「なんで……こんなことになっちまったんだよ……」
消え入りそうな弱々しい声で、男性は呟いた。
モンスターに喰われまいと必死の思いで太枝にしがみつく手足を、引き剥がさんと木の根元から襲い掛かる衝撃が執拗に揺さぶってくる。殺意を孕んだ唸り声。それらが悪夢のような戦慄となって体中に絡み付いていた。
中央ギルドの難民の一人である男性は、今まさにモンスターに喰われかけていた。大木から分かれた太枝にしがみついて、月の光に薄く照らされた地面を凝視している。そこで、雷狼竜ジンオウガが大木に突進を繰り返していた。
はっ、はっ、と男性はひどく浅い呼吸を繰り返しながら、一層力強く太枝を抱きしめた。自分の体重を支えることでかなり筋肉に疲れが溜まっているが、このまま落ちれば行き先はジンオウガの胃袋の中なのだ。
だが、いつまでもこうしてしがみついていても何も変わらない。分かっていても、男性は延命に全力を注ぐしかなかった。
男性がこんな危険地域に乗り出したそもそものきっかけは、自分へのふがいなさだった。
昼頃に小型モンスターの群れの撃退から戻ってきた、あの少年のハンター。それと彼に撃退を押し付けた――それに文句を言わなかった自分に今さら責める権利など無いが――小柄の銀髪な男。彼らが持ち帰ってきた報告――最初から最後まで銀髪の男の独白だったが――は、あまりに精神的に追い込まれた難民達にさらに追い討ちをかけた。
ジンオウガという、この地域にはいないはずのモンスターがすぐそこにいる。もしかしたら二頭も。その名前は男性も聞いたことがあった。ここから遠い国のある村、ユクモ村付近の渓流に出現し、生態を崩壊させかけたのだという。それだけでも危険なモンスターであることは十分に伝わってくる情報だった。
そんな恐ろしい生物が、もしかすると二頭、この周辺をうろついているというのだ。浮き足立つのも無理はない。
結局、あの少年のハンターは小型モンスター一頭しか狩れなかったらしい。後は押されっぱなしだったと、銀髪の男は苛立ち混じりに告げた。それを聞いた人達の中から、あからさまなため息や舌打ちが何回か聞こえてきた。
だが、民衆に混じってそれを聞いていた男性には、とても責める気になどなれなかった。顔つきで分かる、あのハンターの少年はせいぜい十代半ばの子供だろう。その年齢のハンターでランポスを倒せないことなど別に恥ずかしいことでもなんでもない。むしろ新人として最初に踏むべき階段なのではなかったのか。
一方で、男性は自分を情けなく感じていた。そこまで分かっているのに、今朝、撃退を押し付けた銀髪の男に何も文句を言わなかった自分に。理由は単純、死ぬのが怖かったから。まだ未熟だとしてもあの少年に任せれば、自分は安全かもしれないと思ったから。その保身という感情が、自分をせきとめてしまった。
なにより、押し付けられた時の少年の目。
あれはなんだ。あの年頃なら、まだ年上に対する甘えだとか青さだとか、そういうものを持っていていいはずだ。だが、押し付けに淡々と従ってしまった少年の目には、まるで最初から期待していないような暗さが見えた。理不尽さに憤ることも嘆くこともせず、ただ諦め、受け入れたような。
何も言わないで門を跨ぎ、遠ざかっていく少年の後ろ姿が、男性に自分へのふがいなさを置いていってしまった。
だから、このもやもやを何とかできないかと。例えば、薬草。人間の回復能力を高める植物であり、特にハンターには重宝するものと聞く。謝罪と一緒にそれを渡せば、少しはこの息苦しさも楽になるだろうか。
