夢見る小石   作:地衣 卑人

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八 浮かび上がりそうな夢。目蓋の向こうは明るくて、誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。夢の輪郭がぼやけ、思わず、目覚めてしまいそう。

 落下する首、降ろされた釣瓶。紐の先、岩の天井、潜むのは。鬼か、それとも、正体の知れない。草木の緑、巨木、古木。枝葉の一つさえも無い地下に、一体どうして。遂に此処まで、汲み上げる者も、覗き込む者も居ない井戸、底へ。落ちてきてしまったのだろうか、と。

 

 緑の目、纏わり付く言葉。橋に、川に。滾々と湧き出した思いは体を染めて。心を染めて。流れに身を晒した所で、もう、消えることさえ。薄まることさえ無い程にこびりついた。人の姿は、けれど、まるで、鬼のように。川底、水底、沈み、沈み。沈むまま。彼女も。この地の底へと落ちてきたのか、と。

 

 

 仄かに輝く洞穴を、心の動きを標に行く。重みを捨てて宙に浮かび、浮かんでも尚、広く、広く。揺らした腕、脚、残した重みに体を引かれ。振り子のように宙で揺れては、揺れた先、目に付いた。心を読んで、心を覗いて彷徨い続ける。

 

 銀の巣を越えて。風穴に響く、岩、首、何処から落ちたのかも知れない。目を向けた所で、暗闇、遠く浮かんだ光を横切る影しか見えないそれの引いた風切り音を聞き。誰が渡るのかも知れない、地下に掛かった橋も過ぎ。知らない、知らない、未知の洞穴、点々と輝く心の光を渡り歩き、徐々に、深く、深みへと潜る。

 

 行く先に感じるのは。多くの輝き。地上のそれに似た……しかし遥かに広大なそれの見る夢は。微かに漏れ出す夢の欠片は、人間のものでも、妖怪達のものでもない。生を囲って守り守られ、作り固められた場所。人間や妖怪の心よりも遥かに大きなその心は、街の心。繋がれた罪人。商い、生活。廃棄と、そして、また。誰か、拾われ、降りた根を抱いた。一度死んだ街、その亡骸に住み着いた彼等。街が生まれ死に、その心は彷徨い浮かぶことさえ知らずこの地に留まりまた甦り。

 

 其処は。嘗ては地獄と呼ばれた。今は廃獄、眠るように旧い時代の夢を見る。彼等にとっての新天地、新たな楽園、けれど旧都と呼び続けるのは街がそれを懐かしんで、捨て切れずにいるからか、と。

 その街の辿った今までの記憶。昔々のそれと比べれば、生気、活気、喧騒に満ち。それでも、閉じたその街は、この地底は。あまりにも静かな。

 

 そんな。騒々しくも寂しい街が、並び立つ建築物の群れが。灯る明かりが。暗闇の洞窟、薄暗い世界に。世界に、浮かんで。

 

 

 

 瞳の開閉を繰り返す。開いた瞼の先には彼等の辿った道、余りに真っ直ぐに、決して横道、逸れることなく続いた道。赤と白で敷き詰められた道に転がる色取り取りの金銀玉。紅い灯火に緑の酒。宴の歌と言うには余りに物騒な、手拍子、笑い声、悲鳴。咆哮、慟哭、踏み躙る音。誰も彼もが心に刻んだその景色は略奪の記憶。食料、財産、命、尊厳。全てを攫って悦に浸った過去の記憶。

 後悔は。遠く今に至っても尚欠片ほども漂いはせず。憶えるそれは懐かしさ。憶えるそれは過去の悦楽。今尚彼等は、心から―――あの蜘蛛のように。それを望んで。

 

 嫌われて、地底に落ちたと。彼等の記憶、辿り。嫌われる訳だと、一人、納得して。そんな鬼たちにさえ嫌われるという覚と言うのは。私と言うのは。一体、何なのだろうかと。疑問に思いこそすれど、特に、悲しむことも無い。

