キャミにナイフ   作:紅野生成

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39 消えゆくまでの数日を

 目をまんまるく見開いて、僅かに眉根を寄せる彩ちゃんと、どれくらいの時間顔を見合わせていただろう。

 

「彩ちゃん、ぼくだよ? 和也だよ?」

 

 乾いて張り付いた喉を押し開け、無理矢理出した声は自分でも驚くほど細く弱い。

 彩ちゃんの眉毛が、はっしたように引き上げられる。

 そして口元に手を当てると、体を半分に折って笑い出した。

 

「やだもう、和也君じゃない。蛍光灯がちらついているのが悪いよね、和也君の顔が、一瞬知らない人に見えちゃった。ぼろ蛍光灯の点滅マジックだね」

 

 彩ちゃんの口から自分の名が呼ばれて、ほっと肩の力抜けた。

 天井ではしばらく変えていなかった蛍光灯が一本、チカチカと点滅をくり返している。

 

「タザさんに、新しい蛍光灯をもらってくるね」

 

 軽くウインクしてキャミの肩紐を弾き駆け出す彩ちゃんは、元気だった頃そのもので、さっきまで布団の上で体を起こすだけだったとはとても思えなかった。

 若さ故の回復力、なんて常識的な範疇からは明らかに逸脱している。

 

「蛍光灯のせいなんかじゃない。彩ちゃんは、ぼくのことを認識できなかったんだ」

 

 胸の中の言葉が、ぽつりと漏れた。

 覚悟はしていたが、あまりにも早すぎやしないだろうか。

 これじゃまるで、ぼくの存在が彩ちゃんの中から薄れていくのと引き替えに、彩ちゃんが元気を取り戻しているようにさえ見える。

 ははっと小さく笑いを零す。

 

「もうちょっと、時間があると思っていたのにな」

 

 戻って来る彩ちゃんを待たずに、ぼくは自分の部屋へとあがった。

 敷きっぱなしの布団の上に、大の字に転がって天井を眺める。こんな時はいっそのこと眠ってしまいのに、あの泉がもたらした回復力のおかげで眠気はいっこうに訪れない。

 布団にぼくを張り付けているのは、肉体的な疲労ではなく精神的な脱力。

 まだ先だと思っていたのに、自分の居場所が直ぐにも奪われようとしている寂しさと無力感。

 

「やっと見つけた居場所だったのに。まるで自分の家ができたみたいだなんて、調子に乗ったことを思っていたから、バチが当たったかな? 分をわきまえろってことかよ」

 

 がらがらと焦げ茶色の戸が引き上げられ、静かに頭を下げた野坊主が姿を見せた。

 いつもならきちんと座って相対するのに、今はそんな気力さえ湧かなくて、ぼくは首だけを横に傾げてうっすらと笑って見せる。

 

「そのご様子では、とうとうはじまりましたかな?」

 

 野坊主の眉間に深く皺が刻まれる。

 

「とうとうというより、早すぎます。この間の今日ですよ? 覚悟しようと心に思い留めるのと、覚悟して腹を据えるのでは訳が違います。ひっそりと胸の中に抱いていた中途半端な覚悟が、ぐらぐらにぼくを揺さぶっている結果が、このだらしない有様です」

 

 ぼくは野坊主から顔を背けて天井を見た。

 黒い泡茶だといって炭酸ジュースを飲ませたときの、野坊主の何とも言えない表情を思い出して、ぼくはくすりと笑う。

 

「そうやってまだ笑っておられるではないか。笑えるなら、まだ心が生きている証拠であろう? それにここで潰れる程度の男なら、わたしは和也殿を生かしてはおらぬよ。とっくにこの手で息の根を止めていたであろう」

 

「ぼくを殺したかもしれない依頼をしたのは誰?」

 

 まさか答えが返ってくるとは思わなかった。

 

「みながシゲ爺と呼んでいる者から」

 

 思わず首をもたげて野坊主をまじまじと見た。

 

「どうしてシゲ爺が?」

 

「あの者は彩を守るために和也殿を求めたが、そなたは信用をおく以上に不確定な存在であった。だから己の目に狂いがあったときには、罪を背負うを覚悟の上で消して欲しいと願った」

 

