キャミにナイフ   作:紅野生成

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46 跡形もなく砕け散るモノ

 雨雲の中から浮き出たとしたらこんな感じだろうか。

 瞼にうっすらと差す明かりに、ゆっくりと意識が目覚める。後頭部には、たんこぶを床にこすりつけた時のじわっとした痛み。

 最後に上体がぐらりと傾いだのは、何となく体が覚えていた。でもその前の記憶は、頭を打ち付けたときに衝撃と共に飛んだのか、何をしていたのかさえあやふやだった。

 

「目が覚めたか?」

 

 ぼんやりと開けた目に飛び込んできたのは、真剣な表情で上からぼくを見下ろす響子さん。反対側には、心配と言うには違う感情に眉根を寄せた水月が、口を真一文字に結んでいる。

 転んだにしろ倒れたにしろ、こういう時に目を覚ますのはいつだって響子さんの平手打ちのはずなのに、とどうでもいい習慣だけが思考の表層に昇る。

 ぼくはどうして頭を打ったのだろうか。

 再び瞼を閉じかけたぼくの頬に、ヒンヤリとした指先が触れる。

 いつもなら薙ぎ払うようにぼくの頬を打つ、響子さんの白く細い指先が、ぼくの頬をさらりと撫でた。

 

「あぁ……ぼくは」

 

 頬を撫でる響子さん指先が、蹲っていた記憶の結び目を解いていく。

 記憶の底から這い上がる響子さんの言葉が、殴られるよりも強い衝撃を持って、ぼくの肺を締め上げた。

 

「和也様! ゆっくり息をしてください」

 

 水中で聞くスクリュー音みたいに、蓮華さんの声がとらえどころ無く渦巻いて反響する。

 

――今の鬼神はおまえと……

 

 精神が拒絶した先へと続く声は、捕らえた聴覚が憎らしいくらいにはっきりと、ぼくの記憶に言葉を刻み込んでいた。

 

「今の鬼神が、ぼくとすり替えられた……あの子だなんて」

 

 譫言のように、感情の籠もらない声だけが口から漏れる。

 

「ぼくのせいだ」

 

 響子さんの冷たい指先が、半開きになったぼくの唇をそっとなぞる。

 反対に振り上げられた手の残像を視覚が認識した時には、口の中にうっすらと鉄臭い血が染み出ていた。張り倒した手の甲を、再度振りかざした響子さんの腕にしがみついて止める蓮華さんを、ぼくはぼんやりとした感覚のまま目の端で追っていた。

 まだ衝撃に揺れる脳と視界の中、食いしばった歯に響子さんの頬の傷が引き攣るのを見て、ぼくは痛いと思った。痺れる頬の痛みと、響子さんの傷の痛みが重なり合う。

 

「和也が言ったのだろう? 器に物を入れるのはいつだって他人だと。おまえという器に、いつか必ず意味を与えてやる! だがな、その役目は和也のものではない」

 

 怒りを帯びた響子さんの瞳が、伏せた睫で遮られる。

 

「器に自分で毒を注ぐような真似をするな。おまえの存在理由など、周りの者達がいずれ名付ける。今だに、独りで戦っているつもりではないだろうよ?」

 

 いつか成れるだろうか、空の器に呼ぶべき名を付けてもらえるような存在に。

 物心ついた頃から空っぽだったこの器を覗けば、今なら何かが見えるだろうか。

 振ってみたなら、からころと小さな音を鳴らす何かが。

 

「響子さん」

 

「何だ! しみったれた言い訳なら沢山だぞ!」

 

 立ち上がって背を向けた響子さんが、蓮華さんの手を振り切って部屋の奥へと歩いて行く。

 

「ありがとう、ぼくを見てくれて」

 

 大股に進んでいた響子さんの足が止まる。顔だけで振り返った響子さんが、苦虫でも噛みつぶしたように鼻に皺を寄せる。

 

