夢見る小石   作:地衣 卑人

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二夜目 底深い海の夢。

 降り注ぐ温かな雫。熱い、熱い。しかし、心地良さを感じる程度の湯の雨が降り、体を濡らす。

 狭い浴槽。膝を曲げた身体。髪を、肌を叩く水滴は、徐々に。底へと、溜まり。

 一人きりの夜。静かな夜。狭い狭い浴室は湯気に満ち満ちて鏡を曇らせ。浅く溜まった水面を叩く水音に掻き消されながらも、確かに響く換気扇の回る音。水滴塗れの白い壁。微かに、肌から香る石鹸の匂い。

 

 今朝に見た。あの身体では、ない。夢に聞いた。あの声ではない。見慣れた私の身体、私の声。他の誰のものでもない、私の姿形が、此処に在って。

 

 何とは無しに口を開くも。発する言葉も見つからず。唯々呆と開いた口は、何を吐き出すでも、呑み込むでも無くまた、閉じて。

 愚痴でも。嗚咽でも。罵声でも。人を貶す言葉。口汚く罵る、幼稚な言葉。そんな言葉の一つでも吐き出してみようか、なんて。思った所で、そんな、汚れに汚れた言葉は、胸の奥に仕舞い込み、渦巻かせたまま。

 自身が、他人のことをとやかく言える程に、綺麗な人間であるとは思わずとも、しかし、彼等と。同じには、なりたくなかった。否。もう、そんな事を考えている時点で同類か、と。自嘲し、塞ぎ、俯いて。

 全ての根は。私の持った、この力か。それとも、唯。そんな、恨み恨んだこの力に負けた、心の弱さが全ての禍根か。人の意識と、その裏を垣間見る。この目に振り回される、己の軟弱さが悪いのか、と。

 熱い、熱い。湯を浴びる。先までは浅く張られただけだったそれも、既に、胸まで浸かる程に溜まって、私の体は熱を吸い。少しばかりふやけた手のひらで、肌を、撫ぜ。

 

 

 蛇口を締める。水の跳ねる音は止み、聞こえるのは、換気扇と。私の体が揺らしただけの、水音だけ。いっそ灯りも消してやろうか、なんて。思うも態々、浴槽から這い出るのもまた、億劫で。

 

 

 眠気が襲い来る。その時まで、私は。

 唯々。浴槽の湯に。冷めゆく水底へと、この身を沈めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 浴槽の、僅かに熱を残した……最早湯とは呼べないそれを。水を抜いた記憶もまだ、真新しい中。髪が乾ききるのを待つことも無く寝床へと潜り込んだ私は、また。暗い、暗い。闇の中に佇んでいて。

 暗く、暗く。これは、あの夢の続きか。ならば、また――

 

「お待たせ。今日も一日お疲れさま」

「……ありがとう」

 

 闇の中から、また。私の欲した、声が響く。彼女の声だ。転がる小さな小石のような。可愛らしくも何処か、冷たさを秘めた。どれ程に手を伸ばしても、その。奥底へは届きはしないのではないか、などと。彼女に、私の。この手は届きなんて、しないのではないかと。

 思う。私の、手が握られる。その手は、小石のそれとは違い。ずっとずっと、柔らかな……

 

「大丈夫。私はここにいるよ。ね、ちゃんと届いてるでしょう?」

 

 不可視の笑み。小さく弾んだ、声。それは、それはとても。

 

「……ありがとう」

 

 とても、温かな。まるで、冷たい沼の底にでも沈んだ思いを、引き上げられるような心地で。胸の奥底へとその、温かな言葉が、手の温もりが染み入ると共に、世界は。仄かに明るくなりゆき。

 徐々に浮かぶ、世界の姿。そこは、まるで。

 水の底。暗く淀んだ、濁った、汚泥に塗れた沼の底ではない。遠い遠い空から差し込む、揺れる、滲む、光の柱。体を……あの。昨夜と同じく、華奢な。白い体を包む、広大な。

 

「……海」

「海だねぇ」

 

 水中に漂い。遠く、光り輝く命の群れが泳ぎ回る様を視界の端に捕らえ。ふわふわとその、緑色の髪を。スカートを。紫色に照らされる、長い長いコードを棚引かせながら。彼女は、笑い。

 

「……綺麗だね」

「そうだね……って、私のほう見てない?」

「うん」

 

 うんじゃないよ、と。彼女はやはり。

 笑う、笑う。裏のない笑みで。純粋な、純真な。子どものように。眩しく。そんな姿に、私は。憧れ――

 