だが、ハンターでもないただの農夫であった自分がそれを持っているわけが無い。あるとしたら、ギルドの外だ。ジンオウガが歩き回っている危険地域。迷いはしたが、少年の後姿を思い出して、結局行ってみることにした。それに、大型モンスターなら足音が大きいので、近くにいるならすぐに分かるし見つかる前に逃げられるだろうと。
外に出て数刻、その考えが浅はかだったことを、すぐに男性は思い知ったのだった。
大木の根元に群生している薬草を摘み取り、さっさと戻ろうと後ろを向いた。
向いたまま、止まった。
自分が歩いてきた道を、碧色の巨体が塞いでいる。同じく碧色の双眸がこちらを睨み据えている。それがジンオウガだと分かるまで時間はかからなかった。ジンオウガは近づいているのを人間に悟られないよう、足音を殺して歩いていたのだ。
男性が悲鳴をあげたのと、ジンオウガが猛然と駆け出したのは同時だった。
凄まじい足音に急かされ、男性は必死に辺りをぐるりと見回した。もっと確実に時間を稼げる逃げ道はあったのかもしれない。だが男性はそんな判断ができる余裕も無く、背後の大木の表面に広がっている凹凸を見つけると、すぐに手足をかけて登り始めた。
ドン、と大木が大きく揺さぶられ、男性は足を踏み外しそうになった。下を向くと、両の足元を擦過して、ジンオウガの双角が大木に突き刺さっていた。
本能が危機感を訴え、男性は泣き顔で上に上にと登った。太枝を見つけると、それに乗っかるようにしがみつく。同時に、ジンオウガの突進による衝撃が枝を揺らし、手足が枝から引き剥がされそうになった。
ジンオウガが突進を繰り返し、そのたびに男性が懸命に手足に力を込める。
こうして、強者と弱者の、あまりに不平等で痛ましい我慢比べが始まった。
もう、どれくらい経ったのだろう。実際は数刻しか経過していないが、男性にはそれが半日のように感じられた。
大木の根元を向いている視界では、ジンオウガが執拗に突進を繰り返している。なかなか落ちてこない獲物に、時折殺意の咆哮を浴びせながら。
男性は、恐怖感が麻痺してしまったのだろうか。最初は体を震わせていたものの、今となっては虚しさだけが広がるばかりだった。
三十五歳。住んでいた村では普通の農夫。そろそろ結婚を考えようかという時期になって恋人から絶縁され、そのまま淡々と歳をとっていった。そして村はモンスターによって食い尽くされ、自分も今食い尽くされようとしている。
(馬鹿げた人生だな、おい)
男性は浅い呼吸を漏らしながら、自嘲的に薄く笑った。
そう、くだらない人生だ。こちらのことを愛してくれていると思っていた女性はあっさり鞍替えして引っ越していった。何の生きがいも無くだらだらと仕事を続け、気づけばあのような暗鬱としきったギルドに寝泊りしている。
他地域がどうなっているかは分からないが、仮に救助に来るとしても相当あとになるだろう。故郷どころか隣の村も、その隣も隣も数日で壊滅してしまったのだ、大量のモンスターがはびこっているとしか考えられない。そんな阿鼻叫喚としきった地域を、どう処すればいいのか。何よりこの国のハンターなど当てにならないのだ。
いずれ、自分を含めた難民達は、何らかのモンスターに一人残らず食われるだけ。自分の場合、それが一番早かっただけのこと。ならせめて、泣き叫ばずに落ち着いて逝った方が楽だし、ついでに自分へのハクもつく。
(最期の時間くらいは噛みしめるか……)
男性は脱魂した表情でぼんやりとそう考え、手足の緊張をほどいた、その時目を剥いた。
ジンオウガが静かにその場に佇んでいる。先ほどまでこちらの体中を縛っていた殺意が少しも感じられない。
ジンオウガは、ゆっくりと大木から背を向けた。悠然と足音をたてて、大木から、男性から離れていく。
(諦めて、くれた、のか……?)
