「水月、何か見えたのか?」
誰とも視線を合わせることなく響子さんがいうと、水月は呑み込んだ唾に喉を上下させ、それからいつものへらへらとした笑いを浮かべて手を頭に乗せる。
「まあな、見たには見たがそれに何の意味があるかと聞かれれば、さっぱりわからん。心の隅に追い遣っていたひどく昔の光景を見た。でもな、知っている光景ばかりじゃなかった。あれが記憶の泉なら、俺が見るはずのない光景まではっきりと浮かんでは消えた。まるでシャボン玉だよ。よく見ようと目を懲らすと、弾けて消えちまう。だから、あの時のことをあれこれ聞かれても、俺自身返答に詰まる」
「そうか」
知っている光景がどんなものだったのか、響子さんは尋ねようとしなかった。
「他人に答える以前に、俺自身への答えさえ見つかっていない。すまないな」
いつの間にか水月の表情から、へらへらとした笑いは成りを顰め 、代わりに浮かんだのは伏せた睫に映る寂しげな影。見たことのない表情に、ぼくは心臓を抉られる思いだった。
みんなの前で問いかけるべきでは無かったのかも知れないと、後悔が押し寄せる。
寂しげな水月の表情は、誰もいない海の真ん中で一人浮いているようにさえ見えたから。
「水月さんごめん。余計なことをいったね。ぼくの推測が当たっていたとしても、水月さんは悪くないのに」
気にするな、と水月は目を細めて微笑んだ。
「とりあえず、みんなで持ち寄った話から導き出した結論を言う。とはいっても、まったく推測の域をでないものだがな。和也と水月が森に入って少年と会い、記憶の泉と呼ばれる場を通ってこちらに戻ってきた。異変が起き始めたのはそれ以降であることは間違いない」
「たしかに響子さん達は行けなかったかも知れないけれど、あの場所も少年も今と同じようにあの場で在り続けたはずだろう? ぼく達が訪れたくらいで、いったい何が変わったっていうの?」
ぼくの中でどうしても納得がいかない一点だった。起点となった事柄ははっきりしているのに、何故なったのかという理由に説明がつけられない。
「ましてや俺が付いていったのは偶然だしな。まるっきりのおまけだ。チビにも劣る」
肩を竦める水月に、響子さんはゆっくりと首を横に振る。
「言っただろう? わたしはあの山に近寄ることさえできなかったと。和也の側にいたから一緒に行けたというのか? そんなことは有り得ないだろうな。それが事実なら、千載一遇のチャンスをなぜ鬼神は逃した? 答えは簡単だ。たとえ和也に付いていっても、少年が望まない限り誰も近寄れはしないからではないかな」
ぼくはここで首を傾げた。つじつまが合うようで、どこかずれている。
「まってよ響子さん。ぼく達を少年が望んだというのは妙だ。ぼく達は少年の元へ辿り着くまでに通った通路で、ある意味少年に試されている。少年はぼく達が誰なのか知らなかった。望んで招いた者が、その者を知らないなんて有り得ないよ」
考え込むように眉を顰める響子さんの横で、寸楽がくぇくぇ、と萎びた笑い声を上げる。
「年老いた婆の妄想じゃが、その子は確かに招いたんじゃろうよ。だがな、招いた者が招こうとする者の容姿や名まで知っているとは限らん。和也、ちょっと後ろを向いてみい」
訳がわからないまま寸楽に従って、ぼくは腰をずらし後ろを向いた。
「この中から一人を呼び寄せてもらおうかの。和也が呼び寄せたいのは女じゃ」
「今は別に女性にもてなくていいよ」
くぇくぇ、と寸楽が楽しげに声を上げる。
「阿呆が。いいから口に出して、女をここへ、といってみい」
「わかったよ。女を、ここへ呼び寄せたい!」
溜息を吐くぼくの背後で、もぞもぞと人が動く気配がする。
「おまえさんの後ろに一人立っておる。さあてと、誰じゃろうな」
「そんなの解らないよ」
「どうして解らぬのかの?」
試すような寸楽の声は楽しそうでさえある。
「どうしてって、この中に女性が三人いるのに、その中の誰が立っているかなんて……」
そういうことか。
「気づいたかのう? この状態であれば顔を合わす前に、誰が立っているのかと聞くであろう?」
