キャミにナイフ   作:紅野生成

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40 最後の日は、格子戸の向こう側

 買い物は地獄だった。

 空元気を振り絞って店を飛び出したぼくは、彩ちゃんが渡した買い物メモを商店街のど真ん中で広げてあんぐりと口を開くことになる。

 

「米の方がましかも……」

 

 タザさーん、と道の真ん中で叫ぶぼくの背中を、あまり言葉を交わしたことのない近所のお婆ちゃんが笑顔でとんとん、と叩いていく。

 まるで泣き止まない園児を宥めるような仕草に、口を噤んで頭を下げ、ばつの悪さにそそくさと手近な店に飛び込んだ。

 飛び込んだのは八百屋だったが、深く考えない自分のアホさ加減を、死ぬほど後悔したのは、レジを終えた後だった。

 

「ありがとねー」

 

 大量購入に上機嫌の親爺の声を背に、ぼくは店を後にする。

 

「これ持ったまま肉屋に寄って、魚屋に寄って、スーパーで日用雑貨?」

 

 一番量が多くて重たい順に、店をまわった自分を呪い殺したくなる。

 すでに両手には、ぱんぱんに膨らんだ巨大なレジ袋が三つ。

 再度叫びそうになるタザさんコールを必死に呑み込み、男の意地で商店街を突き進む。

 

「アルバイトの兄ちゃん、お使いかい? 偉いねえ」

 

 すれ違った葉山のおばちゃんが、すでに底が抜けそうに重いレジ袋の中に、お駄賃と言わんばかりに野菜ジュースの缶をねじ込んだ。

 

「葉山のおばちゃんありがとう!」

 

 両手に荷物では飲むこともできず、単純に荷物が増えただけだが、それでも何気ない商店街の人々と交わす言葉が嬉しかった。

 俺も忘れるのか? といったタザさんの言葉を思い返す。

 常連客達がぼくのことを忘れないとは言い切れない。これは予感でしかないが、おそらく彩ちゃんと時間の差を持たずに、ぼくはこの商店街から忘れ去られるような気がしていた。

 そうならなければ、彩ちゃんと周囲にずれが生じるだろう。ずれは彩ちゃんの心を揺さぶり、かき乱す。そんなことは絶対に避けたい。

 他者の心に眠る思い出と引き替えでも構わないから、彩ちゃんには普通に暮らして欲しかった。

 この願いが叶うなら、ぼくは奥歯を噛みしめながらでも、笑ってこの町を去れる気がした。

 

 

 買い物を終えて店のドアの前で会ったのは、三十キロ分の米を涼しげに肩に乗せて歩くタザさんだった。ぱんぱんに膨らんだ六個の買い物袋を両手に提げて、散歩後の犬のように息を荒げたぼくを見て、タザさんが声を上げて笑う。

 

「ヘタレが! 買い物袋は指に食い込むから俺は嫌いだ。米なら肩にちょいと乗っけりゃ済むから楽なのに、自分から苦労を背負ってでるとはな」

 

 すましてドアを開けるタザさんに、ぼくは背後から舌を出す。

 指は確かに鬱血して紫になりかかってはいるが、このぼくに三十キロを片方の肩に担げる力などあるわけがない。ないのを解っていて、タザさんはからかっているのだから意地悪だ。

 

「お帰り! お疲れ様、冷えた麦茶飲んでね」

 

 彩ちゃんの出迎えの声に、ぼくは皺の寄っていた表情をぴんと伸ばし、まったく平気だという風を装って、荷物をどさりと床に置いた。

 

「これくらいでへたっていたんじゃ、将来結婚式で嫁さんを抱き上げて尻餅をついちまうぞ?」

 

 タザさんがにやりと囁いた。

 

「それまでには力付けてるって……」

 

 最後まで聞かずに作業場に戻っていくタザさんの背を目で追いながら、ぼくは言葉を呑み込んだ。

 そんな日など、来るはずがない。

 そんな幸せな日常は、決して訪れない。

 自分の居場所さえ失おうとしている男が、誰かの居場所になれることなど、決してないのだから。

 

「和也君、急ピッチで準備するからね! あと三十分で開店だよ」

 

「はいはい、アルバイトの兄ちゃんにお任せを」

 

