キャミにナイフ   作:紅野生成

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48 盗み聞き

「和也!」

 

 平手で脳天を張られた衝撃で我に返ると、少し離れて蹲る蓮華さんに駆け寄る水月の姿があった。

 

「庭ってのはどこにある? カナって女性が居る庭だ!」

 

 蓮華さんの肩を支えて立ち上がらせた水月は、だらりと力の抜けた響子さんの腕の下に素早く自分の腕を滑り込ませ、軽々と肩に担ぎ上げる。

 

「カナさんの庭なら知っているけれど、どうしてそこへ?」

 

「いいから早く案内しろ!」

 

 たしかにカナさんなら何か、響子さんを助ける方法を知っているかもしれない。飛ぶように立ち上がったぼくは、後ろを振り返りながら駆けだした。

 

「急げ! 女の一人くらい背負っていても走るくらいできる」

 

 水月に頷いて、前を向いて駆けだした。

 ぼくの前を白い毛玉が転がっていく。チビが水月を呼んできたのだろうか。ちらりと振り返ると、チビを追って全力に近い速度で走るぼくの後を、言葉に違うことなく水月がついてくる。その後ろを走る蓮華さんが若干遅れてはいたが、最後尾を守るように走る雪に全てを任せ、今は全力で走ろうと思った。

 響子さんの体に目立つ傷はなかった。口から流れた血が、どんな攻撃によるものなのか解らないことが不安で、腕を振る先で固く拳を握りしめる。

 

 庭が見えてきた辺りで一気に速度を上げた雪が隣に並び、自分は佐吉達の様子を見てくるとだけ言い残して、風のように姿を消した。

 駆け込んだ庭では、いつものように庭に面した廊下で、壁に背を預けたカナさんが座っていた。

 

「カナさん!」

 

 顔を上げたカナさんは、水月に担がれた響子さんを見てすいと目を細める。

 

「あんたがカナさんか? 響子があんたは物知りだと言っていた。どうにもならないことがあれば、あれは頼りになる女だと。こいつを助けられるかい?」

 

 廊下に横たえられた響子さんの頬をそっと撫でたカナさんは、熱い湯にでも触れたようにさっと細い指先を離す。響子さんが倒れるまでの経緯を話すと、カナさんは長い睫を伏せて目をとじた。

 

「響子さんの体内に入り込んだ、あの黒い帯状の物がなんなのかさえ解りません。外傷もないのに、口から血を流して気を失ったから」

 

 ぼくに言える事は多くない。

 覚束ない足取りで近寄ってきた蓮華さんが、そっと響子さんの手を握ったが、その手をカナさんがそっと引き剥がした。

 

「これと似た状態に陥った者を、昔見たことがあるのだよ。あまり長いこと触れてはいけない。邪気に当てられてしまうからねぇ」

 

 薄く瞼を開いたカナさんは、遠い日を見るようにそういった。

 

「邪気? そんな、水月さんはずっと響子さんを担いできたんですよ?」

 

「そちらの御仁は心配入りやしませんよ。どうやらその御仁、混じりけがないと言うわけではなさそうにございますから。己の内で飼い慣らした闇は、この邪気にさえ勝るだろうからねぇ」

 

 訳のわからない言葉に振り返ると、水月はすっと視線をそらした。

 

「カナ様、響子様を助けて下さい。わたしにできることなら何でもいたします」

 

 深く頭を下げる蓮華さんの指先から、すでに震えは引いていた。やはり彼女は強い人なのだと、響子さんの為ならどこまでも強くあろうとする人なのだと思った。

 

「立ち枯れ草を煎じたものを飲ませれば、邪気が体の内から抜けていくでしょうよ」

 

 立ち枯れ草という希望を耳にした蓮華さんは、唇を真一文字に引き締め、スーツの襟をすっと胸元まで整える。

 

「それは何処にあるのですか?」

 

「この屋敷の庭ほどの広さで自生している野草で、文字通り立ち枯れたまま生えているのですよ。ただその自生地は幾重にも重なる茨で内も外も覆われていてね、生身の者が立ち入れば、無数の刃の中をくぐり抜けると何ら変わりない。だからどれほど優れた煎じ薬になると解っていても、取りに行く阿呆はまずいない。それに、わたしは自生している場所を知らないのだよ。だから教えようもないねぇ」

