「もしかして、チビを迎えにきたの?」
シマの前にくったりと力の抜けた小さくて白いチビをそっと下ろすと、じっと見下ろしていたシマが、鼻先にさっと顔を近づけ、ぺろりと舌でチビを舐めた。
「待ってよ」
もう済んだといわんばかりに、背を向けて悠然とシマが立ち去ろうとするのを、猫と知りつつぼくは止めた。
だるそうな様子で振り向いたシマが、べっと口先から舌を出す。シマの舌先には、黄色く小さな玉が乗っていた。シマに触れて、玉はきらきらと輝きを放っている。
「チビ、だよね?」
ちらりと一瞥して、黄色い玉を乗せた舌が口の中に戻される。
「水月さん、チビはひとりぼっちで、ふらふら彷徨うだけの存在にはならないよね?」
「あぁ、あの捻くれ猫が、ちゃんと面倒を見るだろうさ」
町へ向けて歩く間も、風に巻き上げられた砂埃にさえはっとしてしまう。丸い毛玉となってころころとチビが転がって、ミャっと鳴く幻を、風に巻き上げられた砂の影に見てしまう。
「とにかく小屋へ行ってみよう。今の事態で、また何かが変わっているかもしれない」
「わかった。町の様子を見に行こう」
遠目に見える町並みは、残された人々が道に立ち尽くすだけで、特に大きな変化は見られなかった。男が投げた網で、多くの者達が捕らえられた後もぽつりぽつりとだが、目に見えてひとが減っているせいか、闇が満ちた様子を最初に目にした日に比べると、ひとの姿は疎らだった。
薄ら青い空の下、黒い布の面で顔を覆った人々が立ち尽くす。
重い音を立てて閂が外されると、押し開けられた戸口から佐助が顔を出した。
「あんたら、今度は何をやらかしたんだ?」
責めると言うより、呆れた息を吐いて佐助がひらひらと手を振り招き入れてくれる。
「最初に妙な空気を嗅ぎ取ったのは雪だった。飛んで行った雪は、どういうわけか直ぐに戻ってきてな、力なく首を振って、今度ばかりは自分の出る幕ではないと言っていた。今は、ひとっ走り町の様子を探りに出ているが、直ぐに戻るだろうよ」
佐助はそういうと、座り直そうともぞもぞと腰を動かす寸楽に手を貸し、隣で見ていた宗慶は寸楽が飲みやすい位置へと湯呑みをずらす。
「それなら雪さんから、何が起きたのかは聞いているんだね?」
「雪殿が目にした事実のみだったが、鬼神は和也殿の刃に傷を負ったのであろう? その傷は、この町を残欠の小径を変えるであろうかな」
宗慶が茶を啜る寸楽の背を擦りながら、心配げな視線を向ける。
「正直いってぼくの刃が鬼神に、どんな影響を与えたのかはっきりとは解らないんだ。けれど、何かは変わると思う。変わっているって、ぼくは感じている」
「今度は些細な変化では済まんぞ。一度に全てが覆る。既に事が動き出したのは、この老体でさえはっきりと解る。さっきから腰がむず痒くてかなわん。町の空気が、ちりちりと棘を出しながら、あちらこちらで渦巻いとる」
言葉とは裏腹に美味そうに茶を啜った寸楽は、へぇ、と息を吐いて皺だらけの手で腰を叩く。
ぼくはポケットに入れていた石を手の平に載せ、みんなの前に差し出した。
「この石の中にね、墓標の人々が希神と呼んだ少年が宿っているのだと思う。あの子は言ったんだ。ぼくが全てを呑み込んで消えるのが一番だって。それが具体的にどういう意味なのか、ぼくには良くわからないけれど」
何の変哲もない灰色の小石にみんなの視線が注がれる。違う場所から濁流に呑まれるようにこの継ぎ接ぎの町に流されてきた彼らの胸にあるのは、いったいどんな思いなのだろう。結局は何もしてあげられなかった。ぼくという存在が現れた事で、色々な物を掻き回し、傷つけただけのような気がしていた。
本当の意味で自由にしてやれなかったと少年が謝った、刃を生みだした魂達も、ぼくが居なければ違う運命を辿れただろうか。
「痛っ!」
指先で額をばちんと弾かれた。
「何をいっぺんに四十も五十も年食ったような顔してるんだ? 何が起きようと和也の所為ではないだろうよ。所詮は人の子に出来ることなんざ、耳クソくらいしかないんだよ」
水月がにっと笑って、ぼくの頬を手の甲で軽く叩く。水月に口を開きかけた時、観音開きの戸が叩かれた。素早く立ち上がった佐吉が閂を外すと、雪が小屋へと身を滑り込ませる。
