呆気にとられている僕という獲物を仕留めるために、ずんっ……とラージャンは重い足音をたてて鉄格子に歩み寄る。看守の血に赤々と染められたその手が、鉄格子の一本を握る。すると、まるで道の真ん中に転がっている石ころをどかすような軽い動作で、分厚い手を真横に引いた。
すんなりと、本当にすんなりと、鉄製の棒は弓なりに曲がった。隣に立つ鉄の棒も、次のそれも、巻き込まれて容易く曲がっていく。
僕は、現実と非現実の区別でもつかなくなってきたのか。いや、その方がきっといい。
この一夜にして大勢の人達の体を容赦なく破壊してきたその豪腕は、難なく幾本もの鉄棒を押し曲げ、その巨体が入れるだけの空間を作ってしまったのだ。
呼吸すらできずに凍り付いている僕に構わず、のそり、のそりとラージャンはその空間をくぐり、牢部屋へと足を踏み入れる。
無意識に後ずさっていたのか、どん――という背中が壁にぶつかる衝撃に、僕の意識は覚醒した。
何してる、目の前の光景に囚われている場合じゃない! 逃げることだけを考えろ!
ゆっくりとこちらに歩み寄るラージャンと向き合ったまま、今すぐ感情に流されて走り出したい衝動を懸命に抑え、僕は小さく息を吸い、吐いた。
逃げ道はある。なら、あとは逃げ出すタイミングだ。僕はそれだけを考え、浅い呼吸を繰り返しながら、ひたすらラージャンに視線を釘付けた。
とうとう、僕の視界を埋め尽くすほどに、ラージャンが肉薄する。
瞬間。
ラージャンが大勢の人達の返り血を浴びたその拳を振り上げる。だが、当然その攻撃を僕は警戒していた。
即座に右足に力を込め、左に飛び――
(え?)
拳が、消えた。いや、違う。目で追えないほどに、その拳は速かったのだ。
気づいた時にはもう、手遅れだった。
逃げ切れなかった僕の右わき腹に、血塗られた拳が突きこまれる。
貫かれるような衝撃に体が後方に吹っ飛び、背中が壁に激突した。足がくの字に折れ、力無く尻餅をつく。立ち上がろうとしても、足がぴくりとも動かない。力の入れ方すら忘れてしまったように。
どうなってるんだ……。直撃なんかじゃない、握られた拳の薬指と小指の部分しか当たらなかったのに……。
僕は腹を腕で押さえながら、力無くラージャンを見上げた。すると化け物は、一片の情けもかけず、再び大岩のような拳をゆっくりと振り上げていた。その向く先は、僕の頭。ドスギアノスでさえその拳に頭蓋を粉々にされたのだ、人間の僕は一体どんな形に歪められる?
赤黒い憤りが、胸の中で渦巻いた。
終わるのか。突然モンスターに出くわしたと思ったら、突然この人生を終わらせられないといけないのか。僕を殺したこのモンスターは何の感慨も無く、次の破壊のためにこの場から立ち去っていくのか。弱者は弱者らしく、有無も言えずに過去も未来も奪われるしか無いっていうのか。エステル。これが本当にお前の望んだことなのか!!
ぎりぎりと凄絶に握り締められた拳は、勢いをつけるようにさらに上に振りかぶられ、
「目を閉じるニャ!」
突如あがった、ここ数日で聞き慣れた声。続くように、安全ピンを外したような独特の音。
僕の頭が状況を飲み込むより先に、体が勝手に動いていた。
腕で両目を覆い隠す。すると、まばゆい光が、腕越しにまぶたの裏を白く照らした。同時に、ラージャンの動揺を孕んだ悲鳴が耳に突き刺さる。
閃光玉。モンスターの視界を奪い、撹乱させる道具だ。
攻守両面において重宝するが、逆効果になることもある。確かに、攻撃性の弱いモンスターはその場で混乱するだけだ。人間の格好の的にしかならない。
だが、凶暴なモンスターに使えば――
「ロロ!」
思い出した瞬間、僕は即座に顔から腕をはがし、ラージャンの股の向こう側に首を上げた。
ぐにゃぐにゃに折り曲げられた鉄格子の根本。そこにはやはり、閃光玉が入っていただろう布地の袋を肩にかけたロロが立っていた。
――その激しい気性に波風を立て、手当たり次第に暴力を振るわせてしまう!