「止めてくれ、気色悪い」

 

 そう言いながら向こうへと向き直る直前、響子さんの頬の傷が僅かに引き攣れた。

 笑ったのだと思う。

 頬の痺れが、すっと引いた気がした。腕で支えて体を起こし、ぼくはみんなへと向き直る。

 

「ごめん、もう大丈夫だから。筋道立てて、詳しく聞かせてもらえないかな」

 

 本来なら自分の記憶として響子さんが話すはずだったのだろうが、当の本人が奥の椅子に腰掛け頬杖を付いているのを見て、みんながきょろきょろと顔を見合わせた。

 ぼくを気遣うあまりに、誰もが話しづらいのだろう。

 

「聞いた通りに話すだけじゃが、わしでも良いかな? まあわしの考えも交えてな」

 

 皺の隙間から小粒な目を、ちょっとだけ見せた寸楽が諦めたように口を開く。この場面で口を開けるのはやはり年の功だろう。正座した背を丸めたまま、寸楽は淡々と語り出す。

 

「オリジナルとは元々の、という意味だとな? そのオリジナルの人格がまだ鬼神と呼ばれる前の名も無き魂じゃて。これは響子の記憶にもないが、わしらの予想ではこの子に最初に宿ったのが、和也の出会った少年、希神であったのだろうな。疑うことを知らぬ幼き魂と、無垢な魂は目の前に居る魂に手を差し伸べ続けていたのだろう。だが、最後にその手が掴んだのは、憎悪と欲に塗れた魂だったのだろうな」

 

「それが最初に鬼神と呼ばれた者なんだね」

 

 寸楽は皺だらけの口をつぼめて頷いた。

 

「最初の鬼神は、惹かれたのであろうよ。己と対局にある魂に。だがその者は差し伸べられた手を握ることを知らなかったらしいの。共に在るということを知らぬ者は、憎悪の対象も興味を得た物も全て支配しようとする。理解できずに押さえられないとわかれば、排除する」

 

 最初の鬼神に排除された希神は、その後あの場所に閉じこもったのか。いや違うな、あの場所から、外の光景が流れる様を目にしていたはず。肉体を持たない希神は、最初に寄り添った少年の姿をそのままに、自分の魂の器としたのだろうか。

 

「希神を追い出しても、体の主であった人格はそのまま残る。ここからは推測じゃがな、オリジナルの人格と触れることで、鬼神は家族の在り方を垣間見て、親の愛というものが存在するのだと知ったのではないかな。経験が無い以上理解はできなかったであろうが、それを自分が持っていないと感じることはできたはずであろう? 口に出さずとも自覚がなくとも、妬みはいずれ憎悪へと変わる。それを持っている者への憎悪じゃよ」

 

 寸楽が言葉を切ると、奥で頬杖を付いていた響子さんが、足を組み直して顔を向けた。

 

「わたしが想像で導いた結果も、いま寸楽が話したことと相違ない。肉体とはいっても、人の世の肉体とは意味が違うのは和也にもわかるだろう? 痛みも感じ血も流すが、人の持つ体とは似て非なるものだからな。だがな和也。肉体は成長しなくとも、魂は触れた経験と時の流れが成長させていくものなのだよ。最初に鬼神と呼ばれた者も、元をただせば子供であったのかもしれない。もう少し成長していたのかも知れない。最初の鬼神が報われなかったのは、触れた経験を糧に心を育ててくれる者を得られなかったことだ」

 

 希神を追い出してしまえば、そこに残るのは手の届かない夢のような景色だけ。触れることが叶わないなら壊してしまえと思うのは、未熟な精神が辿り着く結果。

 まるで隣の子が大切に持つおもちゃを奪って、地面に叩き付ける幼子のように。

 壊れてしまったなら、自分も遊べなくなるというのに。

 おそらくそれは、ひたすらにこみ上げる衝動。

 

「たったひとつの孤独が、悲劇の連鎖を生んだの?」

 

