マイペースに今年もがんばりますので、どうぞよろしくお願いします。
心に映し出された光景に反して、突然に訪れた目覚めはすっきりしたものだった。
まるで何時間も深く睡眠をむさぼった後のように、頭の芯が清んでいる。
今となっては夢なのか幻なのかさえ曖昧な映像を、数度頭を振って意識の外に押しのけた。
はっとして辺りを見回すと、凪いだ小さな泉に視線を落として、水月はぼんやりと胡座を搔いていたが、表情は明らかな戸惑いを浮かべ、一人溜息を漏らす様子からしても、ぼくが目覚めたことにまだ気づいてさえいないのだろう。
「水月さん、大丈夫?」
こちらに顔を向けた水月は、おう、といっていつものように目尻に深く皺を刻んで微笑んだが、直ぐに視線を水面へと落としてしまう。
「あの子は記憶の泉っていっていたよね。水月さんも、目覚める前に何か見えた? まさか、また自分の小屋が見えたとかいわないでよ?」
こういう時に、気の利いた冗談のひとつも言える大人になりたいが、今は無理。
「無理するな。和也も何か見たんだろう?」
大人に成り切れていないことを、ぼおっとしたオッサンに見透かされるのは居たたまれなかったが、返す言葉もなくて一つ静かに頷いた。
「二つの光りが出会ったところを見たよ。ひとつはチビで、もう一つは少年だと思う。チビは子猫の姿になっていたから間違いないと思うけれど、少年の方はぼくの予想。チビの背に毛に埋もれてきらきら光っていた、小さな光りの粒のままだったから」
「それは俺も見た。あれは少年だと俺も思ったよ。正体はわからんが、本当に姿形さえ持たない、ただの存在であったのだろうな」
ぼく達の知らない存在。もしかしたら少年の存在に名を付ける言葉さえ、人は持ち得ていないのだろう。それは、人ならざる物もまた同じ。
「記憶の泉って呼び名は、どうやら伊達ではなさそうだ。和也が見たのは一つだけか?」
顔を合わせることなく聞く水月の言葉に、ぼくは一瞬返答を躊躇した。
傷ついた水月、伸ばされた小さな手。
泣いていた水月。
あまりにも身近な人の過去を垣間見た事実は何とも言えず気まずいもので、個室をのぞき見したような罪悪感にぼくは勢いよく首を横に振る。
「水月さんは?」
「俺はもう一つの映像を見たが、何ていうか……」
「なに?」
首筋に手を当てて、へへへっと水月は誤魔化すようににやりと笑う。
「目が覚めたらぼやけちまった。水面を見ながら思い出そうとしても、その先が浮かんでこない。何を見たのかさっぱり、思い出せないんだ」
年だなこりゃ、といって水月が笑う。
年だね、といってぼくも笑ったが、水月は嘘を吐いている。
おそらくは自分でも口にした言葉の微妙な齟齬に、気付いてはいないだろう。
水月は、何を見たのかさっぱり思い出せないといったが、それと同時にその先が浮かんでこないといったのだから。
呆けたように水面の見入っていたのは、寝起きに忘れてしまった見たはずの夢を思い浮かべていたわけではないだろう。水面に求めていたのは、確かに覚えている映像の続き。おそらく目にした光景は、水月の心を引き摺り込むほどの物であったはずなのに、それを水月はぼくに隠した。
理由はわからないし、ぼくに水月を責める資格などありはしない。ぼくだって、単純な水月の問いに、首を横に振るだけで済ませたのだから。
「少年がいった通り、ここは山頂だね。泉は小さすぎて、五右衛門風呂サイズの湧き水って感じだね。次は本当にここから少年のところに行けるのかな?」
「この泉の脇で眠っていたってことは、向こうに行けるって話も本当だろうよ」
「年長者が肯定してくれると実に心強い。ってことで、今度ここに来たときには、水月さんが先に飛び込むってことでいいよね? 年上ファースト」
おっさんに無理させんじゃねぇよ、笑いながら山を下る水月の後をおって、ぼくもゆっくり歩き出す。
ミャ
何処に身を潜めていたのか、何事も無かったかのようにチビが欠伸をしながら後ろを歩いていた。
「相変わらず、マイペースだねぇ」
少し呆れ気味にチビに声をかけ、ぼくは歩く速度を早めた。
