外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
八回表、恋々高校の攻撃は七番の小豪月から始まる。
下位打線とは言え小豪月の身長は180センチを超えており、尚かつその肉体は分厚い筋肉に覆われている為、160センチ程度の小柄な体格である星菜からはさながら巨人のように見えた。
しかしベンチから彼の波輪との対戦を見てきた星菜は、既にそのウィークポイントを見抜いていた。
(このバッターは強いスイングが出来るけど、二打席とも変化球への対応が悪かった。それなら……)
ワインドアップからモーションに入ると、星菜は独特な投球フォームから第一球目を投じる。
高さは低めに、コースはストライクゾーンの外際を擦過するように、ストレートと同じ腕の振りからスローカーブを投じた。
「くわっ!」
小豪月はそのボールに対しバットを強振するが、ボールは何事も無く捕手六道のミットへと収まった。
(スイングスピードだけは小波先輩にも劣ってないけど、技術が追いついていない。そんなタイミングの取り方じゃ、この球は打てない)
そして二球目も同じコースにスローカーブを続け、同じように空振りを奪う。
打席の小豪月は何故当たらないのかわからない様子で苛立ちを隠すことが出来ず、忙しない動作でバットを構えていた。
(貴方みたいなバッターは、正直大好物だよ)
今の彼には、もはやストライクは要らないだろう。ボール球を要求してきた六道のリードに頷くと、星菜は今度はワンテンポ間を空けて三球目を投じた。
インサイドから低めに外れる高速縦スライダー――小豪月はそのボールを見極めることが出来ず、あえなく三球三振を喫した。
「オッケイゥー!」
「ナイスピー! ナイスピー!」
「ピッチャーいいよいいよ!」
周囲の内野陣の口から、星菜のこの試合初の奪三振を労う声が聴こえてくる。
星菜は極力マウンド上では表情を変えたくないと思っているのだが、その時だけは思わず口元が緩くなってしまった。しかし余韻に浸るのは二秒間に留め、星菜は気を引き締めて次の打者へと向き合った。
八番はセンター守備で好守を見せた村雨。しかし前二打席では波輪を相手に軽く捻られており、その内容はお世辞にも良いとは言えなかった。
その情報から星菜は、真ん中にさえ投げなければ己の球威でも十分に抑えられると判断する。
「うっ、タイミングが……」
その判断は正しく、村雨は小豪月と同様に星菜のスローカーブを面白いように空振りしてくれた。それには六回途中まで投げていた先発の波輪が150キロを超える本格派右腕であることに対し、星菜が120キロも超えない軟投派左腕であることへの落差もあるのだろう。投げる星菜は現在、初めて登板した高校野球とは思えないほどの投げやすさをその身に感じていた。
結局その村雨の打席はツーエンドワンまで追い込んだところで内角に食い込ませたカットボールを打たせ、星菜自らが捌くボテボテのピッチャーゴロという結果に終わった。
(私の球も、まだ捨てたもんじゃないな……)
中学で死にぞこなった女性投手にしては、存外まともに戦えるものだ。先の回は天敵小波をライトフライに打ち取り、この回も早々にツーアウトを取ったことで幾分か自信が付いた気がした。
これで次の九番打者には、すっきりとした晴れやかな心で挑むことが出来る。
《九番、ピッチャー――早川さん》
ピッチャープレートに入る前に深呼吸し、星菜は右打席に入った野球少女の姿を見据える。
早川あおい――彼女が居なければ、自分は今頃ここには居なかっただろう。
彼女が示してくれた一つの道が、星菜をマウンドへと導いてくれたのだ。
その感謝の気持ちを込めて、この勝負には臨んでいきたい。
「……行きますよ、先輩」
彼女がバットを構えると、星菜は捕手六道の出したサインに目を移し、それに頷く。
六道は割と、自分が投げたい球種を中心にリードしてくれる捕手だと思う。先発波輪のアクシデントからの急造コンビではあるが、良い相方に恵まれたものだと星菜は思った。
「ナイスピッチングだ、泉」
「……ありがとうございます」
八回表の守りを三者凡退で乗り切った星菜は、ベンチに戻るなり監督の茂木らから温かく出迎えられた。
早川あおいとの勝負は、思いのほかあっさりと終わってしまった。投じた球数はたったの二球で、どちらも外角低めのストレート。あおいの打ったボールは力無く一塁方向へと転がっていき、結果的にファーストゴロという形で幕を下ろしたのである。
(そう言えばバッティングセンターでも、あの人はあまり打っていなかったっけ。バッティングは上手くないのかもしれないな……)
細腕故に筋力が足りていないのか、それとも投球練習に時間を費やしすぎて打撃練習が疎かになっているのか……いずれにしても早川あおいの打撃には、言っては悪いが全くセンスを感じなかった。
