キャミにナイフ   作:紅野生成

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49 戻らずの橋

 ほとんど眠れないまま一夜を過ごした。

 様子さえ見に行かなかったことを、響子さん達は訝しむだろうか。口元に人差し指を押し当てたカナさんは、おそらく全てを知っていたのだろう。

 考えただけで、体中の毛穴から息が漏れ出る。

 父である水月には人の子の血が半分混ざり、ぼくへと受け継がれた血には更に、人であった母の血が流れている。響子さんや水月寄りの存在かと問われれば、間違いなくぼくは人の子に寄った存在なのだろう。だが、こうも言えるだろう。

 血の濃さでいうなら、純粋にこちらの世界の者とはいえない。

 寄っているとはいえ、人の子ではありえない。

 布団の上にぼんやりと座りながら、自然と口の片端が上がっていく。

 どろどろとした血は、体中を巡ってぼくを縛り付ける、理の鎖にしか思えなかった。

 

 七輪で魚が焼ける匂いが、障子の隙間から流れ込む。陽炎が、早くから朝餉の仕度を始めたのだろう。眠気とは違う瞼の腫れぼったさを、どう言い訳しようかと指先で揉みほぐす。

 

「響子さんが心配で眠れませんでした、なんて信じるわけないよな」

 

 障子を開けると、庭の端で煙を上げる七輪の横、チビがちんまりと座りもくもくと揺れる白い煙を眺めていた。昨日シマから分けて貰った、小魚の半分が余程美味しかったのだろうか。

 ぼくの姿に目をくれることなく、じっと見上げているチビを見てくすりと笑いが漏れる。

 

「よし、いってみるか。まだ笑える」

 

 誰も居ない廊下でひとり、にっと笑顔を作ってみる。響子さん達の前で、自然に振る舞えるだろうか。それより、普通ってどんなだった? いつもぼくは、どんな風にみんなと接していたのだろう。自然に振る舞おうと考えるほどに、当たり前だった今までの自分が霞んでいく。

 

「水月さんにはおはよう、だったかな? ございます……だったか?」

 

 無音の発声練習みたいに顔をぐにゃぐにゃと動かして、ぼくは勢いよく障子を開けた。

 

「おはよう! ……ございます」

 

「なんだぁ? 朝から間の抜けた声だな」

 

 布団の上で座る響子さんの傍ら、水月が無精髭の伸びた顎をしゃくる。

 

「まだ眠いんだよ。どう? 響子さんはだいぶ調子が良くなった?」

 

「あぁ、全快というわけではないが、異常な回復だと自分でも思うよ。あの煎じ薬は、まったく化け物級の効能を持っているらしい」

 

 昨夜より頬に血の通っている響子さんを見てほっとした。

 

「ところで水月さん、そのボロボロ加減はどうしたの?」

 

 水月の顎の下には無数のひっかき傷が赤い後を残し、シャツの肩口は糸が解れて裂けてしまっている。まるで猫が服を着て喧嘩した後のようだ。

 

「一晩中寝ずの番で、煎じ薬を飲ませたあげくがこの仕打ちだ。和也、女だけは選び間違うなよ」

 

 止めておけばいいのに、最後のひと言が多いって。

 スパンという音を立てて、響子さんの平手が水月の後頭部を張り飛ばす。

 

「それにしても、若いくせに腫れぼったい目だな?」

 

 からかう水月に、ぼくはむっと頬を膨らませる。

 

「もうすぐ朝ご飯みたいだよ。流血沙汰になるから、それ以上喧嘩しないでね」

 

 けっという表情の二人を残して部屋を出る。障子を閉めると、胸に溜まっていた緊張が一気に吐き出された。

 相変わらず七輪に張り付いている、チビを眺めて廊下に腰をおろす。いつもならミャくらいはいってくれるのに、ぼくが側に座っても髭一本動かさないときた。

 

「食いしん坊め」

 

「焼き上がったら、シマに知らせにでもいくのでしょうよ」

 

 振り返ると涼やかな表情のカナさんがいた。ぼくの隣にすっと座ったカナさんの腰帯で、小さな鈴がチリン、と鳴る。

 

