夢見る小石   作:地衣 卑人

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三夜目 澄んだ空の夢。

 この目は。いつ、いつ開いたのか。人の心を。その感情を読み取るこの目が開いてしまったのは。いつ、いつのことだっただろうか。

 

 耳を塞いでも。目を瞑っても。

 流れ込むのは、周りの言葉と。その裏に隠した感情。思い。触れたくも無いような言葉、意識。その根元に在る、更に純な。更に汚れた、その心に。私のこの手は、否応にも引き寄せられて、引き寄せて。

 

 意識することなく。しかし、確かに感じる。嫌悪。優越感。劣等感。嫉妬。劣情。流れ込む情報の波。その、全ての全てが、負ではなく。しかし、それでも。正負の比率は。暗い思いの割合は。温もりのそれを、覆い隠して塗りつぶす程に、膨れ上がって視界を占めて。

 人の心など。知りたくなんてない、と。願えど。祈れど。この目は、閉じず。心の全てが読める訳ではない。それでも、私には。弱い、弱い私には。抱いてしまったこの力は、手に余るもので。

 

 優しさよりも、侮蔑と憎悪と、身勝手な欲望。温もりよりも、冷え切った思い。愉快げな笑みを浮かべた面であれど、その、面の裏に在るのは。

 只管に、気持ちの悪い。そんな、そんな、思いの塊で。

 

「……随分、塞ぎ込んでるね。嫌なことでもあったの?」

「……大丈夫。来てくれて、嬉しい」

 

 生い茂る、くすんだ緑。地を這い。棘を抱いて。私を囲む。

 茨の壁。花の一つさえ付けず。触れ合おうとすれば、無意識の内に傷付け、傷付く、茨の檻。

 そんな、暗い緑を挟んで。茨の隙間にその、綺麗な。緑色の瞳を覗かせた彼女を、見詰めて。

 

「……ごめん」

「大丈夫、大丈夫。これくらいの壁、あなたなら簡単に越えれるんだから」

 

 そう言って、彼女は。茨の先で、膝をつく。私の顔を。さぞ、暗く沈んでいることだろう私の顔を、笑い飛ばして。

 笑い、飛ばすも。私は。

 

 目の前に聳え立つ。有刺の檻に、身が竦み。

 

「……無理みたい」

「大丈夫。きっと越えれる。ほら」

 

 彼女は。声に笑みを、湛えた、まま。その、細く。白く。綺麗な、手を。

 

 この。茨の茂みに突き入れて。

 

「ほら」

「ほら、じゃ……」

 

 言うが早いか。茨は、蠢き。無数の腕の擦れ合う音。彼女の腕に絡みつく感覚。そして、その。棘は、棘は。鋭く。伸び、伸びて。

 

 貫く。貫く感覚が。私の胸に。痛みを与えるその感覚が。感触が。流れ出る赤い液体が伝い伝い肉を潰し骨を軋ませ彼女を傷つける感覚が私の中に流れ込んで育ちゆく痛みは与える痛みは彼女を、彼女を――

 

 

 嫌、だ。と。

 

 

 震える声、声にならないその声を追い越して。

 茨を掴む。棘が手のひらを貫き、走る痛みに顔を顰める暇さえ無く。彼女の腕に幾重にも絡みついたその細い細い曇った緑の腕々を掻き分け、引き剥がし、毟り取り。

 

 見つけた。赤く染まった手を。手のひらを、握り――

 

 

 

 

 

 茨が。彼女の腕に絡み付いた茨、私を囲んだ無数の茨が、その手を握り締めると共に、砕けて、散って。僅かに光を放って消えゆき。

 私は。彼女の手を握り締めたまま、また。崩れ落ちて、膝をつき。笑う、彼女の顔を。滲んだ顔を、見詰め、見詰めて。

 

「ほら、越えれた。ね、簡単だったでしょ?」

「それ、より……手……」

「手? ああ、大丈夫、私は慣れてるし、それに」

 

 このくらい、と。彼女は。握る私の手を解き。濡れた腕から水滴を振り払う気軽さを以て。

 血を。傷を。虚空へと捨てて。気付けば、私の手の傷も。消え失せた後で。

 