「……私なんかに、憧れるものじゃないよ」

 

 少し、困ったように。また、少しだけ寂しげに笑う。このまま、水の流れと共に。滲んだ光に溶けて、消えてしまうのではないかと思うほどに、儚げに。

 笑う、彼女と。繋げたその手に、思わず。力が籠もる。

 

「……大丈夫。私は」

「ここにいて、くれるよね」

「……随分、積極的になったね。良いと思うよ、自分の感情に素直なのは」

 

 思わず投じた、自分の言葉に。体が、熱を発するのを感じ。

 

「良いんだよ。ここなら。あなたの思うようにすればいいの。恥じることはないよ」

 

 愉快げな声。しかし、体は、熱いまま。そんな私を見かねてか、彼女は、繋いだ手を引いて。

 

「さ。ちょっと向こうまで行ってみようか」

 

 時間ももう、あまり残っていないしね、と。呟いた言葉は、泡となって。揺蕩う天涯へと転がり。その、小さな泡粒が、その、揺れる光へ届く様を、見る間もなく。その、言葉の意味を理解しつつも、記憶の外へと投げ捨てて。

 水中を。まるで、空を飛ぶように滑り出す。

 

 青い青い。遥か先まで続く深く澄んだ世界の中。魚のように泳ぎ回る、光達と並び、追い越し、また回り。底から湧き上がる小さな泡をこの、小さな手のひらで以って受け止めては、大きな。大きな泡に飛び込み、小さな泡へと散らして、笑い。

 まるで、私も。子どものよう。顔に笑みを湛えているのは、彼女だけではない。寧ろ、私の方が、ずっと。ずっと、幼く見えたのではないだろうか、なんて。

 気にする必要もない。ここにいるのは、私と彼女のみ。この、広大な海で。泳ぎ回る命の光と戯れ。泡と遊び。自由に飛び回っては笑みを交わすのは。私と彼女の他にはいないのだ。誰の目を気にする事もない。誰の姿を見る必要もない。

 

 注ぐ光。泳ぎ回る命の光。昨夜見た、無数の、弾けては消える命の群れよりもずっと自由に見えるそれは。しかし、それでも、互いに。光同士で追い掛け回し、逃げ回り。重なり合っては数を減らし。何処か、視界の外からまた、湧いて。

 命の連鎖。絶え間ない変化。その、移り変わる世界を眺めながらも、そんな。最後まで輝き続ける命は全て、全てが美しくて。まるで他人事。まるで、他人事。私たちは……私と、彼女は。そんな命の輪に呑み込まれることもなければ、迫り来る。自身に喰らい付く巨大な影に怯えることさえなく。

 自分等も、此処に居ながら。唯々無邪気に笑い合う。瞳に映る美しさの意味を理解することもなく――否。

 こうして。理解しても。意識する事なく。無意識の内に感じた悦び、浮かび上がった笑みに、貌を染めて。

 

 ただ、彼女と。こうして、戯れ続けていられる時間が、ずっと、ずっと続く事を――

 

「……駄目だよ。あなたは、帰る場所があるでしょ?」

 

 その。言葉を、聞き。

 世界は。満ち満ちた海水は。差し込む光は。陰り、その、光を失っていって。

 

「……思い出させちゃって、ごめんね。けど、あなたにはまだ、帰らなきゃならない場所があるんだもの」

 

「……嫌」

 

「だろうね。私も嫌だったもの。あなたと同じ。だから、帰りたくないのも分かるけれど……ね」

 

 悲しそうな。しかし、それでも。

 彼女の口元に浮かぶのは、笑み。これで最後、ではないと。また、すぐにでも会えるからと、そう、言うように。

 否。実際に、そうなのだろう。きっと、また。瞳を開き。現実へと戻ったとしても、一日を終えれば、また。夢の中で彼女は待っていてくれるのだろう、と。

 そう、信じたい。また、彼女と会いたい。この――

 

「この、夢の中で。また、迎えに来るからね」

 

 その、言葉を聞き。世界には、再び。色が浮かんで。

 光輝く泡の群。泳ぎ回る命の光に呑まれて、私は。そっと、静かに。瞼を、閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 鳴り出す前の時計を掴み。時刻を確認してまた、元の位置へと置き直し。本の少し、本当に、本の少しだけ早く、目が覚めてしまった私を、窓から差し込む朝日が照らし。

 夢の記憶もさめ切らぬままの、私は。呆と。呆と。

 鳴り出した。その、騒音を、聞きながら。揺れることなく平坦な、硬い、硬い、空を見上げた。

 


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