思い出と影
最初の出会いはほほえましいというより、むしろ滑稽だった。
たった一人で雪地にぽつんと腰を落ち着け、ところどころ刃先のこぼれたナイフの手入れをしていた。
暗い、という言葉が合うだろうか。
僕のすぐ横には、刃こぼれしたナイフが小山のように積み重なっている。村人達が僕にその手入れを押し付けたことを示すように。
村人の中には僕と同い年の人も何人かいるけれど、一人だって手伝ってくれる人はいない。こういう状況には慣れっこで、気にしなければ大したことはないと思う。けど、どこからか同い年の人同士で談笑している声が聞こえてくると、どうしても自分の立ち位置を実感して、締め付けられるような息苦しさを覚えてしまう。
僕一人で誰の目にもつかない所に歩いて、そこでぼーっとしていた方が、まだマシな気さえする。かといってなまければ、村人達にどやされるのだろうけど。
小さなため息をつくと、白いもやになって、曇り空へ消えていった。
突然。
声が、した。
「ねえ、ちょっといい?」
話しかけられている相手が羨ましくなるような、澄んだ可愛らしい声が。
「おーい? 君に言ってるんだよ?」
誰なのだろう、その呼びかけの向かう先にいるのは。僕は首を動かして、辺りを窺った。
誰もいない。寒々とした雪景色が、どこまでも広がっているだけ。つまり、僕一人だけだった。
(……え?)
もしかして『君』とは、僕のことなのだろうか。何がなんだか分からないまま、手をとめ、声の方へと目線を上げる。
目が合ったのは、一人の女の子。僕と同年代なのか、あどけなさが見てとれる。見覚えのない顔だった。少なくとも村人の一人ではない。
もう一度、女の子は口を開いた。
「そう、君のこと」
「………」
けれど、女の子どころか男の子にもそんな風に話しかけられることがなかった僕は、何がなんだか分かっていなかった。
聞き返す。
「え?」
つられて彼女も。
「ん?」
きょとんとする二人。
「ええ?」
「んん?」
「………」
「………」
「………」
「………」
それが、最初。まったく、どうにも噛み合わない二人だった。けれど、あの出会いがなかったら、今でも僕は死人のような人生をおくっていたに違いない。
だというのに。
あんな結末にさえならなければ、身を引き裂くような辛い過去として思い出さずに済んだというのに。
瞼の裏を眩く照らされ、僕は薄く目を開けた。すると、僕のすぐ横の換気口からさんさんと降り注ぐ朝の陽光が目に入る。
気だるさを引きずりながら、分厚い布団を押しのけて体を起こす。古ぼけた板張りで作られた殺風景な自室が目に入る。その楽しくもない景色を、僕はぼうっと眺めていた。
ひどく嫌な目覚めだ。また夢で過去を遡ってしまった。あの女の子との、忘れてはいけない、思い出したくない過去を。これで何回目になるのだろう、少なくとも一回一回を思い出して数え切ることなどできそうにない。
弱々しい溜息をついて、ベッドから立ち上がった。とにかく今日は休日ではないのだから、ハンターズギルド――モンスターを狩ることを生業としたハンターという人達が集まる拠点であり、僕はそこに所属している一人だ――に顔を出さなければ。僕は着替えを済ませるよう、部屋の隅に宛がわれたタンスに歩きだした。
「おーい、ジョウイ」
ハンターが依頼を探す場所、酒場に入った途端、自分の名前が呼ばれた。振り向くと、赤みがかったピンク色の短髪の女性、僕の上司クラナさんがこちらに向かって手をあげて歩いていた。本来、ギルドマスターというこういう職場の長を務める者は結構年をとっており、竜人族(人間と見た目は似ているが、尖った耳と容姿端麗な人が多いのが特徴な種族)であるのが普通だ。けど、この人はその原則から外れて人間であり、それもまだ二十五歳というかなり若い年齢でギルドマスターに就任している。先代のギルドマスターであったこの人の父親はモンスターの襲撃を食い止め切れずに命を奪われてしまい、後を継ぐしかなかったらしい。
このギルドのハンターの中にはより年上なのも大勢いるが、それでもうまくまとめられているのがすごいところだろう。
クラナさんは僕の目の前で立ち止まり、僕が会釈を返すか返さないかのうちに言った。
「挨拶はいいからさ、ちょっと面談室に行こう」
「面談室?」
「ついさっきあんたに頼みたいことがあるってのが来たんだよ。その部屋で待ってる」
「オレに……」
