外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
彼女と出会ったのは、まだ五歳の頃だったろうか。
実のところその日のことはあまり覚えていないが、それでも幾つかは今でも覚えていることがある。
それは家の近所にある公園の中で、彼女が一人で黙々とボールを投げ続けている光景だ。
『なにしてるの?』
周りでは同い年ぐらいの子供達がサッカーボールを蹴り合っている端で、彼女はただ一人手のひらほどの大きさのボールを投げ続け、壁に跳ね返されてはそれを拾ってを繰り返している。
それは当時の小波大也の目には、どうにも奇妙な光景に映った。
『……やきゅう』
彼女は近寄ってきた小波に対して一片も目を向けることなく、しかしその質問にはきっちりと答えた。
『やきゅう? たのしいの?』
『……うん』
幼子故の小波の率直な問いに、彼女は幼子らしからぬ憂いの篭った目で応える。
寂しそうな子だなぁというのが、この時小波が抱いた彼女への第一印象だった。
『みんなはサッカーやってるけど、いっしょにやらないの?』
『やだ。あいつらとなんかやりたくない』
公園の端で一人で遊んでいるよりも、真ん中で遊んでいる子供達に混ぜてもらった方が楽しいのではないか。小波はそんな善意で問い掛けたのだが、彼女から返ってきたのはどこか不貞腐れたような言葉だった。
それは誰も自分の傍に居ないことに苛立っているように見えて、小波にはやはり、寂しそうに映った。
『そうなんだ。じゃあぼくも、それやっていい?』
だからそう言ったのは、幼いながらも同情する心があったからなのかもしれない。
その時の自分が何を思っていたのかは、今となってははっきりとは思い出せない。
しかし。
『……え?』
その言葉に対する彼女の反応は、今でも記憶に残っている。
壁当てを行う手を止めると、彼女は驚きに目を見開き、こちらに向かって初めて顔を見せた。
昼の太陽に照らされた栗色の瞳が、深く印象に残った。当時は幼い故に「なんで驚いているんだろう?」ぐらいにしか思わなかったが、今にしてみればその姿は、可笑しくて可愛らしかったと思う。
これが小波大也の――泉星菜との出会いの一幕であった。
天敵――それは、主に特定生物の死亡要因となる外敵のことを差す。生物学的な意味合い以外では、自分が苦手とする人物という意味等で使われている言葉だ。星菜にとっての天敵は、まさに小波大也こそがそれに該当した。
1勝13敗、それが中学時代における彼との対戦成績である。星菜の方が一学年下であることを差し引いても、彼を相手にした際の投球はそのほとんどが散々たる結果だった。
(……こっちの手の内は知り尽くされている。敵に回したくない相手だけど……)
加えて今は実戦であり、それも二対一という一点差の緊迫した場面である以上、彼にここで打たれることはチームが同点に追いつかれることを意味している。
責任は重大で、緊張はもちろんしている。
しかし今の星菜の心に、恐怖の二文字は無かった。
「よし」
イニングは七回の表。捕手六道のサインに頷いた星菜は振りかぶり、この回先頭の小波へと一投目を投じる。
球持ちの良い左腕から放たれたボールは一直線に突き進むと、
そのまま真っ直ぐの軌道を辿れば、ボールは小波の腰へと直撃していたことだろう。
しかし結果としてボールは無事キャッチャーミットに収まり、球審はストライク判定を告げることとなった。
「ナイスボール」
初球にストライクを取れたことに一息つくと、星菜は捕手からの返球を受ける。
星菜が投じた球種はストレートではなく、高速シュート――投手の利き腕の方向に変化する変化球であった。そして今のように内角のボールゾーンからストライクゾーンに入る球を投げる投球術を、一般的に「フロントドア」と呼ぶ。
しかし打席上の小波は星菜がこのフロントドアを使ってくることを頭に入れていたのか、曲がるまでデッドボールの軌道であっても尚一切打席上でボールを避けようとする仕草を見せなかった。
察するに今のは「見逃した」と言うよりも、「見送ってくれた」と言うところか。顔色一つ変えずバットを構え直す小波の姿に、星菜は内心で舌打ちした。
(同じ球を続けるのは危険そうだ。なら……)
グラブの中でボールを弄びながら、星菜は次なる球種を思案する。その選択は捕手六道が出したサインと合致していた為、快く二球目の投球動作へと移ることが出来た。
(これで……!)