さほど高い山ではないから、直ぐに麓に辿りつくだろうが、響子達はまだ自分達を捜しているのだろうか。この山へ一度も辿り着けなかった響子さんが、この辺りへ足を伸ばしてくるとは思えないが、今回のことをいったいどうやって説明したらよいのだろう。
心配が安心へ変わった直後の響子の怒り沸騰を予想して、ぼくは幾度も引き摺られた事のある耳に思わず手をやった。
ミャ
ちらりとぼくを見たかと思うと、くるりと白い毛玉になって器用に木々の隙間をものすごいスピードで下っていく。
「あいつめ、今回の事に自分は関わりありません、て面で押し通すつもりだな」
転がる毛玉見送って、水月が肩で息を吐く。
「どうして?」
「そりゃ和也、響子の怒りの矛先を全面的にこっちへ向けるために決まっているだろう? チビのくせに油断も隙もありゃしないな」
できることならぼくだって水月に全てを任せて逃げ帰りたいが、まさかそうもいかないだろう。
ぼくはあることを思いついて、ひとりにやりとした。
「大丈夫だよ水月さん。世の中はちゃんと平等にできているから」
「はあ?」
「ぼく達は響子さんに叱られる。チビは響子さんの怒りはかわせても、その後にそれ以上の叱責を受けることになるさ」
「誰にだよ?」
「あの庭の主さ。灰色の毛をした猫のシマは、今ごろ居なくなったチビを心配している筈だから。けっこうなひねくれ者らしいから、つんと澄まして庭を悠然と彷徨いていただろうけれど、チビが帰ったらこってんぱんに叱りつけるさ」
「恐いのか?」
「いつもはチビを咥えて、庭の隅に姿を消したらしばらく出てこないらしい。チビにとっては、響子さんよりずっと恐ろしいだろうさ」
ぼくが肩眉を上げると、水月は楽しそうに肩を揺らす。
水月から見えないように、ぼくは張っていた肩の力を抜いて息を吐く。
無理矢理じゃない水月の笑いが、ぼくをほっとさせた。
心配した闇が降りることもなく、辿り着いた町はいたって普通の営み風景だった。
ぼくを山へと誘った小さな女の子を捜したが、母親に手を引かれる姿に出会うことはなかった。
代わりに出会ったのは、目をまるく見開いて安堵の息を吐く佐吉だった。
「あっ、待って!」
ぼくの声を聞くことなく、佐吉は道の先へと駆けていく。同じようにこの町を駆け回ってぼく達を探している仲間に、安否を知らせにいったのだろう。
「元気に帰ってきたって、後で伝えてくれるだけで良かったのにな。後で……」
ぽつりと呟くと、しっかり聞こえていたらしい水月が、鼻に皺を寄せて苦笑いを浮かべる。
「気の強い女は好きだが、ありゃちょっと強すぎるからなぁ」
「水月さんその一言、響子さんにチクってもいい?」
「なんでだよ?」
「響子さんの怒りの流れを変えられる。ぼくは無罪放免だ」
はぁ? と水月が目をぎょろりと剥く。
「絶対だめだ! ひとりで逃げ出したら、こんどあの茶を薬缶から直接口に流し込むぞ?」
「すみません」
あっさり負けた。響子さんも恐いが、あのお茶の味の恐怖は、飲んだ者にしか解らない。
この世に地獄は存在すると思わせる味なのだから。
へへへっと顔を見合わせて笑っていた、ぼく達の表情が同時に凍り付く。
「おまえら、今まで何処を彷徨いてやがった!」
いつの間に近寄っていたのか、二人の頭上に鉈を振り下ろさんばかりの響子さんの怒声が落とされる。
男が二人、油の切れかけたロボットのように首からギコギコと振り返る様は、傍からみても滑稽だったことだろう。
何の打ち合わせもしていなかったが、言い訳の代わりに二人一緒ににこりと笑ってみた。
「笑うな……よほど死に急ぎたいとみえるな」
響子さんの声のトーンが下がったのを耳にして、ヤバイと思った時には遅かった。
無精髭を生やしたおっさんと、若輩者がスレンダーな響子さんに息もできない力強さで襟首を鷲づかみにされ、小屋の中に放り出されるまで、物も言えぬまま引き摺られる事となる。
煉瓦の小屋の中に勢いよく放り出されたぼくは、三回転ほどして机の脚にぶつかって動きを止めた。水月は壁にぶち当たって、転がったまましきりに肩を擦っている。
「さて、ゆっくりと話して貰おうじゃないか」