「どうも言葉を濁してる感じで怪しかったからね、あたしも同室するよ。行こう」
クラナさんが歩きだし、僕もその背中を追う。酒場を出て、広場を横切りながら、僕は疑問を感じていた。
どういうことだろう。ハンターとして全く名の知れていない僕に頼むことなどあるのだろうか。それとも、以前僕と関わりのあった人が何か言いに来たのだろうか。だとしたら、それは誰だろう。
以前僕が住んでいた村の住民はありえない。二年前、途轍もなく危険なモンスターに襲われてみんな死んでしまった。他に思いつくとしたら。
ふと、夢に出てきたあの女の子の顔が脳裏に浮かぶ。勝手にこちらを信じ切った目、笑顔。だが、僕は即座にその記憶を心の奥に押し込んだ。
(ありえない)
もし僕を呼んだのがあの人だったとしたら、それは――
「着いたよ」
クラナさんの声に、僕の意識がはっと目の前に引き戻された。薄暗い廊下の中、眼前には木製の面談室のドアがそびえている。
僕は心に残っていた一抹のもやもやを振り払い、ドアをコンコンとノックした。
中から「はい」とくぐもった声が聞こえ、僕はドアノブに手を回し、開けた。
やはり待っていた人は彼女ではなかった――いや、というか、なんなのだろう。テーブルの向こうから覗ける上半身が白い体毛に覆われており、幼児に見えるくらい小さな体つきだ。頭の左右から、耳のような尖ったものが天井を向いている。まるで小動物のようだった。
「……なんだ、これ」
「し、失礼ニャ! ボクにはロロっていう立派な名前があるニャ!」
「あ、ああ。悪い」
喋れるのか……。
助けを求めるように、後ろの壁に背をもたれかけていたクラナさんを振り返る。すると彼女は、こちらに非難を帯びた視線を向けていた。
「あんた……生い立ちが生い立ちなのは分かるけど常識は勉強しな。その子、アイルーっていう動物だよ。人語は話せるし人間の色々な仕事で協力してくれてる」
「……アイルー、ですね」
僕はクラナさんに小さく頭を下げ、椅子に座った。向かい合うロロと名乗ったアイルーは、こちらに向かって険しい表情――といっても全く迫力がないが――をぶつけ、腕を組んでいる。
「はじめまして。オレがジョウイっていう者だけど、用件は」
言うと、なぜかロロは僕の体をぐるりと見回した。
「深い青色の髪ニャ。派手過ぎず地味過ぎない奥ゆかしさをそこはかとなく感じるニャ」
「……いや、それより用件は」
「でもニャー。服装が貧しさプンプン漂わせてるというかニャー。ミスマッチ感が否めないニャー」
「…………年齢的にあまりいい給料はもらえないんだ、オレ。用件は」
「彼女できたことあるかニャ?」
「悪かったよ! だからさっさと言ってくれ!」
そう声をあげると、ロロはすっきりしたのか、しょうがないニャと言って腕をほどいた。
僕は聞かれないように小さくため息をつくと、ロロが切り出す。
「じゃあ改めまして。ロロって言いますニャ。コンドラートっていう街の町長からこちらに遣わされたニャ。用件の前に、こっちの状況から説明するんだけどニャ」
「ああ」
「コンドラートって街には元々ハンターがいないニャ。というのも辺りでモンスターが見つかったことが一回もないからニャ。ただ、三日前によく分からないことが起きたニャ」
「分からない?」
「はいニャ。現れたことは現れたけどニャ。目撃者によれば、すぐ目の前をギアノスの群れが通りかかったのに、こちらには目もくれずそのまま走り去っていったって……」
不意に、わずかな緊張感が僕の中をよぎった。ギアノスは危険度でいえば一番下に分けられる肉食モンスターだが、それでも群れとなると一般人が敵う相手じゃない。だというのに、すぐそこに獲物がいるのに襲わずに去っていった理由は。
「……危険なモンスターがその街の近くにいたってことかもな。ギアノスはそいつから逃げるのに必死で、当然目撃者を襲う余裕も無かった」
「かもしれないニャ」
「その調査をオレに頼みたいのか?」
「よくお分かりでニャ」
頷くロロ。対して、僕は心の中で小さく苦笑いしていた。
調査なら腕の立つハンターではなく、僕のような無名にやらせた方が低賃金で済む。それにもしもの時があっても、ベテランハンターでなければ大して損じゃないだろう。ある意味ではうってつけだ。僕を指名したのもそれが理由だろう。
かといって、こちらの生活がかかっていることに変わりはなく、危険なモンスターがいるとしても戦う必要もない。無様だろうがなんだろうが、モンスターの目をくらます閃光玉などを駆使して逃げに出ればいい。それならあとは報酬だが、よくある採取の依頼と大して変わらない額なら充分だ。
