エステルの後姿に酷似したそれを見かけた翌朝。
相も変わらず上空を隙間無く覆う曇り空の下、シートに座って寂しい朝食を食べている途中、昨日の青年がまた話しかけてきた。果たして状況が状況だ、他に会話する人がいないのだろう。
名前はクラウスさん。十八歳。僕と同じくハンターで、僕が偵察をしている間にここに到着したと言ってきた。改めて向き合ってみると、茶髪に艶を湛え、さらに顔つきに凛々しさと涼しさを兼ね備えたずいぶんな美形で、僕は少し嫉妬してしまった。
ランポスの群れ相手に勝てず難民達から不興を買ったことを伝えると、
「しょうがねえよ、新人がランポスに勝てないのは」
とクラウスさんは軽く笑って済ませた。
会話の間、僕は豪奢な宿泊施設の扉に何回か視線を送っていたが、それなりに年をとった人達がまばらに出入りするだけで、一度もエステルらしい姿は見つからなかった。
太陽が雲に隠れて時刻は分からないが、頃合だろうと思った僕は、おもむろに立ち上がった。荷物袋の口を開け、中を探る。すると、傍らに座っているクラウスさんが声をかけてきた。
「どこか行くのか?」
「偵察です。まだジンオウガが近くにいると思いますから」
……とはいっても、先日のランポスの群れのようにまた中央ギルドが襲撃されそうになる危険もあるので、あまり遠くへは行けないのだが。
胸中を打ち明けてしまうと、僕は中央ギルドの難民達に愛着を持てていなければ、守らなければという使命感も持ち合わせていない。あの人達を薄情だとは思っていないが、好きになれと言われても無理だ。けれど、無為に被害が増えてさらに事態が悪化するのだけはまっぴらごめんだった。
書士隊がいればな、とつくづく無いものねだりをしそうになる。どこにどんなモンスターがいるかも判然としないこの状況下、生息地を調べ上げるのも仕事の一つである書士隊は、ハンターよりよほど益体のある人材なのかもしれない。
だが、書士隊に志望する人があまりに少ないからか、この国では調査は常々ハンター達に回される。それをフォローするように、ギルドマスターのくせに規定を破って調査を全うし続けてきたのがクラナさんだ。
けど、その人はまだここにはいない。僕の安全を優先して先にこの中央ギルドに行くよう半ば強制してきたが、そこに所属していたはずのハンターもギルドマスターも逃げていたと知れば、目を白黒させることだろう。
結局僕がランポスの群れの狩猟を強要され、ほぼ失敗。そこに畳み掛けるようなジンオウガの出現。恐らくそのモンスターに中央ギルドが襲撃されたら、また僕がその化け物と戦わされることになるのだろう。さらにクラナさんの予想通り、中央ギルドにエステルがいる可能性も浮上してきた。彼女に僕へ手出しさせないよう手回ししておくとクラナさんは言ってくれたが、それはもう済んでいるのだろうか。
もと居たギルドにクラナさんと一緒に残っていたほうが安全なんじゃなかったかと思うと、本末転倒なこの有様に少し笑えてくる。
僕の心中の懊悩が顔に出てしまったのだろうか、クラウスさんが濁った声音で言った。
「ランポスの迎撃の強要といいさ、他の人、お前に任せっきりなのか?」
「オレ達以外にハンターがいないか、いたとしても隠してるんでしょうね」
「職業なんかに拘ってる場合じゃないってのに。偵察、代わろうか? あともう敬語はいいよ。そんな歳離れてないだろ」
「いい、オレがやるよ。狩りに失敗したばかりなんだ、だらだらしてる姿まで見せたら反感もらう」
「切り替え早いなお前……。新人の失敗くらい許してやれよって思うけどな」
「………」
僕は何も言わず、双剣、折り畳んだ鎧、古ぼけたアイテムポーチを取り出した。
上を見上げると、分厚い曇り空が一条の陽光すら遮っている。雨でも降られたりしたら、すぐに戻ったほうがいいだろう。
僕はクラウスさんに小さく頭を下げると、装備を小脇に抱え歩き出した。が、すぐに「なあ、ジョウイ」という彼の声に引き止められた。
「なら手伝ってやろうか? 偵察っても相手が相手だし十分危険な仕事だぞ」
僕は数拍思案し、返した。
「いざモンスターがここに来たって時のために残ってた方がいいと思う。何かあったら発光弾頼むよ」
「そうだな、了解」
