夢見る小石   作:地衣 卑人

6 / 20
二 いつか憧れた空想の夢。茸の胞子、淡く虹色に光る雲と人形の夢。何処かに置き忘れたままの世界。

 霧か、胞子か。木々の合間、煙掛かった夜の森。月の明かりが薄らと差し込み。彼女と別れた湖の上、彷徨い、彷徨い、ふらふらと。興味の向くまま、忘れるまま。何かに向けて。何かを忘れて。彷徨い続けて辿り着いた、青く青く。暗く。しかし、暗闇の中で蠢くのは恐怖のそれではない。青い月明かり。差し込む線は、現実離れした夢の中ともそう変わらぬ程夢のよう。穏やかさに満たされた。静けさの中で、霧の中で。流れ流れる平穏を指先で撫ぜ、そっと地に足を着け、ふらふらと奥へ歩み行く。

 

 御伽噺のよう。木々の声は聞こえない。御伽噺のよう。きっと、奥には。恐ろしい魔女、三色の男。燃え盛る悪魔、頭蓋の灯火。人形なんて持っていない私はきっと、捕まればその口の中。けれど。

 私が、辿り着いたのは。一つの小さな、小さな家で。それは、そう。魔女の家とは違う、暖かで、優しい。人間の手も足も無い。顎も無い。灯りの消えた小さな家。近付けば。

 窓に覗く人型。少女の姿、並ぶ人形。硝子の目、澄んだ目。穢れの一つも知らない目、その奥に浮かぶ幸福感。きっと、この人形達、家の主は優しい人。不器用な人。怖がりな人。人形達の見た姿、人形達の思う姿を、心の内を。閉じた瞳を以って知り。

 

 どんな人が。住んでいるのだろう、と。どんな人なら。これ程人形達に愛されるのだろう、と。窓から覗き、覗き混んでも。窺えるのは人のいない部屋。暗い部屋。テーブル、時計、棚、人形。窓だけではなく、家の中も人形だらけ。成る程、殆ど皆。彼女によって作られたと言う。

 

 もっと。その人について知って見たい。金の髪、青い目。細い指、白い肌。それは、そう。魔女と言うより、まるで。

 

 瞳を開く。第三の瞳。閉じた心の瞳。映り込む景色は差し込む景色は、光は。色取り取りに美しく。意思はあれども、言葉を持たない。彼等、彼女等、ざわめきと共に。明明と輝く強く淡い光を映し。世界は変わり、変わり、変わり。

 

 こいしに出来たこと。私に出来ること。私は彼女と夢の中で相見えて。ならば、私も。きっと、きっと。

 

 第三の目を閉じること無く。二つの目、両目を閉じる。足は、地から離れ。空中に浮かび、力を抜いて。見えるのは、無数の光。言葉を持たない木々の心。意思と呼ぶにはあまりにも静かな。物と呼ぶにはあまりにも暖かな。無数の光、光の中で。

 体は眠り。瞳に映る景色は、幾多の光だけ。光だけ。家の中、人形達の合間。空を縫うように。ひらひらと飛び回る蝶、その、源。一つ、扉の閉まった部屋の奥。扉を開けること無く潜れば、其処は。

 無数の蝶。鮮やかな光。青い森のそれは、僅かに欠けた月の下。森はいつしか竹藪に変わり、古い古い屋敷、続く廊下を遠く映し、いつしかそれも、広い広い空へと消えて。掻き消えた緋色の雲とその先から降り注ぐ極光。降り出した雪。分解と融合、密と疎を繰り返す霧の合間、一匹の蝶は、蝶は、飛び。

 

「やっと見つけた。今晩は、アリスさん」

 

 私の周りをぱたぱたと飛び、指先に止まり羽を休める虹色の蝶、一人の少女。目まぐるしく穏やかに移り変わる景色の中で、唯一変わらず飛び回る彼女が、この心、この夢の主。

 

『あなたは――』

「誰でも無いよ。あなたの知ってるこいし(その子)でもない」

 

 雪の降る地下の夢。地上の社と薔薇の夢。アリスはこいしに会ったことが――誰かを介して。人形の先。その誰かの姿はあまりにも鮮明で。あまりにも強く。明るい姿で。

 

「これ、あなたの夢じゃないね。抑え切れてないけれど。誰に貰ってきたの?」

 

 飛び回る蝶の群れ。湖畔。蓮と、花と。静かな空。彼女もまた。その夢は、酷く古臭い。その夢は、あらゆる人の憧憬の一。優雅な夢、柔らかな夢。胡蝶の夢。人の柵、人の心。忘れ。一羽の蝶、現と幻、夢の境を曖昧に。溶かし、溶かして、一つにする夢。

 誰かに貰った夢。彼女の心に、この夢を見る種は、無い。

 

「竹林のお医者さん? 夢を見る薬なんてあるんだ。さっきの竹藪ね。兎? そう、髪も切ってくれそうだね」

 

 彼女の言葉を、心の内、今はこの、部屋の全てを。摘み上げて、手の平に乗せて。そっと、そっと読み取って。

 

 偽りの月。竹林に隠された黒髪。永遠と須臾。兎と、兎と。紅い瞳。銀の髪、赤と青、薬と矢。不死の夢。月の夢。彼女の傍、決して離れず共に行く。一人の少女―――

 

