これがテンポを悪くしているのは重々承知なのですが、どうにもお話的に必要でして……。
更に番外にしては少し短いですが、どうか生暖かく見ててください……。
鬼をその統治する山へと招き入れ、許容してしばらく経つと、どうやら好奇心の強いらしいあの鬼に、女と会っていることに気付かれたようだった。
いや、どちらかと言えば、気付かせた、と言った方が正しいのだろうかもしれない。
天厳は、天狗たちにはしっかりと何をするのかを隠し、また、それを探ることすらも黙らせていたが、鬼に対しては敢えて形だけの警戒だけしかせずにいたのだから。
どちらにせよ、鬼が気付くことは必然ですらあったのだ。
しかし、何故そんなことをしたのか、と問われれば、彼には自分自身ですらもわからなかった。
迷いが、悩みがあることを知って欲しかったのか、それとも、鬼に対して隠し事をするということがそれほど大きな意味を持たないということを知っていたからか。
今となっては、わからないとしか言えないことで、天厳もまた、それを深く考えることもしなかった。
もはや彼にとって、自身のこと以外を考えるほどの余裕はなく、しかし、それがバレぬようにと注意を凝らし、結局、何もかもがわからぬままだ。
なんて様だ、と、天厳は意識を書簡に向けながら、その片隅で自分への悪態をついた。
幾年月も生きながら、こんな無様な自分が許せないと思う。
だからこそ、せめて部下である天狗たちの前では、威厳のあるままでいなければならぬと彼はより一層、自らがわからぬままに、その自らを覆い隠し、普段通りの自分というものを取り繕う。
それがどれほど意味のあることからわからないままで、彼はただただ、女との約束の時が来るまで、そうして為すべきことを為し続けていた。
すると、
「ねぇ」
声が掛かる。
少し天厳がそちらに意識だけを向けてやれば、今日はずっと近くで酒を吞んだ暮れていた鬼が、ぼぅっとしながらこちらを見ているようだった。
無視しても良かったが、絡まれてやるべきことに支障をきたしても面倒なことになるだろう。
顔を向けることなく、「なんだ」と言葉を返す。
鬼は、つまらなそうに、問うてきた。
「あんた、生まれた時からここの長ってやつになることが決まってたんだよね?」
「……あぁ」
その問いに、なんと返すべきか、彼は少し間を空けてしまった。
そして、間を空けたことに、どうしようもない鬱屈とした感情が湧いてくる。
先程と同じく、鬼へと顔を向けることはしなかったが、しかし、今の自分の顔は酷いことになっているだろう。
苛立ちか、それとも情けなさか、およそ負と呼ばれる感情が内に治めきれずに、表情を歪ませている。
「ふーん。そっかー……」
鬼からの、気の無い返事。
それがまた、神経を逆撫でしてくる。
あぁ、そうだ。
儂は生まれながらに力を持ち、天狗の長となるべき存在として在り、そして事実、そうなった。
当たり前のことである。
当たり前の筈である。
そこに迷いなど無かった。
そこに悩みなど無かった。
むしろ、それは天厳にとっては誇りとも呼ぶべきものであろう。
ゆえに、彼は今、ここに在るのだから。
「だからなんだ?」
けれど、それでも湧いて出る苛立ちを、なんとか表に出さぬようにして、鬼へと聞き返す。
それがいったい、なんだと言うのだ?
