意思を持った私達に初めて呼びかけてくれたのは、束様でした。
「やあやあおはよう! 君達はこれから私と一緒に行動してもらうことになってるんだけどいいかな? まあ嫌だったら出て行ってもいいけどね! あ、でもその時はちゃんと言ってからにしてね。じゃないとまあ心配だし探しちゃうからさ。そうそう、君達の名前だけど」
慈しみ、包み込む愛情を持って束様は私ともう一人、私の隣にいた存在に名前をくれました。
「君は―――」
私は、『空』と名前をもらいました。
「ごちそうさま」「ごちそうさま~」
束様と私だけがいたこの家に、千冬様が連れてこられました。三人から二人に減った家が、また三人に増えて私は嬉しいです。
けれど来たばかりの時、千冬様はひどく意気消沈しており、精神に不安を抱えていました。千冬様の弟である一夏様が、千冬様の元を去られたのが原因だと束様に教えてもらいました。
私はとてもとても心配で、けれど私が何を言うべきかも分からず、ただ束様に言われた通り身の回りの世話をしていました。
最初は殆ど減らなかった食事も、千冬様が来てからもうすぐ一月、ようやく半分ほど食べてもらうことが出来ました。
千冬様は未だ思い悩む様子を見せますが、けれど束様と共に笑っている姿を見れるようになりました。束様のように無邪気に笑うことはしませんが、静かに微笑む姿はとても美しいです。
「束様」
「あ、くーちゃん。どしたの?」
「着替えをお持ちしました」
「おお~。ありがとね」
束様と千冬様が寝巻に使用している服を持って、お二人が寝室として使用している部屋を訪れます。といっても既に千冬様は布団を被って寝ているようで、服はそれまで着ていたシャツとズボンのようです。
「(あ、脱いでますね)」
と思ったら、ベッドの下に落ちてぐしゃぐしゃになってるズボンを見つけました。布団を被ってから脱いだのでしょうか、千冬様は案外、横着する性格のようです。
お二人の寝巻を束様の横に置いて、床に落ちているズボンを拾い上げ畳みます。束様はいつものアリス風の服です。
「着替えられますか?」
「ん~? うん。大丈夫だよ~」
声を控えめに問いかけると、束様は何ら問題ないと頷きました。
入口からは陰になっていましたが、千冬様は布団から少しばかり手を伸ばして束様の服の裾を掴んでいました。布団の上からはよくわかりませんが、どうやら体を丸めて寝ているようです。
幼い子どものようなそれらに、何故だか私は無性に悲しくなりました。けれど束様は服を掴む千冬様の手に自分の手を重ねて、それを優しく握り返します。少しだけ千冬様が微笑みました。
「で、どうだった?」
「駄目でした」
束様の問いかけに私は首を振って答えます。束様は「そっか」と特に気にする様子も無く寝巻を手に取りました。
「意外と高性能なセンサーを持ってるんだね~。次はどれで行こうかな~」
「あまり遊び過ぎると、こちらの居場所を感づかれるのでは?」
「あっはは! くーちゃんは心配性だね。大丈夫大丈夫」
千冬様に服の裾を掴まれたまま、それでも器用に束様は寝巻に着替えます。
「今はまだ、アイツにちーちゃんは会わせてやらないよ」
ゾクリと背筋が冷える感じ。静かではあるけど、とても冷たくて暗い瞳は私に対してのものではないのに、何故だか体が震えるほどです。
けれどそれもすぐに消えて、束様はまた自信満々といった風に笑いました。
「転移装置でいつでも移動可能だし、ボタン一つでここは爆発できるから手がかりも残さないし。何よりどんなセンサーだろうとここを見つけることは出来ないよ」
それがたとえ束様が開発したISを用いたものだったとしても。束様の開発するものは常に進化を続け、停滞ということをしない。だから束様自身が以前開発した物ですら、今の束様が開発した物に敵わない。
そんな束様だから、世界中から追われている今もこうして堂々としていられる。自身の大切な人の手を掴んでいられる。
「んー、でもやっぱり毎回壊されるのわなぁ。もう監視するの止めちゃおうかな~」
「いいのですか?」
「うん。だってちーちゃんももう見たくないだろうし。私はただアイツがいっくんに可笑しなことをしないか監視しようと思っただけだし」
でももういいかな、束様は千冬様の寝巻を広げて言った。
「いっくんってばちーちゃんのこと忘れてすっごく幸せそうなんだもん。いっくんは好きだけど、ちーちゃんほどじゃないんだよな~」
束様の価値観というのは、とても特殊なものだと思います。