すっかり目のすわった響子さんをよそに、蓮華さんがにこやかにぼく達を床に座らせてくれた。
佐吉が呼んだらしく、宗慶も息を切らせて一緒に部屋に飛び込んでくる。
「あと少し待ってやれ。雪のことじゃから、佐吉には見つけられんでも、こっちの動きは向こうで勝手に嗅ぎつけておるだろうよ。なあに、すぐにここへやって来る」
皺の間からしょぼしょぼと小さな目を覗かせて、寸楽が楽しそうにくつくつと笑う。
寸楽が腰をおろすと、まるで申し合わせていたかのように観音開きの戸が押し開かれ、雪が走り込んできた。
「ご無事でなによりです」
微塵も息を切らすことなく、雪が静かに頭を下げる。
「ご無事もクソもあるもんか。こんなにみんなを走り回らせて、納得のいく話が聞けるんだろうね? まさか顔をつきあわせて、のんびり酒を喰らっていたわけでもないだろうよ」
目を眇める響子さんから顔をそらし、隣に座る水月をこっそりと肘で突く。
俺かよ、というように口の端を一瞬歪めた水月だったが、諦めたように事の一部始終を話し出す。
水月が話す間、誰ひとりとして口を挟む者はいなかった。
「あたしが内包する糸は、墓標の彼らにも繋がっているのか? いや、それはないか」
全ての話を聞き終えて、響子さんは幾度も首を傾げ独り言のように呟いた。
「水月に言ったことがあるが、あの山は見えているだけで辿り着けない場所だった。この町が現れて行動できる範囲が広がってからも一度試したが、どうしたって辿り着くことはできなかった。残欠の小径を囲う結界のようなものかと思っていたが、どうやら違ったようだ。あの山はただそこにあるに過ぎないのだろう。墓標に眠る人々と少年が、おそらくは結界そのもの」
言いたいことは何となく理解できるが、表現があまりに抽象的で、ここへ来て日の浅いぼくには、心底理解したとは言い難かった。
「他に言いたいことはないのか、水月?」
無表情のまま響子さんが問いかけたのは、話し終えばかりの水月だったが、水月はほんの少し響子さんの顔をみただけで視線を落とし、何も無いと肩を竦める。
「そうか」
響子さんは水月を見つめていた視線を外し、薄い笑顔を浮かべる。
「本来ならここで話を煮詰める必要があるのは解っているが、今日はこれで解散にしてくれないか? 慣れない体験が続いて、体力の限界だ。少し休んでからじゃないと、何の妙案も浮かばんよ」
ぼくはじっと水月の横顔に見入ったが、避けるかのように水月は一度もぼくを見ようとはしなかった。体力の限界? 嘘を吐いている。ぼくの横を走っていた水月は、息一つ乱していなかった。
それにあの泉を通って外へ出て目覚めた後、ぼくは体の疲れがまったくといっていいほど残っていなかったのだから、たとえ疲れ果てていたとしても、同じく泉を抜けた水月の体に今の時点で、肉体的な疲れが残っているなど有り得ない。
時間が欲しいのは、体力回復の為ではないだろう。
自分の思考を整理する時間を、ぼくにさえ秘密にしているはずの光景を、心の内で整理する時間を水月は望んでいる、そう思えてならなかった。
「ぼく達が姿を消してから、どれくらいの時間が経ったの?」
あの異質な空間と、ここの時間の流れが同じなのかを知りたかった。
「時間にするなら、四時間も経ってはいませんよ」
蓮華さんがふわりとした笑顔で答えてくれる。心配したのだと口にせずに微笑むことができることこそが、蓮華さんの強さなのだろう。
「本当に心配させてごめんね。とっさのことで頭より体が先に動いちゃった」
ぼくはみんなに頭を下げる。便乗して、水月も僅かに頭を下げた。
「みんなもぼく達を探して疲れているだろう? ぼくもへとへとなんだ。水月さんが言うとおり、一度解散して、それぞれの考えを持ち寄ろうよ」
ぼくの提案に、部屋の全員が頷いた。水月がちらりとぼくを見た気配がしたが、あえてぼくはそれを無視した。
「ぼくは一旦、店に戻るよ。チビ、一緒においで。大好きなあの庭に帰るだろう?」
ミャ
部屋の隅でみんなの話を他人事のように聞き流して、のんびり昼寝をしていたチビがむっくりと起き上がる。
「日取りはまた連絡するよ」
響子さんが言う。
