ふわふわ、と。奇妙な浮遊感の中で目を閉じる。
無重力の部屋だと束に言われたそこは、宇宙をイメージしたらしい星空が床から天井までを覆っている。さながらプラネタリウムのようだ。
無駄に広いのでISを装着して動くことも出来る。宇宙での活動を想定したISに、宇宙と同じ無重力の部屋。練習部屋かと尋ねた私に、けれど束は違うと笑った。
「ちーちゃんが楽しんでくれるかな~って」
私の為だったらしい。だからというわけではないが、私はよくこの部屋に入り浸る。ISを装着することもあれば、しないこともある。今は装着していない。
ふわふわ、と。漂って、漂って、漂って。今はまだ、何も考えない。
一夏が大空三春に連れて行かれ、大空一夏となって、私が束と共に行動を共にするようになって、一年近くが経過した。
全世界から逃亡中の束との生活は、私が思っていた以上に暇だった。基本的にまず見つかることが無いのだ。だから逃亡の為に慌てる事も無く、ただ限られたこの建物という空間でどう時間を過ごすかの問題だった……限られた、といっても十分すぎるほどに大きいのだが。
束は常に外の世界を眺め、何かを研究し開発している。自由気ままに、何もしないでベッドでごろごろしている時もあった。私は多くの時間を、束の傍で本を読んだり寝ていたり、少しばかり手伝いをしたりと過ごしていた。
最初は、いさせてもらっているのだから何かしようと思った。だが束曰く「身の回りの世話はくーちゃんの仕事だから」と、掃除から何までクウに任せる他無かった。そうなると本当にすることは無くて、持て余した時間に困り果てていた。
「ちーちゃんはもっと自由に過ごした方がいいよ! これまでずーっと頑張ってたんだから」
生活費を稼ごうと働く毎日。暇など殆ど無くて、たまの休みは一夏と過ごすことに費やしていた。だから、自分だけの休みというのはどうすればいいのかわからなくて。
そんな私に束は様々なものをどこからか持ってきて与えてくれた。本や、自分が開発した娯楽用品(無重力の部屋も含まれる)。至れり尽くせりとはこのことだろう。私は本当に与えられるばかりで、何もしていない。何も出来ていない。
これでは駄目だと焦りもした。何かしなければと無性に気持ちが逸り、束の役に立ちたいと思いもした。けれど束は、優しく笑うばかりだった。
「前はいっくんの為で、今度は私の為? 嬉しいけど、私はちーちゃんはちーちゃんの為に生きてほしいな~」
さて、一夏の為に生きていた私が自分の為に生きるとは、何をすればいいのか。まったくもって分からず、だからといって束は束の為に何かすることを望んではいない。
「それでちーちゃんが時々私を見てくれるなら、私はもうそれで満足だよ!」
自分の為に生きながら、時々束に目を向ける。基本的に優先されるのは自分で、束はその次。それでいいのか、重ねて尋ねた私に束は満足げに頷いていた。
「ちーちゃんはもっと自分に甘くていいんだよ」
私みたいに、たしかに束は自分に甘い。というより自分の好きなようにしかしていない。そう考えると、私がここにいるだけで束は嬉しいのかもしれない(だってここに私を連れてきたのは束なのだから)。
ゆっくりと、束の相手をしながら本を読んで、何やら開発する後ろ姿を眺めて、時々クウの手伝いをしながら、過ごす日々。それに少しずつ、幸福と満足感を抱いてきながら私は、限られ閉ざされた世界で生きていた。
そして外の世界は大きな衝撃を受ける。
「……男性の、IS操縦者?」
「そうそう。それが大空一夏と大空三春なんだって」
IS適正を持つのは未だ女性のみ、自ずと操縦者は女性しかいなかった世界に……男性のIS適正者。
世界初の男性操縦者が見つかり、その人物には兄がいるらしい。ならばと調べてみれば見事に大当たり、世界初の男性IS操縦者はほぼ同時に二人見つかった。それも兄弟ときた。
