キャミにナイフ   作:紅野生成

50 / 53
50 身を捨てて 宿る者と消える者

「おい、どうやらお客さんのようだ」

 

 水月が顎をしゃくった先から、地面に亀裂が入っていく。はげ山と化した山肌を突き上げる振動の後を追って、無数に土が盛り上がる。

 

「まさか」

 

 残欠の小径の森に、無数の墓標が姿を現した。墓標の背後には、背を伸ばして立つ人々の姿があった。

 

「汚ねぇモグラみたいに、地に潜んで居たクズどもが、やっとお出ましってか」

 

 はっとして顔を上げると、下衆な笑みと共に口の中で唾を啜る男の姿があった。よれたダークグレーのシャツの肩口で、口の端から漏れたヨダレを拭う。

 突如現れた、男の姿に弾かれて立ち上がったぼくは、刃のない柄を握りしめて唇を噛んだ。

 

「どうやら、こうなることをわかって、機を覗っていたらしな」

 

 低く抑えた声で水月がいい、すっと立ち上がるとぼくの前に立ちはだかった。今前に出ても、水月はそれを許しはしないだろう。いつでも水月をぼくの後ろへ引き倒せるように、触れそうなほど近くで手を止めた。

 

「ちっとくらい騒ぐかと思ったが、諦めが早いな? この網はあらゆる世界の糸を編み込んである。どんな力を使おうと、どの糸かは絶対にその力を跳ね返す。つまりは、逃げられないってことよ」

 

 男の手に無造作に網が握られているのを見て、思わず踏み出したぼくを、水月が背中から羽交い締めにした。

 

「行ってどうする? 助けられないなら、身を引くことを覚えろ。ここがどうなろうと、おまえを死なせるわけにはいかない」

 

 耳元で囁く水月の声に、ぼくは一度だけ全力で身を捻ったが、締め付けた水月の腕はびくともしなかった。

 

「みんな逃げろ! 捕まるぞ!」

 

 ぼくの叫びに、指一本動かす者は居なかった。

 捻った体の脇に、男が両手で抱えた網が、回転を加えて宙へと放たれた。ぼくと水月、そして男が立つ中心に穴を残して、放たれた網が何処までも広がっていく。物理法則を無視した網は、円を描いて広がると、ふわりと人々の上に覆い被さる。

 ぼくの目に映る全ての墓標が、網の中へと呑み込まれた。人々の頭上から肩へ、そして墓標までもを覆いつくした網は、奇妙な伸縮性をもって一人一人を確実に捕らえていく。

 継ぎ接ぎの町で網に捕らえられ、砂と化して散った翁の姿が蘇る。あの光景を再び目にしなければならないのかと、ぼくは思わず瞼を閉じた。

 

 くくくっ、辺りにさざ波のように広がった笑い声に恐る恐る目を開く。

 

「食い過ぎは、腹をこわすぞ?」

 

 若い男の声が響く。

 

「はぁ?」

 

 嘲って顎を突き出した男が、脅すように目を眇める。

 

「腹八分目。食い過ぎれば、伸びる腹も裂けるというもの」

 

 カカカッ、と掠れた笑いが木々を失った森に響く。

 気味悪そうに、男は眉を顰めて網を握る手に力を込めた。

 

「心配はいらない。一度に取り込むような愚かな真似はしないから。くだらない人生を送った者達の魂を、記憶ごと呑み込むのだから、ゆっくり楽しまなくてはな」

 

 いつの間に。湧いて出たとしかいいようがない、幼い鬼神の声に体の芯が凍り付く。

 鬼神の声に辺りが静まったのも束の間、くすくす、くくっ、と含んだ笑いが幾重にも混ざり合って押し寄せる。

 

「チビ、また会えて嬉しいよ」

 

 人々が網を持ち上げる中、墓標の奥から希神と呼ばれた少年がゆっくりと姿を見せる。いつから付いてきていたのか、網の縁でチビがちょこりと座っていた。少年が手招くと、チビは網の縁が浮いた僅かな隙間から、するりと小さな体を滑り込ませる。少年の手に抱き上げられたチビは、短い足をぷらぷらと揺らす。

 

 ミャ

 

「ごめんね、チビ。チビを連れてはいけないんだ。またいつか、チビとぼくが巡り会うには、途方もない偶然が重なる奇跡が必要だもの。千切れた雲が、再び同じ形で繋がることがないようにね。ちょっと、寂しいよ」