 

「そんなに貴重な薬草が、どうしてこの屋敷に?」

 

 カナさんと陽炎意外に、ここで人を見かけたことはなかった。

 

「昔、居たのでございますよ。好いた者の為に立ち枯れ草を取りにいった、愛しい阿呆者が一匹」

 

人ではない者ということか。

 遠い日を懐かしむようなカナさんの表情は、春の日だまりのように柔らかい。

 

「必ず探し出して見せます」

 

 さっと踵を返した蓮華さんの顔の前に、丸く小さな白い玉が跳ね上がる。駆け出そうとしていた蓮華さんの足が、白い玉を避けて一瞬止まる。

 

 ミャ

 

 蓮華さんに向けてひと声鳴いたチビは、ぴょんと跳ねて向きを変え、残欠の小径へと続く庭の奥へと走りだす。

 

「チビ?」

 

 庭で葉を揺らす木々の向こうから、鋭利な跳躍の残像を残して飛び出る影があった。

 我に返って後を追う蓮華さんが、駆け出した足を止める。

 

 ミャー

 

 蓮華さんの横へと駆け寄ったぼくが目にしたのは、シマに咥えられ身を揺らすチビの姿。シマは何事もなかったかのように、右に左にと揺れるチビの首を咥えて庭の隅へと姿を消した。

 

「そう慌てなさいますな。問われたから、立ち枯れ草の在り方を語ったまでのこと。この屋敷の奥に、確か少量残ってございます。シマはそれを知っていて、代わりに取りに行こうとしたチビを止めたのでございますよ」

 

 カナさんの表情に、今日初めての笑みが浮かんだ。

 カナさんが二度手を打つと、奥の障子が開き陽炎が姿を見せる。

 

「立ち枯れ草が奥の棚にあるはずだから、急いで煎じてもらえないかい? 少し急がなくては、響子といえど耐えられる刻は限られる」

 

 はっと目を見開いて、廊下に横たわる響子さんの姿に驚きの表情を浮かべた陽炎は、声を出すことなくひとつ頷くと、急ぎ奥へと戻っていく。

 

「響子さんは大丈夫でしょうか」

 

 聞かずにはいられなかった。

 

「煎じ薬が効けば、直ぐにでも良くなりましょう。あの薬草は、まっこと良く効きますゆえ。それにしても、無謀な方ばかりが揃ったこと。おなごの身で立ち枯れ草を躊躇なく取りに行くなど。代わりに行こうとしたチビも、以前にも増して無謀になったこと。己を囲む者達に、似てきてしまったのでしょうかねぇ」

 

 呆れたように息を漏らすカナさんの表情は、庭に吹く風を受けてとても柔らかい。その表情が、ぼくに安堵をもたらしてくれる。

 横たわる響子さんの胸は激しく上下を繰り返すだけで、いっこうに意識を取り戻す様子はない。 眉は苦しげに歪められ、横を向き半開きになった口の傍からは、今も血が伝い流れている。

 

「これこれ、無理をしてはいけないねぇ」

 

 シマに解放されたチビが廊下に飛び乗り、ちろりと響子さんの頬を舐めようとしたところを、カナさんが抱き上げ窘める。

 

「おまえは良い子だよ。少しくらいは、己を大切に扱いなさいな。おまえが居なくなったら、悲しむ者も居るのだから」

 

 チビが少年と深く繋がっているのは解る。だがぼく達の為にどうしてここまでしてくれるのか、それだけは幾ら考えても解らない。

 優しくチビの頭を撫でるカナさんの指先を眺めながら、見透かすことのできないチビの心に思いを馳せた。

 

 

 響子さんの口から流れる血を手ぬぐいで拭きながら、どれくらいの時間が経っただろう。

 

「カナ様、煎じたものを取り急ぎ持って参りました。残りは濃く煎じ、後ほど飲んでいただきましょう」

 

 匙と湯呑みを一つ置いて、陽炎は小走りに奥へと戻っていく。

 カナさんが、水月に向け手招きした。

 