ジンオウガの足跡が途絶えた断崖の上に着くと、僕はまばらに草の生えた地面に座り込んだ。それに合わせて、身を包むクックU防具の甲殻と甲殻が擦れ合い、乾いた音をたてる。
崖下に広がる木々と緑を、ただ黙然と眺めていた。どこかからジンオウガの足音が聞こえる可能性があると考え耳を澄まし、同時に葉がざわめくだろうことを注視した。
「………」
私情でしかないが、じっとしていたくはなかった。こうして何もしないでいると、今なお僕にしかかっている問題に心が押し潰されそうになる。
『新人の失敗くらい許してやれよ』と言ってくれたクラウスさん。だが、自分のことながら後ろ向きな考えを唱えるのは気が引けるので黙っておいたが、その言い分は通じないと思う。通じるとすれば、それはさしたる危険も無い環境の中で、皆が心にゆとりを持てていられる時ではないだろうか。
相対しているモンスターに勝ち目は無いと踏んで、逃げるというごく普通の保身に走ることは、本来なら別段罪なことでもなんでもない。だが、暗澹極まりないこの環境に、そんな選択肢など最初から持ち去られていることは自明だ。逃げれば、次は難民達に命の危険が降りかかることになってしまう。
中には、クラウスさんのように『新人なんだから』と笑って許してくれる人もいるにはいるだろう。だが、これから先も失敗を重ね、その度に危険な目に遭わせる可能性だって十分ある。その場合、ただでさえぐらついている新人の特権はいつまで続いてくれるだろうか。
何より――昨日人ごみの中で目に入ったあの後ろ姿。あれが本当にエステルだとしたら、こんな所で一体何をしているのだろう。この国に何が起こっているのか分かっていて、難民達と一緒にあの心もとない避難所でくすぶっているしかないのだろうか。
場合によっては、コンドラートの住民と同じように、難民達を見殺しにするのだろうか。あの街では見捨てるしかなかったかもしれないが、あれほど平気な顔でいられる自信は僕には無い。見殺しにするとしたら……やはり僕に対しても同じ扱いなのだろうか。
(何やってるんだろ、オレ)
コンドラートを訪れた時から立て続けに積み重なってきた問題に煩悶に煩悶を重ね、結局流されてばかりだ。彼女にどう応対すればいいか分からない。辺りを徘徊しているだろうモンスターに怯えながら、中央ギルドの劣悪な環境で無為に日々を過ごしていかなければならないと思うと、不安に全身の血が冷たくなる。それでもどうすればいいか分からない。死ぬのが怖いからもがいているだけだ。
ふと、右頬に冷たい刺激が刺し、意識が物思いから引き戻された。右手を伸ばして触ると、指先に湿った感覚。雨が降ってきてしまったのか。
(結局これか)
これでは周りの音が聞き取りにくくなってしまう。大気を震撼させるような大型モンスターの足音ならまだしも、小型モンスターのそれにまで気づけるかは怪しく、危険だ。
戻ろう。腰を上げ、後ろを向いて歩き出した。
帰路について数刻後、雨は勢いを増して、すっかり面倒な状況を作り上げてしまった。だが、人間の足音が聞こえないのはモンスターからしても同じだ。僕は開き直り、少し早足になる。
――さして間もなく、それは浅慮だったと思い知らされた。
左方から甲高い鳴き声が耳朶を打ち、僕は咄嗟に足を止めた。一瞬の自分への苛立ちをすぐに抑え、あらかじめ右の剣を抜く。こちらに向かってきているだろうモンスターからの奇襲を防ぐよう、右方の木立に走り出す。
鳴き声の方を見やると、三十メートルほど向こうの草木から三頭のランポスが目に入り、僕は苦々しげに眉を顰めた。
先日のランポス五頭に比べればだいぶ楽だろうが、それでも僕に分が悪い。
閃光玉を投げようにもジンオウガに嗅ぎつけられることもありえる。まずは様子見だ、木立に一度隠れて奇襲を試みる。
そう考え駆けていたが、ふと、三頭の動きに違和感を覚えた。
走っている方向がこちらではなく、ひたすらまっすぐ疾駆している。僕という獲物には一瞬も目をくれていない。
一応木立に身を隠し、頭だけ覗かせて様子を窺ったが、結局三頭は素通りしてしまった。
背中が気味の悪い悪寒に見舞われたのは、三頭の素通りの意味するところに気づいた時だった。
何日前になるだろうか、面談室でロロと初対面の時。あいつは依頼の前にコンドラート周辺の状況を説明し、僕は解釈を返した。