「和也様、水月様、ご無事で」
ほっとした笑みを浮かべ雪が静かに頭を下げた。だが、その顔が上げられたとき、雪の表情には不安の影がが色濃く落ちていた。
「目の前で人が消えて行くのです。山の方から砂を巻き込んだ茶色く濁った風が線を成して吹き寄せ、通り道に居る者を巻き込んでは、町の外れへと駆け抜けるように吹き抜けていくのです。奇妙な風に巻かれた人々は、黒い布の面だけを残して、まるで塵となったように風に溶ける……そうとしか言いようがございません」
雪が眉根を寄せる。
「黒い布の面を残して?」
「はい。残るとはいってもはらりと宙に跳ね上げられ、土に付く前にまるで陽炎であったかのように消えてしまいますが」
「隙間から逃げるのではなく、違う理由で人が消え始めたのは、さっき鬼神との件があった後からだよな?」
水月の問いに、雪はしっかりと頷いた。
「下手に出歩いて巻き込まれる危険を思えば、お二人もしばらくは此処に身を隠しておられた方が良いのでは?」
心配する宗慶に、少し考えてからぼくはゆっくりと首を振る。
「ぼく達が町の中を歩いてきた時には、既に始まっていた現象でしょう? なのにぼくは何も身の危険を感じなかった。肌をひりひりとさせる、あの感覚はなかったんだ。だとしたら、風の通り道に居る人が巻き込まれている訳ではないのかもしれないよ」
「そりゃどういうこった?」
理解できないといった表情で、佐吉がきょろきょろと全員の顔を見回す。
「風は通るべき道を選んで吹いているのだと思う。特定の人を、風は攫っているとしか思えない」
「攫われた人々はどうなるのです?」
雪が不安そうに胸の前で手を組み合わせる。
「どうだろう、それは今のぼくにはわからないや。これはぼくの感だけれど、既に黒い布の面を付けていないみんなは、たぶん風には攫われない」
「珍しいな、感でおまえがみんなを危険に晒すかもしれないことを言い切るなんて」
にやりと水月がぼくを流し見る。
「幼稚な破壊者と呼ばれた小僧の感だよ。たまに感覚が研ぎ澄まされるから」
立っている事に疲れて、寸楽の向かいに腰を下ろそうとしたぼくは、はっとして隣に立つ水月を見上げた。
「ねぇ、蓮華さんは? 部屋に入ったのを見たきり、今日は一度も姿を見ていない」
顎の無精髭を指先で擦りながら、水月も訝しげに眉を顰める。
「色々あって疲れたんだろう。部屋で寝坊していただけじゃないか? 俺達が庭を出たのは、けっこう早い時間だったと思うが」
蓮華さんが寝坊? そうだろうか。
「回復に向かっているとはいえ響子さんが床に伏せた翌日に、蓮華さんが寝過ごすなんてありえるかな? あの蓮華さんが?」
「響子が倒れたのか?」
驚く佐吉に頷き返したぼくは、何ともいえぬ表情だったと思う。
「だったら蓮華は何処にいたっていうんだ? 何かあれば、カナがひと言いうだろうよ。あの二人に、変わった様子はなかったぞ」
そうだ、何か言ってくれると思い込んでいるから、蓮華さんの姿を見ていないのに安心して出てきてしまった。指先を床について、下ろしかけていた腰を持ち上げる。
「カナさんだけじゃない。おそらく陽炎さんも何かを知っていて言わなかったんだ。陽炎さんはぼくとカナさんの分の朝餉の膳を並べてから、水月さんと響子さんは部屋で食べるからといったのに、蓮華さんのことにはひと言も触れなかった。寝坊しているなら、後で運ぶと陽炎さんならぜったいに言うはずだ」
「弱っておるんじゃろうよ」
踵を返して駆け出そうとしたぼくは、寸楽の言葉に立ち止まり、振り返って目で話の先を促した。
「蓮華はいうなれば響子の宿り木のような存在じゃ。本体の木が弱れば、宿り木も弱るのは当たり前じゃろうて。宿り繋がっているとはいっても、繋がりの流れは一方的な物なのではないかとわしは思う。蓮華へ回復の力を与えるほど、響子が回復してはいないということだ。これだけは、どれほど響子が願っても、己の力ではどうにもなるまい。生き物として、肉体は己の生存を優先するであろう?」
皺に埋もれた小さな目が、僅かに開かれてぼくを見る。
「蓮華さんはどうなるの? 響子さんは、自分と一緒にいてくれた蓮華さんを解放することだけを願って生きているのに」
