原生林といっても過言ではない生い茂る木々の中、草の一本も見当たらないむき出しの土の道が、ひたすら真っ直ぐに続く光景は異様でさえあった。
すでにけっこうな距離を走ったぼくは、立ち止まって呼吸を整える。
小鳥の鳴く声が遠くから聞こえた。
何処の山にでもいるような虫が、我が物顔で飛んでいる。
風に葉がそよぐ。
ぼくだって森を駆け抜け、今はこうやって息を切らしている。
全ては動いている。時の流れの中、個々に動き続けていた。
なのに、まったく変化を見せないものがただひとつ。
「空の色が変わらない」
確認するかのように、ぼくは口に出して思考を巡らせる。
走りながら、ぼくは何度も木々の間に覗く空を見上げていた。
夕暮れ時なら尚のこと、空は刻々と色を変えるはずだというのに。
「カナさんの庭で見た空は、最初に格子戸から覗き見たのと同じ、日が沈んだ後を思わせる、灰色がかった薄ら青い空。もう暗くなってもおかしくないだろう?」
ここが自分の生活する空間とは異なる場所だと解っていても、自然の摂理に反することがあると不安になる。静と動、同時に進行するべき現象が相反する状況は、なんともいえず居心地が悪い。
歩きながら周囲に気を配ると、走っていたときにはわからなかった気配が、チクチクとぼくの肌を刺すのを感じた。
虫や鳥の存在はあっても、人はもちろん動物の姿さえ見てはいない。
だというのに、確かな気配と視線を意識せずにはいられなかった。
薄気味悪さに再び走りだしたぼくを、粘着質なそれは確かに追ってきている。
音もなく姿もなく、ぼくに標的を定めた意志のようなもの。
全力で走ったぼくは、さすがに息が上がって足を止めた。追ってくる姿はなく、いつの間にやら嫌な気配は消えていた。
「ねぇ、どこにいくの?」
人の声に飛び退き振り返ると、土の道の端に男の子が立っていた。
「きみはこんな所で何をしているの? 家は?」
七、八歳にしか見えない男の子は、つんつくてんの縦縞の浴衣を着て首を傾げる。
「ぼくは、存在しているだけ。ただ、それだけ」
薄暗い森の中で、少年が微笑む。
人ではないのだろうとぼくは思った。ならば、普通の子供に投げかける心配の言葉を口にしても、まったく意味などないだろう。
「あのね、この道を若い女の子が通らなかった? もしかしたら何日も前かもしれないんだ」
「見たよ」
少年の言葉に希望が湧く。
「いつ頃見たの? 誰かに追われたりしていなかった?」
男の子は細い首を横にふる。
「誰かに追われてはいなかった。必死に走っていたみたいだったけど」
何かがあったはずだ。誰にも追われていないのに、彩ちゃんが必死に走るなんて腑に落ちない。
「その女の子は、この道を向こうに行ったんだよね?」
「うん」
礼をいって走り出そうとしたぼくを、幼い声が呼び止める。
少年の小さな指先は、道の先を真っ直ぐに指していた。
「何があっても真っ直ぐに進むんだよ。まっすぐに、一直線だから」
軽く手を上げ微笑み返し、ぼくは走り出す。気にしなくてもと思いながら振り返った先に、少年の姿はすでになかった。
走りながら何度も彩ちゃんの名を呼んだが、返事はない。
カナさんはこの道を、彩に繋がる道といったがそれは彩ちゃんに会えるということなのか、会うためのヒントがあるということなのかさへ定かではない。
道は何処までも続く。
時折頭に当たるのは、木の枝から垂れ下がるツタ。まるで道を塞ぐかのように幾重にもツタが垂れ下がり絡まる場所では、無理矢理に手でこじ開けて先へと進んだ。
道は見えているっていうのに、何だか八方塞がりな感じだねぇ。
ぼくはひとり心の中で溜息を吐く。
体力に任せて走り続けていると、真っ正面に背丈ほどもある草が生い茂り道を塞いでいるのが見えた。
行き止まりかと走る足を緩めると、左に折れる道が急な上り坂になって続いている。先に続くのは、これまでと変わらぬ真っ直ぐな道。
「どこまででも行ってやる!」
坂道に負けまいと、ぼくは速度を上げた。回転を上げた足が着地するはずの地面を踏み外し、ぼくの体は後方に一気に傾ぐ。
「くそ!」
続いているように見えた道は途切れ、足を踏み外してすぐに手が掴んだ草は、あっけなく千切れ、ぼく急な斜面をめちゃくちゃに転がりながら落ちていった。
