今だ薄く水の流れる岩の床を歩き、真っ暗な通路へと歩みを進める。
遠くに見える淡い光りのおかげで、進むべき方向を見失うことはせずに済んだが、足元さえ見えない暗がりで壁に目をやると、まるでそこに壁など無いかのような闇に意識を吸い取られそうで、くらりと軽い目眩を感じた。
手を伸ばしてみると、自然の岩を削っただけであるように見えた壁はしっとりと濡れていた。
試しに指先で触れた足元は乾いているから、壁から流れ落ちるほどの水量では無いのだろう。
まるでじんわりと岩から水が染み出ているようだと、そんな妄想が頭を過ぎった。
ミャ
ついて来ていることを確認するかのように、暗闇に紛れて姿の見えないチビが、時折小さく声を上げる。
「毛玉になって転がったのを見た時から、ただの猫だなんて思ってはいなかったけれど、もはや子猫という定義すら当てはまっていないような気がしてきました。水月さんは、本当にチビの正体を知らないの?」
「何者だか知らないが、ご大層な正体を知っていたら、チビなんて安直な名前はつけてないよ」
こつこつと足音が響くだけの通路で、少し斜め後ろから水月の声が答える。
前に立って淡い光源を遮らない限り、水月が何処に立っているかさえ解らなかったから、意外に間近から聞こえた声に、ぼくはほんの少し仰け反った。
「思うんですよ。ここへぼく達を呼んだのは彼らが知る希神だとして、導き手はチビなんじゃないのかなって。たまたま後をついてきてしまったとばかり思っていたけれど、たまたまじゃ無いのかも知れない。チビが道を示し、ぼくは先へ進む為の鍵に過ぎない」
コツリコツリと、二つの足音だけが反響する。
「そうかもしれないな。そう考えると、俺は本当におまけだな。まったく、妙な事に巻き込まれちまったよ」
大きく溜息を吐いた水月は、わざとらしく苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのだろうと思い、暗闇の中声を立てずにぼくは笑った。
「だからね、巻き込まれに自ら飛び込んだの間違いでしょう?」
代わり映えのしない暗闇を黙って歩く。
それにしても、光源は遠いとはいえ、やたらと辿り着くのが遅くはないだろうか。それとも、海の向こうに浮かぶ小島が見た目より遠いように、闇がもたらした距離感の錯覚なのか。
ミャ
「黙ってついて来いってか? はいはい」
ある種異常な状況下であるにも関わらず、緊張感がどこか抜けているのはチビの存在が大きい。いつの間にかこの小さな生き物に、絶対なる信頼を持っていることに、今更ながら気付いて苦笑した。
たんまりと叱られるために、シマに大人しく咥えられて庭の隅に姿を消したちっちゃな白い子猫も、知性のある道先案内人がごとく振る舞う今のチビも、同一なのだと心では解っていても、どうしても頭の中では首を傾げたくなってしまう。
まったく得体の知れないちっちゃな生き物、こんな風に勝手に出歩いていたら、あの庭に戻った時またシマにみっちり叱られるだろうに。
「待て! 和也止まるんだ!」
水月が叫んだ後、惰性でぼくの足は更に一歩踏み出してしまった。
周りを囲む岩の隙間から、じんわりと灯りが漏れる。
遠くの光源まで続く灯りは、暗闇に慣れた目が辺りを見回すには十分な明るさを保っていた。
目の前で振り返って叫んだ姿勢のまま、水月が動きを止めている。
本能的に身を引こうとしたときには、既に遅かった。
つま先から太ももへと、這い上がるように昇ってきた痺れは体の自由を奪い、肺と心臓意外の動作、全てを阻害した。
唇が僅かに動くものの、息を取り込む穴を広げるだけの役割しか果たせはしない。
薄明かりに照らし出された通路の向こうを、白い毛玉となったチビが、ころころと転がっていくのが見える。
こっちの異変に気づいていないのか、目的地まであと少しと言わんばかりの速さで転がっていく。
水月に声をかけたくとも喉がいうことをきかないなか、唯一自由になる目玉だけを忙しなく転がして辺りを見回す。
その時だった。何もない岩のどこかから微かに声がした。
「ここへ誘ったのは誰?」
少女のような、幼い少年にも似た細く高い声。
息を漏らすことしかできない喉に無理矢理力を込めていると、すっと何かに撫でられた柔らかな感触が喉元を通る。
「げは!」
力んでいたせいで、急に吐き出された声に噎せ返る。
「ここへ君たちを誘ったのは、誰なの?」
再び声が響く。その声に責めるような色はなく、事実のみを引き出そうとする、透明な意思を感じた。