「俺が支えよう。紹介を忘れたな、俺の名は水月」

 

「では水月様、響子の背を起こしていただきましょうか」

 

 水月に背中を支えられた響子の口に、匙にすくった煎じ薬が少しずつ注がれる。

 煎じ薬が舌の上を転がったことを示すかのように、響子さんの体がぴくりと跳ね、更に苦しげに眉根を寄せた。

 

「大丈夫ですか? 響子様の表情が苦しげで」

 

 おろおろと自分の肩を抱き膝を付く蓮華さんに、カナさんは微笑み返す。

 

「顔を顰めたのは、きちんと煎じ薬が口に入った証拠にございます。何しろこの薬の苦さ辛さは、他に類をみませんからねぇ」

 

 根気よく煎じ薬を口に運び続けていると、げほりと咳き込んで響子さんがぼんやりと瞼を開けた。

 

「響子さん、ぼくがわかる? ここはカナさんの庭だよ。もう大丈夫だから安心して」

 

 はっきりと声が聞こえていないのか、響子さんの視線がこちらに向けられることはなかった。

 

「おい響子、しゃきっとしろ! 湯呑みの煎じ薬を全部飲むんだ。匙で流してたんじゃ日が暮れちまう。苦いらしいが、吐き出すなよ」

 

 水月が無理矢理に響子さんの頬を片手で挟み、開いた口に湯呑みを押しつけた。

 一度は吐きかけた響子さんだったが水月の声が届いたのか、顔を顰めながらも煎じ薬を喉へと流し込む。

 

「良かったねぇ、ここへ運ばれていなければ、明日には二度と戻らぬ者となっていただろうよ。水月様、奥に布団がございます。そこまで運んで、陽炎が煎じ終えるまで寝かしつけてはいただけませんか?」

 

「わかった。ありがとう」

 

 水月の礼に、カナさんは小さく首を横に振る。

 

「他の方も、しばしおくつろぎくださいな。慌てても心を煩っても、どうにもならない時が在るのはこの世の常にございます。休めるときに休むのも、利口者の策にございましょう。奥から酒でも持って参りますから、少々お待ちくださいな」

 

 ゆっくりと立ち上がったカナさんの腰帯で、小さな鈴が鳴る。

 

 リーン

 

「おまえ、チビには優しいのだねぇ」

 

 くすくすと笑いながら障子の向こうへ消えたカナさんは、まるで腰帯の鈴に話しかけているように見えた。深く尋ねるのはやめよう。この庭なら、木々が歩き出しても不思議な気がしないもの。

 カナさんが運び出した七輪が庭先に置かれ、小魚の焼ける香ばしい薫りが漂う。だされた酒に少し躊躇したものの、水月に肩を叩かれてぼくも杯に口をつけた。

 焼き上がった小魚を、カナさんが庭の小石の上に一匹のせると、冷めた頃にゆったりとした歩調でシマが出てきた。美味そうに齧り付いていたシマが、ひょいと顔を振って、隣で物欲しげに眺めていたチビに投げたのは、小魚の尻尾の方半分で、チビは嬉しそうにそれを食べると、シマの後について木々の向こうに姿を消した。

 

「カナ様、これを」

 

 煎じ終わった薬を湯呑みに入れて、陽炎が姿を見せる。火の側にずっと付いていたのか、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 

「水月様、響子を起こして、これを飲ませてくださいまし」

 

 ぼくも行こうと立ち上がると、カナさんに座るようにと促された。

 

「響子はあの気性ですから、弱ったところを人に見られたくはありますまい。ここは水月様にお任せして、暫しここで待つのが良いかと」

 

「はい」

 

 様子を見に行きたくてしょうがなかったが、確かにぼくが居ることで、響子さんは気丈に振る舞おうと無理をするかもしれない。だからって、水月ならいいのかと不満も残る。

 

「あぁ、何で鬼が人の皮を被ったような、気の強い女の世話係が俺なんだか。俺の好みとは真逆なんだよな」

 

 ぶつぶつ文句を垂れながら、それでも湯呑みを持って水月は響子さんの眠る部屋へと入っていった。いい加減ぶってはいるが、根は真っ直ぐな男なのだとぼくは思う。

 その水月が内に抱えた闇とは……思い出したカナさんの言葉を払うように頭を振る。

 

