夢見る小石   作:地衣 卑人

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九 また深く沈んでいく夢。声なんて知らない。私は知らない。目をきつく閉じて、また深く、深くまで。全てを放って沈んでいく。

 全ての灯りが落とされたように。全ての色が滲んだように。

 街の空は黒く、岩の天蓋に覆われたまま、点も、線もありはせず。街中の灯りは紅く紅く揺れることも無く並び。けれど。

 此処は。此処は、先の街とは異なった。妖怪の気配一つ、魔物の気配一つ無く。只々静かに底に有るだけの……捨てられた街、拾われた街の心を映して。

 

 淡々と騒がしい喧騒は遠く。人の姿は見えず。それは、街の記憶した日々の朧な再生。街の心に落ちてきた、今の住人、過去の住人。人々の声で。

 

『これは……』

「夢だよ。私たちの見てる。この街の抱えている」

 

 彼女の手を引き宙へと浮かぶ。彼女の体は幾らかの重みを残したまま……それも。地を蹴って浮かんだ私、見るが早いか。彼女の爪先も、また。地を離れて。

 彼女は、夢の中とはいえ。空を飛ぶのは初めてで。彼女の心に浮かぶ色はそのまま、暗い暗い街の空に滲み染め。彼女の心の起伏は、この夢に色を振り撒いた。

 そんな、空に。懐かしさを憶え。あの時、私の夢は。今の彼女の見る夢……彼女よりも、ずっと不恰好に宙に浮かんだあの時と同じ。光に溢れて輝き。いや。

 

 これは、彼女の。私の。心が―――

 

『夢……って。なら、私の体は……』

「あなたの体は現実に……元々、あなたは此処に体を持ち込んでないよ。私と同じで、あなたの体はちゃんと外の世界にある」

『そう、それなら……』

 

 これが夢であるとは言っても。彼女の体が、あの。鬼と妖怪に溢れた地底に残した訳ではなく。一続きの夢、異なる夢。彼女は只、その体ごと。夢の中での体ごと、夢から夢へと移動したに過ぎなくて。

 

 彼女は未だ眠ったまま。この場所から逃げ出すならば。この、夢から覚めなければならなくて。

 覚めるには。私と接触したまま、夢から抜け出すには……あの時私が背を向けた。あの光を越えたならば、きっと……

 

「行こう。何処かに抜け出す穴……夢の端に、亀裂がある筈だから」

『亀裂? 境界のこと?』

「あなたはそう呼んでるんだね。私は、一度しか見たことがないから」

 

 私は。あれから、一度も。夢の終わり、光り輝くあの亀裂を見てはおらず。長い夢、永い夢は。未だ覚めないまま。覚めたいと思うことさえない。

 

「私は……夢の終わりから。現実に繋がるその、境界から逃げたんだ。それからは、一度も見てない。あなたはどうか分からないけれど、覚めたいなら気を付けてね」

 

 もしかすると、あの亀裂は。現実への扉は。一度、目を背けたならば。二度と開くことの無い……そんな帰り道なのかも知れないから。

 

 薄暗な並ぶ赤い提灯、暖簾、煙に、看板の群。誰の心も宿っていない形だけの人影。地底に築かれた街、瓦屋根を眼下に。彼女の手を引き、仄かに明るい宙、冷たく、暗く色を変え行く、宙を駆けて。

 

『貴女は、もしかして。元は……』

 

 元は。

 

「見えたよ。向こうだね」

 

 言葉を切る。あまり。続けたい話でも。思い出したい記憶でも無く。咄嗟に口に出した言葉は、夢の中、この穏やかな中にあっても。

 

「見えるね。手を離して、彼処まで飛んで。私の手を離れても、一人でちゃんと飛べるから」

『……貴女も、一緒に……』

 

 言葉を聞いて。握っていた手を。手を離す。

 

「ここまで来ればもう一人で大丈夫だよ。早く。ほら」

 

 あの先にあるのは。あの輝きは。私が必死になって逃げた。私が怯え背を向けた現。そんな場所に。もう―――

 

『―――私ね。貴女と何処かで……現実の世界で、会ったことがある気がするの』

 

 暗い空が。冷たい空が。また。否、今度は。蝋燭、松明、灯火のそれにも似た。ぽつと灯って柔らかに。包むように広がり、染まって。

 

 離した手を。彼女のその手が強く掴む。思わず、体が小さく跳ねて。彼女の。彼女の顔を、見れば。

 浮かぶのは。深く澄んだ目、落ち着いた色合い、なのに。酷く眩しい。

 

『行きましょう。一緒に。いや』

 

 帰りましょう、と。投げられた言葉。その言葉が。胸へと叩き付けられて。一瞬、淡く光り輝いた空、私は。掴まれた手、振り解く事も出来ず。身動き一つ出来ないまま。

 

「……嫌……そう、嫌だから……離して」

『嘘よ。本当は只、誰かに……こうして。手を取られるのを望んでる。今は心が繋がってるんだから分かるわ。貴女は……』

「貴女、なんかじゃないんだよ。あなたの見てる私は、この姿も。他人の真似で。あなたが手を伸ばしてるのは、只の」

『なんだって良い。現実の貴方がどうであっても。私は貴方を連れて帰りたい。助けてくれたのに、このまま置いていくことなんて』

 

 彼女の両の手は。私の手を掴み。掴んだまま、彼女は飛ぶ。行先は亀裂、現の光を放った。引けど、もがけど。その手を。離してはくれなくて。

 

「私はいいから、行きなよ。私は望んで此処にいるんだ。覚めたくなんて」

『なぜ』

「それは、外は、現実は―――」

 