「周りから眺めればたった一人が抱え込んだ孤独でも、当人にとっては全てであろうさ。己の中に生まれた孤独が、周りの世界全てを染め尽くす。どんな物も過ぎれば毒と成る。抱え込んだ孤独も、長すぎる時間も、差し伸べられた希望の暖かさが己の腕に抱えきれないほどとなれば、それも一種の毒と成ろうさ。叶わぬと思い込んでいる希望は、時に負の感情に勝るほどに心を蝕む。この婆がいうのだから違いない。人など、乾いた砂の山より脆いものよ」

 

 独り言にも似た呟きに、寸楽が淡々と答えを返す。感情の色がない寸楽の口調は、かえって長すぎる人生の起伏を感じさせ、重みを持ってぼく胸で染みとなる。

 

「その後どうやって最初の鬼神が、今の鬼神の魂に手を出したのかは定かではない。鬼神の放つ匂いが変わったと、あの時草陰のギョロ目は言っていた。魂の吹き溜まりともいえる残欠の小径では、一つ一つの魂が放つ匂いがあると言われていてな、敏感に嗅ぎ取る者もそうではない者もいるが、あいつが感じたのなら、そうなのだろうな。ある日を境に、宿る魂の主導権が入れ替わった」

 

 顔を横に向けたまま話す響子さんの頬に、耳にかかっていた横髪がさらりと落ちる。

 

「残欠の小径で魂を漁ったというならならわかるよ。ぼくと入れ替わった少年が、たとえば死にかけていたとしたらそれが理由付けになるだろうけれど、あの子はただの元気な男の子だった。記憶の泉で垣間見た映像は、普通の親子を映し出していたからね。人の世に、どうやって手を出したのだろう」

 

 この小屋の中で話を聞きながら、ずっと胸の中に渦巻いていた疑問。

 肉体を持ったままの子供を、どうやって残欠の小径に引きずりこんだ?

 今の鬼神の姿がオリジナルの物なら、少年の肉体はどこへいったというのか。 

 

「それはおまえも同じだろう? こっちの生まれで在るにもかかわらず、人の世で人生のほとんどを過ごしている。そして帰ってきた。確証はないが、和也の体や感覚は確実に人の世の影響をうけていると思うよ。残欠の小径へ立ち入るようになって、戻ってきた感覚もあるだろう?」

 

 水月の言葉には思い当たる節が多すぎて、ぼくは黙って頷くしかできなかった。

 常識の範疇で捕らえようとすると、何もかもが収まらない。

 ぼくが常識からはみ出しているというなら、入れ替わった少年の身にも同じような原理が働いたと思った方がすんなりいく。方法はわからなくとも、結果は今此処にあるのだから。

 

「和也が疑問に思っていることを、ここにいる全員が一度は思い浮かべただろうよ。だが拘っているのはおそらく、和也だけじゃないかな? みんな既にその先を見ている。こっちの世界で産まれていない者でも、すでにここでの生活の方が長い者が多いだろ? こっちの世界を総称で残欠の小径と呼ぶなら、俺達はみんな残欠の小径の理に添って思考する。だが和也は違う」

 

 穏やかに話す水月の表情はなぜか寂しげに見えた。

 

「和也は、人の世で生きた知識と感情で物事を考えている。だから長く思考を巡らす必要の無い事象に拘るのだと俺は思う。良くも悪くも人の世が和也を育てた。おまえは完全に、人の世の子として思考している」

 

「どういうこと? 余計なことを考えすぎ? ぼくが理解できないことを、みんなは理解しているってこと?」

 

 水月はふわりと口元に笑みを浮かべる。

 

「おまえが居るべきなのは、やはりここでは無いのだろうな。此処では、無くなってしまったのだろうな」

 

 落とすように呟いた水月がはっとした様に顔を上げ、いつものようにへらへらとした笑いに目尻に皺を刻む。

 