 誰だろうと考えたことはあったが、シゲ爺の顔を思い浮かべたことなど一度もなかった。

 

「あの者は彩のため。わたしは、カナを守るためにその依頼を受けた。互いに守ろうとする者を脅かす可能性を秘めた人物が同じなのだから、ここに居座る代わりに同意したまでのこと。そして同じ人物に、希望を見いだしてもいた」

 

 そうか野坊主は、カナさんを守りたかったのか。

 野坊主の言葉に嘘はないだろう。 なぜならカナさんと野坊主からは、同じ時代の匂いがしたから。同じ時の中を流れてきた、重なる背景が気配で伝わる。

 表現しづらい感覚は、ぼくが水月に感じる類のものと似ていた。

 体に力が入らない。

 脱力感だけが増していく。

 

「野坊主さん、このまま寝転がっていてもいいかな?」

 

 失礼を承知でいうと、野坊主は微笑みを浮かべて頷いた。

 

「残欠の小径に入った後でも、カナの居るあの庭は異質だとは感じなかったか?」

 

 問われてぼくは、日が昇ることも暮れる事もないあの庭を思い浮かべる。廊下の壁に凭れてゆっくりと庭を眺め、ゆったりとした微笑みを浮かべるカナさんと、残欠の小径に生きる響子さんや蓮華さんとの差は何だろうと思った。

 あぁ、そうか。

 響子さんも蓮華さんも今に奔走している。でもカナさんは、他人への心配に眉を寄せることはあっても、己のために感情を露わにしたことがない。

 カナさんの中で、あの庭に居る必要性は既になくなっているのか?

 己の目的は、既に果たし終えているからこそ、どのような事態にも微笑んで居られる。

 余裕がある。

 

「気付いたか? カナはある望みのために、あの庭に留まることを決めた女だ。そして己の望みは既に果たしている。あの庭に縛り付ける理は何もないというのに、カナはあの庭に今も居続ける」

 

「どうして?」

 

「わたしの為だよ。最初に交わした約束を果たして、腐りきったわたしの魂を自由にしようと、あの場で最後の客が来るのを待っている」

 

「最後の客……ですか?」

 

 野坊主は目を閉じて頷いた。

 

「和也殿が深く知る必要の無い、古き時代のことなのだよ。カナの命を奪ったのは、このわたしだから。だがひとつだけ心に留めておかれよ。最後の客が訪れたなら、カナはあの庭を離れるであろう。その時には、こちらの世界と残欠の小径を繋ぐ道が閉ざされる。残欠の小径に身を置く間にカナが去ったなら、和也殿は二度とこちらの世界へは戻れぬよ」

 

 思わずぼくは身を起す。

 野坊主がカナさんの命を奪ったという言葉と同じくらい、後に続いた話がぼくの心を大きく揺さぶった。

 この店はいつか出なければ行けないのだと、彩ちゃんの記憶から完全にぼくの存在が抜け落ちてしまう前に、姿を消さなければならないとわかっていた。

 けれどこの世界に居られなくなるなんて、考えたことさえない。

 この店から離れて、またひとりになるのは我慢できる。彩ちゃん達がこの店で楽しそうに日常を送っていると、離れた場所でこの店の方角を見つめながら思うだけで良かった。

 

「ぼくはあっちの世界のどこかで産まれたらしいけれど、居場所なんてない。鬼神を倒せたとして、あの町は消えるだろう? 残欠の小径は? 鬼神を倒したら、水月さんは自分のいるべき場所へ帰っていくと思う。響子さんは蓮華さんを自由にするといっていた。響子さんだって、役目を終えたらどうするつもりか……。ぼくは、どこにも居てはいけないの?」

 

 狼狽えた視線を押さえ込むように、野坊主は僅かに身を乗り出しぼくの目を覗き込む。

 

「居場所も人も、自ら引き寄せるもの。和也殿が失うかもしれないと、失ったと思い込んでいるであろう事のほとんどは、まだ失ってなどおらぬのだよ。その心が手放せば、人も場所も離れていく。心が手放せば現実は、手放した心に従って喜んで、大切なもの全てを和也殿から遠ざけるであろうな」

 

「難しすぎて、良くわからないよ」

 