 

 あれだけ。垣間見た他人、その心の内。視線を向けることを、触れることを恐れて。自分の心を透かされることを恐れて。目を恐れて。いたというのに。

 

 

 揺れる、揺れる、体を。目を開けば心を繋ぎ。誰の、彼の心を覗き。まず浮かぶのは、今の心。しかし、今は。積もり積もって重なり埋もれた、過去の記憶が想起されて。人を踏み千切った。人を奪った。人を食った。人、人、人の記憶、深く深くに沈んだ筈の想いが掬い上げられたのは。

 

 彼等の目に映った。誰か。人の姿の所為で。

 

 噂を聞く者、直に見た者。人に優しくない街は、人に対する思いで満ちた。それは、悪意。悦に塗れた。純粋な、純粋な。恐れから生まれた彼等は、畏れから生まれた彼等は。そう在る事が全てで。それで、形を成していて。そういうものだと思いながらも、街中に溢れた人間の姿。幾つにもぶれたその姿、概ね、金の髪を伸ばした女性。私もまた、実の二つの目で探し。鬼たちは、面と向かい合わなければ、私の姿に気付く者は少なく。こうして彷徨い歩くだけならば、ぶつかるまで気付かれ無いこと……巨体、踏み出した足、蹴られそうになることさえ。

 

 全ての目、手を伸ばした先。金の髪、紫の目。第三の目、繋ぎ、繋ぎ、鬼、妖、街の意識にも、また。全てへと目を向け、彼等の心の起伏を読み取り。姿を。此処では、踏み躙られる存在。攫われる存在。居るはずのない、力無い人間の姿を探して―――

 

「見――」

 

 金色の髪。人間の女性。姿を見と共に。

 一瞬。私の目に映り込んだ、白い部屋、緑に囲まれた。清潔であって、けれど、確かに漂う病の香。それも、瞬きの間に霧散して。

 何処の景色かなど、分かりはせず。彼女の記憶に、恐らく同じ場所の景色……けれども。それも、私の見たその場所そのままでは無い。誰が見た景色かも分からないその光景、考えても仕方がないと、頭の隅へと思考を追いやり。一つ、息を吸い、整え。

 

「――見つけた」

 

 声が掠れて。上手く吐き出せなかった言葉を、空気を、喉の奥から押し出した。

 

 そして、見下ろすその姿。

 家屋と家屋、細い路地、隠れるように、逃げるように。いや。

 実際。彼女の心は。小刻みに振るえ、熱を失い。恐怖の色に染められた……それでも。立ち止まる事なく。希望を失くさず。光を持った。

 そんな。彼女の元へと空を泳ぎ。屋根と屋根、壁と壁、間、覗き込めば。

 

 其処に。垣間見た心と同じ。竦み、振るえ。一人の女性、金の髪……それは、何処かで見たような……思い出そうとしたところで、過去。私がこうなる前の記憶は、徐々に抜け落ち、私の求めるそれを掴むことなど出来はせず。どうせ、思い出すことなど。叶いはしないと早々に放り。

 

 恐れの色を心に浮かばせ。けれども挫けず、息を切らしながら。壁に手をつく彼女の元へと体を落として。

 

 爪先が地に着く。震える彼女の前に立つ。立てば、体は跳ね。やはり、人間、恐れに満ちた。しかし。

 

「……誰かしら」

 

 あくまで気丈に。私を睨んだ。その目に、もう、人間とは違う筈の。私が怯んで。

 

「貴女は……あの鬼たちとは違うみたいね。そこ、退いてくれない?」

 

 一歩。また、彼女は。私の方へと歩を進め。その足は。

 睨んだその目とは裏腹に震え。腕もまた。体の震え、止めようと。自身を抱いた。

 

「……どうして……こんな、ところに居るの?」

 