僅かに開いていた目を皺に完全に埋もれさせ、寸楽はゆっくりと首を振る。
「響子が蓮華を解放することなど、無理な話じゃよ。弱り切って存在が消えて行くのを見送る意外、響子にできる解放など、ありはせんじゃろう」
振り返った先の水月も、表情を険しく歪め唇の端を噛んでいる。
「水月さん、庭に戻ろう」
「待たんか。わしを連れて行け」
寸楽が湯呑みの底に残っていた茶を啜り、小さく手招きする。
「連れて行くったってよ」
戸惑う水月に、寸楽は顔いっぱいに皺を寄せてにっと笑った。
「負ぶっておくれ」
また俺か、と肩を落としながらも、寸楽の前で膝を折る水月の背に宗慶が寸楽を乗せる。
「骨と皮ばっかじゃよ。軽いで」
けけけっ、と笑う寸楽にはさすがに水月も言い返せないのか、鼻を膨らませただけで大人しくしたがった。
「和也様が危険を感じないとおっしゃるのであれば、わたしはここに残ってお二人を守ります。何かあればお呼び下さい。直ぐに駆け参じます」
片膝をついて傅こうとする雪の片腕を持ち上げる。たしかに筋肉質だけれど、細っこくて素性を知らなければ、ただの女の子の腕だった。
「雪さん、新しい言葉を教えてあげるね。こういうときは、気を付けてねっていうんだよ。そうしてこうするんだ」
ぼくは胸の前で拳をつくってよし、というポーズをしてみせる。
「こうやって、がんばって! ていうの。簡単でしょう?」
目をぱちくりさせている雪を残して、戸をから出ていく水月の後を追う。戸が閉まる隙間から見えた雪が、真面目な顔でぶつぶつと口を動かしながら、胸の前で拳を握っている姿がかわいらしかった。
「和也、走るぞ! 婆さん、揺れるからしっかり捕まってくれよ。うぇっ、首に巻き付くなって。肩にしてくれ肩に!」
首に巻き付いた、寸楽の腕を引き剥がして水月が走り出す。響子を背負ったときより若干速度を落として走る水月の後を追いながら、町の様子を目で追っていく。
ふと背後から迫る気配に気付いたぼくは、反射的に腕を引いて水月を道の脇へと寄せた。
「風だ」
継ぎ接ぎの町の奥から、土埃を巻き上げて真っ直ぐに風が走ってくる。縦に渦を巻く風の先端は、巻き込んだ塵を後に続く尾からばらばらと散らしながら道の真ん中を吹き抜けた。
「いったい何が起きているんだ?」
水月の呟きが時間をおいて耳の奥で言葉として組み立てられていく。それほどに、ぼくは目の前の光景に見入っていた。
目の前を通り過ぎた風は、土埃を含んで茶色い尾を引きながらちょうど道の真ん中に立っていた女性らしき人物にぶつかった。
先頭で縦に渦巻いていた風が長い舌先で絡め取るように、女性を自らの渦に巻き込んでいく。
顔を覆っていた黒い布の面が弾かれて宙に舞う。まるで舞散る黒い花びらを見ているようだった。
女性は茶色い風に包まれて完全に姿を消していた。ざっと音を立てて風が過ぎた跡に、黒い布の面が落ちていく。役目を終えたと言わんばかりに、端から塵と成って散っていく。
「早く行かんと、蓮華とて長くは持たんぞ」
立ち尽くす男二人に激を飛ばしたのは寸楽。肩をぴしゃりと叩いた、皺だらけの寸楽の手に弾かれて、ぼく達は走った。町を抜けても、見慣れた森の木々はほとんど姿を消している。知らない場所を走っている感覚が、ぼくの胸にある不安を助長させた。
カナさんの庭と、残欠の小径を隔てるように残る森の木々が見え始めたとき、茶色く渦を巻いた風が、ぼく達の脇をすり抜けて真っ直ぐに庭へと向かっていくのが見えた。
立ち止まった水月と思わず顔を見合わせる。
茶色い尾をなびかせた一筋の風は、ぼく達の立ち止まった場所より少し先で、まるで何かにぶつかったように行く手を阻まれた。ぶつかった衝撃に振り落とされて、風に含まれた土埃がばらばらと地に落ちる。
「光りの糸だ」
ぼくが指差す先には、行く手を阻まれて上へと昇っていく光りの糸があった。あの回りを、土埃を落として透明になった風がまだ覆っているのだろうか。光りの糸は、時折風に巻かれたみたいにくるりと身を翻しては、隙間を探すように上へと昇って見えなくなった。
「はたして俺達は通れるか、行ってみるか」