役目を終えたというように、寸楽の笑い声が離れていく。振り返った先に立っていたのは、困ったような表情を浮かべた蓮華さんだった。
「少年は確かに必要とする者を呼び寄せようとしたけれど、それはぼくという個人ではなかったということだね。呼び寄せようとした存在に、ぼくや水月さんが当てはまっていただけのこと」
あの少年が、ぼくや水月を必要とする理由がわからない。
自分が消えるために手伝って欲しいといったが、手を差し伸べる人物がぼくと水月でなければならない理由が、まったく思い当たらなかった。
「その部分が核となっているなら、わたし達が直接手を出せることは限られてくるな。呼ばれたのはお前達だ。少年の意思を阻害しないことが、鬼神を倒す早道なのだろうな。言い方を変えれば、少年に望まれたお前達の行動を邪魔するなってことか」
「わたし達は、後方支援にまわるということですね」
響子さんの言葉を後押しするように付け加えられた蓮華さんのひと言に、ぼくは首を横に振る。
「何か違うとでも言われるのか?」
宗慶が探るようにぼくの顔を見た。
「少しだけ合っていて、大分間違っていると思うよ」
響子さんと蓮華さんが顔を見合わせる。
「この戦いを受けて立った主役は、もともと少年一人だったのだと思う。だからこそ少年は勝てなかった。守るべき者をこれ以上傷つけないために、姿を隠した。標的がひとつに絞られるとき、鬼神は強いのだと思う。その強さを分散させるには、標的は複数であるべきだろう?」
「なるほどな」
合点のいかない表情が並ぶ中、水月がにやりと頷く。
「鬼神が襲ってきた男を中継地点としたように、ぼく達はそれぞれがまったく違う能力や経験を持った中継地点だ。しかも鬼神のように、電波を送るやつの命令に従う立ちんぼの電波塔じゃない。意思を持った電波塔だろ? 鬼神に刃向かう力を持った電波塔が多いほど、鬼神はその全てを把握できなくなるんじゃないだろうか。ぼく達に主役なんていらないんだよ。一人一人が、鬼神に対しての動く武器にならなきゃいけない。だろ?」
みんな互いの顔を見合っている。
「話は解り申したが、わたしには何もない。雪殿のような力も、響子殿のように糸を収めるという役目さえ、わたしは持っていない」
困ったような表情で、宗慶は呟いた。
「必ずあるのだろうよ。わたしはこの身に糸を収め、寸楽には長い時を経た洞察力。雪は戦闘に特化しているし、佐吉ははしっこく情報を集めてくる。水月の鬼神を追う執念は、ここにいるみんなを突き動かすほどに強いものだろう。蓮華は冷静に全体像を見る立ち位置に居ることのできる人物だ。そして和也は……鬼神に好かれているしな」
ミャ
いつの間に入ってきたのか、チビが抗議の声を上げる。
「おっと、忘れていたわけではないぞ? まったくチビのくせに自己主張の激しい奴だ。少しは見習え宗慶。こんな白い玉っころでさえ、自分も役に立つとちゃんと解っているぞ?」
ミャ
満足したように階段を昇っていくチビの背を目で追って、宗慶が柔らかい笑みを浮かべる。
「そうでござるな……そうでござる」
たとえ勘違いでも、自分が役に立たないと感じた時の失望感は底知れない。微笑んだ宗慶を見て、ぼくはほっと胸をなで下ろし、立ち上がってみんなを見回した。
「今一番知りたいのは、鬼神の内から解放された人々が口にしていた言葉の意味。そして少年がいっていた鬼神の体を傷つけなくても、内に捕らわれた魂を解放できるという方法。とりあえず、町に出てみようと思うんだ」
「町にですか?」
蓮華さんが心配げに響子さんとぼくを見比べる。止める言葉を持っていないがゆえに、響子さんに止めて欲しいと思っているような表情だった。
「佐吉達も逃げるように町を駆け抜けてきた。だから、あの場が今どうなっているか想像もつかないし、安全だともいえない。町へ行って何をする?」
「俺だって行きたいかと聞かれて喜んで頷ける場所じゃない。あんな風に呆けた連中ばかりじゃ、得られる情報だって知れてるぞ? それに意識を持った連中は、確実な尻尾を掴ませないように振る舞いやがる。ぼろは出すのに、ゆらりくらりと逃げやがる」