右足を踏み込み、左腕を全力で振り下ろす。
左手から抜き放たれたボールは、時速90キロにも満たないスローカーブだった。ボールは先ほどのシュートとは全く異なる軌道を描くと、まるで二階から降ってきたかのように上方向から飛来していった。
そのボールを小波は、スイング寸前までバットが出掛かるものの見送ってみせた。
「ボール」
球審が告げた判定は、ストライクではなかった。捕手六道の構え通りに決まったボールは、小波のストライクゾーンよりもやや低かったのである。
(あの球には手を出さないか。でも軌道が頭に残れば、それで十分だ)
ちらりと後方のモニタースクリーンに目を向けると、星菜は今しがた投げたボールの球速表示を確認する。そこに映し出されていたのは「78km/h」という、概ね星菜の体感通りの数値だった。
(今のでタイミングを崩せれば、それでいい)
今のスローカーブのようなハエの止まるようなボールを見れば、さしもの小波と言えどその軌道が意識に残った筈だ。最速でもストレートが120キロを超えることがない星菜にとって、このボールはまさに投球の軸であった。
「……出し惜しみはしませんよ、小波先輩」
ボールの縫い目から指をずらすと、星菜は間を開けずに三球目へと移る。打席上の小波に考えさせる時間を与えたくなかったのだ。
そうして投じたボールは鋭いキレを発揮し――この試合、初めて小波のバットが空を切った。
――ああ、この球だ。
その一球を空振りしたことで、小波はカウントツーエンドワンへと追い込まれた。それによる焦りは無い。しかしたった今ストライクゾーンの内角から「消えた」ボールを見たことで、小波は打席上での昂ぶりを抑えることが出来なかった。
(今のは高速縦スライダー……あの時の紅白戦で、僕を三振にした球だ!)
高速縦スライダー――その名の通り、ストレートにより近い速度で縦に滑り落ちていく変化球である。泉星菜の投げるそれは元々の球速が遅い為に決して速くはないが、尋常ならざるキレがあった。
打者が踏み込み、バットを振り抜こうとする寸前のところで、魔球の如くボールが鋭く大きく変化していく。それは空振りした打者目線からは、まるでボールが「消えた」ように見えるのだ。
ストレートの球速の遅さはそう言った変化のキレ、加えて先ほどのスローカーブのような緩急差で補うのが彼女の投球スタイルである。そしてそれを実現することが出来るのは、彼女に並外れた投球技術があるからこそであった。
(星園さんの教えで、君はとんでもなく化けたね。腕の振りは全部同じで、あの球持ちの良さと、コントロールの良さ……打ちにくいピッチャーになったよ、君は)
ストレートの球速表示だけに限定して見れば、適度に打ちやすい球を放る打撃投手と変わりはない。しかし実際に打席に立って数多の変化球と織り成す技の数々を見れば、そんなことは口が裂けても言えなかった。
もし彼女の前でそんなことを言う者が居るのなら、小波には五時間以上その者を説教し続けることが出来る自信がある。小波にとって彼女は、それほどまでに打ちにくい投手なのだ。
「往年のキレは衰えていないようで安心したよ、星ちゃん!」
――さて、追い込んだところで何を投げる?
――もう一度スライダーを投げるか? それとも、そう思わせてストレートを投げるか?
――他にもツーシーム、カット、チェンジアップと引き出しはたくさんある。君はその中で、次に何を選ぶ?
小波は彼女との勝負を、もはや心だけの言葉では抑えられないほどに楽しんでいた。片頬を持ち上げ、高らかに叫び出す。
勝ちたいわけではなく、戦いその物を楽しんでいるのだ。
この狂おしいまでの情熱に、野球人生の充実を味わっている。
自分に野球を教えてくれた彼女とお互いが満足出来るほどぶつかり合い、不完全燃焼に終わった中学時代の記憶を払拭出来るほどの勝負を、小波は一心に望んでいた。
「……っ! 今度は横か!」
四球目、彼女が投じたのは縦方向ではなく、利き腕の反対方向に横滑りする高速スライダーだった。外角のボールゾーンからストライクゾーンへと入ってくる「バックドア」と呼ばれる投球術である。初球のシュートを用いたフロントドア、そしてこのバックドアを自在に使いこなすことが出来るのが、彼女の武器の一つだった。
そのボールを寸でのところで見切った小波は最短距離でバットを払うと、ファールゾーンへと弾き飛ばす。辛くもカットに成功したが、依然カウントは小波に不利だった。
そして十秒と待たず、続く五球目が放られる。
「ここでチェンジアップか! 流石だ星ちゃんっ!」
五球目は外角低めのチェンジアップ――厳密に言えば、ややシュート方向に沈んでいくサークルチェンジと呼ばれる変化球だった。
小波はストライクゾーンの下を潜り抜けていったそのボールを見送ると、己が危うく手を出しかけたほどのキレの良さを賞賛する。
彼女の球はいつだってそうだ。多彩な球種を完璧な制球で投げ分け、面白いように厳しいところへと決めていく。そのボールが辿る軌道を見る度に、小波の昂揚は限界を知らぬかのように上り詰め、血を熱くさせた。
自然と闘気に満ちた笑みが浮かび上がり、小波は今一度星菜の姿を見据えた。
(星ちゃん、君は……)
マウンドに立つ彼女の表情はほとんど変わっていないが、小波にはほんの少しだけ唇がつり上がっているように見えた。それは自惚れでも、気のせいでもないだろう。自分が最高の気分に浸っているのと同じように、彼女もまたこの勝負を楽しんでいるのである。
(……やっぱり君には、その顔が一番似合うよ)
自分と会うことがなくなったあの日からも、彼女は苦しみ続けてきたのだろう。
今もまだ、それこそチームメイトの早川あおいのように辛い思いをしているであろうことは想像に難くない。
――だが、今この時は。
マウンドに立っている時の彼女の姿は、誰よりも純粋な野球選手であった。
「来い!」
そんな彼女と戦える幸運に、小波は感謝する。二打席目までの波輪との勝負も非常に楽しかったが、彼女に対して複雑な感情を抱えていた小波にはこの時こそが何よりの幸福だと感じていた。
そして。
その幸福な三打席目は、次なる六球目で幕を下ろした。
(遅い球じゃない! これは高速スライダーか、シュートか……!?)
