キャミにナイフ   作:紅野生成

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44 滝は止まった時を押し動かし 

 相変わらず息ひとつ乱すことなく、横を走る水月に半ば呆れながら、山の斜面に差し掛かった辺りでぼくは足を緩めた。

 

「その無駄な体力はいったいどこから来るの? 感心するのを通り越して、摩訶不思議だよ」

 

 肩で息を吐くぼくを得意げな表情で見下げ、水月は指先で額を拭う真似をして服を捲ると、年齢の割にはかっちり割れた腹筋をこれ見よがしに前に突き出す。

 

「筋力を保ってこその男だろ? かわいい女の子を守ろうとして、盾になって死ぬのが望みなんだ。盾にもなれずにぶっ飛ばされたら、恰好悪いだろうが。この腹筋で盾となるために鍛錬は怠っちゃいないんでね。ただし、可愛い子限定。響子とか論外。ヤローも嫌だぞ」

 

 ゆっくりと山道を登りながら、ぼくは声押さえて笑った。

 

「この状況でよく冗談なんて言えるね? 女の子もオッサンに守られるのは嫌だと思うな。まあ、鍛え損だね。あ、大丈夫。この話チクッた後の響子さんから、命を守る役には立つね」

 

 言ったらぶち殺す、と焦りの表情と一緒に水月が目を尖らせたのを見て、いつか絶対告げ口してやると心の中でほくそむ。

 

「和也こそ、さっきまではえらく沈んでいたっていうのに、もう早笑えるようになったか?」

 

 水月の声は決して責めている訳ではないのだろう。笑える心の変化に少し興味を持っただけ。

 

「笑えるときに笑っておこうと思って。あの子みたいに、にっこり笑って、この先を乗り越えたい」

 

「心配すんな、毎日泣き暮らしても腹は減るし眠くもなる。何があっても、笑えるようになるさ」

 

 ぼくを追い越した、水月の背中を見上げながら無言で頷いた。

 

「まるで泣き暮らしたことがあるみたいな言い方だね」

 

「手を伸ばして掴もうとしたら、あっさり逃げられた」

 

 心臓がチクリと痛む。

 

「いったい誰の手を掴もうとしたの?」

 

「その頃に一番大好きだった子」

 

 無駄な緊張を深い溜息と共に吐き出して、落ちていた木の枝を水月の背に投げつける。

 

「いい大人なんだから、真面目って言葉を知った方がいいよ?」

 

 顔を向けずに水月がへへっと笑う。水月が時折覗かせる強い意志や聡明さは、心に近づいて深く知ろうとすると、蜃気楼のように逃げていく。人当たりの良い水月だが、心の底に何かを淀ませているように思えてならなかった。だが、沈む澱の正体の影を見ることすら叶わない。

 

「とうとうチビは来なかったな」

 

 さっきっからきょろきょろと辺りを見回していたのは、チビの姿を探していたからか。居なければいないで気になるのだろう。

 

「チビが居ないと不安だとかいわないでくださいよ? 水月さんが頼りなんだから」

 

 都合のいい時ばっかりだな、と振り返った水月の目尻に皺を寄せた笑みに、ほんの少し前にうっすらと感じた影は微塵も残っていなかった。

 

 

 山頂の泉に辿り着いて、五右衛門風呂ほどしかない大きさの水面を二人で覗き込む。顔を合わせた水月は、明らかにおまえが先に行けと顎をしゃくる。

 

「こういうのは、年上優先でしょうが」

 

 当たり前のように大股に一歩後退した水月を睨み付けたが、涼しい顔でそっぽを向かれた。

 少年の言葉を疑ってなどいないが、初めてのことに少々勇気が必要なのは変わらない。

 

「付いてこなかったら、響子さんに話を盛ってチクるからな!」

 

 精一杯凄んでぼくは、ひと思いに泉へと飛び込んだ。ザパンという水しぶきに、腹の辺りで服が捲れ上がる。真っ暗闇へと落ちていくのではという恐怖に、ぐっと目を閉じて鼻をつまんだが、水中の泡が耳元を昇っていく音が途絶えると、最初はヒンヤリとしていた水は温度を無くした。まるで体温と同調する用に僅かな水の抵抗を残してぼくを包み込む。

 

――今回は何も見えないや。

 

 以前のように何かしらの記憶が垣間見えるかと思ったが、無音の世界に押し込められたように、瞼の裏をただひたすらの闇が満たしていた。時折ちらちらと遠くで遊ぶように光りの粒が揺れ動いては消えたが、それに何かの意味を見いだすことはできなかった。

 

――水月さん、ちゃんと来るかな?

