何処へ行くべきかも分からない。何処に彼女がいるのかも知れない。居ないのかもしれない。探し、探し、彷徨い歩いて。
緑の衣を着た木の根を踏み越えて。ぬかるんだ絨毯、沈み染みて靴を汚して足を掬われ。転びかけた体、よろけた体で霧を切って。どれだけ歩いたところで、胞子、瘴気、身に染み込んだ毒の空気は、もう、人間ですらない。人のそれとは異なるそれに糸を引かれてふらつくだけの私だというのに。肺に痛み。頭に溜まって、塗れた布巾。柔らかな糸で包むように鈍くして。
一度私が地の底へ。降りた所で地上、彷徨い歩き映した世界、景色。再び其処で見た夢、人々、妖怪の心。変わるわけもなく。幻想の世界、現実と夢幻の境界線はあまりにも曖昧で。何処までがそれで、何処からがそれか。今見る景色がどちらなのか。人間のそれとはあまりに異なる姿形の魔物の姿は。当たり前にそこにいるどこかで見たような人の姿は。どちらが現で幻なのか。私に分かるわけもなくて。
このまま。こうして歩いていても。彼女の姿は見つからない。もっと広く、遠くまで。見渡さなければならないだろう、と。
開けた空、乳白色の霧に差し込んだ、遠い遠い空、疎らに開いた光り輝く目の明かりは
伸ばされた木々の腕振り切って。幾らかの枝葉の落ちていく様を横目に見て。高く高く。郷を一望出来る場所。妖怪達の住まう山、更に高く。浮かび、雲を泳ぎ、また、上。空に浮かんだ大地、花の都とはまた異なる……空に浮かぶ門、境界とは別の。天へと至り。
真夜中の空。深夜の天界。宴の声、歌、遠く、遠く。離れ、一人、桃の木、背を預けて座る少女の姿。空から地までを描いた世界、パレットの上の絵の具、放られたままに垂らされたままに、其処にあった色、そのまま筆に乗せたような色、姿……澄んだ姿。映し出された心、景色、それは、人を超えても人のそれで―――只々高くにある姿。
「こんばんは。こんな時間に、何か御用かしら」
当然と言った風に。目を開いたまま、閉じたまま。現と夢を視界に重ね、彼方此方と彷徨い歩く私を見る。返そうとした言葉は微かな空気の振動、一つ、二つと転がり出た歯車は、舌の上で溶けていく。
代わり、と。下げた頭。天と地と、見下ろす彼女は矢張り、私も同じ。他の全てと変わる事なく見下ろしていて―――同じものとして。澄んだその目に映る全てに、優も劣も何も無く。それに酷く安堵する。
「返事は……返せそうにないわね。崩れ掛けの妖怪さん。何かを探しているようだけれど……天まで登って探すもの、それは何?」
問いかけに、言葉、返すことは出来なくて。出来ないことは知りつつも、開いた口、閉じた口。舌の動き。言葉を発することが容易であった頃、心に浮かんだ言葉、そのまま紡げていた頃のように。只。形だけを真似れば、当然といったように転がり出た部品、溶かして。そんな私を見、紅い瞳は細まり。遠く、遠くまで続くような。底の見えない泉のような―――海のような。その目は何処か、あの、不死の人。彼女の瞳に似て非なる。
そんな瞳に。心を覗くそれではない。人の瞳に。言葉にならない言葉を投げる。伝わりもしない言葉。伝わりもしない思い。幾つもの誤解と齟齬は、記憶に張り付き離れなくて。それでも。
今は、不思議と。彼女に対しては、不思議と。恥、後悔、忘れることは出来なくとも、出来ないままに。
「分からないわね。でも、なんとなく、分かる気がするわ」
隣。座るようにと促した、そんな彼女の言葉もまた。
「何か遣り残したことがあるのでしょう。ある気がするだけかもしれない。それを探しに来たのかしら。そうね、ここからなら、地上の全てが見渡せるから……」
桃を齧り。私にも一つ、桃を渡して、彼女は言う。
「あなたなりに考えて、あなたなりに答えは見つけたのでしょう。あなたは――」
目を見る。体から伸びたコード、一つ目。彼女等のそれよりも薄い色、心なしか透明なそれを、閉じたそれを彼女は見て。
「心を読む妖怪。あなたによく似た同族を、ここから何度も見かけたよ。……ああ」
ふと。止まった言葉。見れば、彼女は。頬、綻ばせて。
「探してるのはその子なのね。遣り残したことは。そう、態々こんなに高いところまで来たのは」
そう。高く、高く。遠くまで見渡せる場所に着いたならば。彼女の姿も見つかるだろうと。思えば、あまりに安直で。自分のことながら、笑ってしまいそうになって。
「……大丈夫、そうやって探すことは、何も曲がってはいないこと、方法を間違えて、考え直して……時には、目の前のそれを投げてしまったり、逃げてしまったり。そうやって回り道をし続けて、もし、目的の場所に辿り着けなかったとしても……それでも構わないのよ」
何処かで聞いた言葉、それは。ああ、回り道でもしていればよいと。投げられた言葉、彼女のそれ。あの時は何のことかも分からなかったけれど。
「……あなたは、辿り着く前に崩れ去ってしまいそう。それは、仕方ないけれど。そして、完結と共に崩れ去ってしまいそう。恐れに負けて、自ら幕を降ろしてしまいそう」
地の色をした靴、踏みしめる草々、空に浮く大地。私の前に立ち。紅い瞳で見下ろして。
沢山のものを。多くのものを。映し続けた瞳、沈ませ続けた瞳。それでも濁らず、澄んだまま。今も、映し、映し、開いたまま、見据えたままに見下ろす泉に。
映るのは。私の姿で。伸ばした手は。私の瞳、第三の目にそっと触れて。
「糸が垂らされたならば掴んでみれば善い。手を伸ばされたならば、掴んでみれば善い。掴んだならば笑えば善い。切られたならば切られたときに怒れば善いし、泣けば善い。心の起伏が作る山は、その先に続く道を悉く隠してしまうだろうけれど……山を越えた先にあるのが例え崖だろうと、恐れず登っていけば善い」
目蓋を撫ぜられる。私が見てきたものが沈んだ、第三の目、浅い浅い泉を撫ぜる。
「大丈夫よ、きっと大丈夫。違えた道も、決して過ちではない。最後まで歩いてみて、終わってからゆっくりと休めばいい。さ」
手を伸ばされる。私の手、そっと重ねられた手のひら、共に、空に浮かび。
夜に見る国、月は近く。この手、伸ばせば届きそうなほどで。けれど。
見下ろす大地。混ざり混ざってはっきりとしない青い青い世界はけれども明く赤く。見上げた世界、余りにも鮮明に白く、そして、暗く、黒い、その世界へ。
歩めば辿り着く世界へ。今はまだ、境を越えることはせず。
彼女に頭を下げ。私は、見下ろした世界、地上。再び、足を着け歩くため。
余りに月に近い其処から、現。地上へと、降りた。