってんなー、と半眼でクラディールを見やる。ポジティブシンキングというか、その図太さは評価できるけど、相手が言葉通りに受け取ってくれるとも思えない。アスナの表情は見えないものの、多分苦虫を噛み潰したような顔をしてるんじゃなかろうか。ひたすら頭痛をこらえてるのだろうと同情してしまう。

 

「クラディール」

 

 アスナの発した声は氷雪を思わせる冷気――を通り越して絶対零度の凍気をこれでもかと思わせる寒々とした響きを帯びていた。未だにざわついていた野次馬の雑音すらぴたりと止めてみせたのだから大したものだ。今のアスナと正面から対峙したら、きっと俺は一目散に逃げ出すことを選ぶに違いない。

 

「血盟騎士団副団長の名の下に命じます。現時刻を以って《クラディール》が持つギルド内における権限の一切を凍結、さらにギルド本部での三日間の謹慎を申し付けます。正式な罰則は血盟騎士団団長ヒースクリフが追って通達することになるでしょう。速やかに令に従いなさい」

「なっ!? なぜですアスナ様! 私の決闘は団長公認であると……!」

「二度は言いません。これ以上口答えするのなら、わたしの権限であなたのギルド脱退を考慮することにします。それでもよろしいですか?」

「……ぐっ。……ギ、ギルド、本部に、戻り、謹慎に、努めさせて、いただき、ます」

 

 クラディールはアスナの本気を感じ取ったのか、恥辱と憤怒に顔面を真っ赤に染め上げ、屈辱に身体を震わせて途切れ途切れに承諾の返事を口にした。本心から納得しているわけではないのは明らかで、思い切り不承不承という態度ではあったが、ギルド脱退まで持ち出されてはそれ以上抗弁することも難しい。大人しく命令に従う以外になかった。

 そもそもギルド脱退などという、いわば《抜かずの宝刀》を持ち出された時点でクラディールには相当の屈辱だったはずだ。

 通常、MMORPGにおけるギルドというのはトップであるギルド長に権限の大半が付与され、システム上では上位下達の仕組みになることが避けられない。なにせ団員の加入、脱退の権限を一手に握るのだ。極論を言えばギルド長の機嫌一つで気に入らないギルドメンバーを一方的に追放することだって出来る。無論、軽々しくそんな判断を下すような人間に信頼が集まるはずもないし、やがては空中分解につながるだろうけど。

 

 ソードアート・オンラインでもそうした事情は変わらない。ギルド創設者、すなわちトップの座に座るプレイヤーに権限が多く集まるシステムになっていた。権限自体はある程度別の団員にも付与できるとは言え、ギルド長の権限が消えるわけでもないから権限譲渡と言うよりは代理委任か。アスナが自身の権限で脱退を考慮すると言い放ったのもそうした事情故だろう。血盟騎士団は副団長が実務面の多くを取り仕切っているため、与えられた権限も大きいはずだ。

 付け加えるならば、デスゲーム仕様となったアインクラッドでは共同母体に帰属することは死活問題だった。特に攻略組にとっては各種サポートに充実した大手ギルドに所属することは実際的にも命綱みたいなものだから、そこから離れることは攻略組を脱落することに等しい。それに一方的にギルドを追放されたなんて噂が出回れば、何処か別のギルドに拾ってもらうのも難しくなる。だからこそクラディールのように脱退をちらつかせられれば中々抗弁できるものではなかった。

 つまりギルド脱退勧告という脅しは上に立つ人間が軽々しく用いて良いものではないが、覚悟を決めて用いるならばその効果も絶大である、ということだ。まさに抜かずの宝刀である。

 

 クラディールはやりすぎた。

 アスナを俺から引き剥がし、ギルドに連れ戻すのならばまずヒースクリフから説得するのが筋だったし、それが出来なかったのならギルド幹部に掛け合って賛同者を増やすべきだった。そこからギルドの総意で決定を差し戻すのが一番穏当で無理のないやり方だったろう。