「気にするな、オッサンの戯言だ」

 

 頭の上でひらひらと手を振って水月は立ち上がると、響子さんの向こう側に、まるで姿を隠す様に腰を下ろし口を噤む。

 ぼくがいるべき場所が此処にないなら、たとえ決着が付いたとして、どこに行けばいいのだろう。

 生まれ育った世界に、もうぼくの居場所はないのに。

 それを知りながらあえて言葉を投げかけたであろう水月を、少しだけ恨めしく思う。

 

「確かにぼくはどっち付かずだ。それはある意味、ここにいるみんなとは違う目線で物事を見られるということだろ? 的外れかも知れない。みんなにとっては気にする必要のない些細なことかもしれない。けれどぼくが仲間として役立つ利点は、おそらくそこだと思う。ぼくなりの曲がりくねった思考回路で考えてみる」

 

「馬鹿正直の緩んだ頭のネジが少しは締まったか? 何を思っている? 聞いてやるよ」

 

 穏やかな表情で、響子さんが美しい目を細める。

 

「人の世と残欠の小径を異世界として見るから、何でもありな感じになって、事が起こる定義があやふやになるんじゃない? ひとつのことが起こるには、必ず原因がある。花が咲くには種が必要なようにね。鬼神の力だけで、二つの世界に穴が穿たれたというのは強引すぎる気がして。何かもっと別の種が撒かれていたと思うんだ。ずっと前に、それこそ誰もがそんなつもりはなかったような自然な状態で。無意識だとしても、二つの世界を繋ぐ道を造った」

 

「なぜそのように思われるのかな?」

 

 宗慶はなんとか理解しようとしているのだろう。袂にいれた手を忙しなく動かしている。

 

「ぼくとあの子が入れ替わった瞬間を記憶の泉で見たけれど、どうしても引っかかる。幼かったふたりには、強制された様子も怯えも見られなかった。あの時点でふたりは、幼心にも納得して行動していたのだと思うよ。どうしたらそんな事ができる? 何を餌にしたら、幼い子供を思い通りに動かせる?」

 

「仮に真実がわかったとして、それがどのような意味を持つのですか?」

 

 おずおずと雪が聞き返す。

 

「鬼神を止めるためには、鬼神を突き動かした事柄を知る必要があるから。ぼくを付け狙う理由はわかったよ。当たり前だよね、ある意味ぼくが親や家庭を奪ったのだから。問題はその前だ。鬼神でさえ気づいていない、もしくは忘れかけている何かを知ることで、もう一歩進める気がするんだ。根本を理解しないと、彩ちゃんから受け継いだナイフもただの飾りになってしまう気がしてね。これって、人特有の考え方?」

 

 雪は目を見開いて大きく首を横に振る。そんなに強く振ったら見ているこっちが目眩を起こしそうだと、ぼくはひっそり苦笑した。

 

「その腕に収められているのは、この地を守り続けてきた刃です。わたし達の希望そのものなのです。それに、そのような責任を感じられる必要など、ないと思うのです」

 

 俯く雪にぼくはありがとう、と笑って見せる。 

 

「どっちにしても幼ない子供から、母親を奪ったのはぼくだもの。その子の魂が鬼神と呼ばれる者であっても、その事実だけは変わらない」

 

「和也、幼い頃に本来の居場所を奪われたのはおまえも同じだ」

 

 再び怒りを滲ませた響子さんに、ぼくはひらひらと手を振った。

 

「そんな恐い顔しないでよ。ぼくは大丈夫。二度と戻れない場所が懐かしくても、ちゃんと前を向いて進んでいるから。でも鬼神は違う。二度と戻れない場所から逃れられなくて、いつまでも同じ場所に留まり続けているんだろうなって」

 

 軽く頷きながら響子さんが席を立つと、横で頬杖をつく水月が見えた。

 