華奢な左腕から放たれたボールは、その球速に見合わない高速回転で風を裂きながらキャッチャーミットへと向かっていく。
スクリーンに浮かぶことになる球速表示は115キロ程度であろうが、打者である小波がそれほど遅く感じているかと問われれば――否。
左腕を隠したボールの出どころを見せない投球フォームと、これまで交えてきたスローカーブやサークルチェンジと言った球速が遅「すぎる」変化球。そして高速シュート、スライダー、縦スライダーと言ったストレートとほぼ変わらない球速の速い変化球。これらの組み立てが小波のタイミングを、そして思考を狂わせていた。
(違う! これは……)
まず投げた瞬間、今度もまた変化させてくるかと疑い、始動が遅れた。
そして元々の球持ちの良さに加え、スローカーブのような緩い変化球を見せられたことで、その緩急差によって実際の球速よりも速く見えたのだ。
「
外角低め一杯目掛けて放たれたその球は縦にも横にも変化せず、しかし次第に加速しているかのようなノビを錯覚させた。
極限の集中力でその球種を見破った小波はややホームベース寄りに踏み込むと、強引に腕を伸ばしてバットを押し込んだ。
グリップから振動が伝わり、甲高い金属音が響く。しかしその振動も音も、小波にとって心地良いものではなかった。
「差し込まれたか……!」
ボールは、バットの芯を外れていた。バットの先端付近に当たってしまった為、右方向へ打ち上がった打球は程なくして失速していった。
やがて打球はライトのほぼ定位置へと落下していき、危なげなくグラブへと収められた。
それは小波にとって、彼女に対する「二連敗」を意味していた。
「お見事っ!」
打球の行方を見届けた小波はヘルメットを外すと、後腐れ無く恋々高校ベンチへと引き下がっていく。マウンドを見れば彼女もまた、帽子を外して小波の顔を眺めていた。
『……ありがとうございました』
思い上がりでなければ、彼女はそんなことを言っているような気がした。
もしそれが事実であるのなら、小波は一言こう返したい。
「それは、こっちの台詞だよ」
一球一球気を抜けない、心が躍る良い勝負だった。
それは本当に、練習試合で終わらせるには勿体無いぐらいで。
――また一段と、野球が楽しくなった。
先頭の小波をライトフライに打ち取ったことで、星菜は上手く波に乗ることが出来た。
続く五番陳は内角に食い込ませたボール球のカットボールを打たせ、ショートゴロ。
六番天王寺は高速スライダーとシュートでカウントを整えた後、外角低めに外したチェンジアップを引っ掛けさせ、二者連続のショートゴロに仕留めた。
竹ノ子高校の守備陣には不安があるが、堅守のショート鈴姫と強肩のサード池ノ川の三遊間だけは他校にも引けを取らない。その二人が居る方向へと打たせる配球を、捕手である六道明は徹底していた。
三者凡退でスリーアウトチェンジとなり七回の裏と替わった竹ノ子高校の攻撃は、しかし早川あおいの好投を前に封じ込まれる。
先頭の九番石田は二球でツーストライクに追い込まれた後、外角に大きく外れるシンカーを空振りし、三振に終わる。
続く打順は一番矢部と二番六道の上位打線へと回ったが、二人共に内角高めのストレートに空振り三振し、瞬く間にスリーアウトとなった。
アンダースロー特有の軌道とあおいの制球力、ボールのキレを前に、竹ノ子高校の打線は手も足も出ないと言ったところか。前のイニングを合わせれば、これで六者連続三振となる。
恋々高校の背番号「1」は、彼らに付け入る隙を与えなかった。
(八回……この回は、あおい先輩の打順に回る。……裏は私の打順にも回るか)
短い休憩が明けるとすぐさま攻守が切り替わり、星菜は八回表のマウンドへと向かっていく。
残るイニングは二回。いよいよこの試合も終盤だ。
後を考えれば自身最後のマウンドになるかもしれないこの試合の中で、今度こそ完全燃焼したいものだ。星菜はそう思いながら、恋々高校七番小豪月と相対した。