キャミにナイフ   作:紅野生成

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47 その想いに名を付けるなら

 光りの粒となって刃が大地に吸い込まれた後、がくりとぼくは膝を付いた。

 全身から根こそぎ力を奪うように流出する何かが、確実に体力と気力を削いでいく。ぷつりと意識が飛びそうになるのを頭を振って押さえていたぼくは、頭から布の袋を被せられ折り重なって藻掻く二人の姿に気力を振り絞る。太ももにありったけの力で爪を立て、ともすれば飛びそうになる意識ごと体を引きずって、響子さんと蓮華さんの横まで這いずった。

 

「今、解くから」

 

 もっとかけたい言葉はあるというのに、酸欠の痺れにも似た口元はいうことをきかなかった。

 少し強引に頭から布の袋を引き抜き、螺旋状に体に巻き付けられた細い縄を引き千切る。縄の様に編まれてはいるが、太い糸といった方が正しいそれは、あっけないほど簡単にぷつりと切れた。 これほど簡単に指先で千切れてしまう細い縛りから、響子さんと蓮華さんは決して自力で逃げ出すことはできない。

 まるで彼女たちを縛り続ける理を、物質化したようだとぼやける頭の隅で思う。

 

「和也様、大丈夫ですか?」

 

 くらりと傾いだぼくの体を、蓮華さんの腕が支える。見上げた先で響子さんは、表情のないまま地面に視線を落としている。

 大丈夫だとぼくが腕を付いて体を支えると、蓮華さんは自分を縛っていた細い縄を手に、訝しげに眉を顰める。幾本も重ねて編み込まれた糸を丁寧に解き、その一本一本を指に絡めては強く引く。

 

「なぜこのように手間のかかることを?」

 

「その縄がどうかした?」

 

 口から息が抜けるような情けない声で、ぼくが問うと蓮華さんは解いた異なる二本のうち一本の糸を指先に絡め、ゆっくりと両側に引いて見せる。

 ぷつり、と糸が切れた。

 

「もう一方の糸はわたしに切ることはできません。おそらくはこの世界の物ではないのでしょう。ですが、それらに混ざって幾本も、この世界で作られた糸が混ざっているのです。わたし達を束縛するだけなら、引き千切れないこちらの糸のみを束にすればよいこと。この縄を編んだ者の意図を計りかねます」

 

 その通りだ。響子さんを束縛し続けた紐も、この世界の物ではなかった。この世界の物であれば、響子さん達の障害にはならない。

 そんなことを思う内にも、ぐらりと視界が揺れる。

 仰向けに倒れたぼくは、目を閉じて自分の呼吸に集中した。

 大量に血を失って気を失うときは、こんな感じなのだろうか。視界も思考もぼやけて、ひたすらに息苦しかった。

 

 ミャ

 

「チビ?」

 

 鳴き声のした方へ目を懲らすと、小さな白い塊の横には雪らしきシルエット。一度目を閉じてうっすらと瞼を開けた時には、チビはぼくの脇にいた。ひょいと胸に飛び乗ったかと思うと、胸に乗せた右手の辺りに顔を近づけた。

 手には何も感じなかったが、舐めたのだろうか。

 全身から垂れ流されていたものの流出が止まった。

 

 ミャ

 

 ぼくの顎を、チビの舌がちろりと舐める。

 吸い込んだ息に、肺が満たされた。抜け切っていた力が内側から少しずつ湧き上がり、体の痺れが止まっていく。

 ぼやけていた思考を働かせる気力も戻ったことに、ぼくは安堵の息を吐く。

 

「またチビの力なの? ありがとう」

 

 胸の上に乗ったまま顔を覗き込むように座る、白く小さなチビの頭をそっと撫でた。

 

「申し訳ございませんでした」

 

 雪が傅いて深く頭を垂れる。

 

「雪さん向けに、一般常識教室だな。こういう時はね、みんなに駆け寄って大丈夫っていうだけでいいんだよ。誰かが潜んでいたことなんて気付かなかったんでしょう? おそらく雪さんに気づかせない策を講じていたのだと思う。雪さんのせいじゃない。だから、その謝罪は受け取れない」

 

 おずおずと顔を上げた雪に、この言葉の全てを理解することはまだ無理だろう。ぼくはにっこりと雪に笑って見せた。

 再び目を伏せた雪は、意を決したように顔をあげる。

 

「まさかと思い、急ぎ引き返しましたが間に合いませんでした」

 

 雪が先の話を繋げようと息を吸い込んだとき、向こう脇の草がごそりと動く。

 

「残欠の小径の空気が変わった」

 

