夢見る小石   作:地衣 卑人

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十 覚めることを惜しむ夢。現実の目で見たかった景色、触れたかった温もり。覚めて欲しくないほどに。もう一度見たいと願うほどに。

 旧都の夢から現の街へ。彼女の姿、飲み込むが早いか。亀裂は閉じて、私は一人、この、地底に降り立って。

 

 これで良かった。何も間違えてはいない。此処に居れば、このままで居れば。安堵の内に彷徨い続けることが出来る。夢現の心地で。けれど。

 

 心は。晴れることなく。胸の奥、何か、冷たく、刺すような。痛みは膨れ上がるばかりで。今からでも。けれど。これで良かったのだと。第一、もう、遅いのだからと。

 

 手を。手を。取れば。取ったところで。あの喜びは。反転、落ちて、見るのは、嫌悪と、失望と―――

 

 空を飛ぶ気にはなれず。中途半端に閉じた瞳は、辺りの人々、その心、上辺だけを読み取って。見つめる先に浮かぶ人の目に映りながらも、その心には届くことなく。隠れることもせず、歩き、歩けば、其処に建つのは洋風の建築物で。

 

 二本の足。時折痛む二つの足で歩み入り。建築物の中から見上げたステンドグラスは、見下ろしたタイル張りの床に影を落として。日の光の届かない地底に建つ館は、けれども常に明かりに満ちた。

 獣の気配、心の動く様を見る。人のそれより幾らか純粋な。けれど、今は。それ等の気配が何処に在るかを知りこそすれど、この。第三の目を大きく見開き、深く覗く気は起きず。

 

 後悔は。けれども、安堵が強かった。一つの選択、一つの行く先。二つの道。私が選んだのは、変化を恐れて留まり続けるこの道で。

 

 ステンドグラスを刺したままに落ちた光は。微かに埃を乗せた光線は。何が、誰が発したのかも知れない。重なる形のそれのように。私を教え導くこと。私が許しを求めること。その何方も叶わなくて。いや。

 私はきっと、誰かによる救済を望んでいる振りをした。私は、このまま。この夢の中、更に深く。彷徨い続けて、逃げ続けて。それを望んでいるのであって。

 いっそ、会わなければ、なんて。でも、それは。私は。確かに。そう。彼女の言葉、行動が。嬉しくて、嬉しくて……

 

 けれど。それも夢の中。正気を失い。普段の思考、消えて、消えて。揺れる意識の中だから。現に戻ればまた、私は、彼女と満足に会話すら出来ず。それに。

 私自身が。今、既に。現に戻らず留まり続けた夢の中でさえ、人と。関わる事から身を引いていて。

 

 間違ってなど居なかったのだと。そう、理由を付けて。理由を探して。見えた光を振り払う。あの温かさを忘れようと。

 

 それでも。痛みは消えなくて。

 

 そんな痛み、もがくままに。けれども、何も変わることなく。人の居ない方へ。人の近付かない場所へ。心の動きの無い場所へ。凪いだ場所へ。歩き、歩き、辿り着いたのがこの場所で。

 

 一人きりで歩む廊下は。遠く続き、そして、どこまで歩いても静かで。動物達の鳴き声も遠く。その声の主の姿を思い浮かべれば、視界、描き出される空想上のその姿。足音の無い歩み、揺れる尾。突き出した鼻や隠された爪、牙。曖昧な姿、四つ足。私に。興味など無いと足元、透り抜けて行き。今は、近くに居ないものの。怨みに駆られた人の心も……身体は置き去りに。心だけが彷徨い歩くそれは、怨霊。声を持たず。只々、思い、想いの中で叫び続けるその声は。時折私の瞳に映り、鼓膜を揺らした。

 

 彼らの叫びを除けば。こんなにも静かな屋敷。この館の主人はきっと、騒音、喧騒を嫌って。これだけ広い館だと言うのに、未だ、人の形をした者には一人も……そして。遠巻きに覗いた心、獣の心。浮かぶ主人の姿……一人……朧にもう一人。そしてその、輪郭、はっきりとしない片方は。

 