しかし、それに答えは無く、ただただ、また同じような問いを返されるのみだった。
素直に答える必要もないと理解していたが、同じだけ、答えずにいることも出来なかった。
ただ、思考を働かせずに答える。
当たり前の事実だけを、言っていく。
まるで、そこを考えることを恐れているかのように。
けれど、天厳はそのような自分に努めて気付かないことにしている。
いや、事実、彼は気付いていなかった。
だから、鬼が好き勝手に問い、茶化し、満足した後に、もはや彼は続けてやるべきことをしようとする気ではなくなっていた。
それが何故か、彼にはわからない。
ゆえに、天厳は女との約束の時間まで、なにすることもなく、自室にて思索に耽っていく。
出口を
※ ※
夜になり、鬼らしく直接なにをしているのかと己に聞いてくるかと思えば、鬼はどうやら隠れてついて来ようとしていたらしい。
娯楽に餓えた、それも鬼らしい奴だと天厳は思う。
気付かぬふりをしても良かったが、それはそれで見抜けなかったと能力を下に見られることには耐え難い。
天狗たちの長として、彼にはそのようなことはあまりに屈辱的過ぎた。
ゆえに、天厳は細かく疎められた鬼に対して声を掛ける。
外に出た自分を追うために希薄な状態となった鬼は、成る程、確かに、それなり程度の探りしか入れること出来ない者には見つけ出すことは難しい物だろう。
しかし、その能力の性質から、天厳はそういったことには他と比べて幾分秀でている。
だからこそ、あっさりと、彼を追おうとしていた鬼の頭上へと死角をとって回り込むことすら容易に可能であった。
鬼はそれに対し、一切悪びれる様子も無く、見付かっちゃった、とただ無邪気に笑う。
そうして、少し残念そうにしながらも、しかし、大人しく戻ろうとせずに、やはり初めに思った通り、直接に問うてきた。
何処へ行くのか、と。
しかし、その問いには些か気持ちが薄いものしかありはしない。
気付かれずに後をつける、ということを楽しむ間もなく終わってしまったことが残念だったのだろうと表情が語っていた。
どうやら、この鬼にとっては、その好奇心の目的を満たす前に、手段を楽しむことにも拘っていたらしい。
変わっている、とその行動を見て天厳は感じた。
しかし、人外である者にとって、少し変わり者である程度、掃いて捨てるほどに、それこそ、それが普通であるかのように多くいるだろう。
どう答えるべきかと考えかけ、しかし、
いやに素直な目で見てくる鬼へと、気付けば言葉が出ていた。
「ついて来たければ、ついて来ればいい」
この鬼は、あの女を見てどう思うのか。
笑顔以外を知らぬあの女のことを想う。
そして、自分がわからなくなっているこの愚かな天狗を見て、どう思うのだろう。
天厳は不思議そうな顔で自らの背を追いかけてくる鬼を見て、軽く溜息をついた。
静かな夜だ。
何もかもが吸い込まれてしまいそうなほどに密度が薄く感じるこの夜に、二匹の人外が進んでいった。
その様子を、ただ、月だけが見ていた。
※ ※
鬼は、人間の女を見ると、少し興味を抱きながら、しかし、しばらくして、すぐに失ったかのように少し離れた位置で酒を吞みだした。
言葉を出さずともわかる、その表情がつまらなさを語っている。
やはり、鬼。
何も感ずることはなかったのかもしれない。
それはひたすらに正しく、人外として正当で、当たり前のことだった。
(当てが外れたか……)
そう思考して、天厳は即座にそれを打ち消した。
何を勝手に期待していたのか。