周囲で回る景色の色が滲んで混ざり合い、体勢を戻すどころか腕一本動かすことすらままならない。
何かに背中を強く打ち付け、肺の中の息が一気に吐き出される。噎せ返るぼくの周りの景色が今だ周回しているのは、おそらく目が回っているせいだろう。
軽い吐き気を覚えながら上半身を起こすと、自分が打ち付けられて止まったのは見たことがないほどの大木だということがわかった。
落ちてきた先は、崖とまではいかなくとも斜面が急すぎて、道具も仲間もなく登り切ることは無理だろう。
「まいったな。真っ直ぐに進めっていわなかったか?」
シャツからでていた腕には無数の傷から血が滲んでいる。ひりひりする顔面も、おそらく似たようなものだろう。
真っ先に思い浮かんだのは、彩ちゃんも同じ場所で足を踏み外したのではないかということだった。
道が続いているように見えたのは、単純な視覚のトリック。進んできた道が上り坂となり、その道を進む者にとは続いているように見える道の先は、反対側に聳える山に走っている道。僅かな条件が重なった不運。
だが進めそうな道はあれしかなかった。騙されたのか、何か見落とした自分がいたのかまったく判別がつかない。
こんな危険な道がここそこにあるのなら、彩ちゃんが傷を増やしていた理由もわかる気がする。
大木に背中を預け、今だ色を変えない空を見上げていたぼくは背中に当たる異物に体を浮かせた。ざらざらとした木肌とは明らかに違う何か。
痛む体を動かしたくなかったぼくは、軋む腕を後ろにまわしてその異物を手に掴んだ。
「紐の結び目?」
ごろりとした塊の端から垂れ下がる端を掴んで引くと、するりと抜けて手の中に残っていたのは、想像したとおりの細い組紐だった。背中に感じるほど結び目が大きかったということは、幾重にも重ねた紐を最後の結び目に引っかけていただけなのかもしれない。
体を捻って大木に向き直ると、紐は大木を縛っていたのか、はらりと地面に落ちた残りの紐が大木を囲んで輪を形どっている。
それを端からたぐり寄せ手の中に纏めたぼくは、目の前の大木を見てあっ、と声をあげた。
「こんなもの、さっきまではなかったのに」
大木はそのままの場所にそびえ立っている。だが、背中に確かに感じていたざらつく木肌は姿を消し、同じ場所にはつるりとした木肌の戸があった。
木肌より少し奥まって備え付けられたそれは、まるで巨大な木の虚を塞いでいるようで、人が少し腰を屈めれば十分に通れる大きさだった。
「どうみたって、ただの組紐だよな」
組紐をほどいた途端に出現した戸に戸惑いながら、ぼくは恐る恐る木の戸を軽く叩いてみた。
誰もいないのも嫌だが万が一誰か出てきたら、それは別の意味で少し恐ろしい。
耳を澄ませていても何の反応もないのを確かめて、ぼくは膝に手をついて立ち上がる。
まさか勝手に入るわけにもいかないしね。
骨はやられていないようだが、一歩前に足を出すたび太ももや背中の皮膚が悲鳴を上げた。
数歩歩いたそのとき、ギィィと戸の開けられる音が聞こえて、ぼくははっと振り返る。
外に向けて開け放たれた戸口を凝視していると、さらりとした長い黒髪と共に女性が姿を現した。
女性は地面に置いてきた組紐の塊を見てほんの少し目を見開き、そのまま視線を流してぼくを見る。
「あなたが、この紐を解いたのですか?」
落ち着いた大人の女性の声。
「はい。成り行きで解いてしまいました。まずかったですか?」
「いいえ」
綺麗だけれど表情に乏しい女性は、ぼくを小さく手招きする。
「中に入っていただけませんか。もうひとつ、解いていただきたいものが」
女性の力では解けないほど、きつく結ばれた何かがあるのだろうか。
女性の見た目が普通だったこともあって、断る理由のなかったぼくは、彼女に誘われるまま戸口の向こうへ足を踏み入れた。
想像したとおり大木の中は虚と化していた。どうやって造ったのか想像さえできないが、地下へと掘り進められた人工の階段が螺旋状に続いている。土の壁には時折、大木の根の表面が姿をみせていた。
女性は燭台に灯された蝋燭の明かりを片手に、無言のまま先を行く。
突如開けた空間にでたぼくは、部屋の様子に感嘆の溜息を吐いた。
部屋は三十畳ほどの広さで、吹き抜けの天井は高く、家具装飾品はまるで中世の城を思わせる豪奢なものだった。華美ではなく、落ち着いた豪華さとでもいおうか。