束様にとって多くのものが興味のある、ないで二分され、大半のものは興味のないものに分類されます。それは人間に対しても同じであり、言ってしまうなら人間は興味のないものだと思っているようです。
人間ではなく個人となってもそれは変わらず、束様はその個人ですらほとんどが興味のないものであり、束様の家族をようやく、身内と認識できる程度だそうです。ただ家族の中でも妹の箒様だけは別であるようで、よく写真や動画を見て楽しそうにしているのを見ます。
そして他にもう二人、束様が興味を持つ個人がいました。それが千冬様と一夏様です。
お二人の話は私も束様から日頃聞かされていて、いくつかの写真や映像を見せていただいたこともあります。他のものに対する興味の在り方と一線を画していましたので、違いがよく分かりました。
ですがたとえ興味を持っていたとしても、どれだけそれに対して感情豊かになろうと、束様はそれを切り捨ててしまいます。
それは興味が失せたの一つに尽きるのでしょう。新しい物にはそれなりに束様も興味を示して見せますが、どれもすぐに捨てられます。飽きてしまったと言っていました。
それは物だろうと人だろうと個人だろうと変わらず、それまでの情というものをほんの一瞬の後に捨て去ってしまうのが束様です。
「……でも、ま。一応もうちょっと見とこうかな」
一夏様は今、その瀬戸際にいるのでしょう。当然ながら一夏様がそれを知る筈もないし、きっと関係無い事なのでしょう。これは束様の中で起きている感情の変化に過ぎません。
ただ私は、束様がまた一つ大切なものを捨ててしまうのが悲しいのです。束様にとって大切なものが何一つとなくなってしまったら、そう思うと心配で心配でなりません。
「ん……」
「お?」
束様が千冬様に寝巻を着せようと、布団に手をかけました。けれどその瞬間、千冬様は目を覚ましぼんやりとした様子で束様を見上げています。
もぞもぞと体を起こして小さな欠伸、写真や映像で見ていた凛とした姿からは想像もつかない可愛らしい姿です。
「起きちゃった?」
「……」
ベッドに座ったまま少しばかり千冬様の方に体を向けて、束様が問いかけます。千冬様は未だ眠そうにしながら、少しばかりうつらうつらと船を漕いだ後、
「ん、ぅ……」
くたりと、前のめりに倒れ込み束様の足を枕に眠ってしまわれました。ご丁寧にも手は束様の服を掴み、束様がどこかへ行くことは許さないようです。
「ちーちゃんってば甘えん坊だね~」
「んゃ……」
子どもがいました。本当に、実際に見る千冬様はこれまで想像してきたものとかけ離れています。もしかすればこれが本来の千冬様と言えるのかもしれませんが、それは私には分からない事です。
「……それでは、何かあればお呼びください」
「うん。あ、次に飛ばすのはくーちゃんに任せるね」
「了解しました」
次に飛ばすの―――大空三春と大空一夏を監視するためのカメラ。何度となく飛ばしたそれは見事に破壊されて帰ってきます。回収するこちらの身にもなってもらいたいです。
束様の開発したカメラを発見し破壊する、というのは並大抵のことではありません。いったいどういった方法で行っているのか、それは残念ながら解明できていません。映像でいつも最後に確認できるのは、大空三春がこちらを見たことのみ。カメラを見つけた瞬間に破壊しているということでしょうか。全く持って面倒な……訳の分からない事を。
「大丈夫だよ、ちーちゃん」
部屋を出る時、束様は千冬様の頭を優しく撫でていました。愛しげに、大切な宝物に触れるように、優しく優しく。
「これでいいですか」
監視カメラの一つを起動させて座標を指定、飛ばします。たったそれだけで終了です。それでは私は部屋の掃除をすることにしましょう。
束様が多くの時間を過ごす部屋、開発室兼研究室兼リビング兼寝室兼……とまあ、ようは『何でも部屋』です。先ほど束様と千冬様がいた寝室のようにきちんと独立したその役目を持たされた部屋はありますが、束様はとりあえずここでなんでもやります。千冬様も、束様と共にいることが大半なので、この部屋で過ごす時間が最も長いです。
部屋は狭くもありませんし、だからといってそれほど広くもありません。大型の機械が壁際にいくつも置かれてるため、それのせいで部屋が狭まっているからです。
床に散らばった鉄くずを小さなロボットのリスが両手に持って食べています。私はそれを蹴らないようにしながら床に散らばった何枚もの写真を拾い上げて回収していきます。