 それらの手順を無視してアスナに直談判する、あるいは俺に力ずくで言うことをきかせたかったのなら、こんな衆人環視の元で大立ち回りを始めるべきではなかった。クラディールにしてみれば俺を叩きのめした後に俺がごねないよう証人を欲しがったのかもしれないが、それにしたって取らぬ狸の何とやらだろう。

 一番まずかったのは完全決着モードの決闘を仕掛けてきたことか。あれがせめて普通の決闘であったならば、アスナとて別の収め方もあっただろう。完全決着モードは限りなく殺し合いに近いルールだ。どこのギルドだって、いや、どんなプレイヤーだって正当化することはない。完全決着モードを持ち出した時点で、この決闘はもはや俺とクラディール個人の問題では済まなくなった。

 

 アスナにしてみれば悪夢だったろう。同じギルドの同僚というか部下が、よりによって完全決着モードを団長公認の元に仕掛けた、などと周りを勘違いさせるような発言を堂々としてのけたのだ。下手をしなくとも血盟騎士団に俺を排除する意思があるのだと声高に主張しているようなものだし、まかり間違ってギルドの総意としてPKを目論んだなどということになれば、一体どれだけの混乱がこの世界にもたらされることか。

 血盟騎士団は軍のように治安維持を担っているわけではなくとも、その声望と実力でアインクラッドの秩序構築に一際大きな影響力を保持している。故に所属団員は強く自制を求められるのだし、だからこそ俺も血盟騎士団を尊敬していた。

 アスナとしてはそれこそクラディールを殴りつけてでも止めたかっただろうと思う。あの時、俺が決闘を受けず、なおクラディールが引き下がらなければ、アスナ自らその剣を抜いて押さえつけていたはずだ。

 クラディールの暴挙と血盟騎士団の不和を内外に喧伝し、アスナがクラディールに恨まれるよりはと考えて俺がでしゃばってみたものの、こうなってしまった以上俺は徒に場をかき回しただけなのかもしれない。血盟騎士団との不仲解消を後回しにしたツケがまわってきた形だ。こんなもん予想できるかちくしょう。

 

「……黒の剣士、許さん。この屈辱、決して忘れんぞ。殺してやる、殺して……」

 

 ぞくり、と悪寒。

 クラディールの憎悪を溜め込んだ不穏当なつぶやきが繰り返され、地の底から響く怨嗟の響きを耳にしたことで自然と背筋に冷たいものが走った。クラディールは地獄の鬼もかくやという恐ろしげな表情で俺を睨みつけながら、力が入りすぎて震えっぱなしの腕をマントの中に突っ込み、ポーチから転移結晶を取り出して発動させる。転移先は血盟騎士団のギルド本部がある第55層グランザムだ。

 転移の光が消えてクラディールの姿が見えなくなるまで俺の緊張が解けることはなかった。表現を濁さなければ臨戦態勢を解くことが出来なかった。そうしなければならないほど、クラディールの雰囲気には危ういものがあったからだ。

 一応断っておくと転移門は目と鼻の先にある。だというのにクラディールが転移門に足を向けなかったのは、貴重な転移結晶を使ってでもこれ以上自身の姿を衆目に晒したくなかったからだろうか。プライドが高いと言えばそれまでかもしれないが、どうにも奴の行動は不自然というか不可解に思えてならなかった。

 

 今回の決闘は目的と手段が噛み合っていない。勿論奴の口にした強引な理屈があるにはあるのだけど、後始末を考えるととても真っ当な考えのもと俺に突っかかってきたとは思えないのだ。頭に血が昇っていたにしろ、果たしてここまで無茶をするものなのか?