 片目だけを覗かせ姿を見せたのは、草陰のギョロ目だった。

 

「おまえの手にあるそれのせいで、ここの守りが薄れつつあるのかもしれん。急な変化ではない。だがそれは、ゆっくりと真綿が首を絞めるように、残欠の小径の息の根を止めるだろうよ」

 

 僅かに掻き分けられていた草がさっと閉じ、草の切っ先が僅かに揺れるだけで、草陰のギョロ目の気配は既に感じられなかった。

 

「和也様、お手にされている柄はいったい」

 

 頭に被った黒い頭巾の隙間から、大きく目を見開く雪に弁解の言葉が見つからず、ぼくは首筋を搔いて口にすべき言葉に頭を巡らせる。

 

「鬼神にやられた。意外と簡単に折れてしまうものなんだね」

 

 考えた挙げ句がこれかと、自分が情けなくて鼻の頭に皺が寄る。

 呆けたようにこっちを見ている蓮華さんの顔は、とてもじゃないが直視できない。今だに無言を貫く響子さんは、この結果に何を思っているのか考えただけでも身が竦む。

 

「それも要因のひとつなのでしょうか」

 

 まるで自分に問うように、雪の声が落ちる。

 

「雪さん、町で何があったのですか?」

 

 傅いたままの雪に歩み寄った蓮華さんが、そっと雪の肩を抱き立たせた。

 僅かに躊躇する表情を浮かべた雪は、きゅっと唇を一度結んで息を吸い込む。

 

「乱獲です。道の往来に立つ人々を、手当たり次第に網で捕らえている様に、わたしには見えました。網を手にしていたのは、鬼神と行動を共にするあの男でした」

 

「まって雪さん。その男ならここにいたよ。響子さんと蓮華さんを縛り上げたのは、おそらくその男だと思う。雪さんに姿を見られた後、男はどうやってここへ来たんだ?」

 

「和也様、逆ではないでしょうか。ここでわたし達を縛り、和也様の刃を折った後、鬼神達は町へ向かったのではありませんか? 草陰のギョロ目がいっていたように、刃が折れたことで残欠の小径の守りも空間の均衡も崩れたとしたら、決して不可能ではないと思うのです」

 

 蓮華さんの声も言葉も、何一つぼくを責めてはいないというのに、その優しささえ胸の奥を絞り上げる。

 

「彩ちゃんが守り続けた物を、こうもあっさり失うなんて。弁解のしようもないや。正直いって、どうしていいのかわからないんだ」

 

「残欠の小径を守り続けてきた刃だ」

 

 口を開いた響子さんの声は重い。

 

「うん」

 

 しゃり、土を擦る音と共に、響子さんの足が一歩踏み出される。

 

「使い方を模索していたとはいえ、希望の刃だった」

 

「そうだね」

 

 しゃり

 

「魂の掃き溜めのようなこの地でも、その刃で守れる者は多かったであろうよ」

 

「わかってる」

 

 しゃり しゃり

 

「それをおまえは……」

 

 目の前で握りしめた響子さんの拳が震えている。

 落胆という名の怒りが捌け口を見いだせずに拳を振るわせるなら、素直にぼくを殴ればいいのに。

 

「わたしひとりを失ったところで、この世界は何も変わらない。鬼神に呑まれたままの魂達の元へ、この体から溢れた魂の残滓の糸は戻っていくだろう。それがどのような結果を生むかはわからないが、少なくとも、わたしの命と引き替えるほど安い刃ではなかったな」

 

 背を向けた響子さんの肩が大きく上下する。

 助けなければ良かったと怒鳴る事ができないのは、あの場に蓮華さんがいたからだよね。

 震える響子さんの拳に、手を伸ばしそうになる自分がいた。

 そうか、殴られた方が楽になれたのは、きっと自分の方だ。

 

「町へ行こう」

 

 立ち上がると、体の芯が波に揺られたように数歩ふらついた。腕を支えてくれたのは雪だった。

 

「目にしたからといってどうなるとも思えんが、行ってみるか。和也、その状態で襲われたら、小石を割るより簡単に死ぬかもしれんぞ」

 

 背を向けたままの響子さんに、ぼくは頷いた。

 

「わかっている。一つだけルールを設けよう。刃を失った今、この先ぼくは何の役に立つこともないと思う。だから……」

 

「和也様?」

 

 心配そうな目で覗き込む、雪の頭をそっと撫でる。

 

「万が一襲われて窮地に陥ったら、ぼくの事は放って逃げて」

 

 隣で雪が音を立てて息を吸い、言葉を押さえるように口元に手を当てた。

 

「わかった。そうしよう」

 