 モップを持って店の中を走り回る。

 今日はどんなお客さんが来るか知らないが、沢山来てくれるといいなと思う。

 彩ちゃんが厨房に立つということは、ぼくの裏メニューは完全封印。目がまわるほど忙しかったけれど、常連客が口に含んだ料理に顔を顰めるのを、もう一度眺めながら仕事がしたかったなんて、そう思えるのはやっぱり、この場所にいる間の自分が幸せだった証拠だろう。

 

「おーい和也! ちょっとこっちも手伝ってくれ」

 

 作業場からタザさんの声が飛ぶ。

 彩ちゃんが頷くのを見て、ぼくは作業場に走り込んだ。

 

「細くて揺れるんだよ。そっち端を押さえててくれ」

 

 長い棒の端を押さえると、タザさんは細い棒に等間隔で数個の穴を開け始める。

 

「何を作っているの?」

 

「何だろうな? とにかくいわれた通りの物を作ってるだけだ。葉山のおばはんの注文だから、さっぱりわからんよ。横にぼっこを通してくれって言っていたから、野菜でもぶら下げて干すんじゃねえか?」

 

 そんな適当な把握で商品を作れるタザさんはすごい。

 いくら葉山のおばちゃんの依頼だからって、少し手を抜き過ぎじゃないだろうか。

 

「いらっしゃい!」

 

 店の方から、客を迎える彩ちゃんの明るい声が響く。

 

「おう、もういいぞ。彩の方を手伝ってやんな」

 

 頷いてぼくは店へと戻る。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 数人の常連客が、久しぶりに見る彩ちゃんの顔に満面の笑みで手を振っている。

 

「アルバイトの兄ちゃん! 熱くないコーヒー頼むわ」

 

「はい、ただいま!」

 

 どんな注文でも答えてみせるさ。

 アルバイトの兄ちゃんの、忙しい一日の始まりだった。

 眠れば目が覚めて再びくり返されるありふれた日常ではなく、ぼくにとっては終着点の見えた最後の疾走。

 日常という夢を切り取った、こっそりと胸に納めるべき緩やかな時間。

 

 

 最後の客が店を出て、初日で疲れたであろう彩ちゃんを先に休ませる。

 泡だらけの皿を水で濯ごうとしたとき、がしゃりと音を立てて手から滑り落ちた皿が、流し台の中で盛大な音を立てた。

 どこも割れた様子のない厚手の皿を持ち上げると、下から真っ二つに割れたカップが出てきた。

 

「おまえまでリタイヤか?」

 

 割れていたのは休憩時間にいつもコーヒーを飲んでいた、ぼくの愛用のマグカップ。

 欠片を新聞紙にくるんで、ゴミ箱の底にそっと押し込む。

 失うであろう多くのものをぼくの中で弔うように、カップの割れた音がいつまでも耳の奥で木霊し続けた。

 

 

 店の後始末を終えたぼくは、いつのまにかタザさんが作っておいてくれた煮物を食べて、早めに二階へと上がった。タザさんと酒でも飲みたかったが、頼まれていた商品を届けに行ったきり、葉山のおばちゃんに捕まったらしく戻って来る様子がない。

 だらだらと荷物を纏めてみたが、ここへ来たときよりむしろ減っていて、スポーツバックの上部にはまだかなりの余裕が残る。その一番てっぺんにシゲ爺が書いてくれた推薦状を収めて、古びてすっかり滑りの悪くなったチャックを閉める。

 部屋の隅に荷物を置いて、すっかり見慣れた街灯の灯る商店街を眺めた。 

 夕食前に急いで買い物に走る主婦、仕事帰りの人達。その中には、今日は店で会えなかった常連客の姿がちらほら混ざる。

 黙ってぼくはカーテンを閉じた。

 

「水でも飲んで、早めに寝よう」

 

 床板を開けて、居間へと下りる。

 疲れて眠ったのか彩ちゃんは部屋に戻ったきり姿を見せないし、飲み相手は葉山のおばちゃんに取られてしまったとなっては、寝るしかないだろう。

 日が落ちてからひとりで目を覚ましていても、今は碌でもないことしか頭の中に湧いてこない。

 水を汲もうと、厨房の入り口でスリッパに片足を突っ込む。

 

 パリン

 