今後機会があり、あちらが了承してくれるのなら、その時は自分が打撃指導でも出来れば良いものだ。それに限らず彼女には一つでも多く、何か恩返しをしたかった。
そして、と星菜は周囲に目を向ける。
「いやあ、星菜ちゃんが居てくれて本当に良かったなぁ」
「これ青山なんかいらなかったんじゃね?」
「オイラは星菜ちゃんは最初から活躍すると思ってたでやんす!」
「ははは、恋々の奴ら全然タイミング合ってねぇもんな」
泉星菜という女性投手の登板に不満一つ言わなかった彼らチームメイト達にも、いつか恩返しをしたいと思った。
すると、横合いから不意に打者用のヘルメットを手渡された。振り向くとそこには先輩マネージャーである川星ほむらの姿があり、彼女はにこやかに微笑んでいた。
「ナイスピッチングッス、星菜ちゃん。はいこれ、星菜ちゃん四番に入ってるッスから、鈴姫君の次ッスよね?」
「……ありがとうございます。しかし先輩は、波輪先輩のところに居なくて大丈夫なのですか?」
ほむらは波輪が負傷して以降、ベンチの裏で彼の様子を看ていた。その為七回と八回表の間はベンチには居なかったのだが、いつの間に戻っていたのだろうか。
星菜は波輪を一人にして大丈夫なのか、心配ではないのかという意味を込めて訊ねたが、ほむらは問題無いときっぱりと返した。
「恋々高校の監督は加藤理香先生って言う、この道では有名な名医なんスよ。その人が診てくれるみたいッスから、もうほむらの出る幕は無いッス」
「しかし……」
「星菜ちゃんの高校初登板なんスから、見ないわけにはいかないッス! ……まあ、波輪君には別の意味で心配してるッスけど。一体なんなんッスかあの人の胸は……」
波輪のことが心配であろうに、それでも彼女は取捨選択としてこちらを優先してくれたようだ。その意志の固い瞳を前にしては何も言い返すことが出来ず、星菜は申し訳なさと共に大きな責任を感じた。
「……ご期待にお応え出来るように、私に出来るだけのことはやってみます」
「頑張れッス」
打席でも、くれぐれも彼女を失望させるような結果は出したくないものだ。星菜は渡されたヘルメットを頭に被ると、バットを担ぎながらクストバッターズサークルへと向かった。
その際、視界の上方からヘルメットのつばが割り込んできた。
「ふふ、ぶかぶかだ……」
頭に被ったヘルメットを左右に揺らしながら、星菜は小さく苦笑を浮かべる。当然ながら、星菜には専用のヘルメットなどという物は無い。これもまた誰から借りてきた物かはわからないが、そのサイズは頭の小さな星菜には合っていなかった。
しかしそもそも野球という身の丈に合わないことを好んで行っている自分には、このようなサイズの合わないヘルメットこそがある意味似合っているのではないかと前向きに考え、感傷に浸った。
……と、そんなことを考えている間に前の打者の打席が終わったようだ。
これまで三打数三安打という見事な打撃を披露してきた三番鈴姫の四打席目は――早川あおいの投じた三球目を打ち上げるセカンドフライとなった。
一塁に到達することなくベンチへと引き下がっていく彼の表情は苦々しさを通り越しており、普段冷静な彼らしからぬ苛立ったものであった。
それまでの経緯から鑑みて、星菜は現在の彼の心境を推測する。
(……アイツらしくない大振りだったな。大方、小波先輩に対抗してホームランを狙ってみたってところか。そこまであの人のことを敵視しなくても……って、私が言えることじゃないよね)
彼の小波大也への対抗心が、先ほどのらしくない打撃結果を引き起こしたのだろう。
しかし星菜には、それをやれやれと他人事のように呆れることは出来なかった。
彼が小波のことを親の仇のように敵視している要因は自分にあるのだと、星菜は深く理解しているつもりである。
その問題も、いつかは解決しなければならないが……。
《四番ピッチャー、泉さん》
複雑に絡み始めた星菜の胸中を、違和感だらけな場内アナウンスの一声が払拭する。
波輪に交代してそのまま入ったのだから、星菜は打順の関係上四番に入る形となっている。しかしこの声だけを聞けばまるで自分がエースで四番を打っているようで、可笑しく思える。
三番の鈴姫が凡退したことで意識を切り替えると、星菜はぶかぶかのヘルメットを外しながら左打席に入った。
「……よろしくお願いします」
思えばこれは、何年ぶりの打席になるだろうか。星菜は久しく味わうことの無かった感覚に懐かしさを感じていた。
数日前から参加し始めたチームの練習でも、未だ打席に立ったことは無かった。故に星菜は、マシンではなく投手が投げる生きたボールを打つのは久しいことだったのだ。
「ブランクは大丈夫かい?」
その事情をどれほど知っているのかはわからないが、後ろに座る恋々捕手小波がそんな声を掛けてきた。
