夢見る小石   作:地衣 卑人

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一夜目 始まりの夢。

 暗い、暗い。只管に暗く、深い、深い闇の中。何処か、日の光の届かない、地下室にでも閉じ込められているのか。それとも、両目を縫い付けられたのか。一切の光を断ち切られ。一つとして光源も無ければ、何処か。有るのかも知れない、亀裂から。漏れ出る明かりの一つさえない。そんな、そんな世界で、一人。

 突き出した腕は、宙を切って。どれだけ手を広げ。どれだけ強く握り締めようと、何一つ。掴む物さえなく。熱くも、冷たくもない。何の刺激も無い空気が、手のひらを撫ぜるのみ。

 

 灯りの一つでもあれば。何か、一つでも照らしてくれるものがあれば、と。無い物を強請(ねだ)り。もしかすると、私が唯。瞳を。固く固く、瞑っているだけなのかもしれないと。光を映す、眼球なんて持たないだけなのかも知れないと。ならば、灯りなど幾らあった所で変わりは無い。と。

 何れにせよ。真っ暗なのに変わりない。立ち尽くすしか出来ないのに、変わりはない。

 

 変わりは、ない。変わることなど無い。そんな、そんな、現実に。嫌気が、差して。何処までも汚い。何処までも穢い世界に。目を向けたくなんて。

 なかった。なかった。見たくなかった。見られたくもなかった。人の意識になど、触れたくない、と。逃げ込んだ、先。

 此処ならば。誰の目も無い。それは、そう。私自身のそれも含めた。この、暗闇の中でならば。一歩。何処かへと向けて、足を踏み出せるのではないか、なんて。

 こんな場所で無ければ、足の一つも踏み出せない自分に。笑い、嗤いながら。一歩、この。暗闇の中、見ることも叶わない、足を――

 

「駄目よ。真っ暗なのに、危ないじゃない」

 

 突然の声に、体が跳ねる。跳ねた拍子に、踏み出そうとした、足は縺れ。力は、抜けて。

 暗闇の中。尻餅を着いた、私に。声は。正体の知れない、声は笑って。

 

 誰もいない筈の。この暗闇の中。声は、声は、私を笑い。こんな場所でまで。情けない姿を晒し。尻餅をついたその姿のまま、顔が熱くなるのを感じて。

 

「いいじゃない、ちょっと転けたくらい。何も恥ずかしいことないよ」

 

 変わらずに、笑う声。しかし、その、暗闇の奥に浮かぶ、笑みに。言葉に、侮蔑は。嘲りは、欠片ほども見出せず。あるのは、唯。可笑しそうに。楽しそうに。幼子のように、笑う、笑う、純粋な。

 

 笑顔。私の目にはまだ、見ることの叶わない。闇の中に沈んだ、小さな小さな花のような、笑顔で。

 

「花だって。照れるよ」

 

 くすくすと。やはり、笑い続ける彼女につられて、口元が歪み。何とは無しに、子どもの頃の。ともだちと駆け回り。巫山戯合っては、何の裏も、屈託も無く笑い合った、あの頃のことを思い出して。

 

 笑みが、消える。彼女のでは無い。微かに浮かんだ、私の笑みが。何処までも美化された、最早戻ることの出来ない過去を想起し。そして。

 今の。自分の姿をも、思い、思い出してしまって。

 

「……真っ暗だね」

 

 そんな、私に。彼女は、言葉を(ほう)って。

 真っ暗、とは。この世界のことか。それとも――

 

「どっちもだよ。どっちも同じものだしね」

 

 変わらず。笑う。その笑みは、その声は、何処までも。何処までも何処までも優しげな。その、声と、共に。

 私の手を。彼女の、小さな手が掴み。その柔らかさに。人の肌の暖かさにさえも、私は、怯んで。思わず、握る手には力がこもり。強張り。

 

「暖かい? そんなでもないと思うけれど」

 

 闇は。未だ、晴れず。表情の知れない彼女の、少しだけ困ったような声を、同じ。真っ暗な闇に隠された、この耳で聞いて。

 

「そんなことない。暖かい」

 

 思わず。開いた口に。転がり落ちた言葉に。彼女は。そして、他の誰でもない私自身が一番、驚き。

 小さな驚きは、また。彼女の声に笑みを咲かせたようで。

 

「良かった。口が利けないのかなって思っちゃった。案外、可愛らしい声してるんだね」

 

 そう。私の喉から搾り出された声は。私の物では、なくて。

 

「違う違う。あなたの声だよ」

 

 それこそ違う。私の声は、もっと、もっと……

 

「もっと?」

「もっと……もっと、低くて……こんな……」

 

 こんな。まるで、少女のような。可愛らしい声では、なかった筈だ、と。私の記憶の中で響く、その声は。もっと低くて、可愛げの欠片もない……

 

「それなら、ね。そうだね。どっちの声のほうが好き? 今の、あなたの声と。あなたの言う、あなたの声と」

 

 彼女は、続ける。私は、唯、その言葉を受け止めるばかり。

 

「分かってるんでしょう? 此処には、あなたを縛り付けるものなんてないって。何でも好きなように出来るんだって。あなたのその声も、ほら。あなたがずっと望んでいたものなんじゃない? 欲しかったんでしょう? きれいな姿」

 

 望んだもの。欲したもの。それは、そう。この声は……高く、澄んだ。少女の声は。私が、ずっと、ずっと欲してきた……

 

「恥ずかしがらなくていいんだよ。素直に、あなたの好きなものを取ればいいの。此処には、あなたを嗤う人なんていないんだから」

 