そこで初めて、天厳は鬼と女を会わせれば何かが変わるだろうという甘えた考えを持っていたことを自覚した。
そも、天狗と鬼だ。
同じ人外であったとしても、種が違えば存在の成り立ちすらも違うのだ。
共通の点など、人と妖と同じ程にまで離れている。
天厳はけらけらと笑いながら揶揄う鬼の相手をしながら、いつもの如く、女の身体の澱みを流す。
鬼のつまらなそうな顔から、一切の蔑みがないことだけが、唯一の救いであっただろう。
もしもそれを直接問われたとすれば、答えに窮してしまうことは容易に想像できた。
そも、自身ですら、天狗という身でありながら、人の命を繋いでいるこの行為に疑問しかないのだから。
そしてただ、いつもの如く、ただ鬼という添え物だけが増えただけのことで、そのままいつもの如く終わりを迎えるだろうと天厳が考えていた丁度その時。
唐突に、女は天厳の方をしかと捉えて見る。
「もう、ここに来ることが出来なくなってしまいました……」
儚げな、その笑み。
女はやはり、いつものその顔を浮かべたままで、そう言った。
結局、今、別れを切り出されたその時すらも一切変わることのなかったその顔は、やはり透明で、どうしようもない程に美しく、天厳の胸を締め付けてくる。
少し考えればわかることだったのだから。
天狗、妖怪である自分と違い、人間である女は年月によってすぐに変わっていく。
ゆっくりとしか変われぬ自分と違い、人の変化は少したりとも待ってくれはしないのだから。
『結婚』
それは人の家と家を結ぶものだという。
彼女はそれだけの道具と成り果て、そのまま死んでいく。
その顔に変わらぬ笑みを浮かべて。
笑顔以外を捨てられた女は、その笑顔さえも必要とされずに、ただ、その存在だけを使われる。
それでもと、女は、ただ穏やかに笑みを浮かべてそれを語った。
まるでそれが本懐であるかのように、静かに、澱みも、疑問すらなく、己の行き着く先をただ見て、笑う。
どうしてだろうか。
天厳には、それが耐えられなかった。
その笑みを真っ直ぐに見ることが、どうしても出来ない。
ゆえに女から目を背け、少し離れた木の根に腰かけた鬼を見れば、やはり、変わらずにつまらなそうな顔で話を耳にしながらも、酒を吞んでいる。
当然だ。
それこそが、当然の人外としての反応。
当然の、鬼の反応だった。
鬼である彼女に、人間の女の事情などどうでも良いものでしかない。
それも、そもそもまず、今しがた出会ったばかりの女だ。
思うことなど何もないに等しいだろう。
第一、何を想い、感じろと言うのか。
それは人外でなくとも、余程感性が優れたものでしか有り得ないことでしかない。
しかし、では、
天厳は女の身体の澱みを流し終え、ただその話を聞くだけとなった状態で、その思考に没頭する。
鬼である彼女はそうだろう。
あの反応で当然だ。
そうでなくてはならない。
それならば、鬼よりも付き合いの長い自分ならばどうなのか。
(同じだ、鬼と。同じはずだろう……!)
天狗の長たる『儂』は鬼と同じく、どうでもいいと思っている、思えていなければならないはずなのだ。
それなのに、『俺』は、ただの、一匹の天狗である『俺』は、ただの人間の哀れな女のことをどうしてこうも……。
ぐるぐると、やはり答えの出ない迷路に嵌る。
いや、本当は、その出口の道筋は見えている。
当たり前の線引きがそこにはある。
人ではない、天狗としてのその道が。
それでも、見えているのに、その道を選ぶことを躊躇ってしまっている。
何故なのか、他に何かがあるとでもいうのだろうか。
(……有り得ん。儂は……何を迷っている?)