 想起するのは。この夢に映し出されるのは。普段のそれより色鮮やかに。彼女の目にすら差し込む、薄れ壊れかけた私の記憶。人間だった頃の。人間として生きていた頃の。夢に沈む前の。雑踏、喧騒、煩すぎる声、透けた心。私の目は人間だったその時には既に心、その表層。映し、読み取って。

 そして、記憶、あの時。本の一瞬。私と彼女は、同じ大学、目が合って。彼女はその目で何かを見た。私はこの目で、その意識を読み取った。

 

 彼女は一度。私に手を伸ばそうとした。それにどんな意図があったか。その時の私には、読み取ることなど出来なかったけれど。

 

 手に。一層力が込められる。私のそれよりも強い。人間ではなくなった、妖怪となった私よりも、ずっと、ずっと強い力で。

 

『帰ろう。きっと大丈夫だから。外に出ても―――』

 

 出ても。何も。何も変わらない。あの時見た。見続けてきた。侮蔑も嫌悪も、劣等感も罪悪感も。心の中に浮かべた嘲笑も。罵りも、恨みも。全て、亀裂の先に在って。

 

『大丈夫、きっと貴方なら……受け止められる。こうやって人の心と繋がってきたんでしょう、なら。きっともう大丈夫』

 

 言葉は。一つ。呼吸、夢の中では必要ない筈の。それを置いて。

 

『一緒に帰ろう。貴方はまだ、人間と妖怪の境界を超えていない。引き返せるわ。さあ』

 

 手を。しっかりと掴んだ。彼女の瞳は、真っ直ぐに。私の目、二つの目と視線を重ねる。

 

 それは。他のもの全てが。暗いもの全てが。塗り潰されそうな程。隠してしまいそうなほどに眩しい、眩しい光を持って。

 

「私は……私、は……」

 

 幾つもの夢を見てきた。何人もの人、妖怪を。

 

 人と生きることを知らず、死の湖の底に沈み続けた彼女を見た。彼女が人を求める声を、歌を。遠く響いたその声を聞いた。

 人に病を植え付けた、忌々しいと地下に落とされ、尚も心に悦を浮かべる彼女を見た。それは、自身等の愉悦を求めて人を汚す、余りに独り善がりな―――けれども。自身の心に忠実に。結果、斬られ、落とされても。笑い続ける様は、憧れる程に清々しくて。

 

 人形に囲まれた彼女を見た。その心は繊細で、脆くて、壊れ安くて。そんな彼女の悪夢さえ塗り潰してしまう程に輝く、一人の大切な友人を―――余りに繊細な心を持った彼女よりも、更に脆く短かな生しか持たない少女を―――一つの支えとして、彼女もまた。支え続けて生きる姿を見た。

 

 幾つもの生を超えて生きる彼女を見た。重ね重なり埋もれる記憶、その中でも未だ消えることなく仕舞い続けたその思い出を心に抱いて。失うことに、置いていかれることに泣き、それでも記憶に縫い止めた大切なそれを守り続ける姿を見た。

 

 死ぬことの出来ない彼女を見た。全ての悲しみ、怒り、永遠に消えることなく燃え続ける後悔を、罪悪感を。抱え、抱えながらも静かに。瞳を閉じる事さえなく。自身の過去を見つめ続け、目を逸らさず。押し潰されることも叶わず、叶わないというのに。只々強く。静かに、穏やかに。心を殺さず在り続ける姿を見た。

 

 

 そして、今。目の前に居る、彼女とならば。外の世界。戻っても、また。歩き出せるのかもしれない。握られた手を。握り返したならば。そこには、きっと。

 

 

 きっと、明るい世界があって。歩き出すことで、歩むことで。生じる痛みはあるだろうけれど。それでも。私も、彼女達のように―――

 

 彼女達の、ように。

 

 

 

 私は、空いた手で。その手を。私の片手、握るその手を。

 

 

 手首を。掴んで。

 

 

『っ―――』

「ごめんね。私には、無理そう」

 

 明るい世界を見て。酷く眩しい姿を見て。暖かな心を見て。見たというのに。

 視てしまうのは。自身の姿。反転する道。砕け壊れる幸福。その先に在る痛み、幸せを吸って膨らむ痛みの待つ、穴の底へと。きっと脳裏、過ぎった通りに踏み外し、そして、落ちていくのだと―――彼女達のように。悩み苦しみながら歩く強さも、全てを笑い生きる強さも無く。自分の姿、彼女達の姿。重ね、そして、私のそれは。熱を失い沈みゆき。夢の空は、また。暗く。暗く。

 

 私には。きっと。きっと無理だと。その眩しさに到ることなんて。私には。私には。空に入る亀裂、崩れ始める私の夢。出来はしないと。諦めて。

 

 あの時。彼女に、紅い彼女に―――何処にでも行くと良いと言われた。目を覚まして―――けれど。私には。目を覚ます勇気なんて、無く。何処にも行けず。此処に居て。夢の中に留まり続ける以外の道を、選ぶ勇気なんて無い。

 

 

 手を。手を、今度は、私の方がずっと強く。力を込めて、引き離す。

 

「あなたはもう、行きなよ。あなたの夢はここで終わり。私は一緒に行けそうにないから」

『待って、大丈夫よ、一緒に―――』

 

 言葉。その終わりを。先を聞くことさえ。それ以上。言葉を。暖かなそれを聞くのも、もう。

 

 もう。終わり。私は、彼女を。手を伸ばしてくれた彼女を。

 

 

 ごめん、と。一言だけ。最後に、投げかけ。

 

 光り輝く亀裂の向こう。夢の終わりへと、その背を、押した。

 

 

 


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