「前に響子さんはいったよね。残欠の小径の住人である響子さんに、触れたり話したりできるのはどうしてかって。今になって思えば、逆の疑問も湧くでしょう? こっちで生まれたぼくが、響子さん達と普通に関われるのは不思議なことじゃない。だとしたら、どうしてぼくは人の世で人間と触れ合うことができたのかな? 話すことができたのかな? 誰ひとり、ぼくを認識できない人はいなかったよ? ぼくはどうして、両方と関われたのだろう」

 

 水月が思わずというようにちらりとぼくを見ただけで、誰も口を開かなかった。

 

「少しだけそれぞれの時間を持って考えようよ」

 

 立ち上がって尻を叩き埃を落とす。突破口となる一点が見つからない限り、このまま話し合いを続けても堂々巡りは避けられないだろう。

 

「ぼくはチビでも探しにいこうかな。どこにいったのか全然姿を見せないし。庭でシマの後をくっついて歩いているならいいけれどね」

 

「俺はいったん小屋に戻るよ」

 

 水月が腰を上げると、部屋の中でぱらりぱらりとみんなが立ち上がる。

 誰を待つことなく、ひとり階段を昇り始めた水月の足取りはゆっくりだというのに、少しだけ丸められた背中は、この場から離れることを急いてでもいるように静かな拒絶を漂わせていた。

 

「へらへらした、いい加減なだけの中年のオッサン、てわけじゃないよな」

 

「何かいったか?」

 

 水月の背を見送りながらぽつりと漏らした声に、響子さんがぼくの顔を覗き込む。

 

「いや、何でもないよ。響子さんも一緒にいく?」

 

「あぁ、蓮華を連れてカナに会いに行ってみる。行き詰まったときは、酒が答えをくれることもあるしな」

 

「酒がくれる答えより、カナさんに女性らしさを分けてもらいなよ」

 

 口の中でもごもごと呟いただけの口が閉じる前に、太ももに蹴りが入ってその場でぼくは跳ね上がった。

 

「何かいったか?」

 

「いいえ、何も」

 

 ドスを聞かせた響子さんに、爽やかな笑顔と返事を返し太ももを擦る。尻の下から足がちゃんと生えているのが、不思議なくらいの衝撃だった。

 踵を返して歩き出す響子さんの背に、べっと舌をだす。さすがに背後に目はついていないだろう。

 

「冗談いうのも命懸けかよ」

 

 いつのまにか隣に立っていた蓮華さんが、口元に指を添えてくすくすと笑う。

 

「大丈夫ですよ和也様。いくら響子様でも命を脅かすようなことはなさいません。せいぜいが、死にそうな思いをするだけですよ」

 

 珍しく笑い続ける蓮華さんに、ぼくは苦笑いを返して痛む太ももを揉みほぐす。

 綺麗な笑顔でぶっそうなことをさらりと言われると、かえって真実味が増して恐ろしいって。

 そんなやり取りをするぼく達の横を、軽く頭を下げた雪が駆け抜けていく。黙って座っていることなどできない性分なのだろう。その後に続いたのは、裾を尻まで端折って大股に駆け上がる佐吉だった。

 ここまで来るだけで疲れたという寸楽に付き添って、宗慶はしばらく此処にいるといった。

 くすりくすりと笑い続ける蓮華さんの後を追って、ゆっくりと階段を上がっていく。

 もし目の前にいるのがタザさんなら、この状況できっと蓮華さんのように笑うことはできないと思う。先に出ていったのがシゲ爺なら、酒に逃げることはあっても酒に答えを求める余裕などないだろう。同じように悩み苦しみながら、それでもやはりここは残欠の小径なのだ。少しだけ人とは異なった思考と道を通って、先に進もうとする人達。

 故郷の住人達は驚くほどに逞しくて、ぼくはそれがちょっとだけ羨ましかった。

 

「響子さんが飲み過ぎないように、ちゃんと監視していてね。蓮華さんだけが響子さんの手綱をあやつれるんだから」

 