天厳がそうやって考え込んでいる間にも当たり前のように時は流れ、そして、女との最後の別れの時がやってくる。
これで最後だ、これが最後だ。
後悔など、ありようはずもない。
ただ、ちょっとした興味の行き場がなくなるだけのことなのだ。
そうして、女は、やはり変わることのないその笑みを浮かべ、一言
「ありがとうございました……天厳様」
そう言った。
その言葉を、その名を聞いて、天厳はまるで立っている地が突然消えてしまったかのような錯覚を見る。
身体がふらつき、頭に手を当て、思う。
『儂』は、『俺』は、『天厳』とは、何なのだ。
去って行く女の背が、夜の闇の中に消えていく。
その静かな夜へと、消えていった。
※ ※
あれから、まるで瞬きする程の速度で、十日が経った。
普段通りで振る舞いながらも、なぜか心が重い。
関係のないことだと言い聞かせ、むしろ、天狗の長として改めて自分を定める良い機会だとすら思い込みながらも、気持ちの悪い感情の波は治まらない。
苛々と鬱屈したものを溜めこみながら、夜を迎える。
この夜が終われば、あの女は……。
その考えを振り切ろうとしていると、鬼から酒を飲みに行こうと誘われた。
呑気なやつだと思うが、今はその呑気さが、天厳にはありがたかった。
二匹で、自身の土地の中でも静かな場所へと向かい、そこに座して、酒を飲み合う。
鬼の酒は強く、この酒で、全てが流されていってしまえばいいと願い、自身の身体の強さにそれは不可能だと思い知らされ、ただ、苛々だけが溜まっていく。
それを見抜かれ、鬼からやめろと言われた。
しかし、その言葉は、本気ではない。
鬼はこちらのことを見透かすようにして、そう言ったのだ。
苛々が溜まる。
鬼が、話を逸らすかのように、あの女との話を聞かせろとせがんできた。
今は、思い出したくない。
しかし、そうやって逃避することは、天厳のプライドが許してはくれない。
ゆえに、天厳は、ゆっくりと、その日々を思い返し、口に出していくのだった。
※ ※
「初めに、改めて名乗ろう。
女と初めて出会い、十日後の晩に会う約束を交わして、初めに言った言葉がそれだった。
女は苦しそうにしながらも、こちらの名乗りに応じて、自らも名乗ろうとする。
けれど、それは言葉にならぬものであった。
所詮は延命に過ぎぬ澱みの流れは、十日でまた以前と同じ程にまで進行し、女の口から洩れたのは言葉ではなく、紅い血液であった。
「喋るな。別に名乗りを返さなくともよい。俺は天狗で、貴様は人だ。もとより人の名など覚えるつもりは毛頭ない」
そう言って、天厳は女の額に指を当て、能力を行使していく。
ゆっくりと、女に溜まった澱みが正常に流されていくにつれ、青白い女の顔色は少しずつ良くなっていった。
ある程度、具合が良くなる程に澱みを流し、女から少し離れて、丁度近くに在った石の上に腰を降ろす。
そうして数歩程の距離に離れた女を見れば、やはりこちらを見ながら笑っていた。
その出会って変わらぬ笑みに、天厳はまるで小馬鹿にされているような気分に陥る。
「能面の様な顔、というのは貴様のような奴のことを言うのであろうよ。益々もって、他の表情を見てみたくなった。いっそ泣いてみてはどうだ? 適度に苦しみを与えてやってもいいぞ」
天厳は膝に手を当て、顔をその上に乗せながら、女を眺めて馬鹿にしたような口調でそう言った。
それは少しの意趣返しを含めた冗談が半分は含まれた言葉であった。
しかし、実際、もう半分ほどは本気でもあった。
人は苦痛に直面すれば、簡単に顔を歪めて涙する。
どれほどの鉄面皮であろうとも、それはきっと、同じ筈だ。
経験から、彼はそれを知っていた。
「けほっ……。……天狗様、ありがとうございます。私の泣き顔、でしょうか。さて、どうなのでしょう……。私は今まで一度も涙した記憶が御座いません。それで貴方様の気が満たせるのであれば、どうぞこの身体をお使いくださいな。貴方様が治してくださったこの身体をどうしようと、私は構いません」
