夢見る小石   作:地衣 卑人

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五 真夜中に見る寂しい夢。唐突に描き出された夢は、忘れていたそれを呼び起こして。

沈む

 

 冷たい風。冷たい水。

 黒く黒く遥か彼方で光放つ彼女等を映す湖面に一人浮かび。空と湖、互い、互いに深く深く広がる彼等の境で四肢を放る。

 

 力を込めず。これ以上沈むことも、これ以上浮かぶこともせず。只々、此処に。此処に居て。

 

 

 本当に。この湖は静かで。命の輝き、思考の波。眺め、聴いて、揺さぶられ。疲れたときには此処へと降りて。

 生物の殆ど居ないこの静けさは、最早不自然なほど……いや。何処も彼処も命で溢れているのならば、それはそれで。私の見上げるこの空に、どれだけの命があるのかも知らず。人の手が加わることは不自然で、未だ、伸ばした手は。手の届く範囲は、狭く、狭く。

 何れにせよ、ここは。森や、川や、山や里が抱え込んだ静かな喧騒、それが無く。居るのは妖精くらいのもの。

 死の湖、と、言うと。此処で暮らす誰かに失礼か。此処で暮らす誰かのことを……彼女等のことを。やはり私は、何も知らないけれど。

 

 知らないからこそ。広く冷たい、暗い暗い何かに満ちた未知の世界に道を作る。そのことだけに心を沈め。その魅力に捕われる。そんな人々がいるのだろうと。

 私も、また。沈み、浮かぶことを忘れる。星の溶けた水、未知の暗闇。その奥底へと。

 

 体を、沈めて。

 

 

 

 

 

 その。固く閉ざされた。氷のよう、貝のよう。白く白く滑らかな、淡く光放つ球へと触れる。

 湖の底に沈む。巨大な真珠、閉じた蝶の羽に守られ。閉じた氷の下、閉じた、閉じた、閉ざされた。守るといえば聞こえは良く。けれど、この湖。生物の居ないこの湖で、一体何を守るというのか。守られるというのか。

 彼女の鱗は傷一つ無く。彼女の衣は解れ一つ無く。翡翠、真珠、水底の輝き。誰も知らない。湖畔に住む銀の彼女さえ、まだ。彼女のことを知りはせず。

 

 彼女の心は、閉ざされたまま。それは、自身の意思とは異なり。彼女が意識したことではなく。彼女を包むこの真珠、貝殻は。只、只、長い年月を経て。彼女の体を包み込み、覆い重なり形作った。

 心を隠した隔壁。彼女が作ったものではない。その隔壁を、指先で撫ぜ。撫ぜたところで、傷の一つも付かなければ、熱く溶け出すことも無い。冷たい水の底、淡水の真珠。海中のそれより強固な玉。私が触れたところで、どうすることも出来はしない。

 

 彼女は空を知らない。無数の光輝き流れるその空を。

 彼女は陸を知らない。無数の命溢れて蠢く湖面の向こうを。

 

 彼女を。人は、知らない。時折響くその歌声も。その、鱗の輝きも。真珠を掬い出すことは疎か、閉じた貝を開くこと。水面覆う氷を砕くことさえも。忘れられ、記憶からは零れ落ち。人間は既に、彼女のことは憶えてはいない。

 知るのは。妖怪だけ。閉じた真珠、その向こう。眠る彼女の夢、記憶。覗けば其処に、人間の姿は一つとしてなく。見つけ出しても、朧。遠い遠い記憶、懐かしささえ憶えるほど。

 

 その。懐かしさを。温かさを。他の妖怪から伝え聞いただけの人間像、記憶の底に沈む、彼女の持った人間像。掬い、掬い、引き上げて。眠る彼女のその夢に。人間の居ないその夢に。そっと混ぜ込み。

 

 

 意味も無く。只、只。彼女が人を意識して。彼女が人間に思いを馳せ。浮かび上がる感情が、その温もりが。この湖へと溶け出すならば、固く閉ざした真珠は。覆い隠す貝は、氷は、隔壁は。一体、どうなってしまうのだろうかと。自分勝手で、身勝手な。人に認めて貰えるような、動機は欠片ほども無く。無いけれども、それを。咎める人も居はしない。

 

 望まずして閉ざされ、広がることを忘れた彼女の思い。私は。望んで。人の心から零れ落ちた。零れ落ちた私に、意識を向けるものなど居ないと。

 

 只の、興味。只の興味。只。それだけ。人を恋うのかもしれない。人を疎むのかもしれない。真珠の向こうから、その手で壁を砕こうと。真珠の向こうで、より一層、厚い壁を築こうと。

 それとも。何も、感じずに。何一つとして変化はせずに。一夜の夢、只の夢。幻のそれに心奪われ、乱されるなど。彼女はしないのかもしれない。知れないけれども、それでもいいと。

 

 彼女の夢に記憶を重ね。彼女の夢をより鮮やかに。伝え聞いた言葉、他の妖怪の置き土産。それらを束ねて、纏めて、人間像。描き、描いて、描いたまま、私は。氷の向こうへ。未だ溶けることを知らない。その、向こう、冷たい空へと。薄命の空へと。

 

 一人。浮かんで。

 

 

 

 

 

 日は昇り。日は沈み。相も変わらず誰も居ない。人影一つとして見つからず。変わることなく揺れず跳ねず。只。

 その日、聞こえるその歌は。心なしか、いつもより。

 

 少し、ほんの少しだけ。遠くまで響く、ような気がした。

 


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