寸楽を背負う水月が不意に衝撃を受けることがないように、ゆっくりとぼくが先を歩く。地面に落ちた土埃が、この辺りに見えない壁があったのだと教えてくれる。
恐る恐る腕を突き出してみたが、何の抵抗もなかった。
「大丈夫。ぼく達には影響がないらしい」
庭に駆け込む前にも、どんという小さな震動と共に背後で風が何かに衝突した音がした。少しだけ振り返ると、さっき見たのとは違う色の糸がゆらゆらと上に昇っていくのが見えた。
息を切らして駆け込むと、いつもと変わらぬ様子で庭の廊下に腰掛けたカナさんの姿があった。
「おや、新しい客人をお連れになったのですね」
急いて口を開いたぼくを、カナさんはそっと手の平で制す。
「響子が眠っております。そして蓮華も」
着物の裾をすっと手で撫でて乱れぬように立ち上がったカナさんは、蓮華さんの眠る客間の障子を開け、ぼく達をそっと手招きする。
居間の座敷からそっと顔を覗かせた陽炎が、泣きそうな表情で小さく頭を下げた。
客間にひかれた布団には、腰元までしか布団を掛けずに横たわり、浅い息を繰り返す蓮華さんがいた。足音を立てないように駆け寄り顔を覗くと、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ぼく達が出発した時には、カナさんは蓮華さんの容体を知っていたのですね?」
「ええ、知っておりました。ですが響子にそれを知られたくないと、蓮華は起き上がれないことを他人に知られることを頑なに拒みましたゆえ、何も申し上げなかったのでございます。たとえ響子が立ち枯れ草で回復しても、煎じ薬の効き目がこの子にまで届く訳ではありませんからねぇ。響子からこの子へと、力が流れるまで持ち堪えることができるかどうか」
濡らした手ぬぐいで、そっとカナさんは蓮華の額に浮いた汗を拭う。
「響子がこの子を自由にしたいと願うように、蓮華もまた響子の幸せだけを願っているのでございます。己の身が明日どうなるかなど、思い煩ってさえいないのでございましょうよ」
薄く紅をひいたカナさんの唇がふわりと微笑みの孤を描き、黒く長い睫は悲しげに伏せられる。
「下ろしてくれんかの」
蓮華に見入っていた水月が、思い出したように慌てて寸楽を畳に下ろした。
「よっこらせ」
拳を畳について、膝を擦りながら寸楽は枕元に座り、蓮華の髪をそっと指で梳いていく。
「前にもいったかの? わしは遊里にどっぷりと浸かって生きた女じゃて。武家の女は高く売れるせいか、わしが望まずとも吉原の冷えた水はわしを好んだらしい。呼び出しといわれる、花魁のてっぺんにまで登り詰めた」
想像の世界でしかなかったが、吉原と呼ばれる遊郭があったことも、そこへ身を落とした遊女の頂点に立つ女達を花魁と呼んだことくらいは知識として知っている。太夫から花魁へと呼び名が移行した時代なら、遊女とはいえ最高位につく者には、高い知識と教養が求められたと聞いたことがある。ならば、素養のある武家の娘なら尚のこと。
「そんな顔をしなさんな。大昔のことじゃて。あの時代は部屋持ちにもなれん、切り見せの安女郎がわんさと居てな、体を壊して死んでは穴に放り込まれて、虫にも劣る短い生を終えておったものよ。辛かった……だがわしは諦めた。何かに思いを馳せることも、苦しみから逃れたいと願うことも、普通の娘のようにひとり町の道を歩くことさえな。そうやって諦めた人生に未練など残らぬ。だからこそ、こうやってここに居る」
まるで愉快な落語を一席終えたような満面の笑みで、寸楽は嗄れた声を上げカカカッ、と笑う。
「死んだとき、わしはこんな婆じゃなかった。若くして命を落としたからの。不思議じゃろう? 己が死んだときの姿のまま、空間を彷徨う者がほとんどだというのに、わしは皺だらけの婆じゃからの。このしゃべり方も、婆の姿しか知らぬ者達と話す間に身についたものじゃて。骨の髄まで郭言葉が身に染みておったが、もうすっかり忘れたの」
遊女達が使った郭言葉は、田舎から出てくる泥臭い娘達の訛った言葉を隠すためと、何かで読んだことがある。古い時代のただの情報でしかなかった事が、寸楽を通して重い色を持つ。どんなに考えても、男の自分に寸楽の苦しみを真に理解するなど不可能なのだろう。