「そこから離れろ! 早く!」
そう言うや否や、ラージャンは目を閉じたまま唸り、アイルーの声がした方向に漆黒の肉体を向けた。
対するロロは、自分の投げた閃光玉に目をくらまし、覚束ない足取りでこちらへと向かっていた。
僕には目を閉じろと言っおいて、自分の視界は守っていなかった。僕の保身ばかり考えて、自分のことなどろくに考えていなかったのだ。このままではあいつも看守と同じ末路を辿ってしまう。助けなければ。
その時、僕は事実から目を背けていたのだろう。普通に考えて、間に合うわけがないという事実から。
頭の中が真っ白に染まったのは、僕が壁につっかえながら立ち上がってすぐだった。
こちらに背を向けたラージャンが、右腕を頭上に振りかざし、そのまま眼前へと振り下ろす。拳の軌道は、ラージャンの体に隠れて見えない。
ただ、視認できたものは。
拳が放たれ、僕の足がぐらつくほど揺れた床と。
空中に吹き飛ばされた、ロロの小さな体だけだった。
「ロっ……」
全てがスローに見えた。ラージャンに殴られた床から舞い上がる破片の数々も。覚束ない足取りでぐらぐらと揺れる僕の視界も。その視界の真ん中に映っている、空中を舞うロロの体も。
横腹の激痛を忘れ、僕は走り出していた。
ラージャンの横を走り抜けると、真紅の両眼がこちらを向いた。僕は構わずに、ロロの落下地点へ飛び込み、床に落ちるすんでのところで小さな体を胸に抱え込んだ。腕から、心臓の鼓動が伝わってくる。まだ生きている。
背後で、巨大な足が地を蹴る音が聞こえた。
恐怖感が膨れ上がり、僕の芯を鋭く貫いた。ロロを抱えたまま左に横転する。僕が倒れ込んでいたすぐ右の床に、黒い拳が叩き込まれる。鋭い轟音が、僕の鼓膜に貫かんばかりに突き刺さった。
隆々とした筋肉に覆われた腕のすぐ向こうで、ラージャンがこちらを向いた。仕留められなかったことがさらに怒気を煽ったのだろう、その表情に憤怒のしわが刻まれた。
第二の攻撃が来てしまう。僕はぐるりと辺りを見回した。するとすぐ横、ラージャンにこじ開けられた壁の穴が目に入った。
それを見つけた刹那、僕は迅速に片足をついて上体を起こす。するとその足元に、石壁の破片が散らばっているのが見えた。
空いている右手でそれをわしづかみにし、立ち上がる。ラージャンへと体を向け、右手を振りかぶった。
石壁の破片が、ラージャンの顔中に叩き込まれる。ラージャンは鬱陶しいように唸り、大きな手で顔を覆った。
絶命への恐怖に、微かな希望が灯る。
瞬時に、僕は穴へと駆け出した。
その足は、外への敷地を跨いだところで止まった。
凄惨な光景だった。
青白い月光のもと、立ち並んでいたはずの家々は無惨に破壊され、その根本からは血が小川のように流れている。家の中の暖炉や囲炉裏から燃え移ったのだろうか、あちこちから火の手があがっていた。あちこちに横たわっている瓦礫の根元から見え隠れしているのは、真っ赤に染まった、人間のものとしか思えない手、足、頭。
吐き気が込み上げてくる。僕の職業柄、いつかは人間の死体を見ることは覚悟していた。けど、こんな大勢の死だなんて、どうやって覚悟できるんだ。
胸に抱いているロロの苦しげな呼吸が、僕を正気に戻した。とにかく今は、あの化け物の視界から隠れなければならない。それに、一刻も早くこの街から脱出しなければ、やがて僕達は火の海に囲まれるだろう。火の手の少ない方向へ体を向け、走り出した。
一体、どこまで走ればこの街を抜け出せるのか。走っても走っても、目に入るのは無残に破壊された建物の瓦礫ばかり。気づけば、冷たい恐怖感に体が緊張しきっているのか、僕は喉が痛くなるほど息を切らしていた。だが、止まってはいけない。こんな状況で、残りの体力と相談できる時間なんて許されない。
(………、体力?)