 そう考えたところで、俺自身感情を爆発させて馬鹿をやった過去が頭を過ぎった。……ふむ、誰でも後先考えずに動くことはあるかと自己弁護込みで一度頭を振る。クラディールの振る舞いに疑問は幾つか残るものの、人間合理性だけで動いているわけでもなし。これ以上追及しても仕方ないかと割り切った。それに今、何よりも問題なのは――。

 ……あれは、混じりっ気なしの殺意だったな。

 去り際の常軌を逸したクラディールの危険な目の光が脳裏を過ぎり、薄ら寒い思いが湧き上がってくるのを止められなかった。同時に、ますます血盟騎士団との溝が広がった気がして頭痛が増していく。前途多難だ。

 この先どうしたものかと顔を顰めていた俺の前で、神妙な顔をしたアスナが深々とお辞儀をしたのは、クラディールが去ってすぐのことだった。

 

「重ね重ねの部下の非礼、血盟騎士団副団長アスナが伏してお詫び申し上げます。此度の決闘は誓って血盟騎士団の総意ではありません。後ほど団長ヒースクリフからも改めて謝罪の言葉が届くでしょう。その上で厚かましくも黒の剣士殿のご温情に縋り、なにとぞご寛容頂きたく存じます」

「血盟騎士団副団長の謝罪、確かに受け取った。《黒の剣士》の名と《閃光》殿との友誼にかけて、此度の件で遺恨を残さないことを誓おう」

「お心遣い痛み入ります。黒の剣士殿の慈悲に心よりの感謝を」

 

 舌を噛みそうな口上に内心辟易としながら、必要なプロセスだと割り切ってアスナと二人で仰々しいやり取りを交わす。素面でやるにはちょっと厳しいロールプレイだと冷や汗が出る以上に、堂に入ったアスナの態度に位負けしてそうな気がものすごくするのだった。美人は得だと感心してしまう。いや、まあ、アスナは真面目に頭を下げてくれてるんだから、本当はそんなこと考えてちゃいけないんだろうけど。

 この茶番にも勿論意味はある。クラディールが俺に完全決着モードの決闘を挑み、俺と立ち合ったことは秘密にできるようなものではない。今、俺たちを囲むギャラリーを口止めするにせよ全員となると難しいし、そもそも既にこの場を立ち去ったプレイヤーだっているだろう。逆にこの場の見物人からメッセージを飛ばされて一部始終を知ったプレイヤーもいるはずだ。とても隠し通せるようなものじゃない。

 

 だからこそ俺とアスナのやり取りは意味を持つ。

 俺と血盟騎士団の間に諍いはあってもそれは団員個人の暴走であり、ギルドそのものは関わっていない。その決闘にしても副団長自らが団員に罰則を与えて厳しく対処しているし、残る当事者の俺は謝罪を受け入れ、非礼を水に流す旨の宣言もしていた。

 この顛末が知れれば妙な噂になるようなこともないだろう。後は俺とアスナがペアを組んで75層のマップ攻略を進めている事実をそれとなく流せばいいか。そこまでしておけば今回の決闘騒ぎが大火に発展する前に消火完了だ。これ以上血盟騎士団との溝を深めてたまるか。

 まったく面倒なことにしてくれたと、今はここにいない両手剣使いに悪態を吐きたくなるのを懸命にこらえる。折角アスナが場を収めてくれたのだから、これ以上波風立たせるような真似をするべきではなかった。ついでに決闘を受諾した俺の行動を完全に棚上げするのも気が引けた、という理由も少しだけあったのかもしれない。

 

 それからしばらくはアスナと二人で見物人を解散させることに専念することになった。朝っぱらからの騒動で要らん混乱をもたらしたことを集まっていたプレイヤー達に侘び、気にすることなく攻略に向かってくれとやはり頭を下げる。フロアボス戦に参加するような見知ったプレイヤーには、無責任な噂を流さないようそれとなくお願いしつつ事態の収拾に駆けずり回った。

 幸いというべきかそれ以上の面倒事が発生することもなく、速やかに皆が立ち去ってくれたことに心から安堵の息を吐く。これ以上の心労はごめんだ、マジで。

 