『……危険なモンスターがその街の近くにいたってことかもな。ギアノスはそいつから逃げるのに必死で、当然目撃者を襲う余裕も無かった』
悪寒は、現実を裏切ってはくれなかった。
轟然とした地鳴り。僕を追い詰めたランポスを、容易く踏み潰した時のそれと同じ、凄まじい足音。連続的に猛々しく地を揺らしていく。
僕が覗き込んでいる緑景色の大気を、足音が厳然と震撼させる。やがてそれは僕の耳朶を痛ませるほど音量を増し、そして。
景色の向こうに、神々しく思えるほど鮮やかな翡翠色の巨体が現れた。雄たけびを上空に轟かせ、ランポスが走り去っていったあとを猛然と駆け抜けていく。僕には一瞥もくれず駆け抜け、やがて巨大な後姿は木立の中へと消えていった。
(……最悪だ。最悪すぎる)
ジンオウガが、中央ギルドのすぐ近くを駆け回っている。一刻も早く中央ギルドに戻って難民達に報告し、警戒だけでもしてもらわなくては。再び中央ギルドの方向へ向き直り、走り出す。
だが、なんという不運か。
左方から聞こえてくるはずの足音が、僕の正面に立ち並ぶ木立の向こうへと、徐々に音源を変えている。中央ギルド方面へと。ランポスがその方向へ逃げにでてしまったのか。このままジンオウガがランポス共々中央ギルドに乗り込んだらどうなるか、もはや言うまでも無い。
僕は決死に足を動かす。正面の足音に追いすがる。だが、身体能力の差は歴然だ、見る見る距離を離されいるのだろう、大気を揺るがす足音が木々の向こうへ消えていく。
こちらに注意を向けるよう、おい、と腹の底から大声をあげたが、足音はこちらを向かない。両目を腕で塞ぎながら閃光玉を投げたが、結果は同じだった。
(くそっ……!)
もはや僕には、ジンオウガの方がはるかに早く中央ギルドに乗り込むと分かっていても、走るしか選択肢はなかった。
ギルドの方向の上空。発光弾であろう目につく白い光が、僕を急かすようにしきりに明滅していた。
土砂降りの中、石敷きの歩道の真ん中を駆け抜け、中央ギルドの門を跨いだ。
広場の真ん中で、ジンオウガがランポス三頭に一方的な虐殺を繰り広げていた。一頭はジンオウガの角に深く抉られたらしい、胴体を半径ほど切り裂かれて倒れ付している。さらに一頭は首から上がないまま、同じく隣り合わせに横たわっていた。
僕はぐるりと辺りを見回すが、クラウスさんらしきハンターの姿は見当たらなかった。だが、一秒を争うこの事態で気にしていられない。
僕はジンオウガ目掛けて駆けながら、難民達がどこにいるか目を走らせた。すると二頭の死体の向こうで、宿泊施設のドアの前に人だかりができている。悲鳴と怒号が聞こえることから、自分がいの一番にと避難に必死なのだろう。
ジンオウガが、ゆっくりと難民達の方を向いた。まずい、と思った矢先、最後の一頭のランポスが吠え、ジンオウガの背後に飛び掛った。
ランポスは、逃げていればよかったのだ。
ランポスの牙がジンオウガの背中に突き込まれる。ジンオウガは痛がる素振りも見せず、足をたわめた。
跳んだ。巨体からは想像もできない高さへ。続けざま中空で翻り、背中を床に向けたまま落下する。
ランポスを乗せた背中が床に激突し、同時に紫電が火花を散らした。悲鳴は聞こえない。ジンオウガが巨体を横転させ、床に立つと、傍らで全身が潰され、薄黒く焦げたランポス。
人だかりから、裏返った悲鳴が上がった。ジンオウガが再びそちらを向く。
だが、もう十分に追いつける距離だ。
「――来い!!」
ジンオウガの注意を引くよう、何より恐怖心を振り払うよう、僕は気合を励起させて吼えた。
泰然とこちらを向くジンオウガ。僕は双剣を抜き、駆けたまま一気に姿勢を低くした。
ジンオウガが雄たけびをあげ、巨大な前足を振り上げる。そのままこちらへと飛び掛り、踏み抜こうとしてくるつもりだろう。普通なら届かない距離だが、奴は普通ではない。
僕は左にステップした。間断なく、ジンオウガの前足が僕のいた床面に叩き込まれる。恐ろしい衝撃にその部分が砕け、石の破片が飛び散った。
それほどの攻撃をした以上、すぐには次の行動に移れない。僕は右の剣を肩の上に振りかぶり、ジンオウガのがらあきのわき腹に叩き込む――
――碧色が、ぶれた。