世界に与えられた衝撃がどれほどのものか……おそらく、私が思っている以上のものなんだろう。
「一夏、が……そうか……」
「まあいっくんはちーちゃんの弟だしね~。別におかしくないっちゃおかしくないけど、でもな~。今のいっくんはな~、いっくんはな~」
「……待て束。なぜ、私の弟ということが関係あるんだ?」
「え? だってISはちーちゃんに喜んでほしくて作ったんだよ? それならちーちゃんの弟のいっくんに反応してもおかしくないでしょ?」
「だから何がそれならになるんだ」
「ISはちーちゃんの為に作った。ちーちゃんはいっくんが大好き。いっくんが喜べばちーちゃんも喜ぶ。だから反応する」
「……お前、間違ってもそんな理論を世間に発表するなよ」
「しないよ。面倒だもん」
納得は出来ないが、とりあえずまあ束の中で一つの答えは出ているらしい。それがコイツの推測なのか研究した結果なのかはしらんが……。
「……にしても、大空兄弟、か……」
一年間、一夏のことを気にはしても積極的に情報を得ようとはしなかった。知りたいと思うと同時に、知りたくないと思う気持ちは常に表裏一体で存在し、とりあえずは「元気で生活している」ということを束から聞くだけだった。
「(最低な人間であることに、変わらないか)」
知りたくないのはただ、私よりもアイツを選んで幸せに過ごしている事実を確認したくないから。知りたいのはただ、どうして私よりもアイツを選んだのか分からないから。
一夏への情が消えたわけでは無い。けれどどちらの理由にも、情よりも先に明確な理由が来てしまうのだから、私にはもう一夏の姉を名乗る資格がないのかもしれない。
「大空一夏と大空三春……んー、大空弟と大空兄でいっか!」
「……適当じゃないか?」
「いいよ別に」
束は大空一夏に興味が無いらしい。コイツのいっくんは、今はもういない織斑一夏を指しているのだろう。
私としても、大空一夏を私の弟だと叫ぶことは出来ない。あの別れはあまりにも衝撃的で、絶望的で、叫べるはずもない。
「それで、その大空兄弟はどうなるんだ?」
「来年度のIS学園に入学だって」
「……二人とも、か?」
「ううん。入学するのは大空弟だけ。大空兄は、教師って名目で学園に拘束されるみたいだね」
「ま、だろうな……」
大空三春……大空兄は私の一つ上だった。なら今更、学園に入学と言われても無茶が過ぎるだろう。だからといって放置するわけにもいかない……IS学園はちょうどいい檻か。
「束様、千冬様。お茶をお持ちしました」
「お、ありがとくーちゃん」
「ありがとう、クウ」
話していたところ、クウがお茶を持って入ってくる。
渡されたお茶に口をつけていると、クウがニュースの流れるディスプレイをジッと見つめていることに気づいた。
「気になる? くーちゃん」
「はい」
私の心を代弁するかのように束が一足早く問いかけると、クウは迷うことなく頷いた。ニュースには大空兄弟の姿が放送されている。おそらく歩いてたところを捕まったのだろう。困惑した風にしながら、足早に立ち去る二人。
「私は、ここにいます」
クウは大空兄を気にしている。いや、大空兄ではなくその向こうに―――姿の見えない誰かを見つめている。
「声が聞こえるのだったか」
「はい」
ニュースは依然、大空兄弟の話題を続けている。毎日毎日、どのチャンネルだろうと関係なしにその話題で持ち切りだ。
既に二人の映像から写真へと変わっているが、クウはそれでも目が離せない様子で大空兄を見ていた。
「くーちゃんにしか聞こえないんだもんな~」
「クウの片割れ、というやつか?」
「たぶんね。せーくん、どこにもいないから」
束の瞳が少し揺らいだ。それもパッと消えていつものように笑っている。
「ちーちゃんは、やっぱりいっくんが気になる?」