「……本当にごめんなさい。今は君に謝り倒すことしかできないわ」

 

 俺とアスナ以外誰もいなくなり、先刻までの熱気が嘘のようにしんと静まり返った広場にぽつりと力ない言葉が零れた。肩を落としてこれ以上なく気落ちしているアスナに何と答えたものかとわずかに迷い、そのくせ口から出たのは「気にするな」というありきたりな一語だ。気のきかない男だと我が事ながら思う。内心の焦りを表に出さないようにしながら、もう少しだけ付け加えることにした。

 

「決闘のことなら申請を承認した俺にも非はある。それに今回の件がヒースクリフ達の差し金だなんて馬鹿なことも考えてないから安心してくれ」

「そうじゃなくて、いえ、それもあるんだけど……まさかクラディールが完全決着モードなんてものを使うなんて思わなくて」

 

 憂いに曇ったアスナの横顔に一度目をやり、すぐに肩を竦めて能天気を装う。問題は山積みだがそれも今に始まったことじゃない。

 

「それこそアスナの責任じゃないだろ、あんなの予測出来るほうがどうかしてるよ。それよりアスナは大丈夫なのか、結構な強権を振るってたみたいだけど?」

「元々わたしは団長から過ぎた権限を任されてるから、あれくらいはまだまだ許容範囲よ。脱退勧告も問題なし。誤解を恐れず言えば、問答無用でクラディールをギルドから除籍させたとしても権限の内なのよ。もちろんそういう重要な案件は本来幹部会議にかけるべきものだけど、緊急の場合はわたし個人の判断を優先させて良いことになってるから」

「うわ、おっかね」

 

 口では驚いて見せたものの、そこまで意外というわけでもなかった。

 血盟騎士団団長であるヒースクリフはその存在感、影響力はずば抜けているものの、全てを自身で決済するようなワンマン型のトップじゃない。フロアボス戦はともかく日々の迷宮区ないしフィールドマップの攻略はほとんど副団長のアスナに一任している関係で、権限の多くを部下に割り振ってギルドを運営しているのだ。もちろん最終決定権は常にヒースクリフが握っているわけだが、そこまで重要な案件などそうそう持ち上がるものではなく、大抵はアスナの判断で済んでしまっているのだった。

 それらを思えばナンバーツーであるアスナに付与された権限の大きさも推して知れよう。それこそ副団長というより団長代理と称しても違和感がない。とはいえアスナも信頼を預けられていることを十分に自覚し、必要以上に出しゃばらずにあくまで団長であるヒースクリフを敬う姿勢を崩していなかった。それ故、血盟騎士団は組織として非常に安定感がある。トップ二人に空隙がないから意思決定が速やかなのである。

 むしろ今回のクラディールの暴走こそ血盟騎士団としては珍しい出来事というか、俺でなくとも目を丸くする事態だろうと思う。

 

「キリト君? 女の子に向かっておっかないはないでしょう」

「いやいや、クラディールを黙らせた時とかかなりの迫力だったぞ。格好良かったって」

「女の子はおっかないとか、迫力がすごいとか言われたって嬉しくないものよ」

 

 男が可愛いって言われても嬉しくないのと同じだな。出来れば俺ももうちょっと男らしくなりたい。向こうの世界に帰ったら真面目に筋トレでも始めてみようか。まずはリハビリが先なんだろうけど。……そういえば俺の身体、無事だよな? 今更な心配ではあるが、障害とかできれば残らないでほしい。長いこと昏睡状態だけにかなり危ういはずだった。

 

「じゃあ格好良いはどうなんだ?」

「人によってはあり、かな? わたしは可愛いとか綺麗なんて言われるほうが嬉しいけど」

「へえ、アスナなら毎日言われてそうだ」

「そんなわけないでしょ。第一、そういう褒め言葉は大抵社交辞令だもの。本心から口にしてくれる人なんて中々いないわ」

 