壁は階段と違い土がむき出しになることなく、年季を感じさせるくすんだ緑の蔦模様があしらわれ、所々に花の模様が散りばめられている。
「あの方から自由を奪っている、奇怪な鎖を解いていただきたいのです」
すっかり部屋の装飾に目を奪われていたぼくは、女性の声に我に返る。
女性が指さす先にあったのは、異様な光景だった。
黒い椅子に腰掛けている女性の手と足には細い鎖が幾重にも巻きつけられ、口に噛まされた布は頭の後ろで縛られている。目を覆う布と相俟ってほとんど顔は見えない。
ぼくはカッとなって、ここへと誘った女性に向き直る。
「どうしてあの布を解いてあげなかった!? たかが布くらい、あなたの手でも外してあげられたはずだろ!」
表情を変えることなく女性は俯き、それから真っ直ぐにぼくを見る。
「わたしでは、外せないのです。どれほど力を込めようと、外せないのです」
そんなことがあってたまるか。あんなものちょっと頑張れば小学生だって解けるだろうに。
女性を睨み付けて、ぼくは拘束された女性の元へと走った。
「すぐ外すから、ちょっとだけ我慢して」
頭の後ろで結ばれた布の結び目は、思いの外固かった。
黒のタイトスカートに白いブラウス。
ブラウスから透ける腕の影は細くて、見ているだけでも痛々しい。
結び目をこじ開けるように指先を捻り込み、僅かに広がった隙間から布の締まりを緩めていく。
最初に解けたのは目を覆っていた布。同じようにして、口に咥えさせられている布も解いた。
はらりと布がぼくの手の中に落ちると、拘束されていた女性の口から、長い吐息が漏れる。
「鎖を解くのは少し痛いかも。なるべく痛くないようにするから」
鎖に擦れた皮膚が、赤く色を変えていた。
「気にするな。わたしは痛みに強い。それから、蓮華を責めないでやってくれ」
れんげ? 女性の視線を追って、その名が指すのは自分が責め立てた女性であることを知る。
言葉に引かれて、拘束されている女性を見上げたぼくは息を呑む。
女性の顔を見て息を呑むなど、これ以上失礼なことはないだろう。
この場合は特に。
「驚いたか? 見苦しいだろうが気にしないでくれ。わたしは気にしていない」
「はい。すみません」
謝るな、といってくすくすと笑う声がする。
拘束された女性の右頬には、耳から頬の中央にかけて大きな傷が残っていた。
鋭利なもので深く切り裂かれなければ、残るはずのない引き攣れた傷跡。
ぼくは鎖だけに意識を集中して作業を続けた。
鍵も何も付いていないというのに、細く長い鎖はそれが複雑に絡まることで、鍵の代わりを果たしている。
滴る汗を手の甲で拭いながら、投げ出したくなるほど地道な作業を、三十分以上続けただろう。やっと足の鎖が解けて床に落ちた。
「次は手だね」
足を解いたときとは違って、女性の顔が視界の隅に入り込む。
綺麗な女性だ。
傷がなかったら、蓮華という人より人目を引くかも知れない。
傷が醜いから、目にしたくないわけではないんだ。
目にしてしまったら、彼女とどう接していいいのか解らなくて、言葉に詰まるのが嫌だった。
彩ちゃんの怪我を見てしまった時と同じだ。どうしていいか解らずに、なかったことにして過ごそうとする狡さが、今の事態を引き起こした。
肝心なひと言を、ぼくはいつだって言えないまま、気付けば大切な者を失っている。
細い鎖がするすると、女性の膝を滑って床へと落ちる。
久しぶりに自分の手を見たかのように、女性は何度も手を裏返し、太陽の光に透かす子供のように眺めていた。
「それじゃあ、ぼくはこれで帰ります」
「ありがとう」
背中に投げかけられたのは感謝の言葉。
「名前くらいは教えてくれないか? わたしは響子」
「西原和也といいます」
「そう硬くなるな。取って喰らいはしないよ」
響子さんは立ち上がると、手を上げて大きく体を伸ばす。
「ところで、どうして人の子がここにいる? わたしが拘束されていた十数年の間に、外の世は人の子が行き交うほどに変わったというのか?」
カナさんと会ったことで、人ではない者の世界があるのだとぼくは認識していたから、人の子といわれても、もはや驚きはしなかった。
ぼくは事の成り行きを、掻い摘んで話して聞かせた。