 蝶が。アリスが、私の指先で震える。世界は青く。世界は暗く。光を失いながらもまた、新たな色。噴き上がる火のそれ、噴き上がる不安のそれ。恐怖のそれ。絶えず移ろい続ける心像、夢、近付く終わり。彼女に胡蝶の夢を与えた薬の魔力ももう、欠片程しか感じない。彼女の周りに浮かび上がるのは、槍を、剣を、盾を構えた人形達。武器だけではなく。巨大な人形、霧の中でぼんやりと輝く目。しかし、その、人形達もまた。

 私の腕の中で震える。金の髪をした少女のように。恐怖に震えて。震えながらも、武器を構える。

 

 刃の先にあるのは。密と疎。繰り返し繰り返し萃まり、繰り返し疎となる霧。浮かぶ、巨大な人影。否。

 二本の角を備えた。鬼の影。鬼の影。その言葉。消えず、絶えず。彼女の心に植え付けられた、巣食った。不安の種。悪夢の種。

 

「これから逃げるために、その薬を貰ったんだね」

 

 膨れ上がる鬼の体。巨大な影。けれど、それは。彼女の心の思い浮かべる恐怖の象徴。この夢の中にいるのは、アリスと、鬼だけ。そして、鬼も。彼女を置いて、嗤い、嗤って、消えていく。

 そして、其処で。目覚めるのだろう。目覚めて来たのだろう。もう、彼女の意識も。少しずつ、少しずつ。現に引き戻されつつあって。

 

 腕の中で震える体を。そっと撫ぜる。彼女に巣食った不安。彼女を蝕む恐怖。もうすぐ、この、夢の中。彼女は一人になってしまう。その前に、その前に。

 彼女の見たあの姿を、第三の瞳。その裏側から映し出す。月の異変。地下への旅。こいしに出会ったその時。彼女と共にあった姿を。彼女の夢の中で、一際強く光を放つ、その姿を。

 

 霧の空へと解き放つ。夢の空へと映し出す。

 黒白の服。三角の帽子。金の髪。三つ編み。古めかしくも箒に乗って、空を飛ぶ姿は。御伽噺の魔女のそれ。やっぱり、この森の中には。こんな、魔女もいるらしい。

 

 彼女の放つ光に気付いた。アリスは、空を。彼女を見上げ。そんな彼女に、魔女は笑い。何処か、馬鹿にしたように。それでも、何の嫌味も無く。友人同士の間の笑み。悪意の無い笑み、裏の無い笑み。それは。

 彼女が。アリスが求めた。

 

 魔女の手に握られた小さな小さなその炉から、色取り取りの光が溢れる。光輝く星の群れ、光を束ねた光線の波。霧を晴らすように。鬼を掻き消すように。

 夜を。不吉な夜を追い払うように。巨大な鬼を包み込む、虹色の光、恋色の光は。酷く暴力的だけれども、何故か、優しく。

 

 消える鬼を。残った魔女を。その笑みを見た、アリスは。その震えももう、恐怖ももう。不安も、もう。収まった後。静かに閉じられた青い瞳と、聞こえ始めた穏やかな寝息。遠退く現実。世界の色は変わり、変わり。魔女との記憶。穏やかな一時。刃を置いた人形達と、お茶の香り。平穏の夢へと、変わり、変わって。

 

 暖かな綿毛の床に、彼女の体をそっと横たえ。これ以上、私がここにいるべきではないと、そう、思い。

 

 私は。瞳を。宙に浮かんだ第三の、心の瞳を。

 

 そっと。閉じた。

 

 

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 

 朝の日差しに目を覚ます。

 

 いつもは。もっと、早く。日の登る前。悪夢に。嫌な夢に目覚め。汗に塗れていたというのに。今日は、何故か。穏やかな目覚め。疲れの一つも感じない。夢から覚めたことが少しだけ残念で、けれど。夢より現への希望が勝る。そんな、朝を迎えていて。

 

 幸せな夢を見た気がする。途中までは、確か。いつも通りの夢だった。胡蝶夢丸の夢が終わり、私の悪夢に塗り潰されて。その、後は――

 

 よく、思い出せないけれど。彼女が隣に居てくれたことは。それだけは、憶えていて。あと、誰か。誰かに会った、気がするけれど……もう、夢の先。それが誰かと、問い掛けることも出来はしない。寝台から床へ足を着き、朝食の支度をするために、立つ。

 

 ふと。寝台の横。小さな机に置かれたままの、丸薬と、その包み紙。竹林の薬師から譲り受けた薬。穏やかな夢を見せるそれを。

 手に取り。机の、引き出し。その奥へと仕舞い。着替えを持って来てくれた人形達から洋服を受け取り、小さく一つ息を吐く。

 

 折角。こんなにも良い気分なのだから。こんなにも穏やかな心地なのだから。お茶会でも開いてみようか、なんて。仲の良い友達を何人か呼んで。彼女も、忘れることは無く。そうと決まれば、朝食を済ませて手紙を書こう。人形達に任せれば、午前の内には皆の所に届くだろう、と。

 

 着替えを済ませ。髪を整え。人形の並ぶ窓、その、硝子の奥。差し込む光は柔らかで。

 

 

 もう。胡蝶夢丸は。悪夢を遠ざけるその薬は。私には、必要ないと。そんな、気がする。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。