 ミャ

 

 まるで返事をするようにチビが鳴く。ぼくには挨拶無しだったのにと、ちょっとだけ心の中でむくれると自然に下唇が前へ出た。

 

「まったく、チビは何者なんだか」

 

 ただの独り言だった。

 

「子猫に見えて、この子の真は異質な者。この子のような者が、自由に風を感じ他者に寄り添い温もりを得るためには、依り代が必要にございます。長い時の中幾度となく依り代を替えてきたでしょうが、この様な小さな者に宿っている所をみると、残る力はけっして多くはないのでございましょう。後一度依り代を離れたら、他の依り代を得ることはできないかもしれませんねぇ」

 

 依り代を失ったチビを思い浮かべると、そこには死という概念しか当てはめられない。

 

「その時チビはどうなるのですか?」

 

「流されるままに漂うだけの、ただの存在となりましょう」

 

 無心に煙を眺めるチビの姿が、一瞬薄れた気がした。

 

「仕度ができましたのでどうぞ。響子様と水月様はお部屋でお召し上がりになるそうですよ」

 

 愛らしい笑みを浮かべた陽炎さんは、チビの姿を見つけるとすっかり心を奪われたように両手で頬を挟む。

 

「陽炎は放っておきましょう。あの様子では、チビに魚を与えるまで庭から離れませぬよ」

 

 くすりと笑うカナさんと一緒に、座敷に据えられた膳の前に腰をおろす。

 温かい手料理が喉を優しく流れていく。格子戸を閉めて幾日も経ってはいないというのに、何年も人の温もりがする食事から遠ざかっていた気がした。

 

「カナさん、陽炎さんはどうなるのですか? ここからカナさんが居なくなって、この屋敷を囲む空間が消えてしまったら」

 

 愛しむような、それでいて寂しげに、カナさんは美しく切れ長な目を細める。

 

「闇と人の世が入り交じり、混沌としていた平安の世が生みだしたのが陽炎にございます。生とも死とも違う理の輪から、陽炎は決して抜け出せないのでございますよ。あれほど一人になることを恐れていた陽炎ですが、抜けられぬならその内を渡って、己の存在理由を見つけてみようと思うのだと、そう申しておりました」

 

「存在理由ですか」

 

「在る男が古の時から、暗闇の水面を緒木船で漂っては沈む魂を拾い上げているように、陽炎もまた、あの子にしかできない方法で、他者に手を差し伸べ続けるのでございましょう」

 

 箸を置いたカナさんが、ゆったりとした笑みを浮かべて瞼を閉じる。

 

「陽炎の時は、ようやっと動き出したのでございますよ。そして、永過ぎたわたしの時は、もうすぐ終わりを迎えましょう。ようやっと、終われるのです」

 

 最後の言葉は、噛みしめるようなものだった。

 

「おーい、陽炎ちゃん?」

 

 器用に両手に膳を抱えた水月が、ひょこりと顔をだす。

 

「お呼びでしょうか?」

 

 庭で慌てて立ち上がった陽炎は、目をぱちくりとさせている。ちゃん付けで呼ばれたことなど、最近はなかったのだろう。 

 

「すごく美味しかったよ。ご馳走様でした。重いから流しまでは俺が運ぶから」

 

 すみません、と何度も頭を下げて、陽炎が水月を奥へと案内する。

 

「浅ましいほどの態度の違いだな。響子さんになんて、優しい言葉をかけるどころか女性扱いだってしていないのに。中年根性まる出しじゃないか」

 

 呆れて笑うぼくにつられたように、カナさんも可笑しそうに肩を揺らす。

 

「水月様は、育ちの良い方でございましょう。元から崩れている者と、躾けられた者が敢えて崩すのでは、大きな違いがございます。お母上がきちりと育て上げられたのかと」

 

 ぼくにとっては婆ちゃんだ。厳しい人だったのだろうか。会えていたら、幼いぼくを可愛がってくれただろうか。想像の中でさえ顔の見えない祖母に思いを馳せる。

 