迷わなかったと言えば嘘になる。彼女たちが、ぼくや彩ちゃんに害がないなんて保証はどこにもないから。
一通り話し終えると、響子さんは遠くに記憶を馳せるかのように眉根を寄せた。
「その娘、確かにこちらに来ているのだな?」
ぼくは力なく首を振る。
「確かかどうかはわかりません。他に当てがなくて、カナさんの言葉を信じてここまできました」
「カナがいうなら本当だろうさ。少なくとも、その時点では彩という子はこちら側にいたのだろうな」
カナさんのことを知っているとは、意外だった。
「ここに来る途中で会った男の子に、真っ直ぐ進めといわれたけれど、突き当たりは草が生えて道が途切れていたから。曲がった道だとは思ったけど、この一本道を行けということなんだと思って、突き進んだ結果がこの有様です」
傷だらけのぼくの体を見て、響子さんはなぜか楽しそうに笑う。
「この世界で真っ直ぐ進めといったら、文字どおり真っ直ぐを指し示しているのさ。迷わずその草の中に飛び込めば、先の道が現れただろうに」
そういうことか。でも普通は考えないよ、そんなこと。
「ここをでる前に、ひとつだけ聞かせて下さい。蓮華さんは、ただの布を自分では外せないといっていたけれど、それはどうしてですか? 確かにきつく結んではあったけれど、女性の手でも何とかなったはずです」
ちらりと視線をやった先で、蓮華さんは背筋を伸ばして立ったまま、視線を床に落としている。黒いスラックスのスーツが、彼女の押し黙る頑なさに拍車をかけているみたいだった。
「いったであろう? 蓮華を責めるなと。君には簡単なことでも、それを蓮華はできない。これは外の世界から持ち込まれた異物だ。わたしを拘束するという念を抱きながら使用されれば、それは呪となる。呪をかけられた外界の物は、私たちの力の一切を寄せ付けない。だから、蓮華は悪くないのだよ」
この世界の理。無知を棚に上げて、蓮華さんを責めた自分に腹が立った。
「あの、蓮華さん。知らなかったとはいえ、すみませんでした」
正面に立って頭を下げると、蓮華さんの両手がぼくの肩をそっと支えた。
「謝る必要などありません。外の世界からきたあなたが偶然に戸口を縛っていた紐を解かなければ、わたしと響子様はここに閉じ込められたままだったのですから。感謝しています。頭を下げなくてはならないのは、わたしの方です」
深く頭を垂れる蓮華に、ぼくはもう一度一礼した。
「とりあえず、ぼくは彩ちゃんを捜しにいきます。もしかしたらぼくみたいに転がり落ちて、どこかで怪我をしているかもしれないから」
「探しにいくのは止めないよ。だがね、今ここからでるのは止めた方がいい」
「どうしてです?」
「ここは完全に日が落ちることなど滅多にない。だが、定期的に日は暮れる。たった三時間ほどだが、完全な闇が森を包む。この世界にとって、もっとも危険な刻だ。明るい時とは、森に姿を現す輩も質が違う」
「三時間ですか」
その三時間を、自分は後悔しないだろうか。たった三時間が、手遅れな事態を
招きはしないだろうか。
響子さんが指さした壁時計が、重い鐘の音を鳴らす。
「たった今、日が沈んだという知らせです」
蓮華さんがいう。
迷いを吹っ切れないぼくの顔を、近寄ってきた響子さんが覗き込む。
「いま外へ出たら……死ぬよ」
まるで明日は雨よ、とでもいっているかと勘違いしそうに穏やかな表情だ。
「助けて貰った礼だ。この世界を生き抜くつもりなら、最低限知っておいた方がいいことを、闇が明けるまでに教えようじゃないか」
死ぬほど危険だという外の闇に、彩ちゃんがひとりでいるかと思うと胸が痛い。
だが自分が死んでは、助けることさえ叶わない。
――せっかく巡り会った彩に、おまえの骸を担がせるつもりかい?
カナさんの言葉が胸を過ぎった。
「日が昇ったら、すぐにここをでます」
「いい子だねぇ」
響子さんが微笑む。
はやる気持ちをおさえて、蓮華さんが勧めた席へとぼくは腰を下ろした。
重なるように筋となって血の滲む、自分の腕に視線を落とす。これと同じような傷が、彩ちゃんの体についていないことを祈った。
不安を押しつぶそうと握った拳の傷が開き、赤い血が細くゆっくりと手の甲を流れていく。
今日も読みに来て下さった方、ありがとうございます
ほのぼの空気の喫茶店へ、戻れる日はいつくるのやら。