 

 先の見えない終着点にかなり息が苦しくなった頃、急激な浮遊感に体がぐいと持ち上げられ、顔の皮膚を冷えた空気が撫でるのを感じて目を開けた。

 

「はぁあ!」

 

 胸一杯に空気を吸い込み、自分がいる場所がどこであるのか認識したぼくは、四つん這いになったまま驚きに口も目も開いて混乱の息を吐く。

 確かに水中を通ってきたというのに、髪の先さえ濡れていない。

 ぶはっ、吐き出した息に振り返ると、同じような姿勢で水月が姿を現した所だった。

 

「どうなっているんだ?」

 

 水月の疑問はもっともだ。ぼく達が這いつくばっているのは、青い光りの川の只中だったから。

 以前と違うのは、この川を挟むように手を上げていた人々も墓標もなく、平らく切り出された岩の床が続いていること。光りの川とはいっても、水がつくり出す深さがあるわけでもなく、実体があるようで無い青い光りが、さらさらと流れている。

 

「どうやらぼく達は、光りの川の底から浮いてきたらしいです」

 

 首を傾げながら、げんこつで光りの川面を叩く水月は、固いや、といって再び首を傾げた。

 

『そのイカダに乗ってきてくれる?』

 

 遠くで囁く声にはっとして顔を上げると、向こうから丸太をつなぎ合わせた小さなイカダが流れてきた。水の川であったらな、人ひとり乗れば沈んでしまいそうな小さなイカダは、水月が固いといった光りの水面に丸太の半分を沈めて、ゆらゆらと流れてくる。

 

「俺は驚いてないから。なんだってありだ。イカダくらい乗ってやる」

 

 口で言っただけの行動を起こしてもらいたい物だが、水月に顎をしゃくられて、しぶしぶぼくはイカダに乗り込んだ。ぼくが乗っても安定していることに安心したのか、水月は何食わぬ顔で平然と丸太の上に腰をおろす。

 

「大人ってやり口が汚い……」

 

「馬鹿いうな。経験を積ませてやっているんだろ?」

 

 素直なビビリの方がマシだと呟くと、後ろから平手が飛んできた。そんなぼく達のやり取りなどお構なしに、イカダは今流れてきた方向へと逆流して進んでいく。

 そっとイカダから指を伸ばすと、固い物に触れた感触と同時に、まるで水が割れるように青い光がぼくの指先で跳ねて飛んだ。

 

「墓標の人間達がいないと、俺たちは自力であの場所へは行けないってことか。今度は白い雲みたいなトンネルの代わりに、深く立ち籠めた川霧ってとこだな」

 

 誰も居ない岩を刳り抜いた広い空間を少し進むと、湧いたように霧が立ちこめ、周りの景色はもちろんのこと、青い光りの川さえ少し先までしか見通せなくなった。

 

「おい和也、見ろよ」

 

 光りの川に指を浸していたぼくは、水月が指差した前方を見て感嘆の息を漏らした。

 小さな滝壺に流れ落ちる滝の太さは、大人が両手を広げた幅ほどしかないが、上へ上へとどこまでも天井へ向けて延びている。

 

「まるで流れているようだけれど、この滝は動いていない。ちらちらと光りを放ちながら、流れ落ちる途中の姿そのままに、凍り付いたみたいだね」

 

 冬の滝のように凍ってその色を白く変えることもなく、青い光りをちらちらと放つ滝にしばし心を奪われた。

 

「綺麗でしょう? ぼくはね、たまにここに足を運んで、自分を戒める」

 

 いつの間にか少年が、川の縁に膝を抱えて据わっていた。とても眩しい物を見るように目を細め光りの滝を見上げる少年の口を、柔らかな笑みがかたどる。

 

「君に会いに来たよ」

 

「うん。来るのは解っていたから。ここで待っていたの」

 

 小首を傾げてにこりと目を見開く少年の線は細く、手を差し伸べて支えたくなるほどに存在が儚かった。

 

「最初にぼくをここへ導いてくれた女の子がひとり、この世界から消えた。役目を終えて消えるのは約束ごとのように当然と思っていたみたい。小さな子猫の魂だったよ。とても優しい子だった」

 

「そう」

 

 少年は短い言葉と共に唇を噛む。少年を責めようとしたわけではない。けれど全ての責を負ったような幼い顔が苦悩に歪む姿に、ぼくは思わず目を反らす。

 視線をそらしたまま、ぼくは静かに話を続ける。

 

