夢見る小石   作:地衣 卑人

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六 忘れられない程怖い夢。いつか何処かで見たような姿、名前も思い出せないそれが、形を変えて、夢の中で追ってくる。

 夢を見る。夢を見る。

 見る夢は、現と重なり。現に映し出された夢の形、実体を持たず浮かぶ幻。酷く目紛しく移り変わる様に眩暈さえ。時折紛れ込む悪夢には吐き気さえ。

 他の誰のそれでもない。私の夢、私の夢。遥か昔に見た夢。遥か昔に刻んだ記憶。命の光に組み込まれた、胎児の見踊るそれではない。もっと近く、もっと鮮明な。私自身の記憶した。

 灰色の森。日の光を隠した迷宮。地下の雑踏。月の光を遮る天蓋。雑音、轟音、喚き声。呻き声。泣き声。何か音を立てていなければ気が済まないのかと問い詰めるだけの勇気など無く。自身の耳を目を塞いだまま彷徨い歩く勇気も無く。深い深い緑、月の光。青い湖面、白い霧。夢幻の揺蕩うこの郷に逃げ込んでも尚私の瞳に付き纏う。レンズで覗き込んだなら、もしかすると。映し出せるかも知れない、と。

 映し出せるなら。焼き付いたそれを。焼いたそれを。また、焼いて。灰になりゆく様を見送り、砂に帰る様を見送り。全てを忘れてしまいたい――

 

「――?」

 

 気付けば。夢から覚めれば、視界に映るそれは、赤。広がる赤い、赤い湖。遠く囲んだ緑の中、場違いな程に……いや。周りなど、知らないと言った風に。全ての色を塗り潰してしまいそうな程、赤く、赤く、赤い花園。

 それは。宙を彷徨ったなら。否応無しに目に入る、赤い屋敷の庭に広がる。湖畔の屋敷、赤い屋敷。其処は、余りに恐ろしく。興味を引かれはしたけれど、恐怖に勝てず。自由の効かない自由な体は、足は、向くことも無く背を向けてきた。

 

 何時の間に迷い込んだのか。此処は、入り込んではいけない場所。一度足を踏み入れたなら、きっと。

 

 きっと。

 

 理解しながらも、足が向く。恐怖と共に、恐怖へ向かって。惹きつけられるように、呼ばれるように。其処に何か、求めるものがあるとでも言うように。明明と赤く色付く館、少ない窓に灯る明かり。今はいけない。気配の主人はその目を開いている。目の眩む程に爛々と暗いその瞳は。

 

 私を。私を見据えていて。

 

『―――』

 

 誰かの声が館から響く。音としてではなく。私の心臓、握り。私のそれを、私の力を。羽虫を摘む気軽さを持って捉え、囚われ。

 足が地を離れ。開き行く扉、その先へ。光源が何なのかさえ知れない無数の明かり、続く先。私の体は彼女の言葉、唯。呟いただけで力を持った。物理の層には何も見えない。心理の層。私の体を掴み握り締め、引き摺り込もうと蠢く言葉に。気配の主人からしてみれば、唯の言葉。私にとっては、他ならない。魔法のそれに。

 

 何と言い放ったのかなんて。私には分からず。唯、唯。抗うことさえ出来ず。力を持ったその呼び声に。私は。

 紅の扉へ。この身を、呑まれて。

 

 

 

 

 呑まれた、先。

 体は私の意思など知らず。地下へ、地下へ。眠る誰かの元へ。螺旋の階段、底へと続く。眠りながらも、遠く離れた。私の体を這い、浅く浅く、焼き焦がす。恐ろしい波動、その元へと。私の体を引き摺り込んで、押し込んで。

 

『―――あなたは夢魔かしら。それとも、在来種?』

 

 私を捉えた誰かの言葉、問い掛け。しかし、その、意味は分からず。

 

『夢魔と言うには不恰好で。どっちつかずな所は、寧ろそれらしくて。まあ、何だって構わないよ』

 

 声は、声は。私の内に響き、揺らし。心を檻に。掌、広げた指の中に。抱き、そのまま飲み込まれそう。

 

『暇潰しくらいには、なってくれるでしょう? 名前も知らない野良妖怪』

 

 扉、扉。最後の。地下、奥深く。誰かの気配、眠る何か。恐ろしいそれは、扉の先に。背筋を流れ落ちる冷気、胸の底へと届くそれ。けれど、体は。既に。

 

 

 扉の先、広がる。彼女の夢に、溶けて。

 

 

「……誰の夢、だろう」

 

 其処は、紅色の世界。あるのは、遠く高い天井。深く深く見下ろす闇。誰と触れ合った記憶も、酷く無造作に。捨てやりはせずも、無くとも構わないと言った風に。彼女自身の記憶もまた。無くなった所で、失くしたことにも気付かない。知識、記憶、本の頁。体験の伴わない情報、散らかった夢。

 

 生きているという。実感のない夢。

 

 私を呼んだ声は、もう聞こえない。彼女の魔力は、この夢にまでは届かずに。それは、そう。この夢の主が、また、彼女と同じだけの力を持っているからで。

 逃げ出そうにも。この夢は。底のない沼、虫の溜まる池のよう。私の足を、体を。呑み込んだまま離しはせず。更に深くへ、夢の中心。眠る誰かの心へと。

 落ちるばかりで。

 