写真は、監視カメラの映像を元にプリントしたものです。写真の中には大空三春と大空一夏がいます。とりあえずプリントしたものの、もういらないと束様は言っていました。
「ちーちゃんに見られる前に捨てといてね」
言われた言葉を思い出し、拾い上げた写真はシュレッダーに流します。
束様はまだ、一夏様に対する興味を失ってはいません。けれどそれも、千冬様を傷つけたことで揺らいでしまっているようです。
束様は千冬様をとても大切にしています。それこそ何よりも、おそらくは実の妹である箒様よりも。もしかすれば一夏様に対する興味の理由は、千冬様の弟ということによるものなのかもしれません。
だから束様は、今の一夏様―――大空一夏に対する興味を持っていないのかもしれません。
仮に何か認識を抱えているかとすれば、それは千冬様を傷つけたというものでしょう。
束様が今なお、大空三春と大空一夏を見ているのは、大空一夏が織斑一夏に戻るかどうかを見ようとしているのかもしれません。
「……それも全て千冬様の為」
一夏様が戻れば千冬様は喜ぶでしょう。だからその為に束様は大空一夏を見ている。
なら、大空一夏が織斑一夏に戻らないと判断した時は? その時は、抱いている興味も情も一切無くして切り捨てるのでしょう。束様は、そういう人です。
写真を全てシュレッダーにかけ終えて、私は部屋の掃除を続けます。散らばった部品を集め、道具を仕舞い、埃を拭いて、ついでに機材のチェックも行いました。それは苦ではありませんが、一人でやるには大変な作業です。
こうしていると、いつも思い出します。いえ、本当はこうしている時だけじゃなく、常にいつでも二十四時間ずっと、私は思い出しています。
千冬様が来る前、私と束様とあの子の三人でこの家に暮らしていた日々を、あの子のこと―――私の、片割れのことを。
私が意思を持った時、私の隣にあの子がいました。私の片割れです。
私たちは二人で一つの存在。どちらも欠けてはならない存在で、故に互いに相手の片割れでした。共に束様の手伝いをし、こうした部屋の掃除も二人で一緒に行いました。
片割れが共にいることは、私に変えようのない安心感を与え安定感を与えそして当たり前の日常を与えていました。他がどれだけ変わろうと片割れと共にいる事だけは変わらないと思っていました。
なのにそれは唐突に崩れて消えてしまった。
片割れはいなくなりました。何の前兆も予兆も無く、いた筈の存在がいなくなりました。
理由は分かりません。少なくともいなくなる理由は無かったのです。それは間違いありません。ならばどうして。
探したのに見つからない。どれだけ呼ぼうと答えは無い。片割れの手がかりがどこにも無い事に私は恐怖を感じます。
束様もまた全力で片割れを探しました。それこそ世界の全てをひっくり返すような発見をしながらそれも無視して片割れを探しました。探したけれど見つかりませんでした。可笑しいというより異常で奇妙で有り得ない事です。だって束様が見つけられないなんてありえないのですから。
……大空三春という存在は、それと似ています。どれだけ束様が調べても分からない存在。どれだけ束様が探しても見つからない片割れ。異常で奇妙な共通点です。
「……」
フッと空中に投影されたままのディスプレイに光が灯ります。もとより青く光っていたディスプレイは白く光り、その中に動く人影がいました。
先ほど飛ばした監視カメラが大空兄弟を補足したようです。いつものようにリビングの窓から家の中を映し、リビングに大空一夏の姿が見えました。
当たり前のようにそこにいて、まるで昔からそこが居場所だったようにそこにいます。大空一夏が立ち上がり、部屋を出て行くと大空三春が入れ替わりに入ってきました。
私はジッと大空三春を見つめています。
黒い髪、整った顔立ち。そんなものに興味ありません。というより大空三春はどうでもいいのです。私は、ただ―――
ぅ―――くう―――く―――
片割れの声が、聞こえるのです。微かに、弱弱しくて今にも掻き消えてしまいそうなその声を、誰が聞き間違えるものですか。
「私は、ここにいます」
私の声は聞こえていますか? 私を呼ぶ貴方の声は私に聞こえています。
大空三春、そんな存在は私にはどうでもいいのです。私はただ、片割れの声が聞こえるからお前を見ているだけです。
ディスプレイの中、大空三春がこちらを見ました。暗転。今日はいつもより早いです。
「―――私は、ここにいます」
私の片割れ、貴方の片割れはここにいます。