「仲間の憶測は当たっているのかも知れない。あの子は死ぬことを恐れていなかった。鼻の下まで短くなっていた黒い布の面は、おそらく最初からあの長さで、何もなければそのままの長さを保ったのだと思う。仲間は闇が満ちても意識を保っていた理由をこう言ったんだ。自分達は、命を失うことを恐れていなかったと。言い換えれば死を受け入れていた者達ということになるよね。あの子も魂の消滅を当然のように受け止めていた。主人を助けるために、自分が犠牲になることを躊躇しなかった」

 

 黙って目を瞑っていた少年は、ゆっくりと瞼を開きひとつ大きく頷いた。

 

「鬼神があの町をここへ引き寄せたあの日まで、ここにはぽつりぽつりと魂が立ち寄っていたんだ。あの子の飼い主は独り暮らしの中、居間で倒れて意識を失っちゃって。部屋から出られなかったあの子は、意識を失った主人と共に衰弱して死を迎え、共にここへ流れ着いたんだよ。普通に先の道へ進んでいく筈だったのに、運が悪かった……のかな。無差別に放たれた鬼神の力に引き寄せられて、ここへの入口で引き剥がされたの」

 

 

「きみはあの子の願いを叶えたんだね?」

 

「うん。それが正しかったのかなんて、たぶん永遠にわからないよ。でもぼくは受け入れた」

 

「他にも居るのか? あの子みたいに、おまえさんと契りを交わしたやつが」

 

 水月の答えに少年はこくりと頷いた。

 

「動物は純粋だから、生きるために牙を剥いて、好いた者の為には何だってする。考え方が複雑じゃない分、ひとよりやさしくて強い」

 

 少年の言葉に、かつてカナさんに言われたひと言を思い出す。このての者に好かれた者は、失った日の覚悟をしなくてはならないと。

 

「女の子がいっていたよ。わたしが消えたら、それを合図にみんなが動き出すって。そしてこうも言っていた。全部は助けられないと。最後の言葉は、あの子の言葉じゃないよね、きみの受け売りだとぼくは感じた」

 

「誰かを助けようと願う者が居なければ、誰ひとり助からないけど、誰かが助かる為に、消えていく者達がこの先も増えるのは止められないんだ。ここから先は、ぼくの意思ではないから。彼らが自分で選んで進む先にある結果を、知る者は少ないよ。彼らが不確定要素であることは、鬼神にとってもぼく達にとっても同じことだもの」

 

 そんなことは無いと、口にできない自分が居た。水月も眉根を寄せて顎に手を当てている。水月は少年の言葉の意味を悲しくは思っても、否定することはないだろう。それだけ長く生きた経験を持っているから、ぼくほど揺らぐことはないと思った。

 

「残欠の小径は、ぼく達がここを訪れて姿を変えた。人々もどんどん姿を消しているらしい」

 

 ぼくを真っ直ぐにくりっとした瞳で見つめる少年は、こくりと頷いて口をきゅっと引き締める。

 

「そのことは、残欠の小径に戻ったら、お友達が教えてくれるよ。ここでぼくが話したら、彼の努力を無駄にしてしまう気がするから、いわないね」

 

 お友達……仲間の誰かと言うことだろうが、情報を得るという内容からして佐吉か雪が何かの確証を得たのだろうか。

 考え込んでいた視線をふとあげると、少年は寸足らずの縦縞模様の浴衣からひょっこり出た足で、ゆっくりと青い光りの滝へと近づいていく。滝の後ろにそっと手を伸ばした少年の手には、小型の木槌が握られていた。大切そうに木槌を手の中で撫でた少年は、手の平に乗せたそれをぼくへと差し出す

 

「これは?」

 

「前にたくさんの墓標があった場所に戻ったら、みんなにこれを返して欲しいの」

 

 墓標の後ろに佇む人々がまた姿を現すというのか。

 木槌をぼくの手に握らせて、少年はすっと一歩後退る。

 

「本当はね、こんなことの為に渡す筈じゃなかった。何かを壊す為の物じゃなくて、みんなを自由にするための素敵な木槌だったのに」

 

 更に問いかけようと口を開いたぼくの肩を、水月が押さえて首を横に振る。

 

「もう止められないや。止まっていた時間が動き出す……」

 

 バケツを返したように、青い光りの滝が一気に流れ落ちた。急に生みだされた光りの水流は一気にイカダを押し流し、川を遡るようにうねって少年との距離が開いていく。

 再び立ち籠めた霧の向こうへ少年の姿が消えて、ぼくはイカダの上にドサリと腰をおろした。

 荒れた川のようにうねる青い光りの川は、そのうねりに反してイカダを激しく揺らすことはなかった。

隣に座る水月は、何とも言えない表情でぼくの手の内にある木槌を眺めていた。

 

 

 

 




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