 軽く振り返って頷いた蓮華さんが、入口の戸を押し開ける。開いた隙間から薄ら青い空が見えた。

 

「蓮華さん?」

 

 押し開けた戸から一歩外へ出たはずの、蓮華さんの華奢な体が消えた。転んだのかと見下ろした地面には、蓮華さんの姿どころか靴を引きずった後さえない。

 響子さんの悪戯か? まったく脳天気にもほどがあるだろうに。

 

「蓮華さん、大丈夫?」

 

 戸口をまたいで屋外へと足を踏み出した途端、空気が変わった。

 肌に絡みつく粘着質な気配に、ほんの一瞬体と思考が動きを止める。

 そこに生まれたのは、防御を失った隙。

 

「本当に邪魔なんだよ。そんなにちょろちょろ動き回られると、余計なところで埃がたつ」

 

 幼い声と共に、鬼神の三白眼がぼくを見上げる。黒い大刀が首筋に当てられ、氷を滑らせたように半身をぞくっとした悪寒が走った。

 

「僅かな埃に目くじらをたてるとは、何をそんなに焦っている?」

 

 動かした視線の先には、響子さんと蓮華さんが折り重なるように倒れていた。二人の先に立つのは分厚い下唇をべろりと突き出し顔を歪ませる男。

 まったくこの男、幾度見ても好きにはなれない。

 

「未来に希望など持つから、邪魔な動きをやめないのだろ? 塵にも劣る希望を、砕いてやろうか」

 

 見上げる鬼神の目に宿るのは憎しみだろう。事実を知ったばかりの今、直ぐには返す言葉が見つからなかった。やるべき事は変わらないというのに、心が置いてけぼりになっている。

 返事のないことに痺れを切らしたのか、鬼神がちっ、と舌を打つ。。

 

「その阿呆面に、気合いを入れてやる」

 

 鬼神がにたりと頬を歪ませる。

 切り込まれるという恐怖を覚えて、瞬時に体が硬直した。

 

「これでどうだ?」

 

 氷にも似た冷たさが首筋から離れ、体が触れるほど近くに立っていた鬼神の姿は消えていた。

 慌てて声の方へと首を巡らせる。

 

「やめろ!」

 

 細い紐に縛られ頭から薄汚い布袋を被せられた二人の上に、鬼神が両手で翳した黒い大刀がぎらりと光る。

 半開きだった戸をはね除けて、右足が乾いた地面を蹴り上げた。何も考えられなかった。

 折り重なって倒れる二人が鋭利な切っ先で貫かれる前に、黒い大刀との間にこの身を滑り込ませたかった。

 

「くっ!」

 

 右の手首に熱湯をかけられたような激痛が走る。

 

 ガシャ

 

 鈍い音と同時に、二人の上に覆い被さる。この手で何かをはじき飛ばした確かな感触に、腕がじりじりと痺れていた。

 

「どうだ? 希望の全てを砕かれた心境は」

 

 鬼神の小さな足が後退って、乾いた土がしゃりしゃりと音を立てる。

 

「その二人の魂と引き替えに、おまえは残欠の小径を捨てたんだ」

 

 けたけたと耳障りな嗤笑が遠ざかる。

 骨の芯から痺れる右手には、根元から刃の折れたナイフの柄だけが握られていた。

 

「そんな……」

 

 折れて弾き飛ばされた土の上で溶けて消えていこうとしているのは、光りを放つ小さな刃。

 銀色の刃から溶け零れるように、光りの粒が大地へと還っていく。

 呆然と見ていることしかできなかったぼくの目の前で、希望の刃は跡形もなく姿を消した。 

 

 

 

 

 




見に来て下さった皆様、どうもありがとうございます!
読んで下さる人が増えると嬉しいですっ
今回はちょびっと長くなりました。
次話もがんばりますので、見に来ていただけますように。
では!

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