「えっ、地震?」

 

 辺り一帯が揺らいだ気がして、ぼくがきょろきょろと周りを見回すと、カナさんが驚いたように目を丸くした。

 

「さすがですねぇ。地震ではございませんが、場が揺らいだのをお感じになったのでしょう。もうすぐここに、野坊主が参ります」

 

 野坊主と面識がない蓮華さんが、きょとんとした表情でぼくをみる。

 

「知り合いだよ。大丈夫、お坊さんだから」

 

 再び辺りが大きく揺れたが、蓮華が気付く様子はない。現実の揺れとは、おそらく違うものなのだろう。

 

「和也様、野坊主が参りました」

 

 カナさんの白く細い指先が指したのは、何もない板張りの壁。何気なく目をやったぼくは、板張りの壁の変化に目を見張った。

 何の変哲もなかった板張りの壁が、座した人を模って盛り上がる。精巧な彫刻にも似た人型は確かに野坊主で、だが板張り模様に阻まれて、細かな表情を見て取ることはできなかった。

 

「野坊主さん?」

 

――久しぶりでござるな。

 

 くぐもって響く野坊主の声は、確かに壁の方から聞こえてくる。

 

「この御仁、昔は恰幅の良い方でしたのに、今ではすっかり細くなってしまわれた。もう古い付き合いですが、この身の細さだけは何度見ても慣れないねぇ」 

 

 そういってカナさんは、酒を満たした杯を口へと運ぶ。

 あぁ、そうだ。野坊主に会えたのなら、言わなくては。

 

「野坊主さん。あなたの期待を裏切るようなヘマをしでかしました」

 

――ほう。

 

「彩ちゃんから受け継いだナイフ。刃がもうないんです。折れて弾け飛んだ刃は、光りの粒と成って大地に戻ってしまいました」

 

 手首に意識を集中すると、鈍い痛みを伴ってナイフの柄が手の中に姿を見せる。

 壁に模られているというのに、野坊主が細い眼を見開いたのがはっきりと見てとれた。

 

「すみません」

 

 それ以外言葉がみつからない。

 

「和也様は、わたしと響子様を助けるために刃を失ったのです」

 

 更に言葉を続けようとする蓮華さんを、野坊主は僅かに手の平を上げて制すと、声なく肩を揺らす。ふわりと緩む口元を見て、笑ったのだと思った。

 

――失ったのは彩の刃であろう? 彩が母から譲り受けたとき、その柄に刃はなかった。最初に刃の種を生んだのはおそらくは母の力。小さな刃を大きく打ち直したのは、彩の強さであろうよ。 

  

「強い心がなければ、刃は持てないということ?」

 

――いとも簡単に刃が折れたのは、それが彩の刃であって、和也殿の物ではなかったというだけのこと。他者の造りだした刃に、介入できる力など限られる。強い思いだけでは、人の子にできぬこともある。人の子が存在の限界を超えるのは、考えでも想いでもなく、その身を突き動かす強き衝動であろうよ。魂を焦がすほどの、強き衝動であろうよ。

 

 

「彩ちゃんのお母さんは、娘に自分の後を継がせるために?」

 

 野坊主は、ゆっくりと首を横に振る。

 

――彩に渡された刃に込められたのは、残欠の小径やこの庭を守り続けた己の責務ではあるまい。最後に残ったのは、己が居なくなっても娘を守ろうとする、母として湧き上がる情の残滓。

 

 彩ちゃんを残して自ら鬼神に呑まれた彼女を思うと、胸が軋む。自分の手を離れた柄に小さくとも刃を据えるほどの想いとは、いったいどれほどのものなのか。

 

――その柄にどのような刃を生みだすかは、そなたしだいであろう。わたしは無念になど思ってはおらぬよ。今この時も、和也殿を見込んだこと、後悔してはおりませぬゆえ。

 

 壁に模られた野坊主の姿が、壁の中へと吸い込まれていく。徐々に起伏を失っていく壁に、ぼくは静かに頭を下げた。

 顔を上げたときには、平らな板張りの壁がそこにあるだけとなっていた。

 