咳をして、口内に残っていたのだろう血を吐き出すと、女は変わらぬ笑顔でそう言った。
どうやら本気で今の言葉を受け入れようとしているらしい。
天厳自身が理不尽と理解しながら掛けた言葉に、女は本気でそれを受け入れようとしている。
従順、と言う言葉の真の意味は、果たしてこの女に当て嵌るものなのだろう。
その生まれ育った環境から、女には己が無いに等しいことを、天厳は改めて思わされた。
「あぁ、本気にするな。ほんの戯れだ。人というのは簡単に死んでしまう。俺が適度だと思った苦しみも、人からすれば死に至ることもままあるだろう。貴様が死ぬ、というのは、それこそ本末転倒なこととなる」
その初めの時と一切変わらぬ女に、天厳は手を振って冗談だと告げる。
幾度か言葉を交わしただけで理解した。
この女は、おそらく、死の苦痛にすらその笑顔を浮かべて逝くだろう。
今までの経験が、全く役に立たない人間であるようだ。
そして、天厳は思う。
人と言うのは環境だけでここまで在り方が変わってしまう。
なんとも不安定で、儚いものであろうか。
そうですか……と、また笑みを浮かべ、着物が汚れることすら厭わずに、彼女はそのまま地へと膝を着けた。
天厳はその様子を見ながら、少し考えて口を開いた。
「泣き顔が無理だとすれば、怒りの表情はどうだ? 人の持つ感情、喜怒哀楽の中では最も顕著なものだろう。怒って見せろ」
「怒りの表情……ですか」
「あぁ、何も本気で怒る必要はない。ただ、怒りに顔を歪ませれば、それだけで貴様の笑み以外の表情となるだろう」
さぁ、怒れ。
と、天厳は堅い地に苦も見せずに座し、こちらを真っ直ぐ見つめる女にそう言った。
天厳にとって、怒りとは身近なものである。
部下の無能さが目立てば怒り、山に侵入者がいれば怒り、たとえ昔馴染みの相手だとしても、揶揄いを受ければ怒りに顔を歪ませた。
天狗にとって、怒りとは力だと、彼は心から信じているがゆえに、それは当たり前のことであった。
それほど当然で、簡単なことであるのなら、この女にも出来るだろう。
しかし、どれほど待ってみても、女の表情はいっこうに変わる様子は無い。
とうとう痺れを切らし、天厳が口を再度開こうとしたところで、女はやはり、笑みを浮かべながら言った。
「天狗様……あの、怒り、とは、なんなのでしょうか……?」
「……なに?」
それは、酷く馬鹿げた問いであった。
あまりにもあまりの問いに、天厳はその意味を理解するまで、しばしの時を要する。
「すみません、天狗様。貴方様の意向に
その、女の言葉の意味を理解して、天厳は自分の見ようとしているモノがどれほどの困難の上にあるのかを悟った。
悟らざるをえなかった。
目の前にいるこの女には、感情と言うものの大部分が欠落しているのだ。
おそらく、そのようなものを不要と断じられて、幼少の頃から切り捨てられてきたのだろう。
ゆえにこそ、女はその笑み以外のものを何も持っていないに等しいのである。
彼女の他の表情、顔を見ようと言うのであれば、まず、女に感情というものを与えなければならないのだ。
「なんとも……面倒なことだな……」
思わず漏れたその言葉に、女は透明な笑顔のままで謝罪を示した。
天厳はただ、溜息をついて、それに応じた。
※ ※
また、幾日か過ぎ、数度目かの女との会合に向かう。
天厳が約束の場へと来れば、女は既にそこにぽつんと一人佇んでいた。
声をかけようとして、喉元で止まる。
その光景が、あまりに美しかったからだ。
薄い光の中、周囲を木々に囲まれながら佇む女はその肌の血色の悪さも手伝って、白く発光しているかのような錯覚を覚える。
緩やかな風の流れに乗って、木々から葉が舞い、女の横を流れていき、その流れに取り残された女の姿は、まるで世界の流れに取り残されているかのようだ。
あまりに美しく、触れれば脆く崩れてしまいそうなほどに儚げで、言葉を掛けるだけで女はそのままこの世界に溶けて消えてしまうのではないかと、天厳は呆然と女を見ていた。