そう思った瞬間、ずしんっ、と大岩がのしかかったように、僕の足に重たい疲労感が襲い掛かった。踏ん張ろうとしても体が前のめりに倒れ、地面が僕の視界に迫る。ロロをかばうように、咄嗟に上体を捻って肩から地面に倒れこんだ。
どうしてここで思い出すんだ、この馬鹿は。ロロがラージャンに突き飛ばされた瞬間、頭が真っ白になって忘れていたが、僕も奴から一撃を見舞われてしまったのだ。直撃ではなかったにしろあの豪腕が腹に叩き込まれれば、立つことすら考えられない。それを体が忘れていたから、ここまで走れたのだろう。けど、一度思い出したら結局は……。
すぐ横にそびえている、人間なら隠れられそうな大きな瓦礫の裏側に、僕は無様に地を這って隠れこんだ。
ロロをそっと地面に置くと、僕も地面に横向いたまま、辺りに耳をそばだてた。一縷の幸運だけにでも恵まれたのか、ラージャンの足音は聞こえてこない。
途切れ途切れの息の中、僕は静かにロロに声をかけた。
「もしかして……分かってたからか?」
呻きたくなるような、深い罪悪感を抱えて。
「オレが冷たい態度をとってきたのは、自分に逃げようと思わせるためって分かってたから……だからお前、結局逃げないで……オレのせいで……」
しかし、返事が返ってこない。ただ、呼吸に腹が膨らんではへこみを繰り返しているだけだった。
ひやりとした不安が、僕の背筋を撫でていった。
「ロロっ?」
片手をロロの腹に回し、仰向けにする。
いつも僕が見ていた大きな両目は閉じられていた。気絶してしまったのか、いや、それで済んでいるのか。奴の一撃を受けたのだ。体の中がどこかいかれているんじゃないのか。
体は豊かな体毛に覆われていて、どこをやられたのか見当がつかない。
いずれにせよ、一握りの安心感は消え失せていた。ロロを胸に抱えた時、わずかに広がった安心感は。
結局、一人だ……。
その時、僕が絶望感に浸る時間すら奪うように、背後の瓦礫の向こうから足音が聞こえた。牢部屋で、嫌でも記憶に刻み込まれた、胃の底に響く足音。僕達に近づいていることを示すように、足音があがるたびに徐々に耳に大きく響いていく。あの化け物は嗅覚さえ鋭いというのか。
僕はロロの体に手を預けたままがばりと首を上げ、逃げ道を探した。
その時、微かな希望が胸に灯った。
少し向こうに、僕達が今朝通った石門が横たわっている。それなら一目散にその方向に走って、街の外に出て……。
出て……。
………。
(出て……どうするんだよ……?)
少し考えれば分かることだった。町の外、つまり見晴らしのいい草原の中で、どうやって逃げ延びろっていうんだ。隠れ場所もなく、ただラージャンに一直線に追いつかれ、今度こそ肉塊にされるだけだ。
気が狂いそうだ。もう僕には、ここでじっとして、殺されるまでの時間を延ばすしかないんだ。
いや、すでに狂い始めているのかもしれない。
僕は地面に横顔を預け、言った。
「面白いよな、ロロ」
こんな状況だというのに、ひどく気楽な口調で。
「結局、命なんてこんなものなんだ。ちょっと前まで普通に話をしたり、食事をとったり、なんの変哲もない日常を過ごしてたのに、そこに通りかかったモンスターがいれば、一瞬で全部めちゃくちゃにされるんだ」
軽く笑いながら、ロロに顔を向ける。
「今からオレ達もそうなるんだぞ? 面白いよな、本当。お前だってまだ生きてるのに」
心のどこかで、こんな最期を迎えるくらいなら現実逃避をした方がマシだと思っているから、僕はこんなあっけらかんとした態度をとっているのかもしれない。けど、それも無駄なことだった。手のひらに伝わる、とくん、とくん、というロロの心臓の脈が、どうしても僕を現実に引き戻してしまう。
「……生きてる……のに……」
馬鹿だよ、ロロ……。さっさとオレを見捨てればよかったんだ……。お前に延ばしてもらった命を、オレは何に使えばいいんだ……。
その時、気づいた。
ロロの肩にかけられている布地の袋。まだ中に何か入っているのか、不自然な形のままだ。
手を伸ばし、持ち上げてみると、伝わってきたのは馴染みのある重み。僕が狩場で何度も手にした、あの重み。
意識が瞬時に切り替わった。
手早く袋の口に手をかけ、こじ開ける。そこには、剣を収めた鞘が二対、身を潜めていた。鞘を取り出し、袋を無造作に捨てた。うち一振りの剣の柄を握り、ゆっくりと鞘から引っ張った。
刀身が姿を現す。月光をその身に受けて、青白い光沢を放った。それなりの戦歴を示すように、細長い傷がそこここに刻まれている。
もう一方の鞘からも取り出すと、同じように傷だらけの剣が現れた。
両の手で、両の剣の柄を握り、目線の高さに上げる。モンスターと対峙する度に見てきた景色が、僕の芯をじんと熱くさせた。
僕が狩場で何度も生死を共にしてきた、双剣だった。