そんなあやふやな理解を、この老婆は求めていないと思うから。
「わしが一番嫌っておったのは、己の顔立ちじゃった。わしを目の前にしたなら牡丹の花さえ枯れ落ちるといわれた、他人が美しいという顔が嫌いじゃった。この顔さえなければ、醜女に生まれていたなら、遊郭に身を落とそうにも受け入れられなどしなかったろうにとな」
寸楽の指が、血の気の抜けた蓮華の頬をそっと撫でる。
「死に際に役に立たぬ神仏に、祈ったのはたったひとつの事じゃった。若さも美しさも、捨てさせてくれとな。願いは叶ったが、遊郭の水に汚れた身で、どうして魂がこうまで朽ちることなく在り続けるのか、不思議でならなかった。己の意思ではどうにもならぬ。だが、やっと解けた」
顔いっぱいに皺を刻んで微笑む寸楽に、むずむずと胸に不安が湧き上がる。
「寸楽さん、何をしようというの?」
何かを悟っているのか、カナさんは睫を伏せたままきちりと膝に両の手を添え座っている。
「人の子の命も魂も、他人様の役に立ってなんぼじゃろ? 蓮華と響子を繋ぐ管を断つだけじゃ。あんたらには見えんのかね? 離れて眠る響子まで、壁を抜けて繋がる管があろうに」
蓮華の胸元を指した指を、寸楽はすっと壁の方へと向けていく。ぼくには何も見えなかった。水月も、解らないというように小さく首を振る。
「そうか、見えんのか。この管とは違うが、人を繋ぐ縁が見えねば、遊郭で生き残ることは難しい。必要のなくなった客との縁を切り、必要と思えば無いはずの縁をこの手で手繰り寄せる。男の心も金も、視線を向ける先さえ、この手の内で操れねば吉原の水に溺れてしまうでな。浮き世で得た、妙技かもしれん」
寸楽は目に見えない管をなぞるように、揃えた指を横へと這わせる。
「寸楽さん?」
背後から水月が、ぼくの腕のシャツを引く。
一歩、また一歩と水月の力で足が後退る。
「客が取れんで暇な女郎は、お茶でも飲むしかないという例えか、暇になることをお茶引をひくといってな。まぁ、わしはにはお茶をひく暇もありゃしなかったがの。だが、もうそろそろいいじゃろう」
寸楽の皺だらけの両手が、大切な物を包むように胸の前で握られた。
目を閉じていた寸楽が、ふっと顔を上げ皺だらけの顔を水月へと向ける。
「水月よ、我が儘という愚かさが人にあるのは、何も悪いことだけではないぞ。水月の胸にある我が儘など、言い換えれば息子への想いそのものじゃろうが。年寄りは目がしょぼくれた分、無駄に心眼は澄んでおるでな」
けけけっ、と肩を揺らして寸楽が笑う。
「その我が儘、伝えねば後悔するぞ」
皺に小さな目を埋もれさせて、口を窄めた寸楽が笑みを浮かべた。
「そんじゃあ、幕引きじゃ。わしもそろそろ……お茶ひかせてもらいますわ」
寸楽の両手にぐっと力が込められ、何かが爆ぜた煽りを受けて、ぼくは仰向けのまま後方へと飛ばされた。
顔を庇った指の隙間から、寸楽の背中が見えた。
ちりちりと線香花火が燃え尽きていくように、寸楽からぽとりと落ちた紐のような両端が短くなっていく。片方は蓮華さんの胸へと、おそらくもう片方は離れた部屋で眠る響子さんの胸へ、二人を繋いでいた物が、見えた気がしたのは幻だろうか。
畳に打ち付けられた背中に、げほりと肺の息が吐き出された。
大きく胸を跳ね上げて、蓮華さんが胸を押さえ横を向いて体を丸める。
「想像が見せる、幻想だよな」
横から囁かれた水月に言葉を返すことさえ忘れて、ぼくの目は見開かれた。
いつの間にか背を丸めた寸楽の姿は消え、ほんの一瞬見えたのは、黒髪を結い上げ半身を返して微笑む、若く美しい女性の姿だった。
「逝ってしまった」
寸楽が腰を下ろしていた畳に手の平を当てると、微かに残る温もりがぼくの涙腺を崩壊させた。
声を押し殺して泣くぼくの肩を、水月が強く握って背中を叩く。
――お茶ひかせてもらいますわ
苦界を生き抜いた女性が、明るく言い放った言葉が、いつまでも胸の奥に残響を残していく。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!
最後までお付き合いいただけますように……
では!