「指差してぼく達をここへ導いたのは、小さな女の子。闇が降りると、動物の目を持つ女の子」
「この通路へと、繋がる道を開いたのは誰?」
「ぼく達が墓標と呼んだ、積み重なった石に宿る魂。とても沢山の人がいたよ」
考え込むように、問いかけの声が止まった。
体の痺れは相変わらずで、邪な思いでかかって来られたなら、ひとたまりもないだろう。
それでもぼくの心は凪いでいた。
残欠の小径で生まれたぼくの血が、本能的に感じ取っていたのは、声の主が持つ心。
邪心がまったくといっていいほど感じられなかった。
まるで言葉を得たチビと話しているかのような、そんな錯覚さえ起こさせる。
おやまぁ。
少しだけ驚いたように、小さく声が響く。
「縛ったりしてごめんね。さあ、どうぞこちらへ」
言われると同時に体から痺れが抜け、妙な体勢で固まっていたぼくと水月は、みっともなくよろけてしまった。
「水月さん、大丈夫? 今の声、水月さんにも聞こえていた?」
「あぁ、聞こえていた。それにしても薄情だな。さんざん偉そうに前を歩いていたくせにチビの奴、とっとと先にいっちまいやがった」
水月が笑う。
「本当だね。この事もついでにシマに叱ってもらおうっかな。さて、とりあえずは前に進もうよ。せっかくお招きいただいたことだしね」
頷く水月と共に歩き出すと、さっきまではさっぱり距離の縮まる事の無かった、奥で漏れ出る淡い光りが、急に物理法則を思い出したかのように、あっという間に近づいてくる。
「何だか狐に化かされた気分だよ」
頭を掻く水月の横でぼくも頷いた。
「たぶんぼく達は、白い毛玉のチビ助に化かされたのだと思うよ」
左から差し込む光が漏れる先には、空間が広がっているようだった。
さっきの声の主は、ここに居るのだろうか。
ひとつ頷き合って、ぼく達は新たに現れた空間に足を踏み入れた。
ミャ
迎えてくれたのは、待ちくたびれようにだらりと寝転んで、のんびりと顔を洗うチビだった。
「おっ、薄情者め、ひとりで何をくつろいでいるんだか」
水月が指先で小突くと、チビは面倒臭そうに起き上がり、ぼく達の前を歩き始める。
足を踏み入れた空間は、墓標がある場所とは比べものにならないほど狭い場所で、岩に囲まれているのは何ら変わりないものの、その中央には小さな泉が湧き出ている。
温泉に浸かるように入ったなら、大人三人でも狭苦しいだろう。
一旦足を止めていたチビが再び歩き出す。
後をついていこうと一歩踏み出すと、短い足を片方踏み出しかけたままチビが振り返った。
ミャ
前を向いてちょこりちょこりと歩き出したチビに合わせて歩き出すと、再び動きを止めたチビが、首だけを器用に回し、さっきよりも大きな声でひと鳴きする。
ミャ
ぼくと水月は顔を見合わせ、互いに首を傾げて肩を竦めた。
「付いて来るなっていうことかな?」
「かもしれないな、とりあえずはここに居ようか」
腕を組んで息を吐く水月の隣で、ぼくもふっと息を吐く。
おまえらやっと通じたか、とでもいうようにこちらを一瞥して、チビは再び歩き出す。
チビが短い足で一歩、また一歩と泉に近づくごとに変化していく光景に、口を開けたままぼくは息を呑んだ。
「もう何を見ても驚かないって、墓標を目にした辺りで決めたんだ」
目を見開く水月が、負け惜しみのような言葉を漏らす。
「無理しなくていいよ、ぼくだってかなり驚いているんだから」
小さな足が岩に命を与えていくようだった。
チビの足が付いた先から、無機質な岩に青々とした若草が芽吹いていく。
歩き去った後には、黄色い小さな花ビラが幾つも開いて、吹いている筈の無い風にそよそよと揺れている。
己がもたらしているであろう変化には目もくれず、チビは悠然とした足取りで泉の直ぐ側まで近づいた。
ミャ
泉の脇でチビがすとんと腰をおろす。
最初に現れたのは小さな手だった。
チビの背を優しく撫でる手の後に、縦縞の浴衣に包まれた細い腕が現れた。
まるで隠していた幕を引くように現れたのは、草の上にぺたりと腰をおろした男の子だった。
座っていてもわかるほど、つんつくてんに短い縦縞の浴衣。
ぼくの記憶の中から、同じ姿をした少年が浮かび上がる。
時にはぼくに道を教えてくれた寂しそうな表情の少年であり、別の日にはぼくを亡き者にしようとした鬼神と呼ばれし者。
そのどちらとも違うのは、チビの背を撫でながら嬉しそうに微笑む少年の笑顔だろう。
屈託無い笑顔はこの少年のものであり、姿形は同じでも記憶にある二人のどちらともまったく異質のものだった。