「……よかった」

「心配させちゃって、ごめんね。でも、もう痛くないでしょう? 過ぎてみればこんなものだよ」

 

 私は耐え切れなかったけどね、と。他人事のように笑い嗤い。喉元を過ぎた熱さは、忘れたまま。彼女の自嘲の理由は、朧にしか分からず。けれど。

 彼女の笑顔。その笑顔の理由は。意味は。決して、影の無いものとは言えず。言えずとも、私は。

 その、笑みを見て。胸の奥に、温かな。灰の中で熱を放つ、小さな、小さな火のように。埋み火のように。光を、灯して。

 

 世界は。私の心に灯った、光を映し出すように。柔らかな、無数の、色鮮やかな光で満ち満ちて。

 

「さ、行こう。立てるよね」

 

 彼女が、手を伸ばす。私は、その手を。手の先に浮かぶ、その瞳を、見つめて。

 

 笑みを返し。その、柔らかな手に、この手を重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 淡い発光、不規則に並び。自由に枝を空へと広げた、木々を思わせる光の森。暗く澄んだ空に張り付いた、無数の光源。瞬く星。

 そんな。ぼんやりと浮かぶ樹海。木々の合間から首を伸ばすのは、微生物達や。魚類のそれよりも遥かに巨大な、力強い生命(いのち)の輝き。

 古い古い。遥か昔の世界の姿。太古の風。それは、全て。夢から醒めた『今』では、見ることも叶わない空想上の世界像。地上を歩む、見上げるほどの巨体、鼓動。振動。

 絶え間無く震える世界。ゆっくりと目の前を横切る、眩い巨影を見上げながら、知らず知らずの内に握った、彼女の手。加わる力もまた、知らず知らずの内に、強く、強く。

 

「大丈夫。踏み潰されやしないよ」

「うん……でも、ね」

「大きいもんね。こんなに近くにいるんだもん、仕方ないね」

 

 握る手に。加えられる力。見れば、先より固く握られた、手と手。

 視線を上げれば、そこには。いつもどおりの、彼女の笑み。

 

「行くよ。舌、噛まないようにね」

「え、ちょ……な……っ」

 

 途端。浮かび上がる彼女と、引かれる腕。浮遊する体。

 ふわふわと、不安定な軌道を描いて飛ぶ、彼女。半ば、振り回されるように。ぶら下がるように引き上げられる私の、不恰好さを気にする余裕さえも無く。

 

「高い、高い!」

「ほら、自分で飛ぶ」

「飛べない! 落ちる!」

 

 地面が遠ざかる。巨大な竜の背にさえ届く、この高さ。落ちたならば、きっと。その痛みに、悶え苦しむ羽目になる。

 

「んー……それ」

「あ、待――」

 

 不意に。彼女の手が、離され。

 離れたその手に、手を伸ばしても。落ち行く体は。止まることなんて、無く。

 

 落下する体。重力は私の手足を掴んで、固い固い地面へと、黒い黒い大地へと引き摺り込み、叩き落とし。私は、為す術も無く。落ちてゆく、ばかりで。

 

 落ちて、落ちて、落ちて。私を囲む光輝く世界が視界に描き出した光の線。緑、青、白、その中心に浮かぶ、彼女は。手の届かないほどに遠く、遠く浮かぶ彼女は。

 

「ほら――飛んで!」

 

 声を。声を張り上げ、投げ落とし。私の鼓膜を震わせて。

 飛べ、と。彼女は、言う。私だって。飛べるものなら、彼女のように。この、空を……

 

 

 空を。

 

 

「……飛んでる……」

 

 

 落ちる寸前。あと、数センチと言ったところか。大地の気配を背中に感じたまま、私は。何か、柔らかな寝台にでも寝かされたように、軽く。揺蕩う水に浮かんだように、宙に浮かんで。笑顔で私に近付く彼女を、呆と見上げる。

 

「良かった。このまま落ちたらどうしようかと思っちゃった」

「……飛んでる」

「そうだね。でも、海の中でも泳いでたんだから、別に不思議なことじゃないよ」

 

