夢見る小石   作:地衣 卑人

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七 逃げ場所へと落ちる夢。嫌なことから逃げていく。見たくないものを見ないように、しっかりと目を瞑って。そのまま私は落ちていく。

 落ちた雫が岩肌を打つ。響く雨音と、攫われる体温。岩の窪みに浅く張った水溜りが、一つ、一つと落とされた粒を飲んで揺れる様を見続け、微睡み。

 

 胸の奥、掛けられた言葉、植え付けられた言葉。突き離された、抱き止められた。地下の彼女の言葉は、私の体、意識、遠く離れ。遠く逃げても未だ尚、私の中で渦を巻く。

 

 あの、悪魔は。私を見透かしたように……実際、全て見透かされて。言葉は戯れ、振る舞いもまた。私は彼女の小さな手から逃れられず……放り捨てられ。

 あの館には近付きたくは無い。きっと次は、私など。水に映ったそれを掻いて乱すように。腕の、指の一振りで、まるで、其処には、初めから何も。

 

 しかし、それは。確かに、私を惹きつけた。彼女のその手が過ぎ去った後に残るのは。いや、残るものなどなく―――

 

 かくりと。落ちた頭、そのまま、眠りに落ちそうになって、目を開き。

 

 あの館から遠く離れた、洞窟の中で息を吐く。

 彼女への恐怖は、あの館から去ると同時に。霧の中にいるような。深夜、家から抜け出たような。空気に満ちたあの屋敷、あの地下室から放られて。逃げると同時に捨て起きた、忘れようと。自分の頭を掻き乱して忘れ去った、筈なのに。

 あの笑みは。紅は。私の頭に刻み付けられ離れない。

 

 

 雨は止まず。冷たい、冷たい。風は、穴の奥に吹き込み。何処かに繋がっているのかも知れない。それか、何か。途轍もなく大きな誰かがこの洞穴の奥に居て。呼吸でもしているのだろうか、なんて。

 

 居ても、おかしくは無い程に。この郷は、幻想郷は、不可思議なもので満ちていて。現に、この洞の底には、人かどうかも知れないものの、何かが潜った―――若しくは、這い出た跡があって。

 洞穴の奥。暗がりに落ちる銀色を見る。細い線、引かれた糸は。外から微かに差し込む明かりに照らされ光り。何の跡か、足元から奥へ。そっと摘み上げてみれば、細く、細く、けれども千切れる気配さえ無い。

 

 手に取ったそれをそっと手繰る。糸の先に何があるのか。心引かれると同時歩み出す足、代わり映えせず移り変わる岩壁、景色は、下へ、下へ。また、地下へと降りるというのは。彼女の部屋を想起して。幽かに紅く歪む景色と七色の輝き。瞳に映る幻は、恐ろしくも美しく。彼女のそれを思ったならば、比べたならば、他の何か。悪意を向けるそれも、恐怖も溶けて。

 

 銀の糸を手繰る。白く輝く糸を手繰る。時折突き出した岩に足を掛けよろめき。よろめきながらもまた、踏み出し、歩み、地下へと降りて。

 

 よろめき、踏み出し、進み、足を掛け、よろめき、歩み、歩み。

 よろめき。また。足を、踏み出せば。

 

 その足の先に。地面など、無く。

 

 落ちる体。闇の中へ。段差、なんてものではなく。唐突な縦穴、手の中の糸を掴んだまま。重みを投げ捨て、宙に浮かべば良いのに、と。何処か他人事、他人事のまま。その縦穴へと落ちて行く。

 

 糸の先は。この縦穴の奥底に。私の目的地は、この、穴の底。落ちた先にあると知って。

 

 

 白を追って、時も知れず。長い長い風穴、いや、もしかすると。私の落ちる速度が、あまりにも遅いだけかもしれない。上へ上へと流れゆく岩の壁には瓶の一つ、赤や、黄や、色の詰まった硝子など無く、無くとも。映し出される景色は私の夢。記憶の何処かに張り付いた景色、言葉、想起して。何もない景色に、鮮やかな光を描き出して。

 

 日が経つにつれて強まる力。夢と現実の境は歪み、私の夢は、誰かの夢は。現実は。この目に映り込んでは溶けて混ざり。現と幻は曖昧になるばかり。

 起きながらにして。現実を見据えながらにして夢を見。何が実体、幻かさえも分からないまま。

 夢を通じて、この郷に逃げ落ちてから……いや、これも。まだ、夢の中なのか。なら。

 現実の。私の体はどうなったのだろう、と。ふと、思えば。目の前に現れるのは、一枚の鏡。そこに映る、映る顔は――――

 

 

 銀の床に爪先が着く。穴だらけの床、糸で編まれた。粘着質の糸の束は私の足を掴み。微かな不快感、靴に染み入るように。

 一目見れば。それが何かなんて、きっと、誰であろうとも理解出来る。近付く八本足、膨らんだ腹。複数の目に映るのは。

 