 そんな、彼女へ。少しだけ、切れ切れの。問い、言葉を投げ。

 

 投げるが早いか、薄く瞳を開く。心を繋げるまではせずに。只々覗き見るだけの視界。瑞分、器用になったもの。目覚めたばかり、もっと、朦朧としていた頃には、眠っている者ばかりとは言え、誰彼構わず心を繋げて。閉じてしまえばあの頃と同じ。ゆらゆらと歩くだけとは言え。

 

 そんな瞳で。私は、彼女の。答えずとも心に浮かぶ、隠した言葉、開いた瞳で掬い取る。

 

 浮かぶのは。彼女の過去、人間のそれ、短かな。見た夢、現と変わらず鮮やかな―――彼女にとっては同じ現実。今もまた、そんな。現の夢で彷徨い歩いて。

 黄泉の洞穴、拾い上げたまま収めた石。惹かれるままに迷い込んだ……私と同じ。夢現のまま。そう。

 私と同じ。これは、彼女の夢。私がそうであったように、彼女もまた。見えるものは違うとはいえ、踏み込む術は違うとはいえ。同じ、夢を通じて此処に来て。

 

「……こっちは、駄、目だよ」

 

 彼女は、訝しげに。私の言葉を疑って。

 

「もう、こっちにも……」

「妖怪がいるって? でも、後ろにももう……」

 

 微かに。沈んだ心、熱を失い。けれど。

 

「……退いて。私は行く」

「どうして」

「……他に、道が無いもの」

 

 普段なら。覚めようと思えば直ぐにでも。危険が迫れば直ぐにでも、夢から覚めることが出来ると。

 心に浮かばせ。それは。きっと。

 

「……でも、こっちは」

「その言葉が、嘘なのかも知れない。いや、嘘であって欲しいの……ごめんね。親切な妖怪さん」

 

 覗き見た心。歩み出す彼女は。

 私に。嫌悪を向けず。只。道が無いからと。私の後ろにしか、もう。道が無いからと。

 

 何故、夢から。覚めることが出来ないのか。それは、きっと。近くに私が居るからで。無意識の内に、知りもしない内に。私は周りの意識を掴み引き寄せ、夢の底へと沈ませて。

 あまりに永く。私が夢に居続けたならば、その夢は覚めなくなるだろう。今の私がそうであるように。私のようになるだろうと。

 

 傍、過ぎ去ろうとする。その手を掴んで。

 

「……どうしたの。離して」

「駄目だよ。そっちに行ったなら、あなたは帰れなくなる」

「でも、もう……」

 

 手を。離さず。自分でも、何故。こんなことをしているのか。分からず、分からないまま。

 

「大丈夫。逃がしてあげる。ごめんね、私の所為なんだ。あなたが夢から覚めないのは。私があなたの近くに居るから」

「なに、何を言って……」

「私はね、そんな妖怪なんだ。怖い思いをさせてごめんね。あなたの夢は、私が覚まさせてあげるから……」

 

 続かない息。掠れゆく声、彼女へと。言葉を投げて。

 

 瞳を開く。彼女と繋がる。

 

『あなたは――』

「誰なんだろうね。でも、きっと逃がしてあげるから」

 

 私は。覚と呼ばれて。けれど。実感は湧かず。名前、唱えた言葉、それは。私の胸には落ちず、響かず。投げられたまま宙で溶けた。

 

「さ、行こう。手、離しちゃ駄目だよ」

 

 覚かどうかなど。私は知らず。只、この姿も。彼女のそれを真似ただけ。彼女のそれに憧れて。彼女のようになりたかっただけで。

 また。彼女に会いたい、と。言葉は胸の内。吐き出すことなく押し込んで。

 

 繋いだ手、まだ、震えの止まらない。彼女と共に。彼女のそれと繋がったまま。夢を歩く彼女の心を、他者の悪意から守るため。

 二つの瞳を。第三の目を。

 

 心を、閉じた。


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