そのまま立ち尽くしていると、女はそんな天厳に気付いたようで、こちらに近寄ってくる。
やはり、病魔に侵され、澱みが溜まっている身体は貧弱であるのだろう、その歩みは酷くゆっくりとしたものだが、その緩やかさが儚さを強調していた。
「……天狗様?」
我に返れば、すぐ傍にまで来ていた女が不思議そうな笑みを浮かべてこちらに問い掛けてくる。
以前と比べ、少しは感情が戻ってきたのだろうか。
しかし、その不自然なまでに青白い肌と、よく見れば少し震えている身体から、天厳はゆっくりと手を伸ばし、女に触れ、澱みを流す作業を始めた。
「なんでもない。気にするな、女よ」
下手な誤魔化しだと、自分でもわかるものであったが、女は深く訊ねては来なかった。
その行き過ぎた従順さは、やはり女の感情の薄さを表している。
結局のところ、あれから女と天厳は何も変わっていなかった。
治療されながら、女は透明な笑みを浮かべて、天厳に問うてくる。
「天狗様、今日は何をお話ししましょう……?」
「あぁ、そうだな……」
しかし、それでも、
お互いに、それに気付くことは無く、気付こうとも互いにしていなかった。
彼が初めて彼女に抱いた淡い想いは少しずつ濃さを増し、そして、何もなかった女に少しずつ彼への想いが募っていこうとも、彼らはそれに気付かないまま、時だけが動いていく。
「時に、女よ。俺の持つ、この団扇がどういったものか知っているか?」
ふと、思いついた話題を天厳は口にする。
彼はその手に持った団扇を掲げ、女に言った。
「天狗様の、その羽団扇、ですか……? いいえ、私はあまり詳しく存じません……すみません」
女は少し困ったような笑みを浮かべながら、自身の無知を天厳へと謝罪する。
「なにを謝る? むしろ知らんで当然だ。人の世に伝わる噂など、どれも真実を得ておらんのだから」
天厳はその見事な羽団扇をひょいと上に投げて見せる。
未だ緩やかとはいえ風が吹くこの場でそのようなことをすれば、通常、風に煽られそのまま流されていくのだろうが、その団扇は一切風の影響を受けることなく、彼の手にまた収まった。
「どうせ死期の近いお前には、知ったところで無意味だろう。だからこそ、教えてやる」
そういって、次に天厳は団扇を女の目の前で軽く振るって見せた。
するとどうだろうか。
先程までとは明らかに違う方向へと流れを変え、しかし全く違和感を感じさせることなく、初めからそうであったかのように、風が吹いていた。
「……天狗様?」
「天狗の団扇とはな、風に煽られるものではなく、風を煽るものだ。たとえ何の力を持たん人であっても、この団扇を使えばある程度風を操ることが出来るだろう。……やってみるか?」
「え、あの……天狗様?」
変わらぬ笑みを顔に浮かべながらも、薄く戸惑っているように見える女に、天厳はその細い指にその団扇を握らせた。
その光景を見れば、おそらく他の天狗たちは憤死していたであろう。
彼らにとって、その団扇は特別な意味を持つものであるがゆえに。
天厳は敢えて過小なまでに控えたことしか言わなかったが、彼の持つ羽団扇は本来その程度の力しか持ってないわけではない。
彼の団扇は、彼が長に就任する時、部下や眷属たちの中から、一際優れた者たちの選び抜かれた羽で構成されており、天狗達にとって、それは自らの忠誠の証であった。
更に、彼が長年使用していたことにより、ただでさ強力な力を持つその団扇には、天厳の常軌を逸した妖力が染み着き、風と言わず、あらゆるものの流れを、それこそ並の妖であれば煽られただけで存在そのものが流れてしまうほどに強力なものとなっていた。
それはただ唯一、天厳のみに持つことが許された宝と言ってもよいものなのである。
そのようなことは一切知らぬ女は、ただただ手に持たされた団扇を見て、どうしたものかと天厳の方を窺い見る。
「ははっ! ようやく感情が見えてきたではないか。その顔に浮かんだ笑みは変わらんが、お前の戸惑いは明らかにわかるぞ」
その様子を見ながら、天厳は笑う。
それは、普段の彼からは考えられない表情だ。