「響子様!」

 

 留まるべきか躊躇したらしい蓮華さんはひとつ頭を下げて、走り出した響子さんの後を追っていく。

 それでいい。ぼく以外の者が生き残った方が、残欠の小径に僅かであっても希望が灯る。

 

「雪さんも二人についていって。何かあったら、雪さんが頼りだから」

 

 腕を支える雪の指にぐっと力が込められた。

 

「心配いらないって。ほら、小さな用心棒がそこに残っているもの」

 

 にこりと笑ってチビを指差すと、雪はいきなり千切れそうなほど首を横に振る。

 

「嫌です」

 

「え?」

 

 雪の口から、初めて発せられたであろう言葉。

 

「わたしが命令を聞くのは、お仕えする主人だけです。和也様は、わたしの主人にはなってくださらないのでしょう? ですから、この命令はきけません」

 

 半ば強引に腕を引いて雪が歩き出す。

 

「雪さん?」

 

「前にもいいました。わたしは、自分の意思で動きます。誰の命令も……受けません」

 

 語尾が細くなった雪の声に、思わず笑みが漏れた。言われ続けたことを何とかこじつけて、ぼくの側に居ようとしてくれている。本当は立ち去って欲しかったけれど口先だけでも、たとえこじつけでも、雪が誰の命令もきかないと言ってくれたことが嬉しかった。

 

「わかったよ。行こうか。チビ、護衛をしっかり頼むよ? 何せひとりじゃまともに歩けない役立たずと、女性がひとりだからね」

 

 ミャ

 

 わかってか解らずか、チビはひと鳴きして腰をあげ、ゆっくりと町へ抜ける道を歩き出す。

 森の様子は更に変わっていた。

 生い茂っていた葉が、秋を迎えたように黄色く色を変えている。おそらくは、枯れ始めているのだろう。手に握り続けていた柄に意識を集中すると、軋むような痛みを伴って腕の中へと消えて行った。

 

 

 

 黒いタイトスカートを太ももに張り付けて真っ直ぐに立つ、響子さんの背が見えて安心にほっと息を吐いたのも束の間、ぼくは一歩前に踏み出したまま歩みを止めた。

 たらりと指先を開いたまま腕の先で垂れる響子さんの手が、目の前にある光景に心を持っていかれているのだと語っている。これ以上前に進んで、同じ光景を目にするのが恐かった。

 

「和也様、わたしが付いております」

 

 促す雪に頷いて、ゆっくりと前へ出る。町並みの屋根が見えて道の只中に立つ人々が、変わらず呆けたように立ち尽くしていた。

 

「あぁ……」

 

 ぞわぞわと肌が粟立ち、息と共に悪寒を吐き出した。 

 

 遠くから小さく見える人々は動かない人形のようで、すっかり隙間だらけになったその只中に、あの男は居た。雪がいっていたように、手に網を持ち狙いを定めては人々を絡め取っている。

 離れた場所から、これほどまでにはっきりと詳細を見てとれる事が不思議だった。意識を集中したなら、土の道に舞う砂粒さえ数えられそうなほどに。

 ぼくは男の動きに感じた違和感を見極めるため、異様に研ぎ澄まされた視覚を凝らす。

 ゆっくりと人の間を歩く男が立ち止まって網を投げると、網はまるで意思を持っているかのようにうねり、数人を手中に収めていく。

 

「違う、乱獲なんかじゃない」

 

 振り返った響子さんが、軽く顎をしゃくって話の先を促す。

 

「網に惑わされちゃ駄目だ。あいつは確実に獲物を選んでいる。理屈はわからないけれど、男の意思に答えて網は的確に標的を捉えているんだ。狙われているのは、動物の化身ばかりじゃないか」

 

 網に捕らわれた人々は身じろぎもせず、全身を網に覆われた途端姿を消す。地に這うような網の下に眠るのは、動物の姿だった。犬に猫、鳥の姿まで。

 ひとつの例外もなく、動物の姿は砂と化して道を通る風に攫われる。

 あの少女と同じように、砂と成った魂が継ぎ接ぎの町に舞い上がる。

 

「ぼく達の責任だ。あの少女が消滅したことで、動物の化身が動き出したことを鬼神は察知したんだ。彼らが何をしようとしていたのかはわからないけれど、鬼神は阻止しようとしている」

 

「止めるぞ!」

 

 駆けだそうとした響子さんの前に、身を滑り込ませた影があった。

 

「待たれよ。我らの覚悟を無駄にしてはくれるな」

 

 柔和な表情の翁がひとり、腰の後ろに手を組みのんびりとした調子で、しかしはっきりとした意思を持って立ちはだかっていた。

 