「野坊主さんは自分を似非坊主だといったけれど、ぼくにとっては、どんな高僧より立派な坊様に見えます」

 

 ぼくがいうと、カナさんは嬉しそうに目を細める。

 

「わたしもそう思いますよ。けれど野坊主は、周りがどれほど言い聞かせたとて、己の業で身を焼き続けるのでございましょう。愚直な男にございます」

 

 その後は誰も口をきかぬまま、酒だけが時間の流れを刻むように量を減らしていった。

 

 

「おい、響子が自分で起き上がったぞ」

 

 水月さんの声にカナさんを見ると、頷いてくれたので急いで部屋へと向かった。

 布団の上で上半身を起こした響子さんが、わしゃわしゃと首筋を搔いているのをみて、ほっと安堵の息が漏れる。

 目を潤ませる蓮華さんの肩を支えて、ふたりで枕元へと腰をおろす。

 

「少しは元気になったみたいだね。それにしてもすごい効能だよ、その煎じ薬」

 

 すると響子さんは盛大に眉を顰め口をへの字にすると、空の湯呑みを手の届かない遠くへと転がした。

 

「飲まなければ死ぬといわれても、もう二度と飲みたくない味だ。人が口にするような物ではないぞ? 生き地獄だ。それを無理矢理飲ませた水月は、鬼畜だ」

 

 文句をいう声に力がないのは、まだ本調子とはほど遠いからなのだろう。まあ文句をいえるようになっただけでも、響子さんにとっては回復の証拠といえる。

 

「もう大丈夫だな。念のために俺はここで様子を見ているから、お前達は眠るといい」

 

 自分もついていると言った蓮華さんに水月は、暴れる響子に煎じ薬を飲ませるのは、女の細腕では無理だからと笑って、今は休むようにと言って聞かせた。

 ぼくが手を引いて部屋を出ても、名残惜しそうに振り返っていた蓮華さんだったが、ふっと息を吐いて諦めたのか、陽炎に案内された部屋に入って静かに障子を閉めた。

 ぼくも庭に面した一部屋を用意して貰い、大して眠くもない目を無理矢理瞑って布団に入る。

 暖かな布団と酒の力に安堵が加わって、現実と夢を行き来するような浅い眠りに身を預けた。

 

 チリリン

 

 涼やかな風鈴にも似た鈴の音が微かに聞こえた気がして、ぼくは目を擦って起き上がり、障子を開けて庭を覗いた。

 シマやチビの姿さえなく、庭は静まりかえっている。

 いつも座っている場所にカナさんの姿もなく、主を失った庭は僅かばかり色を失って見えた。

 せっかく目を覚ましたのだから、響子さんの様子を見に行こうと立ち上がる。

 ずっと付き添っている水月も、そろそろ疲れた頃だろう。響子さんが許すなら、ぼくが付き添いを代わろうと思った。

 眠っている響子さんを起こさないように、忍び足で二人が居る客間へと向かう途中、懐かしい格子戸の前で足が止まった。そっと指先で格子を撫でると、この戸を開けてみんなのいる居間へ、お客さんが集う店へ飛び出したい衝動に駆られる。

 懐かしくて愛しくて、今は思い出の全てが辛い。ぐっと指先を握り格子戸から目をそらして、ぼくはゆっくりと歩き出した。。

 二人が居るはずの客間からは、蝋燭の灯りが障子越しに漏れている。

 

「起きているのかな?」

 

 口の中で呟いて、障子を引き開けようとしたぼくは、はっとして手を止めた。

 漏れ聞こえてくるのは、水月と響子さんの声。二人で話し込んでいるなら、邪魔はせずに出直そうと思った直後、耳に届いたのは足をその場に縛り付ける言葉だった。

 

「相手に存在を見誤らせるのは、何も和也だけじゃない。カナは本当に感の良い女性だな。俺を見て、混じり気がないというわけではなさそうだ、といった」

 

「水月に? あんたにはその意味がわかったんだね」

 

「あぁ、俺は和也と同じくこの世界で生まれて、生き残った数少ない者のひとりだ。そして俺には人の子の血が混ざっている」

 