「おい和也、響子は大事をとって今日一日ここで休ませる。俺達は一度町へ行ってみよう。出かけることを響子に伝えて、例の煎じ薬を口に流し込んでくるからちょっと待っていろ」

 

 気合いを入れた水月の足音が遠ざかる。

 

「和也様、先ほどの話でございますが」

 

「なんでしょう?」

 

 カナさんは立ち上がると、庭と座敷を隔てる障子の縁に手をかける。

 

「陽炎のように、新しく道を切り開くのも生きる道でございますが、古巣に戻るもまた、新しい道なのでございますよ」

 

 何のことだろう。

 

「存在が抜けた空間には、ぽっかりと穴が空くのでございます。わたしや陽炎のように、他の者によって埋められる穴は、入れ替わり他者が役目を果たしてゆく、この世の裏舞台にございます。」

 

 カナさんの切れ長の目が、すいとぼくを流し見る。

 

「ですが他者には埋められぬ穴が在るのも、この世の真にございます。和也様は、異なる血をその身に巡らせる、異端にございますゆえ」

 

 カナさんは言葉を切り、視線を庭へと向けた。

 

「戻る道もあるのでございますよ……人の世へ」

 

 止められないまま荒くなる呼吸に、唇が乾いていく。

 想うだけなら、何度あの場所へ帰ったことだろう。懐かしい場所へと繋がる橋は、格子戸によって閉ざされたまま。

 

「おや、こんなことを言っては、水月様に恨まれてしまいますねぇ」

 

 空を見上げて目を閉じたまま、カナさんはもう何も語らなかった。

 冷えた小魚を咥えて、チビが庭の隅へと走っていく。

 

「帰るなんて、手を伸ばせば割れる泡みたいな夢です。とりあえず、水月さんと町へ行ってみますね」

 

 客間から出てきた水月に手を上げ、ぼくも庭へと降りる。カナさんに頭を下げ、庭の中程まで歩いたとき、突き上げるように地面が揺れた。

 足元から少し離れて、庭の土が盛り上がる。出来損ないの彫刻みたいに、ぱらぱらと土の粒を零しながら人の姿の前面が庭の土に模られた。

 

「野坊主さん?」

 

 前を行く水月も足を止めて振り返る。

 

「刃は命を奪いもするが、峰で受けたなら人を守る盾ともなる。言葉も記憶も同じであろう。他者の心を照らす光にもなれば、深層を抉る刃と化すことも造作ない。同じ言葉、同じ記憶でも受け手によって違う意味を汲み取るであろうな。魂とは、人とは不思議な者よ」

 

「野坊主さん、いったい何のこと?」

 

「黒い渋茶の礼でござる。カナを最後に、二度と他者の運命に介入すまいと決めていたが、独り言故、構いますまい。良い思い出のない人の世でござったが、いずれ消えゆくこの身ゆえ、黒い渋茶の香りを、永き今生の土産といたしましょうぞ」

 

 ぐらりと大きく揺れた大地にふらつき、はっと野坊主の姿が在った辺りに目をやったが、少し乾いた庭の土が平坦にあるだけだった。

 

「誰かいたのか?」

 

 ぼくが視線を落とした先と顔を交互に眺めながら、水月は不思議そうに口をつぼめる。

 

「野坊主さんというお坊さんです。たぶん、最後の別れを言いに来てくれたのだと思う」

 

「へぇ」

 

 関心を失ったらしい水月が歩き出す。もう一度だけ庭の地面に目をやり、軽く頭を下げてぼくも水月の後を追った。

 

「ナイフに刃があってもどうかと思うけれど、何せ今は完全な丸腰だからね。妙な輩に出くわしたら、二人ともあの世行きだよ?」

 

「どうせ何時かは、死ぬなり消滅するなりするんだ。細かいことは気にするな」

 

 水月の背中を見ながら、少しだけ悲しい気持ちでぼくは微笑む。

 まだやりたいことがあるだろうに。探し続けた息子と、商売をするんだろ? ぼくに、父親だといつか名乗ってくれるつもりでしょう?