僕は反射的に右に跳んだ。だが、それは回避ではなく、モンスターの暴力の威力を和らげるための妥協策。
左の肩に凄烈な衝撃。体が右に吹き飛ばされた。ジンオウガの右足でも左足でもなく、尻尾が僕を襲ったのだ。
床の上を何回も転がり、難民の人達の足元にぶつかる。すぐに立ち上がったところで、左肩が灼熱の激痛に焼かれ、剣を取り落とした。
右の剣だけを正面に構える。対峙するジンオウガはこちらへ悠々と歩いていた。
……僕がハンターとしての自分の力量を推し量れないのは、こういうことだ。
小型モンスターの群れが苦手なうえ、双剣が得物だというのに鬼人化ができないだけで十分痛い欠点だが、何より経験が少なすぎる。言い訳だと喝破されても、事実は事実だ。
確かにおよそ一年と半年、それなりに大型モンスターと戦い、生き延びてきた。クラナさんからすれば、死にたがりに見えるほどのペースだったらしい。
それでも、一年と半年なのだ、ベテランハンターの狩猟歴に比べれば十分の一にも満たないだろう。中級モンスターは討伐できても、ジンオウガのような文句なしで上級モンスターに区分される相手に、初見で勝てる保証などない。
ラージャンを倒せたのは、僕の中で牙獣種モンスターとの戦い方がある程度組み立てられていたのと、牢部屋で奴の脅威的な身体能力を把握していたからだろう。突進が目で追える速度じゃないと最初から分かっていたから、歩数と歩幅で反撃のタイミングを掴んだ。同様に見切れない殴打を、こちらが避けられるタイミングで誘発し、掻い潜ってトドメを刺せた。
だが、ジンオウガは牙竜種だ。そのジャンルに含まれるモンスターは現時点ではこの化け物のみで、当然戦ったことなど一度も無い。僕がこちらに注意を引く形でジンオウガに斬りかかり、果たして出鼻を挫かれて左の剣が叩き落されてしまった。
どうしたらいい。先程の攻撃からして、奴の知能は馬鹿にできない。左の剣を拾おうとしては、そこにつけこまれる可能性も捨てられない。
じりじりと退っていると、
「もう……引っ込んでろよこの無能!!」
銀髪の男性が視界に躍り出た。身をかがめ、横たわっている剣を片手で拾い上げる。まさか戦うつもりなのか。
僕が静止の声をかけようとしたところで、
「お、おもっ……」
男性は剣を取り落としそうになり、慌てて両手で持ち直した。重さにもつれた足取りを整えずにジンオウガを睨み据えて、駆け出す。
「だめです! 下がって!」
「うるせえっ!!」
ジンオウガの前足に飛び込むと、足も揃っていない乱雑な型で剣を振り下ろす。
案の定、剣は弾かれ、男性は跳ね返ってきた勢いに弾かれたように尻餅をついた。剣の重さに耐えられず斬撃の軌道がいびつなうえ、斬る瞬間に力を込めるべきなのに最初からガチガチだ。あれでは素手で大岩を殴りつけるようなものでしかない。
ジンオウガが前足をゆっくりと上に上げる。その真下で尻餅をついている男性は、呆けてそれを見つめていた。僕は苦々しげに舌打ちし、助けに入るべく駆け出す。
虚を衝かれ、頭の中が真っ白になったのは、その時だった。
目の前に、僕の膝ほどまでしかない小さな体が割り込んだ。僕は目を瞬かせ、足を止める。
白い体毛に覆われた矮躯が、僕を引き止めるように両手を広げていた。こちらをひたと見つめている。見覚えのある、大きな両目が。
「……ロロ?」
ぽつりと呟くと、目の前のアイルー、ロロは頷いた。だが、呆気にとられた刹那はそれだけではなかった。
右方から火薬の炸裂音。
それがボウガンの発砲音だと気づくまでに時間はかからなかった。
僕がジンオウガの前足を見上げたと同時に、着弾しただろうそのつま先から小爆発が起こる。ジンオウガから小さな悲鳴が漏れ、軌道の反れた前足が男性のすぐ横の床面に叩きつけられた。
徹甲榴弾。標的に着弾すると、束の間のタイムラグを伴って爆発を起こす、ガンナー固有の攻撃手段だ。
「………」
爆風に煽られ、僕はロロの腕を引きながら数歩退る。安全を確認すると、すぐに右を眇め見た。
見つけた瞬間、僕はぼんやりと思った。ああ、やっぱりだ、と。昨日のあの後ろ姿は人違いじゃなかったと。
雨に叩きつけられる広場の中、見覚えのある体躯。栗色の長髪を一つに結い、真っ白な甲殻に固められたライトボウガンを構えている。
エステルが、そこにいた。