 信じられなかった。水月はぼくの生い立ちを知っても、ひと言もそんなことは漏らさなかったのに。

 この先の話を聞いてはいけない気がした。意思に反して、板張りの廊下に張り付いたように足は微塵も動かない。

 

「何の因果か成人した俺の前にも、まるでひょっこり迷子になったように、一人の女性が現れた。その娘が人の子だとはっきり知ったのは、かなり後のことだったよ。子供ができた。この世界の理を知っていたから、無事に生まれることはないと思っていた。だがそれを彼女には伝えられなくてね」

 

「ところが、赤ん坊は無事に生まれたのだね?」

 

 あぁ、と水月が頷く声がする。記憶の泉で垣間見た傷だらけの水月と、左から伸ばされた小さな手が脳裏に蘇る。荒くなりそうな息を押さえるように、ぼくは自分の胸元をぐっと握った。

 

「可愛かったよ。気の優しい坊ずで、いっつも俺に纏わり付いていたんだ」

 

「奥さんはどうした?」

 

「忽然と姿を消した」

 

「空間の隙間にでも呑まれたか? 人の子なら不思議はない」

 

「人の世に、偶然戻れたのだと信じているんだ。故意に子供を捨てるような人じゃなかった。坊ずを本当にかわいがっていたからな」

 

 頭の隅で警鐘が鳴る。こっそり聞いていい話ではないと思った。なのに、足が動かない。

 

「ひとりで育てていた坊ずを、ある日突然に攫われた。目の前で攫われたのに、坊ずが伸ばす手に、この手は届かなかった」

 

「鬼神に攫われたのか」

 

 そうだと、答える水月の言葉が胸に刺さる。呼吸が浅くなって、視界がぼんやりと揺らぐ。

 

「死んだと思っていた。けれど匂うんだよ。空間を繋ぐ僅かな裂け目から、時折懐かしい坊ずの匂いがした。それと一緒に、一度嗅いだだけの鬼神の臭いもな。だから俺は鬼神を追いかけ続けた。鬼神の居る先に、坊ずが居ると信じて生きてきた」

 

「見つけたのだろう? いつか連れて帰るのかい?」

 

 響子さんの声は、既に答えを知っているように落ち着いたものだった。

 

「そうだな。帰る場所がないなら連れて帰るさ。一緒に商売でもするんだ。少しは父親らしい事をしないとな。それに一人きりは寂しいもんだ。ふたりなら、きっと楽しいだろう?」

 

 ははっ、と水月が笑う。

 

「その子にはまだ、真実を告げないのか?」

 

「いっぺんくらい父親らしい姿を見せられたら、その時に言うさ。もう離れるなんてごめんだ。居場所がないなら、俺が居場所になってやる。絶対に連れて帰る」

 

「いずれ伝えるのだね?」

 

「あぁ、坊ずに伝えるのは最後だ。全てが終わったら、ちゃんと和也に伝えるよ」

 

 張り付いていた足がすっと呪縛から逃れる。自分の名が、この場を離れる為の力を僅かながら足に与えた。

 そうか、水月との会話の節々に覚えがある。

 障子から遠ざかり背後を振り返ると、寂しげな笑みを浮かべたカナさんが立っていた。

 物言わぬまま、カナさんが自分の唇に人差し指を押し当てる。

 頷いて、ぼくは唇を噛んだ。自分の客間に入り、後ろ手に障子を閉める。

 

――二度も死なれてたまるもんか。

 

 いつの日だったろう、水月の呟いた言葉が蘇る。両手で顔を覆って畳に崩れた。

 

「父さん、水月が……父さん」

 

 嗚咽が漏れぬよう、ぼくは口に両手を押し当てる。

 乾いた畳に滴る涙の粒が、小さな水溜まりを成していった。

 

 

 

 




読んで下さった皆さん、覗いて下さった皆さんありがとうございます!
一話が長いのが苦手な方がいらしたら、すみませんです。
コピペしたら、思っていたより文字数がいってしまっていたという……。
二話に分けるには、これまた中途半端……。
最終話までは少し長めが続くかと思います。
どうぞ、お付き合い下さいませ。
では!

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