 目の前でガラスが砕けたような音がして、ぼくは身を固まらせた。

 明かりの灯されていない厨房の中、入り口のドアと窓から差し込む街灯が逆行となって人影を映し出す。

 

「彩ちゃん?」

 

 ぼくの声に人影は一歩、また一歩と後退る。

 

「誰なの?」

 

 押さえた彩ちゃんの声には、明らかな動揺の色が浮かぶ。

 壁に手を伸ばして、ぼくは厨房の明かりを点けた。チカチカと点滅をくり返してから、蛍光灯が室内を明るく照らし出す。

 

「彩ちゃん? 驚かせてごめん、和也だよ?」

 

 ほんの二、三歩で手が届きそうな場所で僅かに身を仰け反らせ、彩ちゃんが目を見開く。

 淡いモスグリーンのキャミに長いポニーテール。いつもと変わらぬ服装の彩ちゃんの表情に、いつもの笑顔はない。

 目を見開いた表情に張り付いているのは、安心できるはずの家の中で、見知らぬ男とでくわした恐怖の表情。言葉を繋げることができずにぼくが俯きかけた時、店のドアが押し開けられて涼しい夜風が流れ込む。

 

「何やってんだ? 喧嘩かあ?」

 

 袋いっぱいの野菜ジュースを抱えて、入ってきたのはタザさんだった。

 ぼくは縋るようにタザさんに目をやる。

 巫山戯た調子の悪戯っぽい表情を一瞬だけ真顔に戻して、タザさんは笑顔で彩ちゃんの肩に手をかける。

 

「どうした彩? 改めて見たら和也があまりにも、ひょろひょろな優男でどん引きでもしたか?」

 

 タザさんの声に弾かれたように、彩ちゃんが目をぱちくりとさせ軽く頭を振った。

 

「和也君はひょろひょろじゃないよ! 自分がごついからって、威張らないでよね!」

 

 あぁ、まだぼくの存在が完全に消えた訳じゃないのか。

 良かった。ぼくを知っている彩ちゃんに会えた。

 

「ごめんね和也君、やっぱり疲れているのかな? ぼーっとしちゃった」

 

 えへっと笑って、彩ちゃんがキャミの肩紐を弾く。

 

「ゆっくり休みなよ。ぼくも寝るから」

 

 うん、と頷くとひらひらと手を振りながら彩ちゃんは部屋に戻っていく。

 

「またか?」

 

「うん」

 

 彩ちゃん愛用の入浴剤の香りが、ほんのりと辺りに漂う。

 その香りが薄れたとき、心がすとんと落ち着いた。

 心配そうに眉根を寄せるタザさんに、顔を上げて笑って見せる。

 

「タザさん」

 

「ん?」

 

「今日を最後の日にしようと思う」

 

 驚いたようにタザさんの口が開く。

 

「もう決めたんだ」

 

 がっしりとしたタザさんの肩に腕を回し、大きな体を腕に包む。

 

「親方、ありがとう。ぼくはタザさんを忘れない」

 

 何か言いかけたタザさんをそっと制して、ぼくは部屋へ戻った。

 居間に下りたときには、どうかタザさんが姿を消していてくれますようにと、心の中で願う。

 引き上げられる気配のない、焦げ茶色の戸にそっと頭を下げた。カナさんに関わっているのなら、野坊主とは再び顔を合わせることもあるだろう。

 そっと床板を開けて耳を澄ますと、作業場からノコギリで木を切る音が響いていた。鞄を手に居間へと下りて、ぼくはタザさんの居る作業場に深く頭を垂れた。彩ちゃんの部屋からは、小さく音楽が漏れている。見上げた先に彩ちゃんの笑顔を思い浮かべて、ぼくは再び頭を下げる。

 本棚を押し開くと、見慣れた格子戸の障子から薄く明かりが漏れた。

 もう一度だけ振り返って、大切なぼくの居場所だった空間を眺める。

 

「ありがとう」

 

 振り返らずに格子戸を後ろ手に閉めると、胸の奥から自然と溜息が漏れた。

 

「その様子だと、もう戻ることは叶わないようだねぇ」

 

 壁に背を預けて座るカナさんが、ぼくを見上げていた。

 

「はい。この年で家出小僧の真似事です」

 

「響子が呼んでいましたよ。野坊主が捕まらないものだから、なかなか繋ぎが取れなくてねぇ。あの御仁は、どこに雲隠れしたのやら」

 

