僕は、地面に横たえたロロに目を向けた。仰向けになって両目を閉じているその姿が、ひどく儚く見えた。
どうして、知り合ったばかりの僕に武器を渡すためだけに、こんな危険極まりない場所に飛び込めるのだろう。こいつには何の罪も無い。僕を殺すという目的を隠され、エステルに遣われただけだ。
それなのに、こいつは責任を取りにきた。
「はは……」
笑った、自分を。
一体、僕は何をやっているのだろう。僕を生き延びさせるために、代わりのない武器を小さな体に担いで、この惨状に駆け込んできたロロ。だというのに、なんでこの男は無様に逃げ回って、最後には諦めてここでうずくまっているんだろう?
背後の瓦礫の向こうから、ラージャンの足音が聞こえてきた。見つかるのも時間の問題だろう、地面の微かな振動が、僕の両足から伝わってくる。
けど、不思議と心は平静に満ちていた。
「待っててくれ」
正直、僕の足は気休め程度にしか回復していない。本来のハンターの戦い方のように、モンスターの様子を見ながら隙を探していくという戦法でいけば、すぐにまた倒れこんでしまうだろう。その後僕がどうなるかは言うまでもない。
だったら。
「一分で戻る」
両手から伝わる確かな双剣の重みを感じながら、僕は立ち上がった。
瓦礫の外側へ踊り出て、走ってきた道へと体を向ける。
破壊された建物や死体によって足場の狭くなった地面。その向こうで、ラージャンは僕が隠れていた瓦礫の方へ、様子を窺うように頭を低くしてゆっくりと歩いていた。
瓦礫のすぐ横の僕に気付いたのか、その足がぴたりと止まった。食いしばられた牙が剥き出しになり、眉間に、鼻に、深いしわが刻まれた。息を大きく吸い込み、頭を上空へと向けた。
あたり一帯が揺れるような凄まじい咆哮。同時に、背中から体毛がばさりと逆立ち、畏怖すら感じさせるような眩い黄金色に煌いた。図鑑で読んだ情報の通りだが、それを知らなかったとしても僕の生存本能に伝わってきただろう。あの化け物は激昂している。仕留めるのに手間がかかっている、僕という獲物に。
冷たい恐怖感が、僕の喉にせり上がる。
それを抑え込むように、僕は双剣を目の前に構えた。ここで負けていては話にならない。
モンスター。その他一切の種を暴力で封じ込める、食物連鎖の支配者。
人間もモンスターに振り回されるしかないのなら、それでいいさ。
付き合ってやる。とことんまでな。
咆哮が静かにフェードアウトする。ラージャンは真紅の両眼をこちらに向けた。
戦いが始まる。
ラージャンは憤怒に歪んだ鬼面を向けながら、弩雷の速さで駆け出した。牢部屋で僕を殴り倒した拳と同等、あるいはそれ以上の速度だ。
対して僕は、それを目で追おうともせず、すぐに目線を下に向けた。看守に飛び掛ったラージャンの速さ、僕の横腹に叩き込んだ拳のそれからして、とても見切れるものではないことは分かっている。
だから。
五回目の足音があがった瞬間、僕は体を前に倒し、地面すれすれの低空姿勢で走り出した。後頭部のすぐ上でラージャンの腕が空気を切り裂くのを感じると、左の剣を右に薙ぎ払い、返しの右の剣を左に薙ぎ払った。
肉を切り裂く生々しい感覚が両手に広がる。僕を挟んでいた四足の間を走り抜けると、右足を軸にして体を半回転させ、視界を後ろに戻した。
目に映ったのは、左前足と右後ろ足から血を撒き散らしながら、跳躍の勢いに流されて地面へと突っ込んでいくラージャン。頭が状況を理解していないのだろう、四肢がぴたりと止まっている。
そう、モンスターの疾走が目で追えないものだとしても、足跡はくっきりと残る。それならモンスターが走り出す直前の位置からその足跡までの距離を目視、それを元に自分の体に届くまでの歩数を計算すればいい。後はその歩数より一つ前の位置をモンスターが踏み込んだ瞬間、こちらは回避と反撃に出るだけだ。
ラージャンの後ろ姿が地面に衝突し、土煙があがるのを認めると、僕は地を蹴って走り出した。
しかし、やはり最強のモンスターの一種だ。
ようやく現状を理解したのか、弱者に攻撃を避けられたどころか傷までつけられたことに憤怒の唸り声を上げ、無傷な方の足を地面に突き立てる。少しよろめきながらも素早く立ち上がると、そのまま瞬時にこちらへと旋回し、血管がくっきりと浮かび上がるほど力強く右手を握り締めた。牢部屋での二の舞を僕に喰らわせるつもりだ。
所詮、化け物からすれば人間は人間。己の足に比べてのろのろとした人間のそれで追撃に出てきた僕を見て、致命的な迎撃を容易に見舞わせられると判断したのだろう。
そう捉えた僕は。
ニヤリと笑った。
右腕が振り上げられた瞬間。わざと緩めて走っていた足に、だんっ、と今持っている全ての力を込めて地面を蹴らせ、一気に加速する。ぎくりとラージャンの両目が驚愕に見開かれる。だが、もう遅い。
間に合わなかった巨大な右腕が僕の後頭部をかすめる。僕はそのまま走りこみ、ラージャンのすぐ眼前へと迫ると、すかさず左の剣をラージャンの額に薙いだ。
夥しい鮮血が上空へと放たれ、次いで先程まで殺戮を繰り返していた化け物から短い悲鳴があがる。だが、生気の伝わってくる太い悲鳴をあげられることから、致命傷には至っていない。
そのために右の剣が残っている。