 野坊主がくつくつと笑う。

 

「人の心とは、時に岩をも動かすことがあるのだよ。この似非坊主の言葉、胸の隅に留めておきなされ」

 

 がらがらと音を立てて、焦げ茶色の戸が閉まっていく。

 どさりと布団に身を投げだして、胸に詰まっていた空気を一気に吐き出す。

 真新しい空気が、否応なしに胸の中に吸い込まれていく。

 

「野坊主さんは似非坊主なんかじゃないよ。少なくとも、ぼくにとってはね」

 

 目を閉じても、心臓の高鳴りはおさまらない。

 彩ちゃんは、まだぼくのことを覚えている。下に行ってみようか、そう思った。

 戻れなくなってから、会えた時間を無駄にしたと後悔したくなかった。それに野坊主がいった言葉を理解するには、脳みそが少しだけ足りないらしい。

 だったら、今できることをしよう。

 

「和也!」

 

 居間から呼んでいるタザさんの声にふと我に返る。慌てて床板を開けると、タザさんが呆れ顔で見上げていた。

 

「なにのんびり寝てんだ?」

 

 梯子で下におりると、何度も呼んだのに返事がなかったとタザさんは鼻に皺を寄せる。

 

「ごめん、ちょっと横になったら眠っちゃった。ところで何か用?」

 

 少し困ったようにタザさんは、首にかけていたタオルで汗も浮いていない額を拭う。

 

「その、彩が和也と会ってびっくりしたっていっていたから。一瞬だけ、知らない人に見えたそうだ。まさか、おまえのことを忘れかけているのか? 俺も、同じように和也を忘れていくのか?」

 

 語尾がどんどん細くなっていくなんて、ぜんぜんタザさんらしくない。

 

「さあね。ぼくにもわからないや。でも大丈夫。タザさんや彩ちゃんが忘れちゃっても、ぼくはちゃんと覚えているから。ぼくが忘れない限り、ちゃんと此処にいたって思い出は残る」

 

 無理矢理、にっと笑って見せる。

 呆れたようにタザさんは、ぼくの頭をぐりぐりと撫で回す。

 

「忘れねえよ。表向きは忘れちまっても、心の根っこは覚えているさ」

 

「タザさん?」

 

「もう一度出会ったら、また世話してやるっていってんだよ。全部忘れてたって、こんなもやしみたいなガキを見かけたら、世話を焼かずにはいられんだろ? 俺は厳ついお人好しなんだ」

 

 照れ隠しなのかバシリ、とえらく強い力でぼくの後頭部を叩いて、タザさんは作業場に行ってしまった。

 

「もう一度、会えたらいいな」

 

 荷物だけは纏めておこうと思った。

 限界が来る前にここを去るなら、勢いで走り去らないと、あと一日だけという希望を捨てる自信がない。

 

「和也君! お店開ける前に食材を買い出しにいってくれる?」

 

 店の厨房からひょこりと顔を覗かせて彩ちゃんが手を振る。

 

「いいよ。えっ、まさか彩ちゃん、今日から店にでるつもりなの?」

 

「うん! もうすっかり元気っていうより、力が有り余ってる感じだもん」

 

 眉をぐっと寄せながら小さな力こぶをつくってみせる、彩ちゃんの姿に思わず笑った。

 

「願っていたものが、ひとつ取り戻せたってことだよな」

 

「何かいった?」

 

「なんでもないよ。彩ちゃん、米はタザさんに頼んでよね。二十キロ分持って歩くとか、確実にぼく、道ばたで野垂れ死ぬし」

 

 はいはい、と彩ちゃんはひらひらと手を振る。

 

「行ってきます!」

 

「いってらっしゃい!」

 

 人を送り出す温かい言葉を、後何回聞けるだろう。

 少しだけ奥歯を噛みしめて、ぼくは商店街に走り出た。

 みんなが見慣れた、アルバイトの兄ちゃんは、もう少しだけここいる。

 おそらくタザさんの予感は当たっている。彩ちゃんだけじゃなく、この世界からぼくの存在は消えるだろう。

 消えゆくまでの数日を、日常を胸に刻もう。

 動くアルバムのように、この町並みを人を瞼に焼き付けようと思った。

 

 




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