「あんたは?」

 

 響子さんの問いに、翁は目のまわりに皺を寄せて笑みを浮かべる。

 

「わしは、確かトウと呼ばれておったかな。主人は鷹狩りを好み、狩り場までよくお供した」

 

「どうして止めるのですか? このままではみんな消滅してしまう。助けにいかないと。あのままではどんな覚悟をしていたって無駄死にです! 無抵抗なまま消えて行くなんて」

 

 当然のことを口にしたつもりだった。だが翁はゆっくりと首を横に振る。

 

「あやつらの行動が、後に続く者への道を開く。無駄死にとは、後悔する者に向ける言葉。誰も後悔などしてはおらぬよ。次ぎに続く者達が切り開いた道を繋ぐのは、おぬし達じゃからの。あやつらの覚悟を無駄死にと名付けるかは、おぬしらがどう動くかにかかっておる」

 

 いったいどうしろというのか。

 それにな、と翁は続けた。

 

「意思と意味を持った無抵抗は、無意味な行動に勝る。あやつらは、捕らえられるために己の意志で立っているのじゃから」

 

 理解できなかった。翁の言葉をどうしても呑み込めない自分がいる。

 

「ここを守っていた者から引き継いだ刃は、鬼神に砕かれました。今のぼく達にできることはないんです」

 

 町へ向けて半身を返しかけた翁が、ぼくへと向き直る。

 

「柄は失っておるまい。柄の先にどのような刃を据えるかは、手にした者しだい。われらは人でもなく、残欠の小径と呼ばれるこの世の者でもない。物の怪にも想いはあってな。我らの想いが、理の鎖を断つであろうよ。断たれた鎖は、必ずや道を開く。我らの思考など、人の子ほど複雑ではないのでな。ただひたすらに、己が寄り添った主を助けたい。ただそれだけなのだよ」

 

 誰も口を開こうとはしなかった。翁がゆっくりと坂を下って町へと歩みを進めていく。

 立ち尽くす人に紛れた翁の顔には、いつの間にか黒い布の面が垂れ下がっていた。

 少しずつ翁と男の距離が縮まっていく。ぴたりと翁の足が止まった。

 訝しげに首を巡らせた男が、翁へと視線を向ける。僅かに逡巡した後、男の手から網が投げられた。

 

「どうしてこんな」

 

 蓮華さんが両手で顔を覆う。

 翁を捕らえた網が沈んだとき、その下に横たわっていたのは一頭の黒い馬だった。

 たてがみが砂と成って宙に舞う。

 男が網を引き上げたとき、土の道には何かが存在したという欠片さえ残ってはいなかった。

 網を手繰り寄せた男が、僅かに小首を傾げるのが見えた。

 

 ミャ

 

 チビが踵を返して歩き出す。険しい表情のまま響子さんがその後に続いた。

 支えようとする雪に、もう大丈夫だからと手を振り、ゆっくりとぼくも歩き出し直ぐに足を止めた。

 背後から感じた異様な気配に思わず振り返る。

 

「伏せろ!」

 

 叫ぶだけで精一杯だった。蛇のごとく身をくねらせる黒い帯が、尾を引いて目前に迫っていた。

 無理だと悟った。自分が逃げ切る時間はもはやなくて、瞬時にぼくは背後にいるみんなの盾になろうと両手を広げた。

 きつく目を閉じたぼくを襲うはずの衝撃、もしくは力を奪われるような脱力はいつまで待っても訪れない。恐る恐る瞼を開いたぼくは、次の瞬間目を見開いた。

 

「何をしてるんだ!」

 

 黒い帯とぼくの間に立ち塞がった、響子さん体が崩れるのを全身で受け止める。

 激しく上下する響子さんの胸に、黒い帯の尻尾が呑まれて消えた。

 

「響子さん、しっかりしてくれ!」

 

 全てをその身に収めた響子さんの口の端から、たらりと赤い血が垂れる。

 

「わかったって言ったじゃないか! ぼくを助けないって決めたんだろ?」

 

 血に染まった唇で笑う響子さんの唇は、小刻みに震えていた。

 

「助けたわけじゃない」

 

 聞いたこともないほどに細い響子さんの声に、ぐっと肩を抱き寄せる。思っていたよりずっとか細い肩だった。

 

「宿なしのおまえを泊めて……飯でもつくらせた方が得だ。蓮華が……楽を……できる」

 

 ぼくの腕に、がくりと響子さんの首が落ちる。

 残欠の小径に長く尾を引いて、蓮華さんの悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 

 





次話も覗きにきてくださいね(^-^)
では!

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