間髪入れず、僕は右の肘を引き、もう一つの剣を構える。その切っ先が向く先は、大きく切れ目を刻まれたラージャンの額、そして、内部。
悲しいな、ラージャン。知恵という人間唯一の武器にまんまと踊らされたお前の負けだ。
切っ先が放たれる。銀の光を真一文字に描き、ラージャンの眉間に深々と突き刺さった。
数秒の静寂。
ラージャンの巨体が、ゆっくりとくずおれていく。ずしん、と地鳴りをたてて、地面へと倒れ伏した。
生死を確かめるべく、僕はラージャンのこめかみから剣を抜き、巨体を見渡した。
微動だにしていない。僕に殺意を剥き出しにしていた真紅の両眼は閉じられ、口がだらしなく半開きとなっている。四肢から、眉間から、噴水のように血が放たれ、巨体の周りで真っ赤な池を形作っていた。
自分のやったことに半ば呆然としながら、一歩、二歩と後ずさりした。不信感を持ってもう一度見渡してみても、光景は変わらない。
僕は……勝ったのか。
「はあっ……!」
全身を縛っていた緊張が途切れ、僕は大きく息を吐き出した。心音が聞こえるほど激しく心臓が脈打ち、足は情けなくかくかくと震えている。
荒い呼吸を繰り返しながら、僕は背中にじっとりと冷や汗が吹き出すのを感じていた。あと少しすれば、衣服はぐしょぐしょになっているだろう。
およそ一年と半年、それなりに大型モンスターと戦ってきたが、いつまで経ってもこの生理現象は収まる気配すら起きない。
いや、今は僕のことは問題じゃない。僕は、ロロを置いてきた瓦礫へと体を向けた。
安心してはいられない。火事はさっきより広がっている。それに、恐らくこの化け物から逃げていただろうギアノスの群れが、死んでいった人達を食べようと戻ってくることもありえる。一秒でも早く、あいつと一緒にここから脱出しなければ。
僕は、震えている足に喝を入れて、瓦礫へと走り出した。
靴底の草を踏み締める音が、僕の耳を叩く。
月明かりに薄く照らされ、かろうじて足場が確認できる暗い林の中を、僕は左腕にロロを抱えながら走っていた。
そろそろいいだろうか……? 足を止め、酸素を渇望している肺を無理やり抑え込みながら、耳を澄ましてみる。
もうだいぶ街から離れたのだろう。しつこく追いすがってきた火事の音も、今では全く聞こえない。それに、この見晴らしの悪い場所にいれば、ギアノスの目にもつきにくいはずだ。
そう思った瞬間、僕は一気に息を吐き、崩れるようにうつぶせに倒れこんだ。顔だけを横に向け、荒い呼吸を繰り返す。
どうにか生き延びることはできたが、ロロの無事が確かになったわけじゃない。すぐにでも医者を探さなければ。
けれど、どうすればいい。この足でどこまで行ける? それに何より、この辺りには詳しくないというのに。月と太陽をコンパス代わりにギルドへ戻ることはできる。だが、そんな数日かかる作業をしている間に手遅れになってしまったら、笑い話にもならない。
ふと、どこかから足音が聞こえ、僕は反射的にがばりと首を上げ、腰にさげている鞘に手を回した。
しかし、足音の主は、僕より頭一つ分小さい人間だった。長髪をふわりとたなびかせながら、僕の傍らで倒れているロロへと歩いてくる。
その顔が月明かりに照らされる。誰もが目を引くような端整な顔つき。エステルだった。
瞬間、僕の中で様々な色の感情がないまぜになり、言葉が詰まる。
その僕には目もくれず、エステルはロロを胸に抱え込むと、その体中をゆっくりと見渡した。多分、どこをやられたのか確かめているのだろう。
この人が何を考えているのかは分からない。ロロを駒のようにさえ思っているのかもしれない。けど、だからといってろくに歩けずこの辺りにも詳しくない僕がロロを任せられるのは、あまりに傷んだ綱を渡るようなものだ。
この人がロロには何の害も与えないよう祈りながら、僕は言った。
「その子、大型モンスターから一発喰らったんだ。多分、まずいことになってる。なんとかできないか」
だが、彼女は何も言わず、ロロを抱いたまま僕に背を向けて、歩き出した。
僕が声を上げようとしたところで、すぐその足が止まる。
「その大型モンスターの名前は?」
「いい。それよりその子を」
「なんとかしてほしいんなら早く答えて。モンスターの危険度によっては私もむやみに動けないから」
事実を言っても、彼女は信じないだろう。ラージャンという存在があまりに非現実的だからだけじゃない。彼女は、過去の僕を知っている。
「ドドブランゴだよ。運よく瓦礫に埋もれて死んでくれた。それだけさ」
「そう」
短い返事をすると、再び歩き出した。
「これから、君はどうするの?」
「さあ」
「ギルドに戻るつもりなら、やめておいた方がいいわよ」
「………、どうして」
「もうあそこは君の帰る場所じゃない。信じるか信じないかは君の自由だけどね」
「じゃあ、自由にさせてもらう」
彼女が言いたいことはもうないのだろう、背を向けたまま、真っ暗な木々の中へ歩き続ける。その後姿を見つめながら、僕は自分に言い聞かせていた。期待なんかするな、と。
地面を踏みしめる彼女の足音が、無慈悲に遠ざかっていく。こんな人目のつかないところで倒れて、今すぐにでも助けが必要な僕を取り残して。
とうとう聞こえなくなると、僕は再び自分に言い聞かせた。よかったな、と。
期待しなくてよかったな、と……。