 

 ミャ

 

「おい、おまえら。てめぇらの置かれている状況がわかってんのか? 巫山戯やがって!」

 

 手にした網に力を込める男の横で、鬼神の小さな足が後退る。それに気付いた男が、不思議そうな表情で鬼神を見遣る。

 

「どうやら君の役目はここで終わりらしい。この網を操れるのは君だけ。何しろ、網には君の魂が編み込まれているのだから。残念だよ」

 

 鬼神の言葉に男が目を見開くのと、チビを地面に下ろした少年が動いたのは同時。

 網の中、ゆっくりと少年が回る。

 

「みんなにも謝らなくちゃね。本当の意味で自由にしてあげられなかった」

 

 回りながら少年が俯く。

 

「謝罪などいらぬ」

 

 何処からか、老人の凜とした声が響く。

 

「そっか、それならこう言おう。みんな、ありがとう……大好きだよ」

 

 速度を上げて回る少年の指先が網に触れると、そこから空気を含んだようにふわりと網が持ち上がった。少年を起点として、大きく波打った網が、奥へ奥へと空間を広げていく。

 浮き上がった網の内側で、人々が一斉に片手を頭上へと翳す。

 少年がぴたりと動きを止め、腕で自分の胸を抱きしめ目を閉じた。浮力を失った網が、空を掴もうとするように伸ばされた、人々の指先へと落ちていく。

 指先に触れた網が、炎に触れた紙くずのようにぼろぼろと、黒い灰を散らして消えて行く。

 

「我らの想い、この世の全てを砕こうぞ!」

 

 響き渡る男の声に、翳された手が一斉に下ろされた。それぞれの墓石に、ゆっくりと手が触れる。

 積み上げられた墓石から、カタリと最初の欠片が剥がれ落ちた。

 たった一欠片を失ったことに耐えられなくなったとでもいうように、がらがらと音を立てて墓標が崩れていく。

 

「がぁっ!」

 

 詰まった悲鳴を上げて、網を手にしていた男が地面に膝を付く。まだ手の内に残る網の端が、男の目の前で塵となる。かっと見開かれた男の目前で、網を失った手が震えていた。

 震える男の厳つい指先が、見る間に黒く染まっていく。変化はあっという間に肩へと這い上がり、耐えきれなくなった男が左手で黒化した腕を押さえた。

 

「ひでぇな」

 

 水月が嫌そうな声で呟いた。己の手が触れた途端、男の腕はぽとりと外れて地に落ちた。地面に落ちた黒い腕は、炭の燃え残りを砕いたようにばらばらと散った。

 

「ひえぇ! 鬼神! きぃ……しん」

 

 救いを求めて男が見上げた先では、鬼神が表情のないまま既に関心を失ったとでもいうように、 砕けた腕の欠片が飛んで付いた、己の手を拭っている。

 

「汚れちゃった」

 

 乾いた土の上に、男であった筈の黒い灰が小山を造る。

 嫌そうな顔で手を拭い続ける鬼神の視線は、少年へと真っ直ぐに注がれ、心中の不安を示すかのように、足だけが半歩ずつ後退る。

 

「どうしたっていうんだ? くそ!」

 

 右手に掴んだ柄が、意思を持ったように小刻みに揺れる。柄が手から抜け落ちそうな不安に、ぼくは両手で力一杯握りしめた。

 

「大丈夫だよ? それは既に君の物だから。柄は次の主に君を選び、魂に剣を翳したみんなも君を選んだ。ぼくもね」

 

 少年が小首を傾げてにこりと微笑む。

 墓標を失った人々の表情にも笑みが浮かぶ。己の仕事は終えたと伝えるように、視線がぼくへと注がれる。

 

「ぼくにできることなんて……」

 

 小刻みに震えていた柄に日溜まりに似た暖かさを感じて、握り締めていた力をそっと弱めた。

 微笑みを浮かべる人々が、表情をそのままに瞼を閉じる。

 少年と鬼神が互いに牽制するように視線を合わせる中、残像を残して人々の姿がひとり、またひとりと渦を巻く。やがてそれは一人一人違う色を帯び、収束すると一本の光りの糸となった。

 