 私の良く知る。その姿に他ならず。私の真似た。彼女の姿に、他ならなくて。

 

「―――」

 

 彼女の名前を呟く。呟いたところで、今、此処に彼女が居るのかも知れず。

 此処に落ちたその時は、私の目は、第三の目は、目蓋はそのまま。夢と現を分ける壁で。瞳を開けば心を閉ざした彼女は見えず。瞳を閉じれば夢の中の彼女の心と繋がって。

 もしかすると、瞳を閉じ切れば。彼女は、彼女は。目の前に。あの時のように前触れも無く、現れるのでは無いだろうかと。

 

 瞳。薄く開いた第三の目。目蓋を降ろそうと。

 

 すれば。視界、映り込むのは。今までに見たそれとは違う。見つめ返す目、鏡のよう。いつ現れたのかも知れず、廊下の奥。佇む一人の影を見て。見た、時には。

 

 私の心は。彼女の心は。交わった三つ目の視線、溶けて一つになるように。初めて彼女に会ったあの夢、あの時に似た。その感覚に思わず開いた心の瞳は、更に鮮明に。彼女の心を映し出す。

 

『こいし……じゃ、ないわね』

 

 人影は。微かに悲しみながらも私へと向かい歩を進めて。対する私は、只。歩み寄る彼女を待つばかりで。

 彼女が。館の主人。動物達の意識に浮かんだ。

 

『そう。私がさとり。こいしに似た人、いえ、こいしに似せた姿をした人』

 

 そう、こいしに似せた姿をした。半ば無自覚に。現実に居た私の夢に現れた彼女、憧れか、それとも。彼女のようになれたならば、それが逃げ道になると思ったのか。

 

『こいしは元気にしているようで。けれど、現実、外の世界に―――夢を通せば、意識は境を越えてしまうのかも知れない。まさか同族を呼び寄せるなんて』

 

 同族、けれど。私は、覚と言うには。

 

『覚と言うには、未だ人間に近過ぎて。けれど、そんなにぼろぼろでは、きっと覚になる前に―――』

 

 瞳に映った。彼女の心を読み取り、自分の。体へと、実の目。向ければ。否。向けようとすれば彼女は、体にはまだ現れていないと。そう思って。

 

『命が惜しいなら、貴方は現に戻るべき。体を置いて彷徨い歩いて、繋がりはもう、随分と薄れてしまっている』

 

 繋がりが断たれれば。

 

『消えて終い』

 

 そう、思う。彼女の心に悲哀は無く。只、憐れんで。対する私は。私は。

 消えて終い。その言葉を。自分の未来と重ね、重ねて見ても。

 

 実感なんて湧かない、と。彼女の瞳に鏡写し、自分の心をそこに見て。

 

『心を亡くした現の貴方は抜け殻で。けれど。戻る機会が有ったのに……今の貴方が、未だ、その判断の是非に迷い続けている……境を越える力を持った、彼女の伸ばした手に掴まれば……でも、そう。戻ったところで同じなら』

 

 同じなら。けれど、私は。あれが正しかったのか、いや、正しかったのだと。

 

『正しいとか、正しくないとか、何方でも構わないの。正解なんてないのだから。貴方が納得出来る答えを見つければ、それがきっと正解で―――でも』

 

 地底(此処)には。貴方の欲しい答えは無いだろう、と。思う彼女の心を想う。

 

『旧都を見て回っても。私のペット達の心を覗いても……地上の方が、きっと。閉じ開きの自由な、中途半端な目があれば。きっと無事に地上へも辿り着ける』

 

 随分と。彼女は、私に。

 

『親切なのは、私にも思うところがあって。貴方はこいしの友達みたいだから。あの子の心は私にも見えない。貴方のような友達は心を開く要素の一つになってくれるかもしれない―――それと』

 

 一つ、言伝を。こいしに会った時に。伝えて欲しいとそう、願われて。

 伝言。頼まれるのは。これで二回目で。

 

『こいしに伝言を―――地上の友達? こいしの―――』

 

 歩み寄り。目の前の彼女。彼女の顔。こいしに良く似たその顔、綻ばせて。柔らかな笑みは。静かな笑みは。妹を想う思いに溢れた―――

 