僕はそれを聞こうと口を開き、噤んだ。
「悪いけど、他の奴に頼んでくれないか」
背後から、クラナさんの声。目を丸くするロロ。
「ど、どうしてニャ」
「こういう黒子役の仕事をやらせるなら無名の新人がいいって思ったからこいつを指名したんだろ? 分かるよ、あたしだってこの手の依頼は新人にやらせる。けど、こいつは貴重な戦力なんだよ」
僕はクラナさんの方を向き、謙遜ではなく純粋に否定しようと口を開きかけたが、クラナさんは手で制した。
「だからこいつはやめてくれ。うちのギルドも人手不足だが新人ならそれなりにいるよ。ジョウイ、あんたは戻りな」
逡巡したが、確かに調査できるなら僕じゃなくてもいい。ロロに「ごめん」と言って立ち上がり、ドアに向かって歩き出すと、しかし後ろから慌てた声。
「……待ってほしいニャ!」
振り向くと、テーブルに両手をついてこちらに身を乗り出しているロロ。その不可解な必死さに、僕は疑問を覚えた。
「オレよりも少ない報酬で動いてくれる人だって少しはいるよ。そんなこだわることなんてない」
ロロが目を落とし、黙り込む。何か裏でもあるのだろうか。
「おい、ロロ?」
一瞬こちらを見上げたが、すぐに視線を落とした。僕の中で、疑問が次第に大きくなる。
「ちょっと質問」
一歩、クラナさんが前に出た。
「な、なんですかニャ?」
「もしそうならこちらとしてもジョウイの出発を考える必要が出てくるんだけど、そんなにこいつにこだわる理由って、あんたをここによこした町長さんがこいつの狩猟記録を知ってたからか? 新人にしても場慣れしてるハンターの方が確実に依頼をこなせると思ったから?」
控え目に頷くロロ。
「なるほどな……」
言いながら、クラナさんがこちらへ目をやる。その無言の示唆に応えるように、僕は言った。
「こっちは合意でオレの成績を全部消してもらってる」
ロロが固まる。クラナさんがロロの方を向き、こちらにひらひらと後ろ手を振った。
「少し話をするよ。もう戻ってくれ」
僕は踵を返し、ドアを開ける。薄暗い廊下へ出ると、後ろ手にドアを閉める。歩きだそうと足を踏み込んだところで、背後からかろうじて聞こえるくぐもった声。
『……ごめんなさいニャ。白状しますニャ』
ぴたりと足が止まった。褒められたことじゃないんだろうなとは思いながらも好奇心に負け、ドアのすぐ横の壁に寄りかかる。
『やけにあっさりだな。言ってみな』
『ギアノスの群れが現れたのは本当ニャ、ボクが見かけたニャ。調査してくれる人が欲しいのも本当ニャ。ただ、新人なら誰でもいいってわけじゃ決してないニャ。ギルドマスターさんの言った通り、最初からジョウイさんを知ってて、呼ぶつもりだったニャ』
『そこは疑いたくても疑えないな。それで、あんたと町長があいつに来てほしがっているわけは?』
『いや、町長さんは無関係ニャ。というか何も伝えてないし、会ったこともないニャ。知られたらすぐにジョウイさん以外のハンターを呼ぶだろうから困るのニャ。本当にジョウイさんを待ってるのは、彼と知り合いの人ニャ』
そして。
『エステルさんっていう女の子ニャ』
思考が凍りついた。全身の感覚が失われた。
エステル。それは今朝の夢に出てきた、僕を死人のような人生から救ってくれた女の子の名前だった。
僕はぐるりとドアへ体を向け、ノブを壊してしまうような勢いで押しあけた。テーブルの向こうでロロが目を丸くしてこちらを凝視し、向いに座っているクラナさんは最初から僕が聞き耳を立てていたのを分かっていたのか、こちらを振り向くことなくロロと向かい合ったままだった。
僕は震えた声で言った。
「……外見は」
「え?」
テーブルに向かって早足で歩き出す。叩くように両手をテーブルに置いて、ロロへと身を乗り出した。びくりと肩を震わすロロに捲くし立てる。
「外見は。どんな瞳の色だった。髪の色は」
「す、すごく美人ニャ。栗色の瞳に長髪ニャ」
「出身地は」
「捨て子って言ってたニャ。だからどこかは分からないニャ」
「他に知ってることは!!」
「十六歳……キミと同い年って言ってたニャ」
「………」
ゆっくりと、テーブルから身を引く。ロロの述べた特徴は、記憶の中の彼女と酷似している。他人の空似で片付けられるものではない。けど、本当に本人だとしたら、どうしてそこにいる?