「わかった。それじゃ、お先に」
チビを連れて小屋をでた。
時間が欲しいのは、水月よりむしろぼくかもしれなかった。
傷ついた水月の苦しそうな表情が、涙が頭を離れない。
水月が語ろうとしない事には、どんな真実が隠されているのだろうか。
物思いに耽りながら木々に囲まれた道を歩いていると、歩みの遅さに痺れを切らしたのか、チビがくるりと丸まって転がりだした。
「チビ、ちゃんとシマに謝れよ。心配していただろうから、めっちゃくちゃ叱られるよ!」
ぼくが叫ぶと、勢いよく転がりかけていたチビの動きがぴたりと止まる。
ぽんと子猫の姿に戻り、ぼくが追いつくと短い足でぴったりと寄り添って歩き始めた。
「なんだよチビ、やっぱりシマに叱られるのは恐いのか?」
澄まし顔のチビににやりと笑って見せると、ぴょんと飛び上がったチビは、器用に腕を這い上がりちゃっかりぼくの肩に陣取った。
ミャ
「悪いけれど、ぼくじゃシマからチビを守りきれやしないって」
肩の上で脱力するチビが可笑しくて、ぼくはくすりと笑う。
店を出てから、まだ丸一日も経ってはいない。束の間とはいえ、いつも通りの日常が待っているのだから、大切にしよう。
木々に囲まれた道の向こうに、見慣れた屋敷の障子が見えてきた。
いつものように廊下の壁に背を凭れ、足を横に崩して庭を眺めていたカナさんが、頬にかかった髪を指で払ってにこりと微笑む。
「ただいま帰りました」
チビを肩に乗せたまま、カナさんの元へ行こうと庭を歩いていると、肩の上でチビがぴくりと跳ねた。
ミャー
聞こえてきたのは、いつもより低く潰したようなシマの鳴き声。
立ち止まって下を見ると、シマがこちらを見ることさえせずに背筋をぴんと張って立っていた。
ミャ
諦めたように小さく鳴いて、チビが肩から飛び降りる。
灰色の毛のシマが、無言のまま小さなチビの首根っこを咥えて庭の隅へと歩いて行く。
咥えられたまま大人しく揺れている、チビの姿が見えなくなるまで見送って、ぼくは笑いながらカナさんの側に腰を下ろした。
「ほんの少し前、雪という娘が響子に頼まれたからといって、事の成り行きを知らせてくれました。ご無事で何よりですが、あまり無理をされると、響子が憤死してしまいますよ?」
口元を着物の袖で押さえながら、カナさんがくすりと笑う。
「今回は水月さんと一緒に引き摺られました。以後は十分気をつけます」
「そちらは無事に戻られたが、はてさて、チビは元気にこの庭に戻ってくることができるのかねぇ。庭を横切った回数が、シマの心配と怒りが尋常では無いことを示しておりましたから」
カナさんの言葉にぼく笑った。少年はシマに叱られることさえチビは楽しそうだったといっていたが、今回は楽しいと思える程度で済むのかどうか。
大人しく叱られているチビを思い浮かべると、自然と笑いがこみ上げる。
「ぼくは店の方に戻ります」
居間へと繋がる格子戸に手をかけて、ぼくはふっと立ち止まる。
「ねえカナさん。信用できる人間が嘘を吐くときは、いったいどんな時なのかな?」
答えなど特に求めてはいなかった。誰かに、心のもやもやの一部を吐き出したかっただけ。
「大切な相手に嘘を吐く理由は、ただひとつにございます。相手を思いやって吐く嘘でございましょうよ」
鳩尾を、ぎゅっと押されたような痛みが走る。
「ありがとう」
ぼくは居間に入ると、後ろ手に格子戸の障子を閉めた。
カナさんの答えが、頭の中でくるくるとまわる。
本棚の隙間をぴたりと閉じて、ぼくは肩で大きく息を吐く。
「誰?」
背後から急にかけられた声にびくりとしたが、声の主は彩ちゃんだ。
ほっとして振り返り笑顔を向けたぼくは、その表情のまま固まった。
部屋は十分に明るいし、水の入ったコップを手にした彩ちゃんの体調が良いことは顔色を見ただけでわかる。
だというのに。
「きみは、誰なの?」
彩ちゃんは、重ねてぼくに凍り付くような言葉を投げかけた。
年明け早々ですが、読んで下さった皆様、ありがとうございます!
のんびりまったり人間の書いているお話ですが、今年も続きを読んでいただけますように……祈りm(_ _)m
では!