 

 今の。私の顔で。

 

 

「妖怪が落ちてくるなんて。それとも観光? それならもっとこそこそ落ちてこないと」

 

 私を見下ろし、蜘蛛は、人の顔でそう言って。対する私は唯見上げ。その人の目と、私の目が、目が、合って。

 

「何とか言ったらどうだい? 地上は独り言を言う奴ばかりだと思ってたけれど、随分無口なのがきたもんだね」

 

 言葉を受け。受けた私は。

 

「―――」

 

「え? なんて言った?」

 

 声が、掠れ。そう言えば、どれだけの間、人と会話を……現実で、していないのか。小さく、掠れ、喉の奥で堰き止められた。声は、彼女、蜘蛛には届かず。

 

「、ぁ……―、―」

「なんだい、聞こえないよ」

 

 彼女は、近付き。けれども私は、私の声は。喉から離れ、吐き出される頃にはもう、崩れ、消えて。思えば届く心の声は、現の彼女に届かない。

 

 上手く出ない声は放って。早々に。発する事を諦める。

 

 目に。閉じた瞳に、その瞼に。

 

「ん、あんた、その眼……」

 

 力を込めて。

 

 

 

 途端。瞳に映る彼女の心、思う景色、光景。想起したばかりの桃色の髪は、赤い目、繋がる管。その姿もまた、一瞬。瞳が開き切る頃には既に、彼女は一歩。背後へと大きく距離を取って。

 

『覚妖怪か。彼奴以外で見るのは久しいね』

「覚? あなたの想ったその人のこと?」

『声、出るじゃないか。あんたらに答えは要らないでしょう?』

 

 瞳を通して繋がる心、思い、夢。声帯を震わせる事なく投げた私の問いに、映し出される姿は、先の彼女。私やあの子と同じ、第三の目を持つ誰かで。

 

「私は覚なんだね。ありがとう、やっと何なのか分かったよ」

『自分が何かも知らない? どういう……まあ、なんでもいいけれどさ。それより』

 

 これは何、と。彼女は。私の瞳に映し出された

 

「なんだろうね。何だと思う?」

『ああ、覚共はどいつもこれだ。そういうのは人間相手にやりなよ』

 

 浮かぶ、浮かぶ、第三の目。私と同じ心の目を持つ、様々な姿、笑う、笑う。幾つもの影が浮かび上がっては消え、また現れ。銀の巣の上、岩壁の檻。映し出される色褪せた影は、走馬灯のそれ、活動写真のそれ。朧な記憶は、徐々に。昔々の……遥か昔の地上の景色に移り変わって。

 

『懐かしいね。あんたは知らないかも知れないけれど』

「私は、新参者みたいだね」

『このご時世に覚に生まれ落ちるとはね。あんたらは嫌われ者だらけのこの地底でもまた嫌われる。それでも、まあ。それが何だって話だけど』

 

 心に抱いた古い記憶、懐郷の。それは、新緑の木々、色付く山。雪の降る野。桜の花弁に、青。人々の笑み。そして。

 其れ等全てに掛かる。黒、紫、茶、赤。青、白、土―――命に溢れた景色を犯す。生気を奪い。空気を汚し、水を汚し。里を崩して血に溶け込んだ。それを。

 笑みを以って心に浮かべる。喜悦に塗れ。心の底から愛おしそうに。懐かしそうに。病の広がるその様を見る。妖怪、それは、土蜘蛛と。心の奥底、作り物のそれではなく。彼女自身の望んだ光景、惨状、共に。嘗て、その汚水に。曇った瞳に。写り込んだ、彼女の見た。彼女自身のその姿は。その、名前は。

 

「あなたも、相当」

『そうだよ、嫌われ者さ。覚程に嫌われた妖怪なら、この地底で迎え入れない訳にはいかない』

 

 銀の糸で編まれた床が。私の靴に張り付いた。柔らかな床が、溶け。溶けた端から粉と光、粒と舞い。落ちる銀糸は、その切れ端は。

 

 深く、深く。縦穴。闇の底へ。

 

『地霊殿を目指すがいいよ。あんたのお仲間が其処に居る。嫌われ者同士仲良くやりな』

「そうだね、嫌われ者同士、ね」

『そうさ同胞。疎まれる者は大歓迎よ―――』

 

 声は。映し出された幻、共に離れて。彼女の思いは視界の外に。絡み合った私の夢は、彼女の想いは。溶けて、解れ。離れて。深い深い底から引き付ける力に抗うこともせず。その暗闇へと落ちていく。

 

 ようこそ地底へ、と。仰ぎ見た暗闇から落とされ響く、彼女の声を聞きながら。

 


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