「少年の所へ行くとき、白いトンネルの中で泳いでいたのは、やっぱりみんなだったんだね」

 

 あの日と同じように、長さも太さもそれぞれに違う光りの糸が、ちらちらと光りの尾を引いて一気に柄へと押し寄せた。

 慌てて柄を両手で握り直したが、思ったような衝撃はなく、ただひたすらに柄が暖かみを増していくだけだった。

 木のない森を四方八方から、柄に向けて流れ込む光りの洪水。少年は少しだけ寂しそうに睫を伏せた。遅れてゆらゆらと流れてきた、最後の一本が柄に呑み込まれる。

 鬼神はかなり後方へと下がっていた。

 少年が胸に手を当て、僅かにだが苦しそうに眉根を寄せた。

 

「どうしたの? いったい何をしようとしているの?」

 

 離れているとはいえ、鬼神から注意をそらさないよう少年をちらりと見る。

 少年の手には、石がひとつ握られていた。小さな手に、すっぽりと包めるほど小さな石は、何の変哲もなく灰色で、河原に転がる石と同じに見える。

 

「言ったでしょう? やっぱり最後には、ぼくが全てを呑み込んで消えるのが一番なんだよ。この子の笑顔、好きだったのにな」

 

 少年が愛しそうに自分の頬を撫でる様子に、ぼくの胸の中で不安が嵐のように渦巻いた。

 声を出す間もなく少年の姿が掻き消え、手にしていた灰色の石が、ぽとりと地面に転がった。

 横髪を巻き上げて、風が一筋ぼくの周りをぐるりと回る。一瞬見えた気がした風の色は、透き通るような純白。

 耳元を過ぎた風が、鼓膜の奥へと声を残す。

 

――か細い糸も、束になれば強靱な縄になる。魂を束ねたなら、それは膨大な記憶の束。強い意志を持つ、刃になる。

 

 ごめんね

 

 最後に耳の奥底で響いた言葉だった。

 舞い戻った風に打たれて、小石がカタカタを身を揺らす。

 一歩踏み出すと、離れて立つ鬼神も一歩後退る。ゆっくりと歩みを進めて、ぼくは小石の側に立った。

 

 ミャ

 

 ひと声鳴いて、チビが前足で小石に触れる。そっとチビを脇に避け、ぼくは小石を拾い上げた。

 

「和也?」

 

 水月が鬼神を睨んだまま、ぼくの肩に手を乗せる。

 

「この小石、まるで脈打っているみたいだ。居るんだよ、きっと。少年の魂が宿っている」

 

 そう感じて小石を握りしめると、右手にある柄の本来なら刃がある筈の場所に、ちらちらと白い光りが沸き始めた。小さな湧き水のように、外巻きに盛り上がっては柄の内へと戻っていく。

   

「まったく、余計なことを」

 

 鬼神が吐き捨てた言葉に、まるで柄から沸く白い光りが反応したかのように、ぶわりと膨らんだのを見て、眩しさに思わず目をそらした。

 

「すげぇな」

 

 鬼神から注意をそらさなかった水月が見とれているのは、ぼくの右手。

 柄には白銀の刃があった。美しい刃文は刀工が焼き付けのさいに生みだす、日本刀のそれに似ている。昔、博物館で目にした日本刀の、のたれと呼ばれる緩やかな刃文を思わせた。

 

「もういい。楽しむ気分じゃなくなった。図々しいんだよ、人の物を全て奪った奴が、人並みに生きようなんてさ。もういい、逝っちゃって」

 

 右手に黒い大刀を持った鬼神は片手を腰の後ろに回すと、ザッと砂埃を上げて、踏み込み様に向かってきた。庇おうとした水月の脇をくぐって前に出る。

 この刃で黒い大刀を受けてみよう、そう心に決めた。

 あまりにも多くの魂が関わりすぎた。

 後に引ける時期など、とっくに逃がしているのだから。

 

「逝け!」

 

 あと数歩で間合いに入ると構えたとき、すっと鬼神が黒い大刀を引き、代わりに腰の後ろに当てていた左手を一気に突き出した。

 大刀を引いて、無防備になった鬼神の姿に、構えた刃が僅かに下がる。

「離れて!」

 