 そんなものかと疑問に思う。少なくともアスナ相手なら本気の割合もかなり高くなりそうなものだけど。クライン率いる風林火山の連中あたりなら間違いなく本心も本心の美辞麗句を並べてくれそうだ。

 しかし真っ先に浮かんだ無精ひげを生やした赤髪のカタナ使いの姿はすぐに脳裏からフェードアウトしていった。アスナが鬱屈を振り払うように軽く息をついたからだ。

 

「気を遣ってくれてありがと。もう大丈夫」

「そこはスルーしてくれるのが様式美ってやつじゃないか?」

 

 そりゃ不器用の自覚はあるけど、こうも容易く見透かされるとか色々切ない。そんな俺の内心すら読み取られてしまったのか、アスナの表情はどことなく優しさを感じさせるものだった。翻訳するなら「しょうがないなあ」というところだろうか? ……不覚。

 

「キリト君はそれくらい隙があったほうがバランス取れてて良いと思うんだ。こうやって抜けてるところがないと、ついていくのも大変だもの」

「絶対褒めてないよな」

「拗ねない拗ねない。それにね、さっきのキリト君はすごく格好良かったと思うよ。《俺たちは戦えない人たちの刃となるべきだ》って君の言葉、とっても重かったけど、でも、なんていうのかな……すごく誇らしくて、報われた気がしたんだ。わたしだけじゃないからね、あれを聞いてた皆が誇らしげな顔になってたんだから」

「それ、クラディールを思い止まらせるための方便な」

 

 確かに俺自身が語った言葉だけど、頼むから掘り返さないでくれ。改めて自覚すると気恥ずかしくなるし、穴掘って埋まりたくなるから。

 

「わかってる。キリト君が建前を利用してクラディールを止めようとしてくれたのも、わたし達血盟騎士団に気を遣ってくれてることもね」

 

 でも、とアスナは続ける。

 

「キミが語った言葉は全部が本心じゃないかもしれないけど、同時に全部が嘘でもないでしょう。建前だけじゃあそこまで堂々と出来ないもの。それにあれほど真に迫った説得力も出せなかったんじゃないかな。あの言葉は君が口にしたからこそ、語るに相応しい人が語ったからこそ、わたし達の胸に何の抵抗もなく飛び込んできたんだよ?」

「勘弁してくれ、そういうのを褒め殺しって言うんだ」

「それだけのことをしてきてるのが君なんだけどなあ」

 

 そんなことを残念そうに告げるアスナだった。あのな、それを言うならアスナこそ《語るに相応しいプレイヤー》だろうが。アスナとヒースクリフを差し置いて俺が持ち上げられるとか冗談じゃない、俺の面の皮はそこまで分厚くないんだ。そう内心で唸っていると、アスナはついと視線を俺から外し、哀愁を窺わせる憂いを浮かべて続けた。

 

「ほんと、長いこと戦ってきたよね。今日までの戦いでたくさんの、それこそ数え切れない人達の命が散っていったわ。わたしもキリト君もその中で少なくない数の人の死を見てきた。だからこそわたしたちは、少しでも戦死者を減らそうと駆け回ってきたわけだけど」

 

 憂鬱そうな吐息を零すアスナに俺は何も言えなかった。

 俺よりもよっぽどアスナの方がダメージはでかかったはずだ。ソロプレイヤーの俺とギルドの副団長であるアスナとでは、人とのつながりが比較にならない。血盟騎士団の部下は言わずもがな、他ギルドとも交流の深かったアスナなのだから、親しく話した知り合いの死に触れる機会だって一度や二度じゃなかっただろう。

 それでも痛みを堪えてアスナも俺も戦い続けなければならない。ゲームクリアまで俺達は足を止めるわけにはいかないのだから。

 

「キリト君がクラディールに怒っていたのは、完全決着モードを使うなんて卑怯な真似をしたことに対してじゃないのでしょう? 人の命を軽く扱おうとしたクラディールが許せなかった。戦いの中で亡くなっていった人達を軽んじられたことが我慢ならなかった。――違う?」