足音が聞こえなくなってからも、男性は息を詰めて耳をそばだてていた。それでも耳に入るのは、葉と葉が擦れあう音だけだ。
胸の内で、期待が芽吹き始めた。それに吸い寄せられるように、やおら手足を動かし、大木へ体を寄せる。あちこちくぼんだ部分に手足をかけ、恐る恐る、わずかな音すらたてないよう慎重に降り始めた。
地面に足をつけ、ジンオウガが去っていった方向を見つめる。木立の向こうには深い闇夜が広がるばかりで、碧色の体躯は見当たらない。
見逃してくれたと考えていいのだろうか、そう思った途端に目頭が熱くなり、視界の端が滲んだ。結局自分は生きたがっていたんじゃないかと小さく苦笑する。
だが、安心するにはまだ早いと男性はぐっと堪えた。
まだだめだ。ギルドに戻るまで安心してはいけない。全身の感覚を研ぎ澄ませ、奴の足音を傾聴しながら、ここから離れるんだ。
涙を拭き、ギルドの方面を向いて歩き出す、その時だった。
男性が思っていたほど、モンスターは馬鹿ではなかった。
名伏しがたい異様な激痛が、つま先から脳天まで余さず駆け巡った。男性の体が吹き飛ばされ、地面を転がっていき、仰向けのまま止まる。
凄まじい痛みに悲鳴をあげようとするも、声が出ない。いや、体中の筋肉という筋肉が動かない。焦燥感と疑問が男性の中でせめぎあった。
どういうことだ。一体自分の身に何が起きた。これではまるで、高圧電流を喰らって麻痺されたよう……。
そこまで考えた瞬間、枝にしがみついていた時体中に絡み付いていた恐怖感が再び奔流した。
あのハンターの少年は言っていた。ジンオウガは驚異的な身体能力に加えて、放電攻撃まで持っていると。
足音が、聞こえた。ジンオウガが去っていった方向から。ジンオウガが大木から離れた時と同じ、悠然とした足音が。
ジンオウガは待っていたのだ。諦めてその場を離れていったように見せかけて、獲物が木から降りてくるのを。
来るな、来ないでくれと喋ることすらできない男性は、心の中で必死に訴える。
だが、獲物に対する情など、ない。あったとしても、それは瞬く間に生存本能に上塗りされるだけだ。弱者は生存のために強者から逃げる。強者は生存のために弱者を喰らう。
男性という弱者の視界に、ぬうっとジンオウガという強者の威容が現れた。碧眼が、己に手間をかけさせた男性という獲物を睥睨していた。
男性の心臓が警鐘を鳴らす。生存本能がのたうち回る。けれど指一本すら動かない。
ジンオウガが、不気味なほど緩慢と口を開けた。内部で、肉への渇望を抑えきれないかのように舌が蠢いている。
もう、どうすることもできなかった。
ズブリ――と、無情にもジンオウガが牙を男性の腹に突き立てた。男性の腹から肉を引きちぎるように首を振り上げると、緋色の断面から膨大な血が飛び出た。
ジンオウガはほとんど噛まずに飲み込むと、再び断面にズブリと牙を突き立てる。肉を引きちぎり、飲み込む。
ズブリ。
ズブリ。
ズブリ。
男性は動かない視界の中、ずっとその陰惨な行為を捉えていた。今まで自分を為していたものが、肉片となって確実にモンスターの胃袋の中へ収まっていく。痛みの感覚がないことが逆にひどく気味が悪い。
噛み痕が、男性の顔に近づいていく。あばら骨を容易く噛み砕き、肉もろとも飲み込む。
もはや文句のつけようもないほど手遅れだった。首のすぐ根元まで噛みぬかれた時、ようやく麻痺から治り、言葉が発せられるようになっても。
「痛いいやだやめて死にたくない助けて喰うな痛いやめていや――!」
――ゴキリ、と首の辺りから大きな音がなり、男性の意識はぷつりと途切れた。
……なんだろう、あれ。
朝日に照らされた木立の中、僕は妙なものを見つけた。いざジンオウガに見つかった時のために持参の閃光玉を左手に握り締めながら、奴が今どこにいるか偵察――とはいってもまたギルドの近くでモンスターが現れた時のためにすぐ戻ってきてくれと難民達に言われたが――の途中だった。
今僕が遠望している荘厳な大木の根元に、薬草のようなものが横たわっている。根っこから引っこ抜かれていることからして、人間が採取し、持っていたようにしか思えない。
それだけなら、ただ持てきれないからといった理由で薬草を捨てたのだろうくらいしか思いつかない。だが、あの大木に刻まれた大きな傷痕。外樹皮がごっそりと剥がれ落ちて、白い内樹皮がむき出しになっている。
さらには根元の地面。一面が赤黒く変色している。間違いなく生き物の血だ。それも大量の。焦げたような色からして、だいぶ時間が経ったのだろう。その向こう側に、大きな足跡が続いている。