 口元に笑みを浮かべ、カナさんは静かに目を閉じる。

 

「カナさんは、野坊主さんの為にここに留まっているのだと聞きました。最後に誰かが訪れたなら、あなたはここを去ってしまうと」

 

 うっすらとカナさんが目を開く。

 

「野坊主は私との約定を果たしてくれました。ですからわたしも、古の約定を守るためにここにおります。残欠の小径でのできごとに私は介入できないのが理。私を縛る理の糸は、ほどなく全て解けて消えるでしょう」

 

「その後、カナさんはどうなるのですか?」

 

「わたしには長く待たせているお人がいます。その方の元へ行くこととなりましょう。陽炎とシマも、既に己を見いだし進むべき道を定めておりますから、わたしはこの場から消えるのみでございます」

 

 カナさんの表情に後悔の色は微塵もない。

 どのような生き方をしたなら、この様な潔さを得られるのだろうかと思った。

 

「その人は、カナさんの大切な人なのですね」

 

 着物の袖で口元を押さえ、カナさんがくすりと笑う。

 

「諦めの悪い者がそろいも揃って、長い時の流れの中で絡み合っただけの話でございます。あなた様のお耳汚しをするほどの話ではございません」

 

 ミャ

 

 庭の隅からチビが姿を見せる。背後から守るようについてきたのは、灰色の毛を持つシマだった。

 

「チビ、無事だったか? めっちゃくちゃ叱られたろ?」

 

 ミャ

 

 チビはぷいと顔をそらして、庭の奥へと歩き出す。

 

「その子についてお行きなさい」

 

 カナさんの言葉に頷いてぼくは歩き出す。

 いつもなら白い毛玉となって転がり出すチビが、今日は先々を確かめるようにゆっくりと歩いている。

 

「チビ。そんなにのんびりしていたら、響子さんに怒鳴られやしないか?」

 

 ミャ

 

 庭を抜けた木々の間を通る道で、チビは短い足を止めた。

 目の前に広がる光景に、ぼくは息を呑む。

 両側に真っ直ぐな木立が林となって立ち並んでいた道には、魔女の指のように節くれ立った枝が幾重にも垂れ下がり、風もないというのにゆらりゆらりと枝の先を揺らしていた。

 

 ミャ

 

 強くひと声鳴くと、チビはくるりと丸まって白い毛玉となり、意思を持つ風のように、垂れ下がる枝の間を抜けて転がっていく。

 ぼくは必死にその後を追いかけた。体が通り過ぎる横から枝が鞭のごとくしなって押し寄せる。

 右に左にと転がって枝の向く先を誘導するチビが作ってくれた隙を縫って、ぼくは必死で走った。

 離れていたほんの僅かの間に、残欠の小径に何があったのか、残してきたみんなの顔が脳裏を過ぎる。

 避けきれなかった枝先に打たれて、腕や足に血の線が走る。

 前を行くチビの白い毛先にも、赤いシミが転がりながら輪をつくっている。ぼくの速度に合わせるため、チビは全力を出せずにいるのだろう。その為に、いらぬ傷を負っている。

 

「チビ! 一気に抜けるぞ!」

 

 ミャ

 

 チビの転がる速度が上がって、あっという間に距離をあけられた。

 これでいい。

 このままでは共倒れになるだろう。しなった枝にはじき飛ばされ、ぼくは腹を押さえて地面に転がった。何処から伸びてきたのか、立ち上がる隙さえ与えずに全身に蔦が絡まっていく。

 遠ざかるチビの姿が、蠢く枝に阻まれて見えなくなった。

 

「逃げ切ってくれよ、チビ」

 

 大きく息を吐いて、ぼくは真っ直ぐに顔を上げた。

 打ち付けてぐらつく頭を、傷の痛みが現実へと引き戻す。

 

「ようこそ、生まれ変わった残欠の小径へ」

 

 背後から、下卑た男の声が響いた。

 

 

 

 





 熱くないコーヒー……これはわたしがカフェなどで時たま心の底から望む品。
 たまに熱すぎて、せっかくテーブルに届けられたコーヒーを十分ほど、眺めているしかないことがあるものですから(笑)
 それでは、また読みにきていただけますように。
 では!

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