「……クラディールにそんなつもりはなかったんだろうけどな」

 

 知らず溜息が漏れた。

 一年と十ヶ月だ。デスゲームが開始されて既に二年近くの歳月が経っていた。その間、最も自身の命を死線に晒してきたのが攻略組である。思いは人それぞれ、攻略の意思も人それぞれだろう。しかしどんな事情を抱えていようと、最前線に集ったプレイヤーが犠牲を払いながら百の内、七十四の層を攻略してきた功績は変わらない。

 クラディールはそんな攻略組の一員なのだし、奴のいる血盟騎士団だって犠牲者なしでやってきたわけじゃない。血路を開いて散っていった血盟騎士団(なかま)を、身内のお前がわざわざ貶めるようなことをするなよ。

 鬼籍に入った奴らだって、遊びでその命を落としていったわけじゃない。そりゃ最初はゲーム感覚の連中だっていたさ。けど、時が経つにつれて攻略組の意識も変わっていった。かつてケイタが夢見た《全プレイヤー開放のために戦う使命感に溢れた戦士》は言いすぎにしても、皆それぞれの思いを抱えて戦っている。心の真ん中に芯を持つとでも言おうか、彼らを頼もしく思えてならなかった。

 

 それは最強の剣士を目指すゲーマーとしてのエゴではなく、プレイヤー開放を達成せしめる使命感にも似た英雄願望でもない。昨日までいたはずの人間が今日になっていなくなっている、親しく言葉を交わした人間が目の前で無慈悲にモンスターに殺されていく。そんな日々を繰り返す中で否応なく悟らされた命の重みが、今の攻略組に根付く仲間への親愛につながっていた。

 そんな中、どうにかこうにか生き残ってる俺達が、あんな馬鹿みたいな決闘で軽々しく死者を出そうとしてどうする。いくらなんでも死んでいった連中に顔向けできないぞ。少なくとも俺はごめんだ。

 感情的になっていたあの男に、仲間を貶すつもりなんてなかったのだろう。

 クラディールは俺を攻略組の一員として認めていないのだと思う。殊更俺にきつく当たるのだって、俺が気づいていないだけでいつの間にかあの男の地雷を踏み抜いていたりもするのかもしれないし。悲しいことにどっかでやらかしてる可能性を否定できないのが俺だった。

 だからまあ、俺が気に食わないと言うのなら《仲間殺し》だの《ビーター》だの好きに呼んでくれて構わない。但し俺の目の届かないところでの陰口に留めておいてくれよ。目の前で好き勝手罵倒されることまでは許容しちゃいない、《それはそれ、これはこれ》って便利な言葉だ。

 

 ふっと息をつく。

 この世界に閉じ込められた当初、クラインすら見捨ててひたすら自己強化を優先した俺が変われば変わるものだ。

 二年。それが人が変わるのに十分な時間なのかどうかはわからない。しかし俺にも譲れないものが出来た。

 攻略組こそが俺の居場所だ。自暴自棄になって、勝手に一人になって、散々迷惑もかけて、それでもアスナやエギル、ディアベルは俺を見捨てずに居てくれた。クラインは誇らしげに俺に追いついたと言ってくれた。そんな彼らと過ごしていれば、自然と攻略組に誇りや愛着だって持つようになる。仲間意識だって出来るものだ。

 アスナ達と今まで積み重ねてきた努力を足蹴にされたような気がして、つい頭に血が昇ってしまった。こういう所は全く成長してない、相変わらず子供である。

 

「結局俺も感情的になって決闘受けちまったからな。ほんと悪かった、最初からアスナに任せておくべきだったよ」

「それを言ったら、わたしこそもう一度キリト君に頭を下げなきゃいけなくなっちゃうわよ。わたしと団長は団員の不始末の責任を取るべき立場なんだから、部下の振る舞いにだって気をつけなきゃいけないもの」