僕は血の染み込んだ地面から視線をはがし、迂回しながらも足跡を追うよう歩き出した。これは人生の中でそうそうないことではないだろうか、確実に大型モンスターに近づいているという不安を感じる余裕は無かった。ここで何が起こったのか、想像しただけで吐き気がこみあげてきそうだ。
なんで、こんなことを。確かにこの状況下、治癒能力を高める薬草を集めたい気持ちは分かるが、リスクと見合わないという次元ではない。
(……人のことは言えないか)
自分の力量を省みずにランポスの群れに挑み、皮肉にもジンオウガに助けられる形で生き残った自分には。
昨日、銀髪の男性は、憎々しげに僕の迎撃の結果を難民達に報告した後、ハンターとしての僕を貶め始めた。
『ランポスには勝てねえ! 双剣が得物なのに鬼人化もできねえ! しかも頭に防具を着けてねえときた!』
一応、頭に防具を着用していないのには理由がある。重さによる機動力の低下、疲労の重なり、それと視界の制限もあるが、何より武器の特性だ。
現在普及している十五種類の武器の中で、双剣は最もリーチが短く、それだけにモンスターを刃圏に捉えるのにより密着しなければならない。さらに両手に剣を持っている以上、防御手段に乏しいのだ。片手剣やランスのように盾など持てず、大剣のように武器そのものを盾に応用することもできない。モンスターの暴力を九分九厘回避で処するしかない。それを武器の特性上、至近距離でだ。
だからこそ、頭に防具を着けてしまうと、モンスターの暴力を回避しきれる自信がない。コンドラートでのラージャンとの戦いの時、何かしら防具をつけていたらどうなっていたか。僕の頭をかすめていった奴の突進と殴打が、その場合防具のどこかに擦過し、その衝撃に軽々と僕は転ばされたはずだ。ラージャンの四肢が異様に発達しているからではなく、モンスターだから。
過去、クラナさんに僕の考えを伝えた後、あの人は額に手を当てて深刻に悩み、ようやく渋々とそれを承諾してくれた。けど、それはつい先日、僕がリオレイアの討伐依頼を果たせたからこそだろう。
銀髪の男性ががなりたてている中、ランポスにほぼ負けていた僕が難民たちにそれを伝えても、納得はしてもらえないと思う。結局僕は黙っていた。
そして今日になり、責任をとっておく姿勢だけでも見せた方がいいと思い、僕は偵察役を買って出た。
足跡を追っていると、大きな崖にでた。ジンオウガはここから飛び降りたと考えていいのだろう。下は余さず木々と葉に覆われており、地面は見えない。
まだまだ安心できないが、現時点では少なくともギルドは見つかっていないと思っていいだろう。僕はきびすを返して歩き出した。
ギルドのとば口に着いたところで、僕ははたと足を止めた。広場の向こうで、大勢の女性の人達が同じ方向に移動していた。向かう先を見ると、中央ギルドのハンター達が利用していただろう宿泊施設がそびえ立っている。
「まあ、しょうがないよな」
すぐそこで座っていた青年が、そう声をかけてきた。
「やっぱり知らない大勢の男達と一緒の所で寝るなんて、気が気じゃないんだってさ。早いもの勝ちで宿泊施設で寝てる男達を追い出して、女性だけで利用するって」
「ケンカには?」
「なったなった。でも女たち、すごい剣幕でな。すぐに終わったよ」
特にやることもなく、僕は女性達の後姿を眺めていた。調査の報告は宿泊施設の中の一人にでも頼もうか、
そう思っていた時。
栗色の長髪が目に入った。見間違えるはずのない、目に入っただけで伝わってくるあのさらさらとした心地よい質感。身長も髪の長さも、コンドラートで会った時の彼女と一致している。
(エス……テル?)
「お、おい。やめとけって」
知らないうちに僕は後ろから青年に肩を掴まれていた。無意識に歩き出していたのだ。
「気持ちは分かるよ。でもまずいことはまずいぞ」
「そうじゃなくて! 知り合いが!」
「別に今すぐ会うこともないだろ? 周りから変に思われるだけだぞ」
はやる気持ちにその後姿を凝視していると、それは建物の中へと入ってしまい、見えなくなった。
(お前……なのか?)
青年が落ち着かせるように、僕の肩をぽんぽんと叩く。僕は、建物の入り口にずっと視線を釘付けていた。
話したかった。凄烈に。ロロはどうなったか、この国に何が起きているのか、彼女は何を考えているのか。
けど、と僕は自制した。
本当にあの後ろ姿が彼女だったとして、どうしろというのだろう。また接触したとして、彼女は僕に攻撃してこないと言えるのだろうか。コンドラートの牢部屋でずっと僕を貫いていた、あの凍てついた視線。そこに情を求める余地など、一隙間ほどもなかったのだ。それよりもジンオウガをどう対処するかの方が優先ではないのか。
青年がどこかへ立ち去ってからも、僕はその場に立ち尽くしていた。