 そして。浮かぶのは。心を閉ざして彷徨い歩く彼女への心配、自分の元を離れてしまった寂しさ。こうして彼女を知る私が現れた事への安堵、予想しなかった地上での、こいしの知り合い……浮かんでは消えず漂い重なり。彼女の心に浮かんだ感情は、私の心にもまた。同じ心であるように。彼女の思いはそのまま私に―――私の思いもまた、同じ。ならば、先は。

 

『……いいのよ。覚同士の会話は、こんなもの。貴方の持った後悔も、苦痛も、私の抱いたこの思いも。全て共有される。覚でなければ、言葉にしなければ……覚同士なら。こうして常に、心は通じ合っていて。私は、あの子とはもう、通じ合うことは出来ないけれど』

 

 流れ込むのは。彼女の抱え続けた後悔。記憶。こいしが心を閉じた時の―――

 

『心を繋げて、こいしの痛みを分かち合ったなら。きっと大丈夫だと思っていた。そうやって、どんな時でも、いつまでも、私たちの心は繋がりあっているのだと。けれど。』

 

 こいしは、他人の心を読むのに疲れ果ててしまった。苦痛や、怒りや、悲しみや。怨みも、悪意も、嫌悪も。けれど、瞳を閉じたのは。それだけが理由ではなくて。

 

『私は最後に読んでしまった。こいしが本当に恐れたのは。あの子が本当に恐れたのは』

 

 心に抱えた苦痛を、さとりに押し付けること。こいしが受けた痛みを共有すること。そして。

 

『そして、私が。彼女を嫌ってしまうことを。だから』

 

 だから。心を閉じたのだと。嫌われる前に。心を通わせ、自分の苦痛を理解してくれるさとりという存在。その幸せから足を踏み外す前に。

 それは。彼女が辿った道は。

 

『だから。伝えて欲しい。私は、彼女のことを……こいしのことを、今でも想っていることを。帰りを待ち続けていることを。こいしと心を繋げられる、あなたならきっと伝えられる』

 

 それは。きっと。きっと。

 

 こいしの望む。いや。こいし、だけではない。私もまた。けれど、それは。私は。暖かなそれを。彼女を見て。私は掴み得ないそれを見て。湧き上がるのは、また―――

 

 

 手を。握られる。暖かな。柔らかな。その手に。

 

 

『貴方も大丈夫。きっと。実際に、此処に私が居るように。反転なんてしない。離れていくことなんてない。そんな、貴方が本当に求めたそれも、ちゃんと在るのだから……それに』

 

 さとり(わたし)は。(あなた)のことも、と。

 

 嘘偽りの無い。完全に通じ合った心。きっと、変わることの無い。これが、変わってしまうのであれば。こいしもまた。けれど、それは。有り得て欲しくない。

 

『信じられないかもしれない―――けれど。信じて欲しい。私は、こいしを裏切りたくない。会ったばかりであるとは言え。あの子と同じように悩む。あの子と同じ道を辿ろうとしている……あなたを見捨てたくは無い』

 

 手を。彼女は。離すことなく。心は繋がりあったまま。私は。浮かんだ、彼女の言葉への疑心も。不安も。喜びも。共有したまま。それを彼女は、嫌うことも、嗤うこともせずに只。真っ直ぐに見つめ。受け止めてくれて。

 

 私は。あの時もまた。今のように。彼女の手を。取りたかった、取りたかったのだと。けれど。恐怖に、不安に負けて背を向けた。そんな、私に。彼女は、その手、握る手を。また、強く。固く。

 

 込み上げてくる熱。緩み始める目元、耐えようと、抑えようと。けれど、晒す姿、それも、彼女は。唯、微笑みと。頬を伝う。ステンドグラス越しの光、受けて輝く一筋のそれで受け入れた。

 

 私は。そんな、彼女を、前にして。握られた手。今になって、やっと。握り返して。

 

 

 この手、握り続け。心を繋いだ、さとりを前に。声を上げて、泣いた。

 

 

 

 


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