 

 そんな生真面目なことを言うアスナを素直にすごいやつだと感心した。正論ではあっても、それを宣言通りにこなすのは並大抵の気苦労ではないだろう。ソロとして生きている俺では想像することすら難しい。

 

「んー、なんだか謝るだけで許して貰おうって言うのも虫が良すぎる気がしてきた。――決めた。もう一回キリト君にお詫びすることにするわ」

「そこは蒸し返さなくていいって」

「そう言わずに受け取ってね。大丈夫、手間は取らせないから」

 

 そう言ってにこりと笑うアスナは軽やかな足取りで俺との距離をゼロにする。労なく俺の懐に入り込んだ彼女は、そのまま俺の唇をかすめるようなぎりぎりの位置へ、狙い済ましたようにそっと口付けた。そこに躊躇いはなく、柔らかな感触が俺の頬にくっきりと残る。確かな暖かさが俺の頬には灯っていた。

 それは突然のことで、悪戯っぽく微笑んだアスナに見惚れる間もなかった。理由は、多分付ける気になれば幾らでもつけられる。アスナに対する俺の警戒度が元々ないに等しかった事とか、アスナの態度が悪戯半分で戯れる時のそれであったとか、とにかく色々。彼女の振る舞いに対して余りに無防備だったのだと振り返るのも、やはり結果論でしかなかった。

 準備だとか心構えとか、そんなものを用意できるはずもない。俺の身体は麻痺にかかったように動かず、呆然と立ち尽くすだけだ。けれどそんな中で、アスナの仄かに朱に染まる気恥ずかしげな表情、瑞々しく桜色に色づく唇がこの上なく色っぽく見えて、どうにも彼女から目を離せなくなってしまった。

 

「あ、アスナ……さん?」

「忘れないでね、今のがわたしのファーストキスなんだから」

 

 思考が停止し、頭の中は真っ白になっていた。

 それでも忘れることはない。今の一瞬をどうあっても忘れることなんて出来ないはずだ。それくらい衝撃的な出来事だった。

 

「どうしていきなりこんなこと――」

「お詫びが不満だったのならお礼でもいいよ? わたし、キリト君のこと好きだもの」

 

 アスナはふわりと微笑むと、重大すぎる一言をさらりと告げた。その、どこまでも気負いのないアスナの態度が余計に俺から現実感を奪っていく。なんだこれ。ここで何が起こってるんだ? 実は全部夢の中だったとかじゃないよな?

 

「わたし、ずっと君を見てきた。ずっとずっと君に恋してきたよ。――だからね、キリト君の心が誰の元にあるのかだって、知ってるわ」

 

 粛々と、切々と。

 

「この気持ちはキリト君に告げたりせず胸に閉まっておくつもりだったの。本当よ。でも、やっぱり後悔はしたくないって思っちゃった。わたし達は何時命を落としてもおかしくない場所に立ってるんだから、伝えるべきことは伝えておかないと、って」

 

 彼女は語る。

 

「――この恋は、秘めるべき恋。この想いも、秘めるべき想いだった。だからわたしは、キリト君の心を望まない」

 

 目を閉じ、両手を胸に重ねて、そこに宿る感情を愛しげに口にするアスナに、俺はどんな顔を向けていたのだろう。俺に知っていてもらうだけで良いのだと、そう言って淑やかに微笑みかけてくれるアスナに、俺は何と応えるべきだったのだろう。

 

「……アスナは、それでいいのか?」

「わたしは君の一途さも知ってるつもりよ?」

 

 伝えるだけで満足なのかと口に出してしまってから、心底後悔した。それがどれほど彼女にとって残酷な言葉だったかに思い至って。

 アスナの望む答えを返せない俺が、これ以上言葉を重ねたところでどうしようと言うのだろう。意味のない繰言でどうなるものでもない、下手な慰めを口にして不義理をしでかすことのほうがずっと問題だった。

