夢見る小石   作:地衣 卑人

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三 積もり重なる記憶の夢。大切なものはあまりに多く、捨てることなど出来なくて。大切だった筈のそれが何処か深くに埋もれていく。

 

 

 人工物の群、建築物の群。

 ぽつ、ぽつと。灯る明かりと明かりの間。回り、回り、視界の中で線を引く。温かなそれを指でなぞって。冷たい風の中を行く。

 

 月明かりは、白く。月明かりは、白く。輝くそれは、落ちる糸を。銀色のそれを紡ぐ力は、私には無く。紡げたところで、送る相手の一人も居ない。けれど、けれど。それを悲しむだけの心は。この夢、幻、幻想の郷。閉ざされた世界とその境で、こいしと出会った時に溶けた。

 今の私に在るのは。ふらふらと彷徨うその同期、興味、失い、また湧き立つ。点っては消える灯り、ランタン、誘われて近寄り。焼けれることさえ忘れた。

 

 この里には。沢山の人間が居る。金の髪をした彼女、孤独に怯えた、叶わない力、無理やり押し付けられたその言葉に苛まれた。魔女とは異なる、普通の人間。穏やかな夢、平穏な暮らし、そのまま映し……時には。人間を食べるその影に怯え。大事な人を食べられたその悲しみに震える夢。けれど。

 彼等には、彼女等には。支える人がいるようで。支える思いがあるようで。多くの人を見てきた、多くの死を見てきた。歴史を見てきた彼女でさえも。多くの哀しみ、寂しさを抱えた彼女でさえも。支えを、光を持っていて。

 

 穏やかな里。家々の戸口から溢れ出した夢の端を撫ぜ。より鮮やかに、より鮮明に。より美しく、より深く。それが良いことかどうかなど知らず。知ろうとも思わず。只、私が。人々の見る夢を覗き。笑い、泣きたいだけで。

 

 赤い霧、終わらない冬、終わらない夜。薄っすらと掛かる霧に酒宴の誘い。咲き誇る花々。新たな神様、緋色の雲、間欠泉。宝船、湧き上がる欲。

 里の見てきたこの郷の記憶。その断片を夢の端から、拾い集めて、嵌めこんで。全ての全ては分からないけれど、少しだけならこの郷を。この郷に住む人々のことを理解できる、と。

 

 夢から夢へと。人から人へと。歩き回り、眠りを振りまき。更に深い眠りへ、更に深い夢へ。そうして。

 

 一つのお屋敷。他の家よりずっと広く。ずっと深く根付いた屋敷に辿り着き。その一室。深い深い夢を見る。永い永い記憶。無数の記憶。何人分の記憶かも知れないほどに膨大なそれを溜め込んだ夢に、頬を当て。覗き込めば。

 

 赤い霧は。より紅く。終わらない冬は舞い落ちる桜、花弁の白と混ざり合い。終わらない夜は欠けた月と共に。酒宴のそれには鬼の影、花々の背後には紫の桜。山の神は風と共に、緋色の雲は地震と共に。間欠泉に怨霊、宝船に法の光、欲に聖人……

 より、鮮やかに。この郷の記憶。人々の記憶。妖怪の記憶。記憶、記憶、記憶の波は私の足を掬い、のめり込む私、覗き込む私は。

 

 思わず。その夢の中へと、転がり込んで、手を突いて。永く永く古めかしい夢。永く永く続いていく夢。一人の少女の夢へと落ちた。

 

「……すごいね。どうやったらこんなに、沢山のことを憶えられるんだろう」

 

 話しかけても、返事は無い。誰の姿も無い、誰の影も無い。私一人きりの夢の世界。夢の主さえ、何処に居るのか分からないほど。私でも迷ってしまうほどに深く、広い、記憶の迷路。

 でも、これは。これは少し、少しだけ。おかしく。不可思議に思えて。

 

「どこかにいると思うのだけれど。何処に居るんだろう。それに」

 

 彼女が。本当に大切にしている記憶。彼女の心の奥底にあるもの。それが、一つも見付からない。此処に在るのは、この迷宮にあるのは。只々、膨大な郷の記憶、人々の知識。これも、きっと、彼女にとっては掛け替えの無いもの。けれど、それよりずっと大事な。大切なそれ、強く強く鮮やかに光を放つそれが、何処にも見付からない。きっと、とても。彼女は慎重で。大切なものは奥深くに隠しておくような……決して、失くさないように。大事に仕舞っておくような。そんな人なのだろうな、と。

 

 夢の中。夢の中。記憶の壁と、壁の合間。記憶は他の記憶を頼りに記憶として其処に縫い付けられて。崩れ落ちることも無く。はらはらと消えることも無く。只々其処に。当然とばかりに立ち並んで。