 あそこは、水があったから、と。鳴り止まない心音と、何とか吐き出した息へ、言葉を混ぜて。

 心臓の鼓動は。落下の恐怖だけではない。空を飛ぶ。そんな、自分の状況に対する興奮。心の昂ぶり。熱くなる体。恐る恐る体を起こせば、やはり。落ちることなく、自由に。空中で浮かぶ、爪先を見て。

 彼女を、見る。自分でも分かるほどの、笑顔を以って。

 

「飛んでる」

「良かったね。やろうと思えば、何でも出来るものでしょ?」

 

 首を、縦に振り。そのまま、彼女の手を握る。

 

「……ん。行こっか。もっと高いところまで」

 

 柔らかな笑顔。緑色の瞳は、楽しげに。揺れる髪、閉じた瞳。徐々に浮かび上がる、彼女に習って、空を蹴って。

 

 飛び出す。彼女と並んで。青々と茂る輝く草木のその合間。伸びる首を潜り抜け、翼を広げた竜の背を越えて。高く高く。追い越した景色。初めて見たはずの、しかし、何故か、何故か、懐かしいその、太古の世界を。古の樹海を飛んで、飛んで。

 枝を、葉を。突き抜けて。そこに、待つのは。

 

 一面の星空。新緑の大地。澄み切った空気。草葉の香り。それは、やはり。何故か、懐かしさを憶え。

 

 それと同時に。少しだけ、不安になる。

 

「……怖い」

 

 思わず。思いが、口から漏れる。漏れ出た言葉を拾う彼女は、くすりと笑い。

 

「だろうね。皆、怖かったんだもの。だから、どんどん姿を変えたんだってね」

 

 返された言葉を。噛み砕こうとも、私には。咀嚼し得るほどの歯は、知識は、持っておらず。唯々。遥か彼方へと続く星空、緑の床の交わる様を、視界に。穏やかに焼付けながら、手を、強く握り。

 

 口を。開こうとして。呼びたいその名を。知らないことに気付いて、口を噤んで。

 

「……こいし」

 

 彼女の声が。冷たい夜空で鈴と鳴る。

 

「こいし、っていうの。私の名前」

「……こいし」

「そうそう。こいし。忘れちゃっても構わないけど」

 

 笑う。彼女の、見れば見るほど整った顔。その顔に浮かんだ、幽かに浮かんだ寂しげな――

 

「忘れたくない」

 

 呟く。呟く言葉は。闇へと落ちて。現実の今よりも大きな月の、その下で。美しくも、何処か恐ろしい。そんな、夜空の下。巨大な生き物達の蠢き。襲い合い、奪い合い。逃げ惑い、喰らい。彼らと同じ目線になったならば、きっと。恐ろしくて恐ろしくて、気が触れるだろう、そんな世界を下方に見下ろし。

 彼女の手を。手を、握る。それしか出来ない自分を、僅かに恨み。しかし、それでいいのだと、何処か、何処か穏やかに。

 

「……そっか。まあ、それでも良いと思う」

 

 そろそろ時間だね、と。彼女の呟きを合図に。空の彼方、仄かに明るくなりゆく空を、唯、唯。彼女の手を握り締めたまま、見詰め、見詰めて。

 

「……忘れたって、構わないからね」

 

 そんな。そんな、言葉を。強い、強い光。温かなその光が瞳を、柔らかに刺す、その間際に、聞いて。

 

 白く、白く塗りつぶされる。視界の中で、世界の中で。

 

 光は。朝焼けの空に浮かぶ。彼女の姿を、掻き消した。

 

 

 

 

 

 

 

 差し込む朝日。掛け忘れた目覚ましを見れば、早朝。普段起きる時間よりも随分と早い、薄暗い朝。

 体を起こし、見上げれば。窓の外、遠く、遠くに。雲の向こうに浮かび始めた、日の光を、見て。

 

「……こいし」

 

 と。そんな、薄暗い世界。一人きりの部屋で、膝を抱え。聞き慣れた、低い。男の声で、静かに。

 

 忘れる事なく、記憶に残した。彼女のその名を、呟いた。

 

 

 


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