春のそよ風が笑顔を見せるなら、きっとこの少年のように笑うだろう。
そう思うほどに邪気の無い、優しくて無垢な微笑みだった。
「この子を連れて来てくれて、ありがとう」
少年はにこりと首を傾げてそういった。
「この子って、チビのこと? 連れて来たというより、勝手について来てしまったんだよ。いや、最初からここへ来ることになると、わかっていたのかもしれないね」
ぼくがいうと少年は、小さく何度も頷いた。
ミャ
短くチビが鳴くと、少年はぼく達を手招いた。頷き合ってそろりそろりと歩き出した靴の裏に感じるのは、間違いなく柔らかな草の感触。岩に囲まれた空間で泉の周りだけが、命溢れる草に覆われている。
「この子はチビって名をつけてもらったの? へぇ、ぼくもチビって呼ぼうかな。いいかい?」
勝手にしてくれというように、目を閉じて喉をごろごろさせるチビを見ながら、少年が白い歯を見せてくすくすと笑う。
「ここにいてもね、チビが何をしていたかはだいたいわかるんだよ。この泉に、チビの様子が時折映り込むから」
少年の指先がさらりと水面を撫でると、さざ波が立ってそれが治まった水面に、響子さん達の様子が映し出された。
ぼく達を探しているのだろうか、眉根をよせたまま響子さんがみんなに指示を出している。
水面に映る映像は鮮明で、そして虚ろだった。意識の焦点がずれると、映像は直ぐに揺らいで消えそうになる。
「あぁ、小屋の戸に二重に鍵をかけるのを忘れちまった」
水月がしまった、というように首筋をかく。
「えっ、水月さんには自分の住む小屋が見えたの? ぼくに見えた映像は、響子さん達だった」
訝しむようにもう一度泉を覗き込んだ水月は、やっぱり小屋だ、といって首を傾げた。
「この泉は気まぐれだから、気にかけている物や人、邪気のない物や場所を映し出す。でもね、いつでも見えるわけではないし、望んだ物が見えるとは限らない」
少年の言葉に、ぼくは呆れて水月を見た。
「響子さん達より、小屋の方が心配だったわけ? チビのことを薄情だなんていえないね」
へへっ、と笑って水月は明後日の方へ視線を背ける。
「ぼくはいつも、この泉を通してチビを見ていたんだよ。最近は楽しそうだったのに、ここへ戻ってきてしまって良かったの? 灰色の毛色をした猫によく叱られていたけれど、それさえ楽しそうだったのに」
ミャ
ころりと転がって腹を見せたチビに、少年は嬉しそうに目を細めた。
そしてふっと真顔に戻ってぼく達を見上げ、口を開く前に視線を落とす。
「ごめんね、色んなことに巻き込んでしまって。全部ぼくのせいだから。君たちがここへ来たのも。苦しんだのも。君達が墓標と呼ぶ石に宿るみんなが、あの場所に捕らわれたままなのも、全部ぼくのせい」
「詳しく話してもらえるかい? 君は彼らがいっていた希神なの? ぼく達に何かをさせたいのでしょう? ゆっくりでいいから、話して欲しいな」
そういうと少年は、少しだけ辛そうに頷いた。
「確かにぼくは、みんなから希神と呼ばれていたよ。別に神様なんかじゃないのにね」
「へぇ、神じゃないのか」
水月が口をつぼめて顎を撫でる。
「神様じゃないから、みんなを巻き込んで、こんな場所に居るしかなくなっちゃった。何から話せばいいかな」
思案する少年を励ますように、チビが肉球でぺたりと座る膝を撫でた。
「とにかく、全てを元に戻さなくちゃね」
「それはどういう意味かな?」
伏せていた顔を上げて、少年がにこりと笑う。
「全ての事の発端はぼくだから、ぼくの存在が色んな事をねじ曲げてしまったんだ。だからね、ぼくは最善の方法はこれだ、っていうのを見つけたんだよ」
少年がチビを抱き上げ膝に乗せる。
見た目は幼い少年の口から、最善という言葉が出ても普通に会話が続けられるほどに神経が麻痺してた。
人の世意外で、見た目はさほど物を言わない。
「最善の方法って?」
さらりとした会話の応対だった。
「全てを取り込んで、ぼくが消えればいいんだよ。そうしたら歪みは正されて、あの場に縛り付けられたみんなも自由になれる。もともとは、ぼく為に居てくれた人達だもの。そろそろ、解放してあげなくちゃね」
絶句したままのぼくに構うことなく、少年は言葉を続ける。
「だから手伝って? ぼくの存在を、綺麗さっぱり消し去る日まで」
小首を傾げて、少年はにこりと笑う。
言葉を失ったまま、ぼくは呆然とその笑顔を眺めていた。
忙しい年末に今日も覗いてくださった皆様、本当にありがとうございます。
また読んでいただけますように(^_^.)
では!