「……夢の中なら……」

『夢の中なら、何?』

 

 声が、響き。少女の声、綺麗な声。硝子に硝子を打ち付けるような、そして、それが、割れるような―――

 

『誰? 人の夢に、土足で踏み込む無作法者は』

 

 夢で、あるならば。私の自由。逃げる術だって、あるだろうと。けれど。

 

『泥棒かしら。それにしては、白くも黒くもないのね。それとも巫女? それにしては赤くも―――そしてやっぱり白くもない』

 

 紅い、紅い。世界は、鎖に囲まれ。緑色に輝く檻、近付く姿は、合わせ鏡のように重なり。四つの影、四方を囲んだ。転がる声、撫ぜる声。退路を探せば、七色の宝石、翼に揺らして。彼女は、彼女の。姿を浮かべて。

 

『赤でも、黒でも、銀でもない人間が、私に何のよう? 何が欲しくて此処に来たの? 何処かで見たような姿形を真似てさぁ』

 

 紅い、紅い、紅い。夢に描き出される姿は。二つ、紅い瞳を備えて。私に向けた視線、その視線は。

 交わしてはいけない。視線に乗った魔力は、一度、瞳を通したならば。後戻り出来なくなる。彼女に心を食われてしまう。

 

『答えないのね。口を持たない? なら、私が裂いてあげようか。それとも、その刃を貴方に貸そうか。切っ先に毒を塗って……』

 

 笑みは。闇に浮かんだ、笑みは。歪んだ口元、覗く歯は。郷の人々、その記憶。夢で覗いた。

 

「……吸血鬼……」

 

 その名前を、思わず。呟き。

 

『知らずに来た、なんてことは無いのでしょう? 知らないのは無知に過ぎる。知って来たなら愚かに過ぎる。もう、此処まで来たならさ』

 

 正面の、彼女は。手を、伸ばして。その爪は、長い爪は。私の首へと突き付けられた。

 

 逃げることは。出来なくて。夢の中。このままその爪、刺し貫かれたなら。私は、私は。

 

 どうなるのだろう。

 

 紡がれる言葉は、それは、戯れ以外の何物でも無く。獣が獲物で遊ぶように。捉えたそれで遊ぶように。私は、今。

 彼女の―――一人きりの。他に、他に、何もない世界。現のそれと変わらない。誰かと触れ合った記憶、余りに欠けたこの夢で。また、放られたそれと同じように。

 

「……理不尽だね」

 

 逃れられないそれは。誰もが行き着くその終わりは。

 あまりに理不尽、抗いようの無い。なのに。

 

『そうね。でも、それって、今に始まったことじゃないでしょう?』

 

 酷く。安堵に満ちていて。

 

 逃げる事など。あの庭に迷い込んだ時から、既に叶わず。叶わぬ私に、彼女は言い。

 

『行く先々にあるのは赤で。壁で、天井で。もう、貴方は出られない。この屋敷に、足を踏み入れたばかりに』

 

 夢に映る景色。閉鎖された。閉じ込められた。彼女の見る夢、その景色。

 

「……それは、貴女自身もじゃなくて?」

『同じよ。私も貴方も、今此処にいる。それに』

 

 爪が引かれる。彼女は、そのまま。身を引いたまま。空を仰いで。

 

 色を変える世界。紅から、青へ。黒へ。星を抱いて、朧に、朧に。

 

『―――私は。外に出る気も、しない』

 

 思い描いた空に。向けた彼女の目に。未練は、無く。その姿は。ああ。

 

 あの時の。此方を選んだ時の、私の―――

 

『貴方なんて。別にどうなったって構いはしないけれど……貴方の真似た姿に免じて、今回だけは見逃してあげる』

 

「――えっ……」

 

 それは。突き放すように。唐突に。私へと投げ掛けられ。

 

『何を期待した? 残念だったね。貴方の求めてるそれは、此処には無いよ。そしてそれは、私達が与えるものでもない。私達が連れて行くのは、もっと、もっと恐ろしい場所。貴方の夢むそれは、此処には無い。そう簡単にあげたりなんてしない』

 

 くすくすと。笑い、笑って。白い顔、細めた目。本の少し、愉快そうに。ただ、それも、どこか虚ろに。

 

『此方の食事は貴方にはまだ早い。その川を渡るのも。その洞で眠るのも。貴方の求めるものへの近道なんて無いんだ。あの子の友達、じゃなければ。態々構ってやりなんかしなかったけれど……』

 

 右手を。掲げた彼女は、投げた言葉、それを私が咀嚼しきるその前に。

 

『さ。この夢は此処でお終い。目を覚まして――何処にでも行くがいいよ。回り道でもしてるといい。じゃあ』

 

 

 あの子に、よろしく。と。そう、言って。

 掲げたその手を、そっと。

 

 そっと、握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 罅割れて。壊れて消えた、彼女の夢から弾き出される。

 それは、あの。紅い屋敷の、紅い花畑。どれだけの時間が経ったのか、明るくなりゆく空、明かりの消え始める館。静けさ。

 放り出された私は。突き放された私は。掛けられた言葉、胸の内。渦巻かせたまま。

 

 

 冷たい空へ。滲み始めた温もりへ。宙へ。

 

 重みを捨てて。地面を、蹴った。

 


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