 鬼神との間に割り込もうとした水月を、体当たりで突き飛ばす。

 前へと突き出された鬼神の手の中央には、黒い穴があった。そこから放たれた物に、ぼくは腕で防御する意外に道は残されていなかった。

 鬼神が勢いのまま後方へと駆け抜ける、土を擦る音だけが耳に響く。

まただ……ぼくを庇った響子さんのように、まさか。

 痛みとは違う衝撃に、ぼくは全身を震わせた。 震える腕を避けて見回すと、息を荒げた水月が立っていた。

 

「水月さんじゃない」

 

 ほっとしたぼくは、足元を見て息を止めた。

 黒く細い矢に射貫かれ、動かなくなったチビがだらりと転がっている。

 カッと頭に血が昇る音が聞こえるようだった。

 振り返った先に立つ鬼神へと、一歩、また一歩と近づく足から恐怖は抜け落ち、土を踏みしめ進む力は、怒りだけだった。その怒りを、奥歯でぐっと噛み殺す。

 

「君が怒りを向けているのは、ぼくだろ?」

 

「和也! 止めるんだ!」

 

 背中にかけられた、水月の手を振り払う。

 

「鬼神と呼ばれる者に身を落とした君に、教えてあげるよ」

 

 無表情な鬼神の目の縁が、ぴくりと動く。

 

「君の両親に、ぼくは愛されなかった。ここに居るべきではない子供だと、本能で感じていたのだろうね。どうしてぼくは、これっぽっちも愛してもらえなかった? どうしてだと思う」

 

 怒りなのか、鬼神の唇がわなわなと震えている。ぼくの中の怒りは身を潜め、代わりに湧き上がるのは、吐き捨てる場所のない悲しみだった。

 

「それは、あの人達が、君を愛していたからだろうな。存在ごと消えた我が子を、記憶さえ消えた今でも心の根っこが覚えているからだろう」

 

「止めろ!」

 

 構え直した大刀を横に構え、鬼神が迫る。

 届かないのか……ナイフを振りかざしながら、無力感に心が萎えていく。

 目前まで迫った黒い大刀を払うつもりで、思い切りナイフを振り下ろした。

 

「うぐっ!」

 

 低い呻き声を残して鬼神の体が弾かれ、土にまみれて転がった。手に握った柄に白銀の刃はなく、代わりにだらりと長く垂れ下がるのは、鞭にも似た白銀の光り。

 無闇に振り下ろした素人のナイフが、まともに大刀を受け止めるはずもない。鬼神を薙ぎ払ったのは、紐状に延びる、白銀の光りだった。

 わなわなと身を震わす鬼神は、既に目の焦点が合っていない。

 

「くそ、見たくない! 見たくないのに!」

 

 呻く鬼神の袖は裂けて、そこから覗く腕には白銀に染まった傷が口を開けていた。黒い大刀を真横に振り払うと、掻き消すように鬼神は姿を消していた。

 

「チビ!」

 

 駆け寄って抱き上げたチビの体に、刺さっていた黒い矢は見当たらない。

 ミャ、と鳴いていた口からは小さく赤い舌が下がり、胸は僅かな上下もしていなかった。

 

「どうして助けたりしたんだよ」

 

 まだ温かいチビの体を胸に抱き寄せる。

 チビを抱えて膝を付く、ぼくの背中を水月の手がそっと撫でた。

 

――この子の命が消えた時、泣き崩れることのないよう、覚悟なさいませ。

 

 カナさんの言葉が蘇る。

 

――流されるままに漂うだけの、ただの存在となりましょう。

 

 チビが好きだったのは、あの少年の筈なのに。

 

――そんな日が来てしまったら、泣かずに笑ってあげてくださいませ。

 

「最後に笑顔で見送るのは、チビの仕事だろ?」

 

 堪えようとしても、チビの姿がぼやけていく。乱暴に涙を拭いチビの顔を眺めていると、閉じた瞼の隙間から、小さな黄色い玉が転がり出た。

 

「チビ?」

 

 そっと呼びかけたが、玉が答えるはずもない。少しずつ転がって鼻の横で止まった黄色い玉は、途方に暮れたように毛の間で浮いては沈む。

 

 ミャー

 

 声の主はシマだった。相変わらずの仏頂面でぼくを見上げるシマに戸惑っていると、ミャーと再び強く鳴いた。

 

 

 

 




覗いて下さった皆様、ありがとうございます!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。