 もう少し物を考えて喋れ、条件反射で口を開いてどうする。……だからと言って、沈黙が正解だとも思えないけど。

 思慮の足りない己の醜態に内心頭を抱えていた俺を見やり、アスナはどう言ったものかと悩むような素振りを見せてから、程なく口を開いた。その口調は平静そのもので、常のアスナのものでしかない。

 

「わたしから振った話だけど、あんまり気にしないでね。これでも優先順位は弁えてるつもりだし、それはキリト君だって一緒でしょ? わたしは《血盟騎士団》副団長《閃光》のアスナよ。《黒の剣士》である君と同じ、皆の先頭に立って最前線を戦う剣士だもの。心配には及ばないわ」

 

 キリト君こそ変に悩んで不覚を取らないこと。

 俺を諭すようにそんな台詞を続けたアスナからは迷いも惑いも見出せない。俺がどんな思いを彼女に抱いているのか、それすら確かめようとせず、ただただ俺を気遣おうとする。――それは拒絶にも似たアスナの優しさだった。

 動揺の一つも見せず、凛として立つ彼女の勇姿、揺るがぬその姿勢。彼女に憧れているプレイヤーが一体どれほどいることか。そしてアスナの《特別》になりたいと望んでいるプレイヤーが、どれだけの数に上ることか。

 アスナの衆を圧する美貌を霞ませるほどに、今日までの長い間、皆の先頭に立って戦い続けた高潔で純粋な意思こそが、多数のプレイヤーの尊敬と敬愛、恋慕を集めてきた。一度たりとも翳りを見せない彼女のそれは、陳腐な言い方になるが希望そのものだ。

 

「それじゃこの話はこれでおしまい! 言いたいことも言えてすっきりしたし、攻略に戻ろっか」

「……そうだな、何にせよ、まずは目の前のことを片付ける必要があるか。今日からは俺のペースで攻略を進めるぞ、覚悟は出来てるよな?」

「覚悟も何も、今はわたしがキリト君のパートナーだよ。かける言葉を間違えてるんじゃない?」

 

 彼女の切り返しに敵わないなと嘆息する。この切り替えの早さも見事なものだった、攻略組の誇る《閃光》の名は伊達じゃない。不敵に笑んだアスナの顔は既に歴戦の剣士のそれで、やっぱり今のアスナは可愛いより格好良いのほうが似合ってるとつくづく思う。

 

「わかった、なら言い直そう。叶う限り最速でボス部屋を見つけ出す。行くぞアスナ」

「了解。頑張ろうね、キリト君!」

 

 憂いなく晴れやかに応えるアスナに申し訳なさと頼もしさを同時に覚えながら、これ以上の煩悶を振り払うように一歩足を踏み出す。アスナも剣の感触を確かめるように軽く柄に触れてから、すぐに俺の隣に並んできびきびと歩き出した。

 戦場に迷いは持ち込めない。一度剣を握ってしまえば、その瞬間から戦闘に臨む精神を構築出来る。剣を振るうことこそが俺の日常だ、その程度は雑作もなかった。アスナが余人に真似できない強い自制心を持ち合わせているように、俺とて今日までの戦いで身に着けてきた経験があるのだから。故にアスナと協力して進めるこの先の迷宮区攻略に関しては、全く以って心配していなかった。

 

 だからこそ。

 俺のこの動揺も、この胸の動悸も、一歩街を出てしまえば瞬く間に消えてしまうものだ。それを、少しだけ寂しいと思う。

 アスナが俺から視線を外したことを幸いに、片頬へとそっと手を持っていく。

 そこには未だ引くことなく、温かな余熱が残されていた。

 




 原作の決闘手順では申し込まれた側にモードのオプション選択権利がありますが、拙作では申し込む側が予めオプション選択をした上で申請を出すことも可能な仕様に変更しています。
 プレイヤーの認識力に依存したシステムアシストの限界設定と、それを利用したソードスキルの回避方法は拙作独自のものです。

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