天狗たちに時折見せる苦笑ではなく、ただ、芯から出たであろう、笑み。
女の前では、天厳は、常の彼とはまるで別の存在であるかのように、笑っていたのだ。
そのような天厳の戯れを受け、女はもう一度だけその手の団扇を見て、先程天厳のやったように、少し前まで風の吹いていた方向へと向けて、その団扇を振るった。
「……あっ」
そして、風は、また、同じように、天厳の振るった一寸前までと同じ方へと吹き始める。
それは、緩やかな風であった。
木の葉一枚すら散らせぬほどに。
明らかに勢いは緩まっているが、そのようなことを気にする者はここに誰もいない。
「どうだ? 女よ。これが天狗の団扇というものだ。我々は風と言う世界の流れを操り、力とする種族なのだ」
天厳は誇らしげに言った。
それが彼の誇りそのものであったからこそ。
女はその様子を見て、またうっすらと笑い、そして、その手に持った団扇を彼へと渡した。
天厳はいやにあっさりとソレが返されることに戸惑ってしまう。
普通ならば、善からぬ欲に駆られてもおかしくはないのだから。
「なんだ、もういいのか。人の身には過ぎたる力に、もう少し浸ってもいいのだぞ?」
「いいえ……いいえ、天狗様。私にそのような力は必要ないのです。貴方様が流れを操るのだと誇るのなら、私はただただ、その流れに身を任せましょう……。私には、流れを変えてまで通すものはないのですから……」
女はそう言って、笑う。
その顔に、天厳はただ見惚れた。
変わらぬ透明。
変わらぬ笑み。
けれど、そのなんと美しく、そして無意味なことか。
彼は団扇を受け取りながら、思う。
女が無いのだと、そう言った、その何かが、どうしても欲しいと。
いくら彼がその身にある強大な力で、どのような流れを変えようとも、女のその何かを得ることは無いのだとしても、そう思わずにはいられなかった。
そもそも、女が身を任せると言った、
たとえ如何ほどに強い流れであっても、そこにはなにもないままで、そして、女が身を任せると、そう言いながら、けれどそこには、流れに煽られてしまうようなモノは確かにあるのだ。
彼はその手にまた戻った自身の団扇を見た。
それは『流れ』そのものだった。
けれど、と彼は思ってしまう。
その流れを生み出すモノは、いったいなんなのだろうか、と。
「そうか……」
天厳は流れを操る力を持つが故に、何者からも流されることには成り得ない。
なのに、彼は『流れ』という力の動きを操っている。
それは一見矛盾していないようで、どこかがおかしいことだった。
なぜなら、彼は天狗の長になる、という流れの中に、確かに生きてきていたのだから。
『流れ』を操る力を持って生まれた自分が、そのように流されて生きてきたのは、いったいなぜなのだろうか。
自分は、いったいに何に流されたのだ?
決して何かに流されることはないというのに……。
それは、わけのわからぬ考えだった。
「天狗様、そろそろ……」
そうして、天厳がそうやって考え込んでいると、女が、別れを切り出してくる。
彼はただ、それに当たり前のように返事をした。
「……あぁ、ではまた……」
「はい……」
そう言って、天狗と人は、また十日の別れを告げた。
それはいつの間にか当たり前のことで、だから、その当たり前を認識して、天厳は愕然とする。
まただ……。
「……俺は、
その疑問に答えるものはいない。
ゆえに、彼は迷うのだ。
自分が何かに流される筈が無い、と。
では、流されていないモノが自分だとして、それは……いったい自分とはなんなのだ?
いくら自問自答しようとも答えは出ない。
そして、彼は疑問をそのまま棚に上げ、自らの住処へと飛び立った。
※ ※
そうして、天狗は酒を飲みながら過去を語る。
鬼へと話す、天狗の言葉は、そろそろ終わりそうだった。
コイツら爆発しろ!!
流石にこんな話であまり日を置くのは申し訳ないので、明日に本編の次回を予約投稿しております。
次回はすいかちゃんを可愛く見えるように書けていればいいなぁ。