 深く、深くへ。彼女の心の奥底へ。文字、音、声、景色。深く、深くへ。鮮明に。明々と。輝く場所へと、今見る夢へと。歩み歩み、そして、遂に。

 

 

 その場所へ。彼女の夢の最深部。降り積もる彼女の記憶の頂。其処へ、ついて。

 

「……阿求さん、だよね」

 

 降り積もるのは、舞い落ちるのは桜の花弁。赤から白へ。白から赤へ。桜は、夏の日差し、風。夏の光は秋の香り。落ちる落ちる色の有る葉となり。そして。

 そして、雪。優しく輝き。穏やかに冷たく。白く。白く、また、白は。赤へ――

 

 彼女の上に降り注いでは。彼女の肌の上で溶ける。彼女の記憶として溶ける。鮮やかな夢。鮮やかな記憶。私の力が無くとも、こんなにも。他の人より遥かに強い、強い光。

 舞い落ちる花弁、日差し、葉、雪。それら全てが彼女の記憶。それら全てに映し出された彼女の記憶。決して忘れることなんて出来ないだろうというほどに。これが、彼女の夢。溢れ出した記憶、気付き上げた乱雑な、それでいて。彼女はいつでも引き出せる、記憶の迷宮、広大な書庫。

 

 けれど。彼女の顔は。眠り、眠る、彼女の顔は。

 

 何処か、不安げで。何処か、寂しげで。何かを探すように。何かを失くしてしまったように。全てを記憶した彼女。彼女が。何を失くしたと――

 

 失くしたと。言うのか、と。思い、思えば。舞い落ちる記憶の中。他の光に掻き消されるように色褪せたそれを、それを見つけて。手のひらで、受け取り。

 

 それは。遥か過去、今の彼女とは違う彼女の見た記憶、景色。何かの切れ端。眠る彼女の、何かを求めて開かれた手に、それを、返せば。

 

 幽かに微笑み。また、寂しげに。悲しげに。彼女の顔は、また、歪み。

 

「そう。その思い出を探してるんだね」

 

 何人もの彼女。何度も生まれ、何度も眠り。覚え、憶え、記憶し続け。それでも。いや、だからこそ。

 

 埋もれ、埋もれ、褪せて、消え。失くした記憶も、大切な失せ物も。きっと。

 

「まだ、残ってるんじゃないかな。大事なものは大切にしまっておくあなただもの。きっとまだ残ってる」

 

 眠る彼女の手を握る。彼女の夢へと深く繋がる。

 

『……何方、でしょうか』

「誰でもいいよ。さ、あなたの大事なものを探しに行こう」

 

 まだ残っている。忘れていないと、信じ、信じ。願い。願って。彼女の築き上げた記憶の山。積もり積もった記憶の底。其処を、目指し、目指して、思いを込め。

 第三の瞳を見開く。僅かな光も見逃さない。消え行く光も掬い上げ。彼女の失せ物、失くし物。大切なそれを、大事なそれを。彼女と共に。彼女の手を引き。

 

 記憶へと飛ぶ。無意識を超えて。意識の上に浮かび上がらず、何処か、何処かに隠れてしまった。それを探して、欠片となった記憶の積もる。桜の花弁の積もった世界へ、降り立って。

 

 もっと、もっと。これではまだ、見付からない。見付からない、と。瞳を見開く。深くまで見通し、遠くまで見通し。

 舞い上がる花弁。近付く記憶。彼女の記憶は、私達を包み込むように。鮮やかな記憶、霞んだ記憶。見詰めるのは、彼女の。私のではない、彼女の瞳で――

 

『あっ……』

 

 ある、一点。無数の花弁、記憶の花弁。その中で一つ。色褪せかけたそれを。消え行かんとしていたそれを。彼女の瞳は、捕らえ、捉えて、花弁は、記憶は。

 

 

 

 

 強く優しく。光を、放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、最後まで。彼女の夢。大事な思い出。私にはそれは、分からず終いで。

 私が見たのは。最後に見たのは、満ち足りた顔。安堵した顔。大事なそれを、私の目には見えないそれを。その手に抱いて笑う、彼女の寝顔で。

 

 全てを記憶する彼女と言えど。きっと、朧な夢の中。出会った私のことまでは憶えていない、と。そんな笑顔を向けられる。記憶の一つになることは、私は無いのだろうな、なんて。ほんの少しだけ寂しさを覚え。憶えたところで、どうすることも出来はしない。出来はしない、けれど。いつか。

 

 そんな風に。誰かの記憶に残ってみたいと。思い、思って。

 

 

 眠り続ける彼女から。彼女の夢から、夜明けの現へ。一つ、足を踏み出した。

 

 

 


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