「……ああ」
理由はともかくとして、気になることに違いはない。今は違うかもしれないし認めることもとてもじゃないが出来ないけれど、一夏はそれでも私の弟なのだ。
大好きで大切で愛していた、弟。
それが世界初の男性IS操縦者など騒がれれば、気にしない筈も……。
「なあ、束。どうして一夏はIS適正があると分かったんだ?」
ふ、と気になった。男性でわざわざIS適正を確かめるような奴は、もう殆どいない。調べるだけ無駄と分かっているからだ。
それならどうして一夏は、IS適正があると分かったのだろう。
「んー? なんか、受験校の試験会場を間違えたみたいだよ」
「間違えた?」
「うん。藍越学園と、IS学園。ほら、一文字しか違わない」
「……場所は?」
「全然違うよ」
笑っている束の顔が、笑っている筈なのに、ひどく冷め切っていた。
「おっかしーよね。どう考えても会場を間違える筈がないのにさ。藍越とISって文字にしたら全く違うよ? 普通ならすぐにわかるのにね」
「……それなのに、間違えたのか?」
「ちなみに、大空弟を試験会場に送ったのは大空兄でしたー」
愉快そうに束が笑っている。冷え切っているのに。
「ねえ、ちーちゃん。やっぱりさ、可笑しいと思わない?」
「……奇妙ではあるな」
「どれだけ調べても、やっぱりアイツの存在が納得できないんだよね。意味が分からないし訳が分からないし本当になんなのかな、アイツ」
「気になるのか?」
「うん。すごくね」
思いもしない答えが束の口から飛び出した。ディスプレイを見上げていたクウも、驚きに軽く目を瞠る私と同じような表情をしている。
二人の視線にさらされながら、束はやはり笑ったままで「勘違いしないで」と続けた。
「気にはなるけど、なんだろうねー。放っておくのも嫌だってだけだよ」
「それがお前にしては珍しいと思うんだが……」
「だって、なんだか嫌な予感がするんだよ、コイツ。……気になることもあるしね」
チラリとクウを見る束。気になること、それが何かはまだ私には分からない。
ただ、嫌な予感というのには少し頷けた。一夏のこともあるかもしれないが、けれどそれ以前にまず、私も束も納得できていないことがある。
「データに存在しているのに記憶にない、過去も無い。突然現れたんだよ、コイツは」
「そうだな」
「なんだろうね……気持ち悪い」
「……ああ」
心底から吐き出された一言が、分からない全てを分からせる気がした。
気持ち悪い―――確かに大空三春という存在は、ひどく気持ち悪い。どうして覚えていない? どうして何も分からない? どうして―――一夏に近づいた?
兄と認めるにはコイツの存在は奇妙で、可笑しくて、気持ち悪かった。
「ねえ、ちーちゃん。ちょっと付き合ってほしいんだ」
「何にだ?」
「んーとねー」
束はヒョイと指先を動かした。ニュース画面が変わって、どこかの学校が映し出される。
「IS学園にね、行って来てほしいんだ」
テクテクと石畳を歩く。門を過ぎて、まだ誰も起きていないだろう学園で一人、歩みを進めていた。
影が私の前に伸びている。太陽がようやく顔を出し始めたようだ。
「―――貴女が、篠ノ之束博士の代理人、でしょうか?」
私しかいないと思っていた空間に、けれど出迎える人間がいた。
眼鏡をかけたスーツの女性。まだスーツに着られている感が拭えないのは、幼い顔立ちが原因だろうか。ちょうど逆光となってしまって見えない上に眩しいだろう私を見ようと、必死で目を凝らしている。
「そうです。貴女は?」
「私は山田真耶と申します……このIS学園の教師をしています」
山田真耶、か。どこかで聞いた覚えのある名前だと思った。
「私は―――」
一歩、近づく。太陽に雲がかかった。
「篠ノ之束の代理、織斑千冬です」
IS学園は新年度を迎え、そして私はIS学園にやって来た。