彼は捕手として、キャッチャーボックスでの囁きで相手打者を惑わせるような戦術を好まない。彼は温和な雰囲気や言動とは異なり、投手も相手打者も全力を発揮した上での真剣勝負を好む武人肌の男なのだ。その為に何度か手痛い一発を浴びることもあったが、それもまた彼の個性であった。
そんな彼が声を掛けてきたということは単に話したかっただけで、そこに戦術的な理由は無いのだろう。そう判断した星菜は、快く問いに応じることにした。
「いえ、全然駄目ですね」
「あはは、わざわざ自分が不利になる情報を与えなくても」
「では無視しますか」
「あー、それはそれで寂しいね」
「……今は試合中ですよ?」
「わかってる。余計な言葉は要らなかったね」
投球では小波大也で、打撃ではこの早川あおいと来た。ブランク明けの相手としてはどちらも厳しい強敵であるが、同時に彼らが最初の相手で良かったという思いもある。
どちらも星菜にとって恩人であり、人として憧れを持っているファンでもあるからだ。
「あの人との勝負に、余計な言葉は要りません」
スパイクで足元を慣らした後、バットの真芯の位置を目視で確認し、構えを取る。
バットの角度は肩の位置から約45度。立ち方はマウンドに対して並行なスクエアスタンス。
教科書通り、基本を突き詰めたようなシンプルな打撃フォームを見て、「鈴姫に似ている」と思った者は竹ノ子高校のベンチに何人居るだろうか。もし彼らがそう思ったのなら、心の中でこう言いたい。
この構えが鈴姫に似ているのではない。鈴姫がこの構えを真似たのだと。今の鈴姫の打撃フォームは、昔の泉星菜が彼に指導した結果なのだと――。
(……初球は、あそこに来る)
バットを構えた星菜は、マウンドのあおいがボールを投げる時をじっと待つ。
あおいはボールを右手に持ったまま小波の出したサインに首を横に振っているが、その様子を見て星菜は一球目がどこに来るのか確信した。
元々彼女が投げたいコース、球種には心当たりがあった。もし今の彼女の立場に自分が居るとすれば、狙うコースは一つしかない。同じ女性投手としてのプライドがあるのならば、お互いに対抗心を抱くのは必然であった。
(
この予測が外れた時は、それは星菜が単に自惚れていただけということになる。それならばそれでも構わないが、予測が当たるのならば心から喜べるというものだ。
その時は彼女が自分をライバルとして――対等な存在だと認めてくれたということなのだから。
そして待つこと数秒後。準備が整ったあおいがノーワインドアップから、ゆったりとした足運びで投球動作へと移る。
腰を折りたたみ、左足を踏み込み、沈み込ませた身体を海の波のように揺らめかせ、地面擦れ擦れの低位置から右腕を振り払った。
そうしてリリースされたボールはアンダースロー特有の下から上への軌道を辿り、ストライクゾーン目掛けて一直線に疾走していく。
その球種、コースは――星菜の予測した通り、
(もらった!)
予測の的中に喜ぶ暇もなく、右足を踏み込んだ星菜は容赦無くバットを振り抜く。
タイミングは完璧、スイングの軌道にもブレは無い。次の瞬間バットから快音が響き、ボールは狙い通りセンター前へと落ちる――と、星菜は確信していた。
――突如上方からはみ出してきた物体が、己の視界を覆い隠すまでは。
投手あおいのグラブに収められた打球はすぐさまファーストへと送られ、星菜は早々に引き返すこととなった。
バットの芯を完全に外してしまったが為にグリップからの振動が強く伝わり、その両手は投球に影響が出るほど長引くことはなかったが痺れを催していた。
「惜しかったな。ヘルメットに邪魔されなければセンター前だったのになぁ」
星菜がベンチへと戻ると、最初に目が合った茂木からそんな言葉を掛けられた。
振り抜いたバットがボールに当たる瞬間、ヘルメットが傾き、一瞬だけ星菜の視界を遮ってしまったのである。そのような要因が先ほどのピッチャーゴロという中途半端な結果を生んでしまったことを、彼は心底残念そうに言った。
『言い訳をしないでください』
ふと、脳裏に言葉が過ぎった。
それは泉星菜の野球人生その物に対して向けられた、まだ幼い野球少女の言葉である。そしてその後に
続く言葉を、星菜は今一度思い出した。
『貴方が壁に当たって野球部を辞めてしまったのは、貴方が女子だったからではなく、貴方だったからでしょう』
もしその言葉が無ければ、此度の打撃結果にもヘルメットの不具合を言い訳にしていたかもしれない。
だが今の自分ならば、当時よりも物事を客観的に見れるような気がした。
「……買いかぶりすぎです。私のバッティングはこの程度ですよ」
理屈をこねくり回すよりも、自分自身が変わらなければ仕方が無い。そう思えるようになったのは、少しは成長した証なのだろうかと――繰り返し、自問した。