 

――戻る道もあるのでございますよ……人の世へ。

 

 カナさんの声が、耳鳴りのように頭の奥で木霊する。

 何も知らなかった時には戻れない。たとえ帰れたとして、人生をかけて自分を探し続けた水月を置いていく自信はなかった。

 初めて手の届く所に居る肉親を、手放すことなどできそうにない。

 

「おい、おい? 少しは周りに気をくばれよ。丸腰なのは俺も同じだ」

 

 呆れた顔で振り返る水月に、ひらひらと手を振って大丈夫だと伝える。

 その時だった。直ぐ横の草むらが揺れ、草陰のギョロ目が半分顔を出す。

 

「つい最近、ばたばたと町の人間が姿を消したろう? ありゃ鬼神の仕業じゃないぜ」

 

 鬼神だと思い込んでいたぼくは、あまりに意外な情報に眉を顰める。

 

「他に誰が居るっていうんだい? もともと継ぎ接ぎの町は鬼神の餌場と言われていたじゃないか。鬼神意外に、魂を取り込む奴などいないだろ?」

 

 けけっ、と小馬鹿にしたように草陰のギョロ目が笑う。

 

「まったくの豆腐頭だな。幼稚な破壊者に阿呆が加わったら、無敵の馬鹿が出来上がるぞ。鬼神は自分が喰らったと思わせたいだけだ。勝手に魂が隙間から抜け出したなんざ、死んでも認めないだろうよ」

 

 魂が抜け出した? 想像が現実に追いつかなくて、戸惑いだけが唾と共に呑み込まれる。

 

「ぼく達の思い込みってこと?」

 

「鬼神を買い被りすぎなのさ。湖面を平たい板で叩けば跳ね返される。だが縦に押せば簡単に沈むだろ? お前達はずっと、鬼神を真っ平らな板の面で叩いていたようなものだ。愚行を繰り返すな。駄目なら、根本から方法を変えるんだな。情報料はいらないぜ。俺達も金より命が大事なんでな」

 

 ばさりと音を立てて、草の割れ目が閉じられる。

 

「俺にも良くわからんが、耳にした事は心に留めておけ。何時か全てが入り交じり、答えを導くこともあるさ」

 

 あぁ、と頷いて歩き出す。無駄なことなら指一本動かすはずのない草陰のギョロ目が、ぼくに何かを伝えようと姿を見せた。刃を失ったことを知らないわけではないだろうに。

 前を行く水月の背は大きい。決して体格の大きな方ではないが、今のぼくにはヤケに大きく見える。幼い日に負ぶさったであろう暖かな背中に、押さえきれなくてそっと手を伸ばす。

 

「やっと町が見えてきたぞ」

 

 振り向いた水月に、慌てて持ち上げた手を引っ込め背中に隠す。

 

「佐吉さん達の所に雪さんが居るはずだから、取りあえず小屋にいってみようか」

 

 そうだな、と水月が一歩踏み出した膝が折れる。

 木々に囲まれた小径を、小刻みに激しい揺れが襲う。立っていられなくなったぼくは、片膝をついて水月の肩に手を回した。

 森の木々が地鳴りと共に、ずぶずぶと地に吸い込まれていく。節くれ立った魔女の指のような枝さえ、まるで自ら望んだように天に向けてその身を縮め、土を跳ね上げならが呑まれていった。

  

「痛っ!」

 

 水月の肩から手を離し、転がるように尻を付いて水月の背に凭れ、熱湯を浴びたに近い痛みに、手首を押さえつける。意思に反して手首から柄が押し出され、すっと手の中に収まった。

 熱を帯びて柄を生みだした右の手首には、古い火傷の跡みたいに赤い引き攣れ。引き攣れた傷跡から、僅かに血が滲む。

 

「まただ、血の臭い」

 

 森の奥へと波が引いていくように、ぼく達の周りから木々が消えて行くのを呆然と眺めていた。

 




読んで下さった皆さん、ありがとうございました
本当はこの後に上げる一話と一緒にしたかったのですが、あまりにも長くなりそうだったので、分けることにしました。わりと続けて投稿すると思いますが、どうぞお暇なときにお読み下さいませ。
自分の中でやっと明確に、終わりが見えてきました。

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