 笑いはするけれど、と。悪戯っぽく付け加えて。暗い暗い世界の中に。僅かに。本の僅かに、色が灯り始める様を、横目に。笑う彼女のシルエットを、そんな。仄かに色付く世界の中心に、見て。

 緑色の瞳。綺麗な。唯々綺麗な、その瞳……瞳は。やはり。

 嘲りも。侮蔑も。棘も、痛みも、在りはせず。

 

「私、は……」

 

 声を。まだ、この声で喋るのに、恥ずかしさは残り。しかし、それでも。

 この声は。私が。私が心の奥底で求め続けた。

 

「私は、この声が、いい」

 

 そんな、私の声が、転がると同時に。

 ぼんやりとした、世界に。本の、数秒前まで、暗く、暗く、目の前に佇む少女の姿すらも見ることの叶わないほどに真っ暗だった、世界に。

 無数の色が。光が湧き出し、溢れて、彩り。黒い世界が反転してゆく様を。今までに見たことのない、瞳を優しく貫き、胸の内で跳ね回る、光の奔流に目を見開いて。

 

「やっと素直になったね。ほら、これがあなたの心の中。こんなに綺麗だったのに、黒く塗りつぶしちゃうなんて勿体無いよ」

 

 私の腕は。細く、華奢な。白く、透き通った肌に、目を細め。彼女の姿も。今や、鮮明に。明るい緑色の瞳、同じく、緑掛かった髪。何処となく柔らかな洋服に、伸びるコード……そして。

 浮かぶ、球体。それは、閉じた瞼のそれに似た。

 

「似てる、じゃなくて、その通り、なんだけどね」

 

 やっと、見ることの出来た彼女の笑顔。脳裏で思い描いたような……しかし、私の思い描いた顔よりもずっと綺麗で、整った。そんな、少女の顔に、思わず、見惚れて。見詰め続けて。

 

「……注目されると恥ずかしいな」

「あ……ごめん」

「いいけどね。私のこと見てくれる人なんて、こっちにしかいないのだし……」

 

 色取り取りの光に照らされた、彼女の顔に影が差す。幽かに滲んだその陰は、寂しさを孕むも、しかし。笑みの裏に隠したそれが、悪意であるとは思えずに。

 そんな、彼女に。私は。言葉の一つさえ、投げかけられず。彼女を、見詰めることしか出来ないまま。

 出来ないままに。陰は、眩く輝く光に呑まれ。彼女の顔には、また。笑みが戻っていて。

 

「ま、どうでもいいんだけどね。私は今のほうが楽しいし。あなたと一緒ね」

 

 その言葉を、咀嚼しきれぬまま。握った私の手を、彼女は引いて。私は、思っていたよりも強い、その力に引かれ。随分と長い間、座り込んでいたものだと。自分を嗤い、彼女は、笑って。

 

 言葉の一つもない。しかし、何の気まずさも感じることもない。彼女の引く手に体を委ね。私は、色に溢れた。絵の具の散らばったパレットか、万華鏡のそれに似た。光り輝く世界を、歩み、歩み。手を。引かれ、引かれ。

 一歩踏み出せば。重さも感じぬ星屑が、空から。私達へと降り注いでは尾を引いて。痛みの一つもなくこの身に当たっては、溶け、消えて。足元には、また。舞い落ちる星屑にも似た、小さな小さな、光の粒が。輝く粒子が、湧き上がり、広がり、色に塗れた世界は、更に、色鮮やかに。鮮明に。私の視界を、世界を彩り。

 一つ一つの輝きの抱いた、命の温もり。湧いては光り、また弾けては消え。繰り返し繰り返し、生まれては死ぬ無数の命を見下ろしながら。歩き、歩き。

 

 綺麗な。しかし、それでも何処かおぞましい。生まれ生まれ生まれ死に死に死んで。悪夢にしては美しすぎた。無秩序で、不安定なライフゲームは続き、続き。

 

 まるで、空想のような。いや、これは――

 

『駄目』

 

 頭の中に響く声。見れば彼女は、立ち止まり。私の手を引き続けた、彼女は。私の瞳を見、笑みを零して。

 

「今は、全部忘れていいんだよ。せっかく、自由になれたんだから」

 

 空は。世界は。微かに暗く、色を落として。足元では変わらず無数の光が湧き上がっては消え、私と。向かい合った彼女の顔を照らしていて。

 

 これ以上踏み出したならば。もう、何処にも逃げられないのではないだろうか、なんて。

 

 そして。逃げる必要があるのか、と。ここから。この世界から。戻る意味があるのだろうか、と。

 

「……それは、まだ。決めなくてもいいと思う」

 

 再び。しかし、今度は。先よりも弱く、遅く、歩み始める彼女に合わせ、私も。歩を、進めて。

 

「とりあえず、今は……ここにいる時くらいは。全部忘れて、楽しんで欲しいなって」

 

 足元が輝く。徐々に、光が増えてゆく。

 

「今日は、もう時間だから。これで、おしまい。続きは……また、迎えに行くから。それまでは頑張ってね」

「待――」

 

 増える、増える。足元の光が。延々と増殖し続ける光は、未だ。弾け飛びながら。死にゆきながらも、増え、増えて。私の体を。這い登り、埋め尽くし――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――鳴り響く金属音。

 薄暗く、暖かな。頭まで被った、毛布の中から。手を伸ばし。

 その。淡々と騒々しい。私を夢から引き摺り出した、無機質の頭を。

 

 恨めしげに、叩いた。

 

 


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