クラナさんが椅子から立ち上がり、こちらを向いた。
「違わないか? あんたの知ってる子と」
「今聞いたことは……ですけど。ロロ、その人とお前の関係って?」
「いや、雇われてるだけニャ」
「なんで、雇い主が自分の名前を隠そうとしたんだ?」
「……信じてくれないだろうからって言ってたニャ。話がうまくいかなそうになったら自分の名前を出してくれって」
クラナさんが言った。
「行くのは勧めない」
僕の肩に、ぽんと手が置かれる。
「信じてくれないって分かってるんなら直接会いにくればいい。手が空いてなかったからなんて言ってられる場合じゃない。確かに背景はしっかりしているし本当にあんたの会いたがっている子かもしれないが、裏があるのも明らかだ」
言葉にできない迷いが、僕の中で渦巻く。
クラナさんの言い分がもっともなのは分かっているつもりだ。この小さな遣いをここによこしてきた者は、僕から姿を隠しながら、僕を呼び込もうとしている。それを分かってて自分から飛び込み、とりかえしのつかないことになってしまえば、愚か以外どの言葉も思いつかない。
それなのに、どうして僕はこんなに迷っている?
ふと、何かの導きなのだろうか、過去の記憶が次々と頭の中を流れていく。彼女、エステルとの目を覆いたくなるようなぎくしゃくした会話。けど、それがお互いにとって当たり前になっていき、次第に楽しさを感じるようになってきた過程。そして――連れ去られるように遠ざかっていく彼女の背中。
(……ああ、そうか)
何回ともしれないほど夢で彼女の顔を見てきた時点ではっきりしていたんだ。どんな結末になろうと自分から動かない限り、僕はいつまでも過去を引きずったままだ。
僕はクラナさんを振り向く。彼女の視線を正面から受け止め、言った。
ギルドの敷地から少し歩いたところで、背の丈ほどもある荷物袋を背負った僕は、よろけないようにゆっくりと足を止めた。ついで、すぐ後ろをついてきていたロロが、僕の横で足を止める。見渡す限りの草原の中、目の前に鞍をつけた草食竜アプトノスが数頭佇んでいる。その傍らでアプトノスに背を預けて座り込み、うたたねをしていた小太りの中年らしき男性に、すいませんと声をかけた。
男性が目を開け、こちらを視認すると、慌ただしく立ち上がる。
「はい、はい、竜車(アプトノスに繋いだ四輪車に人を乗せ、目的地まで人を運ぶ交通機関)だよ。行き先は?」
「コンドラートまで」
僕がそう返すと、男性は目を丸くした。
「結構遠いよ? 早くても二日だ」
「大丈夫です」
「分かった……」
男性が腕を四輪車に向け、僕達に乗るよう促す。僕とロロはその塀を跨いで、腰を落ち着けた。
ロロがこちらを振り向く。
「あの……ごめんニャ。騙そうとして」
「……うん、信用はまだ無理だな」
「うっ……」
「けど、それは向こうについてから決める」
男性がアプトノスにまたがると、鞭を振り上げ、草食竜の首筋にぱしんと打った。アプトノスがゆっくりと立ち上がる。
「とりあえず、それまでよろしく」
言うと、ロロは控えめに顔を緩めた。
アプトノスが歩きだす。目的地、コンドラートに向かって。