響子さんの後に言葉を続けた佐吉が、苦虫を噛みつぶしたように顔を顰めた。
「できることなら、あの女の子に会いたいと思っている。黒い布の面が取れていないなら、母親はぼくが女の子に近づいても、気付かないだろうと思うから。あの子が少年のことを知っているのか、どうして少年へと繋がる道を指差したのかが知りたい。それに、こちらから鬼神を探し出すのは困難だろ? 危険だろうが馬鹿だろうが、動くしかないと思うんだ。動き続けていたなら、鬼神は絶対に動きをみせる」
そうだな、響子さんが自分に言い聞かせるように呟いた。佐吉も天を仰ぎながら大きく息を吐き出し、片手で自分の頬をバシバシと叩いて立ち上がる。
寸楽と蓮華さん、あとはおなご二人を残すのは危険だと言い張る宗慶を残し、それぞれが一旦外へ散ることとなった。
外へ出ると、雪に指先で撫でられているチビが、立ち上がって足元に寄ってる。
「チビも一緒にいくの?」
ミャ
「チビは和也の用心棒だな。良かったな和也、ちっちゃな用心棒が一緒にいてくれるらしいぞ?」
黒いタイトスカートから堂々と足を伸ばして、石段の上から見下ろす響子さんに、ぼくはケッと舌だしかけ慌てて引っ込めた。
「どうした? 大人しいじゃないか」
目を眇める響子さんの視線が痛い。
「響子さん、彩ちゃんがぼくのことを忘れ初めてさ、完全に忘れる前にちょっとした……家出?」
「それがどうした?」
「しばらく泊めて?」
「断る!」
それ以上の懇願を聞くことなく、走り出した響子さんの背を唖然と見送りながら、他に頼れる人はいないかと周りを見る。わざとかと思うほど、あっという間にみんな姿を消していたのには心底驚いた。
「チビ、今日は一緒に寝よっか?」
ビャ
妙な声でひと鳴きして、背を向けさっさと歩き出したチビに、空の拳固を振り上げたところでどうにもなるわけがない。
「野宿して死んだら、恨んで出てやる。行くぞ、チビ!」
木々に囲まれた道は、ほんの少し前通った時より更にその姿を変えていた。
平坦だった土の道は歪に盛り上がり、所々で森の奥から流れ出る白い霧の帯に視界が悪い。
「この道で枝に襲われたら、さっきより始末に負えない」
短い足で必死に走り続けるチビを見て、思い当たったことのあるぼくはふっと笑った。
「チビ、転がっていいぞ? もう一人ではぐれたりしないようにするから!」
ミャ
くるりと丸まったチビは、白い毛玉となってころころと先を行く。その背に遅れを取るまいと、足場の悪い道をぼくも全力で駆け抜けた。
幾度もこの小高い丘から町を見下ろした筈だというのに、目に映る光景は記憶に残るそれとはまったく違っていた。
離れていても、町の通りに立ち尽くす人々の様子が見える。ぼくは一気に丘を駆け下りて、町の入口でポケットの中の黒い布の面を取りだし頭に結わえた。これがはたしてどれほどの意味を持つかは疑問だが、強いて言えばお守りのような気分で付けただけのこと。
「本当だね、闇は満ちていないし町を照らす灯りもない。まるで町の住人だけが満ちた闇の幻影に取り残されたみたいだ」
あまり目立たないよう、ゆっくりと歩みを進めていく。密集した人だかりをすり抜けると、いつもなら活気に満ちあふれている八百屋が見えた。
「居た」
ぼんやりと立つ母親に手を引かれ、くるくると回る風車を手にした女の子が立っている。
ゆっくり近づいていくと、女の子はすっとこちらへ顔を向けた。鼻の下ほどまでしかない黒い布の面が、小さな手で持ち上げられた。
くるりとした目を見開いて女の子が微笑み、胸の横辺りで小さく手を振る。
「お話できるかな?」
腰を屈めて視線を合わせると、女の子はにこりと笑って白い歯を見せた。
くりっと良く動く目は、人間の少女のものだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございました。
ちょっとハイペースとなっていますが、お暇なときに少しずつ読んでもらえたらと思います。
では!